あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

恐るべきトライアングル

2009-08-13 20:03:33 | Weblog

♪音楽千夜一夜第77回

リストのピアノ協奏曲などは最近ほとんど耳にする機会もなくなりましたが、20年ほど前にはかなり人気があって時々演奏されていました。

ある日都の乾の方角にあって、教授陣の大半が2流、3流ではあるけれども、学生と演劇とオーケストラが1流であることでつとに知られる大学の、その交響楽団でチエロを弾いているK君と一緒に、くだんの曲の演奏を聴きました。
なんでも会場は新宿厚生年金会館で、ロジェストベンスキーが指揮するモスクワのやたら暴満な音響を発するオケだった、とうろ覚えに覚えています。

そしてこのやたら騒がしい名曲がいよいよ第3楽章に入ってしばらくすると、それまでは左手奥の大太鼓の影で鳴りを潜めていたトライアングルが、主役のピアノや打楽器や金管楽器ともども狂ったように打ち鳴らされ、まもなく疾風怒涛のフィナーレに突入しました。

さうして、浪漫主義者リスト特有の壮大なこけおどしのコーダの咆哮を圧して、楽堂の山顚にすっくと聳え立ったのは、超高周波数の凛乎とした鈴の音でした。
耳も割れよ、天井よ砕けよ、とばかりに大山鳴動。終わってみれば、鼠一匹、これはピアノ協奏曲ではなく、トライアングル協奏曲だったのです。

そのように私が正直に感想を漏らしますと、K君は「この曲の初演のとき、反ワーグナー派の評論家ハンスリックが君と同じ批評をしている。素人にしてはなかなかいい線いってるよ」と褒められたことを懐かしく思い出しました。
思えば彼のその一言で、私のクラシック趣味が始まったのですから、持つべきものは良き友です。

自慢話はこれくらいにして、すべての楽器のうちでもっとも遠くまで鮮明に聴こえるのが、このちっぽけな三角形の金属であることは、あまり知られていないようです。
オーケストラのフォルテッシモの演奏中でも、この打ち出の小槌をほんの小さく鳴らしただけで、ティンパニーやチューバやシンバルや、マーラーが好んで使う青銅の大太鼓などを軽々と凌駕して、会場の隅々にまで玲瓏とひびきわたりますから、作曲家は十二分に注意する必要があります。

そういう意味では9番目の交響曲新世界の第4楽章で、たった1回だけシンバルを、それもそおーっとお椀を伏せるような最弱音で鳴らしたドボルザークの繊細さが何度聞いても心に残るのです。

冒頭のリストの場合は極端な例外ですが、ショスタコービッチの第5番の交響曲においてもトライアングルが夜郎自大に乱打されて、その本来の正しい奏法がなされていません。いやロマン派のすべての作曲家がこの悪弊に染まって、音色の清らかさと音楽のあたりきな伝達方法を失ってしまったことは、ハイドンやモーツアルトの温和にして乾坤一擲、じつに目の覚めるように鮮やかな鳴らし方を一聴すればあきらかでしょう。


♪過ぎたるはなお及ばざるがごとしトライアングル 茫洋

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野地蔵

2009-08-12 17:46:22 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第202回

御所見直好という人の書いた「鎌倉路」(集英社文庫)というガイドブックほどミクロに徹した鎌倉案内書もそうざらにはないでしょう。類書などでは歯牙にもかけない名所旧跡の脇の、その奥を探訪し、そこに棲む生物や四季折々の草花まで記録にとどめているのです。

たとえば私が住んでいる十二所の神社の前の道路に、朝から晩までぽつねんと立っているお地蔵さまですが、これについても詳しい説明を加えているのには驚くほかありません。以下、原文のまま引用します。

「新金沢街道から十二所神社の参道にかかるその路傍に、あちこちが欠け落ちて、原形もさだかでない石の野地蔵がポツンと立っている。これは江戸末期(文政・弘化年間)のころのことか、鼠木綿の着物、手甲、脚絆に身を固めて厨子を背負い、鉦を叩いて家ごとに銭を乞い歩きながら、諸国を遍歴する六部が、たまたま通りがかりに、近くの高木家の馬に蹴られて死んだ。地蔵はその六部の回向に高木家が建てたもので、四季折々の野花が供えられている。」
地蔵さんのすぐそばには確かに高木さんが住んでいますが、当地にはそのほかにも何軒かの高木さんが存在しており、一族のどの家が地蔵を供えたのかは不明です。

しかしある時、急病に罹った高木さんのおばさんが九死に一生を得たとき、このお地蔵さんが枕元に現れたと語っておられるそうですから、きっと前世の因縁が現世で報われたのではないでしょうか。ちなみに高木さんちの息子さんとうちの息子は、小学生時代の同級生で、少年野球チーム、十二所ファイターズのメンバーでした。

♪蝉時雨いっさんに走り抜けるぬける熱き心よ冷たき頭よ 茫洋

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日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座」を読む

2009-08-11 14:05:13 | Weblog


照る日曇る日第281回

日経が毎年出しているこの本は、日経広告研究所が毎年開催している有料セミナー「広告の理論と実際の総合講座」の内容を1冊にまとめたものです。
最新の「2009年版」でも20名の著者が総論から各論までの20の講義を展開していますが、タイトルは変哲がなくても、常に業界の最新動向がどっさりと盛り込まれ、講師の大半がうろんなアカデミスト連中ではなくて、現場の最前線で活躍している実務家ぞろいであることが、凡百の類書と決定的に違うところです。

たとえばいま話題のソフトバンクの林浩司氏からは同社の経営戦略とシンクロした異色の宣伝広告キャンぺーンの舞台裏を垣間見ることができます。
真夏なのに冬景色のキャメロン・ディアスが登場したり白い犬が物を言うCMの背後には、その自由なクリエイティブを支持する現場担当者と、それを後押しする寛大な経営者が存在しているのでした。

しかもそれらのキャンペーンの前提として明確な理論と日常的なデータ管理がなされ、猛烈な速度で両者の修正と再構築が展開されているようです。名実ともにベストCMの評価を勝ち得た「白戸家の人々」に満足することなく、どんな名CMであっても陳腐化し、その効果は日ごとに失われる、と冷静に認識して、ライバルから奪ったビッグタレントによる一大キャンペーンを開始したこの会社の後生は、まことに畏るべきものがあります。

サッポロビールの寺坂史明氏からは、1本のテレビコマーシャルを断行するために辞表を胸に保守的な首脳陣と渡り合う武勇伝を聞くことができます。
どんな職業の、どんな仕事であっても、担当者が命を賭ける時はあるものです。



♪男一匹生きるも死ぬもこの時ぞこの時ぞ 茫洋
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カラヤンの映像作品を視聴する

2009-08-10 14:20:04 | Weblog


♪音楽千夜一夜第76回


このところNHKの衛星放送でカラヤンのベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの映像記録を放映していました。いずれも1970年代の初頭にユニテルが35ミリでビデオ収録した貴重な映像です。

どこが貴重かといえば、これがライブ映像なのか録画なのか判然としないごった煮であることです。曲によってはコンサートホールの情景や聴衆の拍手なども収録されていて、一見するとライブコンサートのライブ収録のようにみなされる個所もあるのですが、各パートのクローズアップになると奇妙な映像が続々登場します。

たとえば、奏者が実際にはありえない放射線状に美しく配置されていたり、チャイコフスキーの悲愴の第三楽章の小コーダでは、第一ヴァイオリンが「起立して」演奏しているのです。こんなことを「あーだこーだ」言っても始まらないのですが、「のだめ」やダスターボ・ドゥダメルが指揮するシモン・ボリバル・ユーズ・オーケストラの華麗なパフォーマンスの原点は、ほかならぬ七〇年代のカラヤン&ベルリンにあったということがわかるのですね。

おそらく最初に演奏を全部録音しておき、コンサートホールでも再度ライブ収録を行い、最後にスタジオでも要所要所の採録を行い、この3つのデータを適宜コラージュしてできたものがくだんの作品なのでしょう。演奏のみならず映像もおのれのコンセプトに合わせて最新の科学技術で自由自在に編集加工するという「ゴッドハンドの時代」をカラヤンは先導したのです。

カラヤンは例によって暗譜を誇示するかのようにほとんど瞑目して演奏しており、それだけでもかなり異常ですが、たまたま演奏がうまくいったりすると、眼をつぶったまま、かすかに笑ったりする不気味な瞬間があるので目が離せません。晩年とは違ってキャメラはカラヤンの顔を左からも右からも比較的自由に撮らせている点にも興味をひかれます。


多くの人々は、演奏は素晴らしいけれど、映像の遊びが過ぎるこうしたカラヤンの試みに否定的でしたが、トロントのCBCのスタジオでもっとクレージーな映像ごっこに夢中になっていたグレン・グールドだけは例外で、とりわけカラヤンのベートーヴェンの五番ごっこを高く評価していたようです。


♪神の手が至高の演奏を作るなりカラヤンごっこは今日も続いて 茫洋
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不純な視点

2009-08-09 19:47:18 | Weblog


♪音楽千夜一夜第75回


パソコンに向かって仕事をしながらテレビをつけていましたら、突然モーツアルトのバイオリンソナタの変ロ長調K454の有名な旋律が流れてきました。

音程だけは正確な清潔で、まずは丁寧な演奏といえるでしょうが、言葉ありて心足らず、まるで精神的に余裕のない、ギスギスした、潤いのない演奏です。同じモーツアルトの名曲なのに、クララ・ハスキルのそれとは比較にならない低次元の演奏に驚いて振り向いて画面を見たら、サントリーホールの真ん中で、赤いドレスを着た美人が、恐ろしく神経質な表情でヴァイオリンを奏でていました。

ただでさえ難しいモーツアルトを、あんなこわばった顔つきで弾いて人々を感動させることなぞ絶対にできません。私は彼女が発する醜いヒステリックな音声を消してしまい、女優を思わせるこの人の、苦悶に震える細い眉のアップや、不安におののく黒い瞳、嗜虐的な欲情さえそそる冷徹な美貌にしばし見とれていました。

あまり大きな声ではいえませんが、肩、腕、背中などを露出した美しい女流奏者が、歯を食いしばり、髪を乱し、われを忘れて演奏に取り組む姿は、どこかエロチックな行為を思わせることがあります。
大きなチェロを両の肢でがしりと挟み込み、エルガーの協奏曲を狂ったように弾く若きジャクリーヌ・ヂュプレの姿は、音楽の神との崇高なインターコースと私には感じられました。

もしかすると熱狂的なコンサートゴアーの中には、美しき女性奏者との官能的なエクスタシーを体感するためにコンサートホールに通いつめる人がいるのかもしれませんし、売り出し中の若手美人ミュジシャンの中には、そのことを熟知してファッションやメイクに留意しているケースもあるのではないでしょうか。ここでは音楽のみならず性も商品として販売されています。

♪嗜虐者なるかはた被虐者なるか弦打ち鳴らす黒髪の人 茫洋


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残暑お見舞い申し上げます

2009-08-08 12:13:51 | Weblog


♪音楽千夜一夜第74回


前回話に出てきたヨセフ・カイルベルトですが、去る8月3日の夜にブラームスの1番を聴き、その真率の気に満ちた演奏に驚嘆しました。1968年5月のN響とのライブですが、彼は帰国わずか2ヶ月後の7月に「トルスタンとイゾルデ」を指揮しながら世を去りますから、これはまさしくわが国の音楽ファンにたいする白鳥の歌だったといえましょう。
同じ日の放送のロブロフォン・マタチッチのベートーヴェンの7番、オトマール・スイトナーのモーツアルトの39番も絶品で、当時のN響と比べていかに今日のそれが腐敗堕落しているか、さらにこの偉大なる指揮者に続いてN響が迎えたブロムシュテットだのデュトワだのアシュケナージだのがいかに下らない三流役者であるかを雄弁に物語る演奏でした。

古典音楽を聴けば聴くほど痛感するのは、古代、縄文、新石器時代の芸術家の素晴らしさです。ベートーヴェンの交響曲全集も毎月のように発売されていますが、改めて聞いたトスカニーニのすごさは、カラヤンなど足元にも及ばぬ迫力でした。これはソニー&BGMの最新リマスター版が@200で入手できます。


ALTUSレーベルからこれは1枚1000円という高値で発売されている外来オケのライブではムラビンスキー&レニングラードフィルの「田園」&ワグナー管弦楽集、チエリビダッケ&ミュンヘンフィルのブラームスの4番、クーベリック&チエコ響のスメタナ「わが祖国」のサントリーホールの一期一会のライブが名状しがたい感興を誘います。

私がクーベリックと手兵バイエルン放響の生演奏を耳にしたのは70年代のパリ・シャンゼリゼ劇場でしたが、生まれて初めて聞いたマーラーの4番の独唱に思わず涙した日のことをいまでも懐かしく思い出します。そのクーベリックのマーラーの5番の1981年6月12日の壮絶なライブ録音は、同じく1枚1000円のaudita盤で堪能することができます。グラモフォンの全集も手元に備えるべきですが、やはりクーベリックのマーラーは、ライブで炎と燃えるのです。

こんな調子で続けていくと秋になってしまうのでもうやめますが、最後にご紹介したいのは現在世界で最も充実した演奏を繰り広げているマリス・ヤンソンスによるショスタコービッチの交響曲全集です。ベルリンフィル、ロンドンフィル、クーベリックゆかりのバイエルン放響とオーケストラはさまざまですが、ロストロ&ワシントン響盤などを圧倒する素晴らしい演奏を聞かせてくれます。これも1枚250円也。バレンボイム&ベルリンフィルによるモーツアルトの協奏曲集九枚組にショルティ、シフとの2台、3台協奏曲のDVDをおまけに付けて2800円ともどもお薦めです。

あれも聴きたい、これも聴きたい。1枚500円以下で聴きたい。聞くはいっときの快、聞かぬは一生の損。そんなアホバカマニアがいま発注しているのは、アルゲリッチの独奏&協奏曲全集全15枚。この秋も各社から超廉価CD、DVDが続々発売されるようなので目が離せません。


♪聴くはいっときの快、聴かぬは一生の損 茫洋
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続 暑中お見舞い申し上げます

2009-08-07 06:44:10 | Weblog


♪音楽千夜一夜第73回


オペラ以外のお買い得、聞き得CDもいろいろありました。まずはドイッチエ・グラモフォンのブラームス全集全46枚組のセットです。
これまで4つの交響曲をはじめ管弦楽曲を中心にさんざん聞きかじってきたブラームスですが、このセットの大半を占める7枚の歌曲、8枚の合唱曲がことのほか新鮮でした。

歌手はジェシーノーマン、フィッシャーディスカウなどの大家にダニエル・バレンボイムが絶妙のピアノ伴奏をつけています。エディット・マチス、ビルギット・ファスベンダー、ペーター・シュライヤーのアンサンブルにカール・エンゲルが伴奏した二重唱、三重唱もまたとない盛夏の聴きものといえるでしょう。

ルドルフ・ケンプを中心としたピアノ曲、アマデウスカルテットを主力とした弦楽四重、五重奏曲、カラヤン&ベルリンフィルによる4つの交響曲もいかにもブラームスらしい重厚な演奏ですが、とりわけ若き日のアバドによる2つのセレナード、ポリーニの独奏による2つの協奏曲は本集の白眉といってよいでしょう。
ともかくブラームスを一枚三〇〇円程度で骨の髄まで享楽できる充実した全集でした。

次はこれも若き日のレオナード・バーンスタインが七〇年代にニューヨーク・フィルを振ったハイドンのロンドン$パリ交響曲集にいくつかのミサ曲とオラトリオ「天地創造」を加えた12枚組の超廉価盤。後年の重厚長大で悲愴な大演奏とは一味も二味も違う、いわば軽妙洒脱で都会的なハイドンがわずか1枚200円強で楽しめます。
ハイドンの「天地創造」はきのうカイルベルト&ケルン放響の1957年の演奏を聞きましたが、これがあの名人カイルベルトかと思う期待はずれの凡演で、ヤング・バーンスタインに軍配が上がってしまいました。

ちなみにこのカイルベルトの演奏は、現在Membranというドイツのレーベルから出されている1枚130円の廉価版のハイドンセットに入っています。ちなみついでに、私がこの10枚組シリーズで購入したのは、ハイドンのほかに「ヘンデル」「パブロ・カザルス」「エリザベス・シュワルツコップ」「ブルックナー交響曲集」の各セットで、これがどれもこれも名演奏ばかり。シュワルツコップのモーツアルトを聴いているとかたじけなさのあまりに文字通り泣けてきます。

カザルスの無伴奏チエロの2枚組は、もうおなじものを何セットも買って(買わされて)いますが、なぜだかこの安物の録音が私の耳にはいちばんしっくり届きました。カザルスってほんとうにすごいへたうま音楽家だったんですね。
またMembranの「ヘンデル」集には同じバーンスタイン&ニューヨーク・フィルによる1956年録音のメサイアが入っていて、これはハイドンをしのぐ情熱的な名演でした。いわゆるひとつの掘り出し物というやつでしょうね。

To be continued

昭和20年5月23日鎌倉十二所山林に初めて焼夷弾落つと吉野秀雄書く 茫洋

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クロード・レヴィ=ストロース著「パロール・ドネ」を読んで

2009-08-06 11:36:45 | Weblog


照る日曇る日第280回

「パロール・ドネ」などという正体不明のタイトルですが、なんせあの人類学の最長不倒距離翁クロード・レヴィ=ストロースさんの名著を中沢新一選手が翻訳された「渾身の本邦初訳」とあらば手に取らずにはおられません。

どこが渾身なのかは最後まで不明でしたが、ストロースさんの入魂の1冊であることだけはよくわかりました。つまり本書は現在101歳になんなんとする老学者が、40代の前半から70代の半ばまでの32年間にわたってフランスの高等研究院とコレージュ・ド・フランスで行った壮大にして野心的な超長期連続講義のレジュメ、講義録の簡略なの
です。
つまりパロール(語る)したもんをドネ(与える)したもんね、という題名だったわけですが、それなら「おいらの講義録」でよかったのではないでしょうか。

それはともかく「今日のトーテミズムと野生の思考」とか「生のものと火にかけたもの」「アメリカにおける聖杯」とか「カニバリズムと儀礼的異性装」とか、講義タイトルを眺めただけでいかにもな全世界をまたにかけた人類学の壮大にしてものすごくアカデミックな緻密な研究と考証のうんちくの限りが、延々と、かつまた淡々とつづられてゆきます。

たとえば、と101歳翁は語ります。
「アメリカ5大湖周辺に住む、ニューヨークのこていなホテルの名称にもなったアルゴンキン族ちゅうのんはな、ワグナーはんがかの「パルシファル」で描いた「聖杯伝説」によく似た興味深い神話を保持しておってのお、あるときトウモロコシを馬鹿にするアホな若者のせいで、部族の土地が大飢饉に襲われたんじゃ。ほんでな、とうとうある日、ひとりの英雄が荒地の果てまで冒険の旅に出よったんじゃ。そいでもって彼は老人の姿をしたトウモロコシの精霊―無尽蔵の富を生む大鍋の主―に出会うんじゃ。ところがのお、この老人の姿をした精霊はなんと背骨を骨折しておったんじゃ。しゃあけんどわれらが英雄は、アルゴンキン族の不幸の原因をつきとめ、自分たちの精霊の王を癒すことに成功したちゅうわけよ。めでたし、めでたし」
―「アメリカにおける聖杯1973年~1974年度」より引用し吉本興業風に脚色。

これらあまたの事例から、翁がいかにして魔術的な結論をあざやかに引き出すかは、それこそ読んでからのお楽しみです。


青蛇や青縞光らせ草に消ゆ 茫洋
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暑中お見舞い申し上げます

2009-08-05 10:39:23 | Weblog


♪音楽千夜一夜第72回

拝啓H様

関東地方ではずいぶん早くから梅雨明けとなり、小生も家族ともども何回か海水浴を楽しんで参りましたが、その後は晴れたり降ったり霧がかかったりでどうもすっきりしないお天気です。そちらの夏はいかがでしょうか。きっと例年に比べて涼しいのでしょうね。

今年はいちだんときびしい景気後退の影響を受けて、学生諸君の就職活動は困難を極め、景気の上下動は仕方がないにしても、同じ4年生でも1年違えば天国と地獄というこの就職格差は、むごたらしい限りです。去年なら簡単に受かっていた会社からも今年は内定が出ないという過酷な状況は年を越えても続くでしょう。

また一番学業に身を入れるべき3年生の時点で、本格的な就職活動を開始する、あるいは開始せざるをえない状況は、学生にとっても、学校、企業にとっても大きな弊害をもたらしており、一刻も放置できない由々しき問題です。今度の選挙で民社党が政権を取ったらまっさきに解決すべき教育と社会の優先課題ではないでしょうか。

暑苦しい前置きはこれくらいにして、私たちのゆいいつのお楽しみであるクラシックCDの話をいたしましょう。2009年の上期で私の耳をもっとも喜ばせてくれたのはEMIから発売されたマリア・カラスの全スタジオ・レコーディング集70枚@150円の大セットでした。彼女の海賊版を含めたライヴ録音の大半を入手していた私は、「カラスの本領はやはりライヴだ、スタジオ録音なんて死んだ缶詰音楽だ」とバカにしていたのですが、1949年の初録音以降1969年の最後のテイクに至るまでそれこそ1枚1枚舐めるように聴いていくなかで、スタジオでも死力を尽くして音楽に精魂を傾けるデイーヴァの姿に熱い感銘を受けたのでした。そのなかでもやはり恩師トリオ・セラフィンの棒に厳しく導かれた歌唱がいま耳の奥底に懐かしく響いております。

同じオペラでは、廉価版の王者ソニー&BGMが出してくれたプッチーニの全作品を収めた@350円の20枚組セットが素晴らしかった。トゥーランドットやトスカ、ボエーム、蝶々夫人などの有名オペラはもちろんですが、「妖精ヴィッリ」「エドガール」などの初期の作品、「つばめ」や「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の3部作も見事な旋律美を堪能できます。全体を通じてロリン・マゼールの熱い指揮ぶりが印象に残っています。彼はバレンボイムと並んでやたらレパートリーが広い何でもやさんですが、プッチーニの初期作品とドビッシーの「ペリアスとメリザンド」を振らせたら今でも彼にかなう指揮者はいないと断言できます。

次はグラモフォンがライバルに負けじと出したヴェルディの8つの有名オペラ作品、リゴレット、トラビアータ、トロバトーレ、仮面舞踏会、ドン・カルロ、マクベス、シモン・ボッカネグラ、アイーダに加えてレクイエムもおまけに加えた21枚組の廉価版。1枚500円を切る安価というだけではなくて、そのすべてを私が世界最高と確信するスカラ座の合唱とオーケストラがお付き合いしているという豪華版です。

異論もあるかと思いますが、これまで私が聴いてきた世界の有名オケの中で、もっとも耳朶を震撼させられた楽団こそ「ラ・スカラ」なので、このベスト盤を逸するわけがありません。指揮はアバド、ガバツエーニ、クーベリック、サンチーニ、ヴォトーですが、やはりここでも老練セラフィンのタクトと若くして死んだエットーレ・バスティアーニの透明な美声を堪能できるのがうれぴい限りです。

To be continued

 
政権の交代求め民意動く世が変わるとはかくのごときものか 茫洋
理非にあらず曲直も問わず遮二無二人は旧きを倒す
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「谷川雁セレクション2・原点の幻視者」を読みながら

2009-08-04 11:02:38 | Weblog


照る日曇る日第279回

 平成天皇が百済の武寧王なら、己の出自を高麗人と宣言してはばからない南の孤高の詩人谷川雁が、これまた北の孤高の思想家宮沢賢治に透視していたもの、それは「倭」の鎮西弓張月の巨大な孤の「極北」でした。

倭を形成していた列島の縄文人の子孫たちは、朝鮮半島からやってきた鉄器を携えた弥生人によって圧伏され、半島からの新興渡来人たちは、彼らが武力で追いやった西南の琉球民族と東北のアイヌ民族と激しく抗争しながら、7世紀中葉にようやく天皇制を装備したヤマト国家を誕生させます。歴史の舞台に初めて登場した日本です。

以来14世紀の歳月を閲して、わが神国ニッポンチャチャチャは、なかなかにまつろわぬ2つの民族を飴と鞭の両面作戦で完膚なきまでに制覇したかに見えましたが、地下茎の陰微な反乱は絶えることなく継続され、南では沖縄独立運動が、北では賢治ゆかりの東北精神独立運動がつづけられているのです。

呪力を持つ縄文人であり、かつまたランボーのごとき近代の「見者」でもあった宮沢賢治は、その短い生涯にわたってその全著作を挙げて、伽藍のような巨大なドームを建設し、イーハトーブという名の聖地を立ち上げようとしました。

礼拝堂の天井には「銀河鉄道の夜」が輝き、床面は「ポラーノの広場」、壁面には「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」が置かれ、柱には「花鳥童話集」、その他「古いみちのくの断片」をちりばめた数々の小編が回廊までつづくその巨大なフラードームは、ガウディがバルセロナに建てた未完の聖家族贖罪教会大聖堂に少し似ています。

賢治もまたこれらの作品の完成を期さず、まるでグレン・グールドの「ゴルドベルク変奏曲」の演奏のように、あるいはまたメビウスの輪のように巡りめぐる精神の永劫回帰運動をそのコンセプトと定めたからです。

賢治は、この己が夢見た円天井の広大な空間に、芸術と科学を愛する少年少女を招きいれようとしました。そしてこの賢治の発想こそが、来るべき「単一世界権力」に対して無謀にもゲリラ的に対抗しようとする谷川雁の最終戦争、すなわち賢治童話を素材として使った「人体交響劇」の全面展開へとつながっていったのです。「粛々たる虚無の声が渡る」なかを……。


♪いとやすく大いなる便をひりだして偉大な事業なし終えたるがごとし 茫洋
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続「谷川雁セレクションⅠ」をめぐって

2009-08-03 11:57:17 | Weblog


照る日曇る日第278回

「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」と告知して、詩人谷川雁が永久に試作を放棄し、アルチュール・ランボオのように工作者として荒々しい現実に突入したのは1960年の1月6日のことでした。
しかし遅れてやってきた後世の若き詩人たちのためには、彼が詩と詩作について遺した「わたしの物置小屋」という珠玉のようなアフォリズムがあります。

以下本書55pから65pまでを随意に引用します。

詩作はちいさな革命、ほとんど失敗に終わる革命、夕刊の片すみで息絶える南米の革命である。

「私」と呼ばれるあいまいでちいさな星雲よりも言葉の方がほんのすこし安定しているという認識が文学の前提である。

人間が言葉をみいだすのではない。言葉が人間を計量するのだ。詩作の根本条件は選択の自由ではなくて必然性の認識である。

詩においては発端と結末が同時に存在する。つまり老人と幼児だけがおり、ほかの者はいてはならない芸術だ。

ひとつの単語は相反するすべての諧調を微量づつ含んでいる。このペンキ屋の常識すらもたない作品が横行している。

質量が小さくなればなるほど密度を増すいくつかの物質を想定せよ。作品はこの函数の和として与えられる。

ある種の級数のように、去年の決算が今年の決算の出発であるように、現在の一編は過去の百編をふくむ。

無限から一点をめざし収斂する言葉の螺旋運動――詩。小説は一点から放散して無限へ広がる。小説は特殊を、詩は無限すなわち普遍を説きあかす。

短歌は時として小説に似た放散運動を起こす。これはメロディの癖だ。短歌的抒情よりもこの方が問題だ。

短歌とは何か。私なら二行詩もしくは三行詩と答える。俳句は一行詩である。一行の長さは二十字以内とする。

一編の俳句は三ないし四個の名詞をふくむとき最も安定する。いけばなの先生がやたらに応用する椅子の原理。

漢字とひらがなの同盟が始まったとき、すなわち平安末期だか、鎌倉初期だかに、現代日本語の美感の大部分は定まったのである。

日本の詩に長所があるとすれば、それは形式の不純さである。油彩の日本画と水墨の西洋画、それらの戦慄すべき調和である。

各行の第一字目を漢字で書くか、ひらがなで書くかは視覚の均衡に重要な役割を果たす。実験したまえ。

一行のうちに少なくとも一個の運動する影像をふくむならば、印象の希薄さを避けることができよう。

音楽の強さを決定する振り子は行の長さである。一息に読みおろすことのできる行数が一行でなければならない。

作品を書くタイミングを誤らないようにせよと言いたい。同じ人生が三篇の名作をうむことも三百の駄作をうむことも可能である。

詩は習練によって上達する芸術ではない。うまい詩というものはありえない。詩をまなぶのは他のことを知るためである。

すぐれた詩は人間に対する信頼、世界に対する信頼がそのまま言葉に対する信頼に一致している、それだけのことだ。                  (引用終わり)


碩学吉本隆明氏の名著「詩学叙説」を一言にして乱暴に尽くせば、「単純で初歩的な直喩ではなく、複雑で高踏的な隠喩を多用したものが、立派な詩である」ということになるかと愚考するのですが、これは知識偏重評論家にありがちな詩の進化論ではあっても、詩の本質的な価値とはなんの関係もない物差しでしょう。
このように詩を形式主体で論じると万葉集より新古今が高級だという身も蓋もない結論に至るのです。

世に無内容な詩論は掃いて捨てるほど叩き売られていますが、ここに生々しく素描された詩の本質と詩作実践技術論こそ彗星のように現れて消えた詩の天才的工作者にふさわしいものだと思います。

♪百合の薫りあまりにも強すぎる 茫洋
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「谷川雁セレクションⅠ」をめぐって

2009-08-02 16:54:52 | Weblog


照る日曇る日第277回

「連帯を求めて孤立をおそれない」という言葉を発した谷川雁が、戦後を代表する天才的な詩人であることは、彼が残したごくわずかな詩篇を読んだ人にはあきらかでしょう。

以下は、もう今では誰もが忘れてしまったある革命家をうたった彼の詩です。

いなずまが愛している丘
夜明けのかめに

あおじろい水をくむ
そのかおは岩石のようだ

かれの背になだれているもの
死刑場の雪の美しさ

きょうという日をみたし
溶岩のやみをみたし

あすはまだ深みで鳴っているが
同志毛のみみはじっと垂れている

ひとつのこだまが投身する
村のかなしい人達のさけびが

そして老いぼれた木と鐘が
かすかなあらしを汲みあげるとき

ひとすじの苦しい光のように
同志毛は立っている            「毛沢東」(引用終わり)


ここには、当の本人もついぞ知らなかった革命家の理想の姿が永遠に詩句として定着されています。限りなく直喩に近い隠喩の巧みな使用が、大きな詩的感興をもたらしているようです。


♪手を振れば車より身乗り出し両手振り返したり神奈川4区長嶋一由 茫洋
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「大庭みな子全集」第1巻を読んで

2009-08-01 16:42:35 | Weblog



照る日曇る日第276回&遥かな昔、遠い所で第87回

「三匹の蟹」と聞いて思い出すのは、遠い昔のある情景です。

私たち三人の孫を率いた祖父は須知山だかどこかの街道筋の山峡のバス停でいつ来るとも知れぬバスを待っていました。待っても待ってもバスは来ません。車も来なければひとっこ一人通りかかりません。
退屈し切った私たちはバス停の傍を徘徊していましたが、道端の溝に小さな水たまりがあり、その水底に何匹かの沢ガニが静止しているのに気付きました。

私は幼い弟と妹を呼んでその愛すべき生物の発見を喜びましたが、いざ捕獲しようとすると彼らが左右の武装した手で幼児の攻撃を威嚇し、防御する猛々しさにひるんでしましい、溜息をつきながら彼らが勝ち誇って発する大粒の泡を見つめるほかはありませんでした。

するといつの間にか孫たちの傍に来てその光景を眺めていた明治生まれの祖父が、いきなり持っていたステッキを水中にグイと差し入れ、しばらく左右に動かすと薄い赤と白に染め抜かれた子供の目にはかなり大きな一匹の沢ガニが杖に噛みついたまま地上に引き上げられてきたではありませんか。

私たちはワッと歓声を上げてその獲物を取り囲み、バスがやってくるまでの相当長い時間を十分に堪能することができ、それ以来私たちにとって祖父の杖は「おじいちゃんの魔法の杖」となったのでした。

しかし、この作家の文名を一躍高からしめた「三匹の蟹」に登場するのは、丹波の山奥の淡水に潜む沢ガニではなく、アメリカ産の海のカニであり、「三匹の蟹」とは六〇年代の米国に滞在している鬱屈した日本人の学者妻カニと夫カニと妻を誘う米国人男性カニの3点セットであり、最後に米国人男性カニが日本人女性カニを連れ込もうとしているバラック連れ込みモーテルの名前なのです。

夫にも嫌気がさし、異国暮らしの己の生活にも不満を覚え、訳がわからぬ外国人連中とのパーティの不毛さにも飽き果てた主婦……。触れれば落ちなんその風情は、アントニオーニの映画のヒロイン、モニカ・ヴィッテのアンニュイな世界を彷彿とさせます。

しかし、生と性のはざまで微妙に揺れ動く空虚な心と体に忍び込む「桃色のシャツの男」とは、そも何の象徴でしょうか? また、苦しげにふつふつと泡を吹く3匹のカニたちは、それからどのような運命をたどったのでしょうか? 

それを知るためには、この「三匹の蟹」の第1部「構図のない絵」と第2部「虹と浮橋」、それからその続編として書かれた「蚤の市」を併せて読む必要があります。
「三匹の蟹」という本の第3部を成し、なぜか芥川賞をかち得た「三匹の蟹」という、今読めばなんということもない古色蒼然とした短編は、著者が述べているとおり「ほんの手すさびの習作」にすぎないのです。


♪みなそこのわがしんちゅうにたぎるものおんとえんぬぱんちーる 茫洋
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