あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

続・葉月狂言綺語

2011-08-16 10:53:59 | Weblog


バガテルop141

菅首相がいよいよ辞めることになったので、世間やマスコミでは鬼の首をとったように大喜びしているが、それほど愉快な出来事なのだろうか。そもそも腐敗堕落した自民党を見切り、民主党には立派な人材や政策や指導力がある、などと勝手に巨大な妄想を描いて猫も杓子も投票し、政権交代を実現したのは当の君自身ではないか。それで鳩山や菅が出てきた。
確かに鳩山はひどすぎたが、次に出てきた菅がアホ馬鹿なので、菅を上回る超々アホ馬鹿であってもいいから3代目に代えろ変えろ替えろと叫んでいる。まるで3歳の幼児がお星様を取ってくれと泣き喚いているようなものだ。
で、民主党に他に誰かいるのか? 下馬評に上がっている顔ぶれを眺めているだけで、彼らが「評判の悪い菅」を超える指導者たりえないことは一目瞭然である。どいつもこいつも悪代官に抱きついて腰巾着になりたがっているだけの話だ。
菅はそれほど優れた政治家ではなく、そして実際にいくつもの失敗を犯したにせよ、少なくとも公務員として勤務時間中に特定の宗教機関を親しく訪問しなかったし、浜岡原発を停止させたし、脱原発とまではいかずとも離原発という新たな方向性を提案した。津波原発の後処理などにしても彼に代わって彼よりましな政策を領導できる人材はおそらくこの党に存在しないだろうし、野党の政治家にも見当たらない。
菅はもちろん国際的にはれっきとした3流の指導者ではあるが、「この国及び国民の実態を正直に反映したそこそこまともな指導者であった」ということを、菅落としに全力を挙げた人たちは3ヶ月後に気づくであろう。菅は糞ダメの中の立派なウンチだったが、その他の連中は糞以下の流動物だった。(汚い比喩で申し訳ありません)
この国には君と同じ程度に底の抜けたうさん臭い政治家しかいないことを肝に銘じ、しかるのちに彼を担げ。


昼寝から目覚めればまたマリナーズ逆転されている 蝶人

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葉月狂言綺語

2011-08-15 16:05:16 | Weblog


バガテルop140

8月5日の日経の文化欄で吉本隆明氏が文化部の記者の取材に答えて「原発をやめるという選択は考えられない」と発言していた。
「原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射線を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまった、という点にある。燃料してはけた違いにコストが安いがそのかわり使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし発達した科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろというのと同じです」
と彼は説く。確かに原子力は人類の科学技術の最新最大の成果のひとつであるが、その成果のひとつである原発や原爆をやめることは、「人類をやめる」こととはまったく連動せず、むしろ「人類をより良くより長く存続させる」ことにつながるはずである。
原発は俗に「トイレのないマンション」と言われているとおり、燃料の最終処理方法がまだ確立されておらず、そこまで算定しないで「けた違いにコストが安い」などと平気で発言できる人はよほどこの問題に無知なのか、原発推進側の宣伝に毒されているのだろう。
原発反対論者は別に「発達した科学を後戻りさせろ」などと非常識な提案をしているのではない。「発達した科学を他のシゼンエネルギー研究と開発に方向転換せよ」と主張しているのである。
また彼は言う。
「だから危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。今回のように危険性を知らせないとか安全面で不注意があるというのは論外です。全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか飼い猫に好かれるといった小さな満足感で押し寄せる絶望感をやり過ごしている公の問題に押しつぶされずそれぞれが関わる身近なものを一番大切に生きることだろう」

飼い猫に好かれようが嫌われようが知ったことではないが、今まさに問われているのは、「どんなに現場スタッフの知恵を集め、どんなにお金をかけても安全で完璧な防御装置をつくることなど出来ないのではないか?」という原発に対する根本的な疑問と問いかけであるはずなのに、この評論家はあいもかわらず素朴な科学万能主義に無邪気な信仰を抱いているようだ。

あんたなら立派な看護師になれたわよと姉に太鼓判押されしわが妻 蝶人

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衣笠貞之助監督の「地獄門」を観て

2011-08-14 08:32:09 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.138


平安時代末期から鎌倉の初期にかけて活躍した文覚上人の前半生を文豪菊池寛の原作でカラフルに映画化した。

北面武士の遠藤盛遠(長谷川一夫)が同族の武士渡辺渡(山形勲)の美貌の妻、袈裟御前(京マチ子)に横恋慕して渡と間違えて刺し殺してしまうという悲劇である。いくら好きな女でも人妻なら普通の男はあきらめてしまうのに、盛遠はひたすら押しに押しまくる。袈裟は夫に助けを求めればよいのにそれをせず、夫の寝所に自分が横たわって夫の身代りに殺されてしまうというのがどうも納得できない。

相手を間違えたと知った盛遠は絶望して自分を成敗せよと迫るが、渡はお主を殺したとて妻が生き返るわけではないと虚無的な哲学を述べて妻の復讐を放棄する。そこで盛遠は刀でもとどりを切って僧となり袈裟の菩提を生涯に亘って弔うと宣言して映画は終わるのだが、僧となった文覚が飛び込んだのは若き日の友人源頼朝とつるんだ生臭い政治と陰謀の世界だった。映画と同様実人生でもとてもまともな人物とは思えない。

衣装も建物も牛車もヘアメイクもギンギンギラギラの極彩色で彩られ、才人芥川也寸志が琵琶、琴や笙、笛などの和楽器を平安時代のインテリアミュージックのように垂れ流す。
この映画が海外で高い評価を受けたのは、その内容ではなく、ニッポンのサムライの世界へのエキゾチシズムと大いなる幻影のせいだろう。



天青咲きてわたしの夏が来る 蝶人
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藤田覚著「江戸時代の天皇」を読んで

2011-08-13 08:38:09 | Weblog

照る日曇る日第448回

講談社刊の「天皇の歴史」も、いつのまにやら第6巻の江戸時代までやって来た。

本巻の冒頭では家康・秀忠・家光と続く徳川幕府が、後陽成・後水尾、明正、御光明天皇の実権をはく奪しながらも、形骸化されたその権威を徹底的に活用しておのがヘゲモニーを貫徹するありさまをリアルに描いているが、その後段においては、幕末の政争にからんだ孝明天皇が尊王攘夷派の公家や武家に担ぎあげられながらその不遇と屈辱を跳ね返し、大政奉還という形でお互いの立場を入れ替えるというジエットコースターの上下動さながらの劇的展開をつぶさに追っている。

その原因は彼らの力関係の変容というよりは外夷(欧州米国ロシア中国などの諸外国)からの政治的軍事的経済的圧力に求められるとしても、幕府に対して天皇の優位を誇示した霊元・光格天皇の勇気ある反抗、宝暦事件で処罰された竹内式部の垂加神道、桃園天皇への「日本書紀」進講、幕府への謀反の罪で死罪に処せられた明和事件の山県大弐などの思想的実践的営為の蓄積が、幕末の尊王攘夷運動の大爆発を呼び込んだことも、本書を読めば頷けよう。

江戸時代の天皇の使命は天下泰平、海内静謐、朝廷再興、宝祚長久、子孫繁栄、所願円満を願って祈祷し、朝から晩までもっぱら学問にはげむことだったそうだが、今も昔も天皇は現人神として宮中奥深い秘所でわれら国民には公開されない神事を行っているらしい。この国が神の国であることを止めて普通の国になるためには、一日も早くこういう特定の宗教に偏向した儀式の執行を停止することが必要だろう。


この頃は来なくなりぬわが義母を余命一週間と断言せし医師 蝶人

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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第9回

2011-08-12 08:03:33 | Weblog

bowyow megalomania theater vol.1


暖かい日でした。
砂丘の向こうには海が広がっていました。太平洋でした。
はるか彼方の水平線を一艘の漁船が波にもまれながら息も絶え絶えに東の方角へ消えてゆきました。
強風にあおられながらたくさんのカモメが上になり下になりながらヒューヒューと鳴き叫んでいます。
僕たちの体はたちまち冷え切ってきました。急いで砂防林まで引き返すと、そこは不思議なことにまったく風が凪いでずいぶんと気温も高いのでした。
松やススキやスイセンが茂る雑木林のくぼみに座って、僕たちはマツポックリを拾いました。
洋子の髪の毛の中に細かな砂粒がいくつも入り込んで、その砂粒が午後の太陽の光を反射して時折キラリキラリと耀くのがとても奇麗でした。
僕は思わず洋子の顔に両手をあてて、真っ黒な髪の毛の真ん中のところに鼻を近づけてその匂いを深々とかぎました。
懐かしいお母さんのような匂いがしました。
そのまま洋子の頭を左肩の上に乗せ、両手を背中に回すと、洋子の頭が僕の肩の上でガックリとうなだれるのが分かりました。



何の花が好きかと尋ねれば山百合が好きと答えし人ありき 蝶人

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ピーター・デイビス監督「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実」を観て

2011-08-11 08:02:19 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.138

1974年に製作されたベトナム戦争をめぐるドキュメンタリー映画です。

サイゴンの警察長官がベトコン容疑者の頭をいきなり拳銃で撃ち抜く有名なシーンが挿入されていますが、おのが国家利害のためには世界の果てまで出かけて行って陸海空から最新兵器を駆使して敵を皆殺しにするこの国独特の西部劇保安官体質は、それから30年以上経っても基本的には変化せず、イラクからは辛うじて逃亡したもののアフガニスタンの荒野ではベトナムと同じような泥沼に飛んで火に入る夏の虫、いずれは威厳も栄光も誇りも全部投げ捨てて、すごすごと尻尾を巻いて母国へ逃げ帰るに違いありません。

建国後わずか200有余年にして早くも経済も政治も社会構造も醜く歪んで衰弱し始め、中国を筆頭とする経済新興国から激しく追い上げられているこの自称「世界の警察官」も、そろそろその夜郎自大な自己中心主義の幕引きを余儀なくされる時期がやって来たようで来たるべき新世界平和のために誠に慶賀に堪えません。

それはともかく、彼らの心情や精神が幽かに揺らぎ始めたとはいえ、その世界に冠たる傲岸尊大なイデロギーがまだまだ健在だった時代に刻印されたこの映像は、帝国崩壊の最初の自己認識の証左として末長く顕彰されることでしょう。


小便すれば付着する黄色い滲みこれぞわが耄碌の証なりけり 蝶人

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成瀬巳喜男監督の「浮雲」を観て

2011-08-10 12:39:59 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.137

原作は林芙美子、脚本は水木洋子、そして男と女の好いた惚れたのファーストキスから、ズブズブドロドロの腐れ縁、そして因果は巡る大団円までを、これでもかこれでもかと執拗に描く監督。

そして、その理想的な被写体としての演技をほぼ完璧に演じる高峰秀子と森雅之。そこにヒロインの処女を暴力で奪った山形勲とヒロインの恋敵岡田茉莉子が顔を出す。しかも音楽は小津の常連斎藤一郎とくれば、いわゆるひとつの成瀬ワールドはこれで完成したようなもの。

ド壺にはまって悪あがく2人が、ある時は男が、またある時は女が優勢に見えるのが切なく身につまされるが私はこの映画を最後までみてもどうして2人が別れられなかったのか判然としなかったのだが、成瀬の解釈では2人の性的な相性が抜群だったということで、さもありなん。そういう描写もインサートしてくれれば、もっと凄絶な恋物語となったろう。

1年360日雨が降る屋久島で悲劇が起こった時、男は喪ってはじめて表中の掌中の珠の有り難さを知るのだが、どうせ泣くならフェリーニの「道」のザンパノのようにもっと号泣して欲しかった。

うら若い乙女からろうたけた人妻姿まで、高峰秀子は透き通るような美しさであり、森雅之のようなすがれた色男は、げんざいのわが芸能界にただひとりも存在しないことが如実に分かる映画でもある。



つばくらの低く飛ぶ駅を出でにけり 蝶人
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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第8回

2011-08-09 11:41:38 | Weblog

bowyow megalomania theater vol.1

すると洋子が、

「私はやっぱ「さすらう人」だな」

と、突然言ってスタスタと三台目の車の助手席に乗り込んでしまったので、僕も仕方なく「遊ぶ人」のトラックに乗りました。

 のぶいっちゃんは残った「働く人」のに乗り込むと。三台の大型陸送車はすさまじい轟音と土煙をあげて国道246号線めがけて急発進しました。

 横浜から東名高速道路に入って2時間くらい走ったところで浜松に着きました。

「俺っちはよお、ここでウナギでも食ってくけど、オメエたちはどうする?」
 と「働く人」が尋ねました。

しかし僕たちはお金もないしお腹も減っていないのでそこで三人の親切な男たちと別れて、そのままどんどん海に向かって歩いていきました。



五十名の生徒が走らせるシャーペンの音 蝶人

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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第8回

2011-08-08 11:18:10 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


あっと思った時には、その三台のトラックは急停車して、中からねじりはちまきをした背の高い「働く人」と、でっぷりした「遊ぶ人」、そしていちばん年の若い「さすらう人」がドアをバタンと閉めて運転席から次々と飛び降りてきました。

四〇から五〇歳くらいの真面目そうな「働く人」が、のぶいっちゃんの顔をじろりと見て、
「おい、お前たち、どっかへ行くなら乗っけてやろうか」
 と言いました。
のぶいっちゃんが黙って僕と洋子の顔を見ました。僕はどう言っていいのか分からないので黙っていました。
「どおせどっかの施設から逃げて来たんだろう」
と、お腹にぐるぐる包帯のようなものを巻き付け、赤い顔をした「遊ぶ人」が図星を言い当てました。
「君たちをとって食おうってんじゃあないぜ。もし困っているなら、どこへでも連れていってあげるよ」
と、人の良さそうな「さすらい人」が声を掛けました。


物喰えば歯がボロボロとかけていくいずれは全部消えて無くなる 蝶人


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梟が鳴く森で 第3部さすらい 第6回

2011-08-07 12:02:04 | Weblog

bowyow megalomania theater vol.1


12月6日 晴

金沢八景の三郎の滝から太刀洗いを経て番小屋に居る大きなシェパードに吠えられながら、十二所神社の前の県道に出て霊園の坂をえっちらおっちら登っていくと、後ろから走って来た車がどんどん僕たちを追い越していきました。

歩き疲れて鶴ケ丘会館の広告看板の下でへたり込んで座っていると、坂の下の方から三台のトラックがゆっくりと現れました。どこからやって来たのでしょう、その大きな陸送トラックは。

最初の一台にはフロントグラスの上の、バスなら行き先表示板にあたる場所に「働く人」と書かれ、続く二台目には「遊ぶ人」、そして最後の三台目には「さすらう人」と掲げてありました。

すると洋子が三台目のトラックを指差して、
「私、あれがいいな」
と呟きました。のぶいっちゃんは、
「僕は、やっぱ働く人だな」
と言いました。
残ったのは「遊ぶ人」です。僕は、やっぱ遊ぶ人だったんだと思いました。



      東電のフクシマ原発恐ろしや一億の民被爆者と化す 蝶人

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アラン・ドロン脚本・監督・主演の「危険なささやき」を見て

2011-08-06 12:00:48 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.136

1981年に希代の色男が人もすなるくわんとくをワレモ、と得たりやおうと飛びついて試みた監督主演の探偵謎解きおフランス映画の超ダサく。

元デカ上がりのドロンが神出鬼没獅子奮迅の大活躍を演じるが、気持ちよさそうなのは当のご本人だけで、恐らく当時のパリでも映画館は閑古鳥が鳴き騒いだろう。

久しぶりに真面目に論じるに値しない凡作が登場してくれたので、私もほっとしているが、おそらくこの頃からフランス映画の輝かしき栄光とやらに徹底的に西日が差し、ヌーベルバーグの遺産はどこへやら、俗流大衆路線の台頭による腐敗と堕落の怒涛の進撃が開始されたのであらうどろん。

それにしてもルネ・クレマンやビスコンティ、ゴダールなどの名監督の下では圧倒的な存在感を見せたこの美男子が自作を自演すると、どうしてこういうポンチ絵になってしまうのか不可解というかとむしろ当然か。所詮はイーストウッドになれなかった人気俳優の哀れな末路を涙なしにご高覧あれ。


一億の民が一本の傘の下ヒロシマナガサキフクリュウフクシマ 蝶人

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五味文彦編・現代語訳「吾妻鏡10御成敗式目」を読んで

2011-08-05 12:41:55 | Weblog


照る日曇る日第447回

本巻では寛喜3年1231年から嘉禎3年1237年の7年間の鎌倉幕府の事績を取り扱っているが、そのわずかな期間の叙述にかなりの重複があるのが解せない。

そもそも吾妻鏡は北条一族の息がかかった歴史整序が恣意的になされているので注意して読まなければいかないのだが、この重複は単なる編集ミスとしか考えられず、一時代を画する正史の編纂のでたらめさに驚く他はない。

しかしそうケチはつけても北条泰時の治世にゆるぎはなく、彼のイニシアチブの元で1232年の御成敗式目が制定され、御家人・守護・地頭の法制の整備が果たされたことは、その直前の寛喜の大飢饉を思えば武家政権の見事な成果と誇っていいだろう。

本巻の編者西田友広氏によれば、寛喜の大飢饉ではそれまで禁止されていた人身売買が容認されたというが、当時はこれを禁止することがかえって「人の愁嘆となるべき」異常な事態に陥っていたのである。

本巻では私の近所に現存する実朝が建てた五大堂明王院に新しい御堂が建立されて将軍藤原道経をはじめ北条時房、泰時が臨席して晴れの披露が行われたとか、九夜連続の大地震に見舞われたとか、さまざまな天変地異が相次ぎ、安倍一族が各人各様の占いを行ったりするという叙述があって七七〇年の歳月を一瞬のうちに無化してくれるが、そろそろ鎌倉で大地震が発生する時期が訪れていることは、この「吾妻鏡」を読め読むほどあきらかになってくる。人こそ変われ、歴史は何度でも繰り返すのだから。

天福元年1233年3月7日、智定房という元武士の1人の僧が、尾形船の尾形をすべて釘でうちつけ、窓ひとつない密封された狭い空間に30日分の食料と油を積み込み、熊野の那智浦から補陀落山めがけて乗り出したというが、どうにもこの人の末期が気になる第10巻であった。


喨々と油蝉鳴く正午かな 蝶人


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ジェームズ・ゴールウエイのフルート協奏曲集全12枚組を聴いて

2011-08-04 11:39:24 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第214夜


これまたソニーの1枚224円の超バジェット価格につき即購入し、バッハ、モーツアルト、テレマン、ヴィヴァルディとどんどん聴き飛ばす。とっかえひっかえ聴きまくる。物凄い技巧とテクニック。あ、同じか。
ともかく指がすみやかによく回ること! はじめは処女の如く、終わりは脱兎の如く快走快走また快走するのだが、が、待てよ。このひとバッハで、モザールで、メルカダンテでそれぞれいったい何が言いたいのか。

耳を澄ませば、このひと1枚目でも12枚目でも、誰の曲でも使う言葉と文法がいつも同じ。それがわかると少し興ざめ。でもあんまり難しいこと考えずにわれらのロバの耳を晒しておれば快適そのもの。さすがベルリンフィルでカラヤンに愛されただけのことはある。

しかしああ、こんなことなら久しぶりにランパルが聴きたくなったぜ。



誰か助けて下さいと鳴き叫びながら少年が滑川を歩いている 蝶人
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クレンペラー指揮フィルハーモニア管の「ベートーヴェン交響曲全集」を聴いて

2011-08-03 14:28:59 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第213夜

英EMI盤とは違って、しかし同じオケを指揮してのベト全曲。1960年のウイーンライブがアンドロメダから新たに24ビットでリマスターされたが、さしたる感動はなかった。

前者はスタジオ録音、後者はライブ1発録りということで、当然これに凱歌が上がるはずと期待しすぎた反動か。合唱のテンポの遅さなど聴いていて心がワクワクするが、その割にフィナーレのコーダではてんで感動が湧かないのである。

この指揮者のベト演奏のお薦めは、わたし的にはアルカイダ盤による10年後のニューフィルハーモニア管とのベト1番、3番で、これは彼のドイツでの最後の演奏となったが、泰然自若たる歩みの物凄い物思い深きエロイカ。それがベートーヴェンのどの曲なのかも忘れ、どこか幽明の彼方に、されど心楽しく引きずり込まれていくという大演奏。また1964年にベルリンでベルリンフィルとやった壮絶な5番と6番のライブも忘れ難い。

感興を催した時のクレンペラーとクナパーツブッシュは、あのフルベンもついていけない恐ろしい演奏をする。ところがいまどきのクラシック愛好家は、なぜかこのように人心を震撼させる世にも恐ろしい名演奏を忌避して、耳触りのよい、無内容で、小市民的で、予定調和的な、例えば小澤征爾やメータやサバリッシュやブロムシュテット、アシュケナージや準・メルクル,金聖響などのような凡庸な指揮者の音楽を好むのだから、ふるっているわな。馬鹿も休み休み聴けといいたい。 


魚屋は死んだ魚を肉屋は死んだ動物を八百屋は死んだ植物を売る 蝶人

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リュック・ベッソン監督の「グラン・ブルー」を見て

2011-08-02 14:27:16 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.136



海の表層は青く美しいが、しばらく下降すると暗黒の闇に閉ざされる。さうしてその闇の奥には我々の生誕の原点があり、ここにこそ人類創成700万年の秘密が隠されている、とジャック・マイヨールやエンゾ・マイオルカ、そして監督のリュック・ベッソンがかんがえたのかどうかはいざ知らね、ラストでは子をなしたばかりの可愛い子ちゃんロザンナ・アークエットが差し伸べる手を振り切って、あろうことか深海の奥で差し招くイルカちゃんと踊るために命綱から手を離してしまう主人公の胸の中の思いは、素潜りするくらいなら海岸で美女を見物するほうを選んでしまうわたしなどがいくら想像を逞しくしても思いも及ばぬ不可解な心的領域である。

おそらく彼らフリーダーバーたちは生まれながらに陸地よりも海が、人間より魚が好きな連中であり、潜れば潜るほど人類史の逆に向かって退行することに生理的必然性を感得し、ついには己が鰓のない脊椎動物であることを忘れて地表の生よりも海中の生、すなわち快楽死を選ぶのだろう。

168分のフランス版ハリウッド映画自体の出来栄えは最悪で、リュック・ベッソンの演出は例によって凡庸であり、とりわけエリック・セラの音楽などは聴くに堪えない拙劣さであるが、かくも人世の理非曲直をわきまえぬ変態的貴種の生態を描いた「主題の特異性」において、独特の存在意義が認められるだろう。


むざむざと車に轢かれしキリギリス 蝶人


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