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茫洋物見遊山記第160回&鎌倉ちょっと不思議な物語第326回
このお寺は、鎌倉時代に比企が谷にできた真言宗「岩蔵寺」が前身で、弘安2年1279年に一遍上人が遊行の途中、鎌倉に入ったときに、真言宗僧の作阿上人が一遍に帰依して時宗に改め、念仏道場として栄えたそうだ。
寺紋は式敷三文字であるが、これは伊予河野氏の家紋で一遍上人が河野氏の出であることからつけられたらしい。
本尊は阿弥陀三尊像(国重文)で、阿弥陀像は運慶、観音像は快慶、勢至像は堪慶作と伝えられる。本尊は「頬焼阿弥陀」として知られているが、これは「昔盗みの疑いをかけられた法師が焼き印を頬に当てられ折檻を受けたが、彼の頬には焼き跡がつかず、女主人の町局が信仰していたこの阿弥陀像の頬にその傷跡が付いた」と寺宝である「頬焼阿弥陀縁起絵巻」(重文)に語られているそうだ。
本寺を特別拝観した日には、この由来を私の知り合いの住職さんが、語り部のように物語ってくださった。
本尊を安置する宮殿厨子は鎌倉公方足利持氏が奉納、勅額は後醍醐天皇の御宸筆と伝えられる。
さらにこのお寺には、観音霊場札所巡本尊の聖観音菩薩も安置されているが、このツアーを引率された岡田氏によれば、これは平安時代後期の定朝の作で、本尊仏より古い国宝級の観音像らしい。
また本殿の左奥には近所にあった大慈寺にあった丈六仏の仏頭が怪異な姿を見せているが、これはもちろん鎌倉時代のものではない。
境内には伝説で有名な「塩嘗地蔵」が融けて風化したような姿で祀られているが、かつては金沢街道光触寺橋のたもとの地蔵堂にあって塩商人の信仰を集めていたという。
以上の記述の大半で、郷土史研究家岡田厚氏作成の資料を引用させていただきました。
本日の付録
→ http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1820862159&owner_id=5501094
新しい標札をつけたがわずかに右上がりあえて直さずこれでいいのら 蝶人