角川ソフィア文庫版・藤原実資著・倉本一宏編「小右記」を読んで
照る日曇る日 第2164回
もう終ってしまった某大河ドラマの縁で、藤原道長の「御堂関白記」、「紫式部日記」に続いて藤原実資の「小右記」にまで手を出してしまった。
前の2冊がそれほどでもなかったのに比べると、本書は要所要所を抜粋した文庫本ながら750頁を超える分厚さ。それもそのはず、道長とその息子頼通の2代に跨って頼りにされた、このー、まるで教頭先生のように几帳面な実資は、なにも道長の黄金時代を記述するために「小右記」を書いたのではない。当時の除目や官奏などの宮廷の公事作法や有職故実の由緒正しい厳格な教則を後代に伝えるために、この全61巻の膨大な古文書を遺したのであった。
殆ど無味乾燥(と我々には思える)記録の山の中から、現代的な意義のある個所を残らず切り出し、原文、読み下し文、現代語訳と解説記事の3点セットを次々に提示される倉本氏のお陰で、我々はこの摂関期のリアルに推参する愉楽をともにできるんである。
例えば寛仁2(1018)年の藤原威子立后の夜の有名な「この世をばあ!」の大合唱のくだりにしても、その事態は道長の「御堂関白記」ではなく、実資の「小右記」の10月16日の記述によって、その詳細を知ることができる。
興味深いのは、紫式部とおぼしき女房が再三にわたって登場し、道長の長女で一条帝皇后の藤原彰子と「小右記」の著者藤原実資の間を緊密に取り持っていることで、この賢い女性が単なる小説家ではなかったことを雄弁に物語っていることである。
治安元(1021)年5月25日、65歳にして待望の右大臣を拝命された実資の喜びは、なんとみずからを、「僕大饗!」と初めて表記したことに如実に表れているように思う。
また同じ年の年末には、道長が実資の官奏の優美な作法を激賞するとともに、バカ息子の教通がそれを見ていなかったことを激しく叱責している。
現在のトランプ大統領みたいに「黄金時代」を謳歌した道長だったが、万寿4(1028)年12月4日、62歳であっけなく命終してしまう。その最期はもちろん「御堂関白記」には書いてないが、「背中の腫れものの勢いが乳や腕に及び、その毒が腹に入ったので針で瘡口を開いたところ、膿汁と血が出てあまりの苦しさに道長は叫びうめいた」と「小右記」にはリアルに書いてある。
驕れるものは久しからず。僕思うに、狂犬トランプの最期も似たようなものだろう。
自らも移民の孫が押し寄せる移民を憎む犍陀多のごと 蝶人