あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

八雲神社に詣でる

2007-10-17 11:54:48 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

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マンションとファッション

2007-10-16 11:48:51 | Weblog


ふあっちょん幻論第6回&勝手に建築観光25回

戦後日本のファッション史を振り返ってみると、60年代の高度成長期は国産のナショナル・ブランド、73年の第1次石油危機以降の低成長期からは、三宅一生、川久保怜、山本耀司などが主導したDCデザイナー&キャラクターブランド、85年の円高ドル安時代から現在までが、ルイ・ヴィトンやグッチなど外資系ラグジュアリーブランドの時代という流れになる。この見取り図に照らすと、マンション業界の消費者MDはアパレルに比べ約30年の遅れということになるだろう。

戦後日本人の飽食暖衣は驚異的な発達を遂げたが、「住」の進化速度は遅かった。衣食と比べて住宅はお金がかかる。デザインなんて夢のまた夢。「立って半畳、寝て1畳」、とりあえず雨露さえ凌げればいい、というウサギ小屋からわれわれは再出発した。
それからまずはファションのDCブランドに血道をあげ、高度成長の波に乗りながら、徐々にグルメ、インテリア、そして最近の建築・建築雑誌の人気、デザイナーズマンションブームへとその美的・感性消費の選択肢を拡張していった。

その結果、手近なミクロ環境は、現代ファッションの洗礼を受けた消費者の鋭い審美眼に晒されることになったが、界隈性や景観デザインなどのマクロ環境は、最近大流行の都市再開発地域を含めてまだまだ顧客のウォンツを的確に捉えたものとはいえないだろう。

しかしマンション業界もようやく長すぎた冬眠から目覚めつつある。03年に神田神保町にできた三井パークタワー(トーマス・ボルズリー氏がランドスケープデザイン、佐藤尚巳氏が外観デザインを担当)や六本木ヒルズレジデンス(テレンス・コンラン卿担当)の外装をとくと眺めて見よ。いままで無視されていた広大な領域、見ていても見ないことにしていた暗鬱な灰色の領域に、突然カラフルな光線が差し込んだのである。

過去の普通のマンションが、生地屋で買ってきたドブネズミ色のズボンを身にまとって立っていたとすれば、これらの最新ビルはパリコレの影響を受けた色彩豊かなオーダーメードのスカートをはいておしゃれに闊歩している。ような気がしないだろうか?
外装のカラーブロック柄という発想は、いったん実現してしまえば、当たり前田のクラツカー(古い!)。最近では同じアイディアのマンションがあちこちに乱立して、おやおやと首を傾げたくなるが、それはそれとして、そんなに好評ならどうしてもっと昔からやらなかった、と言いたくもなる。しかし、西洋デザイン後進国の私たちはずいぶん遠い地点からゆっくりここまで歩いてきたのだ。

機能が満たされ平準化された商品は、一部のデフレ商品は別にして、デザインと装飾性によって自らを差別化するほかはない。外資系ラグジュアリーブランドからは、彼らの生命線である、デザインの楽しさと深さを、成功しているアパレルメーカーからは、多様な諸個人にフィットする柔軟なパターンオーダー製法の知恵を学ぶことが、当面のマンション業界の課題だろう。

なにはともあれ、我々庶民は、「仕事が終わればまっすぐに帰りたくなるマンション」に、一日も早く住みたいものである。

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ガルシア・マルケス著「愛その他の悪霊について」を読む

2007-10-15 07:45:06 | Weblog


降っても照っても第66回

1949年10月、母国コロンビアで駆け出し新聞記者として活躍していたガルシア・マルケスが由緒あるサンタ・クララ修道院の地下納骨堂で見たもの、それはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスの頭蓋骨から伸びた22メートル11センチの長さの赤銅色の乱れ髪であった。

周知のように、人間の髪は毎月1センチずつ成長するもので、それは死後も尚続き、200年間で22メートルというのはごく平均的な数値らしい。聖トマス・アクイナスが書いたように「髪の毛は体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもの」であるようだ。

マルケスは若き日のこの鮮烈な体験は、子どものころ祖母によって聞かされた「12歳で狂犬病で死んだ、長い髪を花嫁衣裳の尻尾のようにひきずる侯爵夫人令嬢」の伝説と重なり、神父と聖少女、聖霊と悪霊が熱に浮かされたように交わる異様な愛の物語を生み出した。

狂犬病に冒されたはずなのに死なない美少女シエルバ・マリアは、6度の悪魔祓いに耐え抜き、異端審問所で有罪判決を受けた永遠の恋人を「きらきら輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま」待ち続けながらみまかるが、「その剃り上げられた頭骨からは新しい髪の毛があぶくのようにふきだし、伸びていくのが見られた」のである。

当節のへなちょこ恋愛小説をあざわらう世紀の大恋愛意物語に、とくと耳を傾けよう。


金木犀業火盛んに燃ゆるごと 芒洋
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エリア・カザン監督の「エデンの東」再見

2007-10-14 09:04:03 | Weblog


降っても照っても第65回

エリア・カザンがスタインベックの原作を映画化したこの作品は、カリフォルニア州の景勝の地モンタレーを主な舞台にしている。

現在のモンタレーはリタイアしたアメリカの超大金持ちが優雅に暮らしている快適なリゾート地であるが、その岩礁に打ち寄せる荒波をただ延々と映し出す冒頭の序曲(オーバーチュア)が旧約聖書の創世記に記された人類最初の殺人事件を想起させる不気味な始まり方をするのである。

エホバによってエデンの楽園を追放されたアダムとイヴにはカインとアベルの兄弟が生まれる。2人は父なる神エホバに供え物をするがエホバはアベルの供え物を喜んで受け取ったが、カインのそれをかえりみなかった。それを恨んだカインは、弟アベルを殺してしまったので、エホバはカインを「エデンの東」に追放したのである。
兄弟の役割はさかさまになっているが、この創世記第四章の逸話がこの映画の物語の原点にあることを忘れてはならない。

エホバと同様に理不尽に父親への愛と尊崇の心を退けられたカインの怒りと悲しみは察するにあまりあるが、カイン役に全身全霊で共感したジェームズ・ディーンの演技が素晴らしい。

特にディーンが父のために稼いだお金を誕生日に贈り、それが父親によって拒否されるシーンの演技は迫真的で、最後に父との和解を遂げた病室のラストと共に涙をさそう。

しかし絶望に駆られて逃走した兄アロン(アベル)、その許婚は、それからどうなったのか、原作を読んだことがない私には気になるところである。

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大庭みな子著「七里湖」を読む

2007-10-13 11:17:16 | Weblog


降っても照っても第65回

10歳のときに父に死に別れ、12歳のときに日本を去り、アメリカに渡り、母が死んだときも帰国することなく学業を続け、長じて後も日米を行き来しながら齢を重ね、二人の娘もアメリカで暮らしている女性を主人公にした著者の未完の小説である。
日本人やアメリカ人や数多くの親族や友人男女が次々に登場し、ひとしきり思い思いのアリアを歌っては、舞台から退場してゆく。
その舞台では照明はひとつずつ消えうせ、セリフはもはや客席に向かっては語られない。言葉も、呼び出される記憶も、思い出も、やがてモノローグも遠くかすかなものとなり、人も、友も、家も、土地も、愛も、浦島草も、古井戸の死体も、幻の湖も、ありとあらゆるものが霧に包まれ、夢か現かもはや誰にもわからならい無明の闇に沈んでいくのである。

果たしてこれは小説であろうか? 小説だとしても、その物語は生者によって語られているのか、それとも死者が綴っているのだろうか? そうであるともいえるし、そうでないともいえよう。

アラスカに10年以上も住んだことのある著者は、本書の最後の最後に、アラスカで熊に食べられた星野道夫について、こう語っている。

「熊は相手をほふるとき、先ずその内臓に鋭い歯を立てる。それは食欲というよりは、相手と合体し、天地と合体しようとする夢の行為のように思われる。星野さんの写真や文章に現れていたあの奇妙なもの、この地球の軸を揺り動かすような衝撃は、その熊の夢だったと私は知った。(中略)ところで星野さんはなぜ熊に食べられたのだろう。そのような生き方をしていたからだ。文学に生きるのもきっと同じようなものだ。」

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鎌倉の東勝寺跡を訪ねて

2007-10-12 14:08:22 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語83回

「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。

はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。

頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。

なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。 

このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。

むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。

参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」

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♪ザルツブルグ音楽祭2006の「フィガロの結婚」を観る。

2007-10-11 10:46:28 | Weblog


♪音楽千夜一夜第26回

衛星放送で昨年のモーツアルト生誕250周年記念ザルツブルグ音楽祭のアーノンクール指揮、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴した。最初FMで聴いた時は序曲の乗りの悪さや特有のぎくしゃくした運びに抵抗を覚えたが、そのときの演奏とは違うのか、今回はまずまずの出来栄えだった。正確には、モーツアルトの音楽の邪魔をしなかった、というべきか。

このザルツブルグ音楽祭では、スザンナを演じたアンナ・ネトプレコが指揮者のアーノンクール以上の話題になったようだが、それなりの美貌、それなりの歌唱と演技、ということで世間がわあわあ騒ぐほどのことはない。
いずれおちつくところに落ち着き、世界中のオペラハウスで稼ぎまわったあとで消えていくだろう。カラスのような、デヴァルディのような歌手の偉大さは微塵もなく、単なる消費財として使い捨てられて終るに違いない。

それでも強いて言えば、ネトプレコの唯一の取り得は美脚であろう。男たちはみな彼女の脚下に膝まずき、そのふくらはぎに口づける。そうしてクラウス・グートの演出は、この美しい足に対してこだわることで全編に偏執的な奇妙な味わいをもたらしているのだった。

というのも、この「フィガロ」では、クリスティーネ・シェーファーが演じるケルビーノをのぞいて、アルマヴィーヴァ伯爵も、伯爵夫人も、フィガロも、スザンナも、性愛への欲望をむきだしにしているのである。登場人物たちは彼らの空虚な生に耐えられず、やたらと舞台のフロアにごろごろ転がり、覆いかぶさり、ネトプレコなどは得意の騎乗位?まで見せつけるのだからたまらない。モーツアルトが見たらいったいなんと言うだろう。

ところが驚いたことに、グートの演出ではモーツアルトご本人が、舞台のいたるところにしょっちゅう登場して歌手たちと絡む。両肩に白い翼を乗せたアマデオ(天使)の姿をして……。こんなのありだろうか?

第四幕のフィナーレはどんな凡庸な舞台をいつ見ても感動的だが、グートは、愛とやすらぎのうちに結婚式に臨む三組のカップルのうち、バルバリーナとしぶしぶ組み合わされたケリビーノだけが天使モーツアルトの祝福を拒否して、彼の次のオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公として再来することを予告するなど、まことにこざかしい。また彼の今回の演出では、三幕までの室内を本来の舞台である庭園の代用にしようとする機能主義むきだしの精神がよくない。

それらを含めて、すべてにおいて己の頭の良さそうなことをひけらかしているようなグートの演出は、聴衆が純粋にオペラを楽しむことを妨げ、見た目にもわずらわしく、ちゃんちゃらおかしく、結局は霊感に満ちた天才の音楽の素晴らしさに泥を塗っている。シュトラウスではないけれど、やはりオペラは音楽第一、歌手第二、最後に演出、で願いたいものだ。

かく申す時代遅れの私は、J.Pポネル以降のオペラ演出がどうにも苦手です。当節ではそれが完全に逆転して世界中であほばか演出家が我が物顔に振る舞っているが、あんな見世物に大金を払うくらいなら、家でCDを聴くか、舞台形式での上演に行った方がよっぽどましである。

最後に、歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵役のボー・スコウフスの歌唱と演技が見事。ケルビーノを演じるシェーファーは完全なミスキャストでした。


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「オズの魔法使い」再見

2007-10-10 09:14:34 | Weblog


降っても照っても第64回

不気味な小人たち(その多くが身体障碍者だろう)が続々登場してジュディー・ガーランドを取り囲むシーンはその起用の無神経さとヒュウマニテイの欠如にいつも胸糞が悪くなるのだが、吐き気をこらえながら気力を奮い起こして「オズの魔法使い」を衛星放送で再見した。

アメリカ幻想小説の祖L・フランク・ボームの原作を「風と共に去りぬ」のヴィクター・フレミングが監督した本作は、フランスの詩人ネルヴァルの「夢は第二の人生である」という考え方からの影響を受けていると思われる。弱虫のライオンが「お前さんはライオンじゃなくてダンデリオン(フランス語で“たんぽぽ”、直訳すると“ライオンの歯”)じゃねえか」とからかわれるところにも、監督と脚本のおフランス趣味が表われているような気がする。

(昨日久しぶりに見た私の夢は、ライオンともたんぽぽとも関係なく、私の口の中のすべての歯がぼろぼろ取れていくという不気味なものであった。これは夢判断だとどういうことになるのだろうか?)

さて、フランスで活躍したアメリカ人といえば、なんといってもフランクリンであるが、偉大な科学者にして政治家、外交官そして“ヤンキーの父”でもあったこの怪物こそは、この映画の隠れた主人公である大学教授こと“オズの魔法使い”のモデルであろう。
フランクリンは凧を揚げて雷雲が帯電することを証明したが、カンザス州の牧場を襲う竜巻からそのめくるめくファンタジーを開始するこの映画は、90年代に盛んに製作されたトルネード映画の草分けともいえる。

フランス社交界で活躍したフランクリンは、アメリカ伝統の典型的な“ほら吹き男”として、当時の欧州で好意的に認知されたこともつけくわえておこう。フランクリン一流の白髪三千丈的な素晴らしいホラ話が、この映画のベースに横たわっている。

平凡な日常ではモノクロ、夢の世界では華麗な色彩の対比は非常に鮮やかで、主人公「カンザスのドロシー」は皮相な現実と夢魔にみちた“虹の彼方”を行き来するなかで成長して大人になる。
ジュディー・ガーランドの大人とも少女とも見分けがつかない不気味な顔をよく見よう。これこそが当時の“アメリカ合衆国の顔”である。 

この映画が製作された1939年に第二次大戦が始まったが、この国は1941年に突如日本帝国の闇討ちによって真珠湾を攻撃されるまで“虹の彼方”の理想を求めながら独り世界をさまよっていたともいえよう。

そして映画は、There is no place like home(家ほどいいところはない)、という大合唱で幕を閉じる。ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルト大統領以来、世界の警察官を自負して世界中を侵略し続けている米国だが、これは戦争に疲れた帝国主義者の本音でもあるだろう。

もともとはモンロー主義が専売特許であったこの國は、いずれわが帝国と同様、中華人民共和国との歴史的争闘に敗れて、可愛いドロシーちゃんが待つカンザスの片田舎に名誉ある帰還を遂げるに違いない。

ちなみに太平洋の孤島サイパンのスローガンは、There is no place like Saipanである。

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五木寛之著「私訳歎異抄」を読む

2007-10-09 09:18:10 | Weblog


降っても照っても第63回

浄土真宗の始祖親鸞が入滅しておよそ25年、さまざまな教説が登場して教線が大混乱するなか、異説の跋扈を嘆き、真の親鸞の教えなるものを唱導するために弟子の唯円が著わした「歎異抄」を著者が自分流にほんやくしたのが本書である。

「歎異抄」はこれまでも多くの人たちによって読解されてきたが、五木版のそれは知と情を兼ね備えた達意の名訳であると思った。

「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説のくだりも、「いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちからから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心を改めて他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない」
とじつにわかりやすく胸におちる。

悪人正機のみならず、念仏と往生、阿弥陀仏への帰依と絶対救済、他力本願など親鸞の基本的な考え方はなぜか不信者の私の心にも沁みとおった。

巻末に付された五味文彦氏の解説は短文ながら、南都北嶺の弾圧に耐えて関東、東国に力を伸ばしてきた法然、親鸞の布教活動を取り巻く承久の乱前後の情勢について私たちの理解を深めてくれる。


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加藤典洋著「太宰と井伏」を読む

2007-10-08 09:36:48 | Weblog


降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。
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07年9月の歌

2007-10-07 10:07:06 | Weblog


♪ある晴れた日に その14

海からの風はかすかに鼻をさし今年の夏はいま逝かんとす

梓川青き流れに座しおればマガモの家族餌をねだり来る

飛騨高山上三之町の軒下に咲いていたのは天青の花

ひともとの白き芙蓉の花残しきたみ工房引っ越しにけり

らあらあときょうも賛美歌うたいつつ白髪の老人橋上に立つ

イタリアの脳天気テノール死にたれば地球は少し暗くなりたり(パヴァロッテイ死す)


大本営の秘密漏らさず逝きにけり (瀬島龍三死す)

季語のない俳句をひとつよみました

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

天青のなかに海と空がある

どうしても好きになれない人がいる(安倍退陣)

須賀線に身を投じたるカンナかな

クワガタの肉に食い入る痛さかな

おタマより手塩にかけし蛙かな

名月や世に格別のこともなし

けふもまた蝶よ花よで日が暮れる

紋白蝶に纏わりつかれるうれしさよ

てふてふは未来のために生きている

マンジュシャゲに願を掛けるか揚羽蝶

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鳥越碧著「兄いもうと」を読む

2007-10-06 11:06:58 | Weblog


降っても照っても第61回

鳥越碧という作家が「兄いもうと」という本を書いたので、読んでみるとなんのことはない正岡子規と律の兄妹物語だった。

子規の壮絶な晩年を母の八重と共に、妹の律が献身的に支えたことは広く知られているが、その家族愛の根底に“秘められた男女の愛の絆”を想定したことが本書の大きな特色であろう。

確かに律の観点から兄の短すぎた晩年を描こうとすれば、“単なるきょうだい愛を越えた異性愛”という“いまどき風の異色のファクター”を導入したほうがドラマチックな展開になるのは知れたことだが、その根拠は、お話を面白おかしくしようとする著者の読者サービス精神以外のどこにあるのだろう?

律の性格や看護について「仰臥慢録」にいくばくかの記述は出ているが、自伝のどこにも立ち昇った形跡のない薄煙を、まるで業火のように針小棒大化して、さながら近代深層心理小説のようにとくとくと書き継ぐ著者の神経に私は疑問を抱いた。

もっともあの江藤淳だって、悪妻が漱石を毒殺しようとした、なぞと本気で考えていたわけだから、当たらぬも八卦かもしれないが、ともかく私はこんな妄想的想定自体が想定外に不愉快だった。そんな小手先のテクニックを使わなくても最後の第九章などは十分に感動的な読み物になっている。

余談ながら、私は子規の小説より、俳句より、短歌より、お得意の写生文よりも、彼が激痛の合間に描いた水彩画が好きだ。

草花を画く日課や秋に入る 子規
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藤原伊織著「遊戯」を読む

2007-10-05 11:12:26 | Weblog


降っても照っても第60回

最近亡くなった藤原伊織の遺作「オルゴール」と同じく未完の短編連作「遊戯」全5編が収められているが、やはり後者の雄大な構想と読み進むにつれて高まるスリルとサスペンスが心に残る。

登場人物は人材派遣業種に勤務する30代の男性と、ネットで知り合った20代の女性、その二人を脅かす謎の中年男という設定だが、著者は得意とするインターネットや広告・モデル業界やテレビCM制作現場の知見をフルに活用して、平成十九年の御世に棲息する同時代人の、格別面白くもない日常を平凡に生きる喜びと悲しみを知的に抑制された筆致で淡々と描き出していく。

しかしそれだけではなく、この物語では、パソコンゲームや派遣ワーカーやワインや道玄坂のバーやホテルや冷たい拳銃や銃弾やバイオレンスなどの、いかにもありそうな道具立てが手際よく点描され、いまどきの若い男女がクールに交わす乾いた双方向コミュニケーションの情景が上出来の風俗画のように次々に繰り広げられ、読者の心をしっかり捉えて離さない。

恐らくは全編の半分の道程で静かなること山の如きこの見事なサスペンス心理大作が著者の死によって永遠に途絶してしまったことは、まことに残念至極である。

しかし旧弊な人である私は、この作家が叙述文の中で頻繁に使用する、「なので」といういまどきの話し言葉がとても気になった。やはり味噌と糞とは区別しなければなるまい。

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マリー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む

2007-10-04 11:33:28 | Weblog


降っても照っても第59回

兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。

ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。

そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。

しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。

兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。

よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。

たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。

1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。

テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。

それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、

「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」

と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。

ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。
ー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む
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杉本観音の自転車屋さん

2007-10-03 13:38:44 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語82回&遥かな昔、遠い所で第21回

肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。

あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。

それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。

もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。

私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。

おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。

いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。

店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。

自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。

おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。

 けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。

長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。
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