あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

あかるいナショナル

2013-07-18 09:02:01 | Weblog


「これでも詩かよ」第10弾&ある晴れた日に第139回



あかるいナショナル
あかるいナショナル
きょうも元気だ
ニッポン チャチャチャ

アカイ アカイ 平家は アカイ
シロイ シロイ 源氏は シロイ
アカ カテ シロ カテ
ニッポン チャチャチャ

あかるいナショナル
あかるいナショナル
みんな元気
ニッポン チャチャチャ

アカイ アカイ 腐女子は アカイ
シロイ シロイ 醜男は シロイ
アカ カテ シロ カテ
ニッポン チャチャチャ

あかるいナショナル
あかるいナショナル
みんな元気
ニッポン チャチャチャ

アカイ アカイ 東京は アカイ
シロイ シロイ 産経は シロイ
アカ カテ シロ カテ
ニッポン チャチャチャ

あかるいナショナル
あかるいナショナル
みんな元気
ニッポン チャチャチャ

アカイ アカイ 社共は アカイ
シロイ シロイ 自公は シロイ
アカ カテ シロ カテ
ニッポン チャチャチャ

あかるいナショナル
あかるいナショナル
きょうも元気だ
ニッポン チャチャチャ


      今日も元気だニッポンチャチャチャ日本全国明るいナショナル 蝶人

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ドナルド・キーン著「日本人の美意識」を読んで

2013-07-17 09:06:08 | Weblog


照る日曇る日 第608回

日本人の美意識は足利義政の東山時代にそのエッセンスが確立されたといわれているが、著者はその美意識を1)「暗示」または「余情」、2)いびつさ、ないし不規則性、3)簡潔、4)ほろび易さの4つの視点からくわしく解説している。

2番目について私の個人的な思い出はフランスのヴェルサイユ宮殿の大庭園を遠望した瞬間に脳内に惹起しためまいと吐き気で、この広大な空間を整然とした幾何学的な法則で整除しようとする西欧人の非情な意図に、私のそれこそ「日本的な」感性は、生理的に反発したのである。どうしても受け容れられない非人間的かつ天に唾する邪悪で悪趣味な美意識として。

わたくしのこれと同様な生理的嫌悪は、例えば都心の超高層ビルやマンションを見上げた瞬間にも湧きおこってくる。これらの建築物は「簡潔」さこそ備えてはいても、「暗示」も「余情」も「不規則性」もないが、鉄とコンクリートとガラスによる頑丈な矩体であるはずのそれらに、立ちあげられた時点ですでに内在している「ほろび易さ」が垣間見られるのは不思議なことである。

もしかするとバベルの塔のように天空に伸びる建築たちは、それらの人間たちの神をも恐れぬ不遜なたくらみの空しさを見抜き、おのれを待つ不吉な運命におののいているのかもしれない。

しかしものみなが激しく推移するこの節では、徒然草の中で兼好法師が「すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり」と喝破したり、松尾芭蕉が「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」と吟じた日本美学の根幹も、急速に失われつつあるような気がしてならない。


わが書きしメールを消さずその上に返信する人の無精を憎む 蝶人

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南部英雄監督の「恋するトマト」を観て

2013-07-16 08:14:12 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.509

タイトルがあまりにも陳腐なので止めよう止めようと思いながら見ていたら、どんどん引きずり込まれて最後は涙していた。なんといっても企画・製作総指揮・主演・脚本の大地康雄の映画への愛と情熱が産みだした快作には違いない。

霞ヶ浦の近くで老いた両親と農業を営む青年が同伴者を求めて叶わず、とうとうフィリピンにまで繰り出してこの国の、そしてわが国の民草の貧しさや豊かさについて痛切な体験を身に刻む話である。

それにしても現代に生きる普通の日本人が農業では暮らせず、結婚も出来ないとは、なんと悲惨な状況であることか。この映画の主人公は奇跡的な僥倖に恵まれたが、依然として大きな社会的な障壁が彼らを孤絶の場所に閉じ込めているのである。



ああいくら考えても思い出せぬポール・ニューマンが私立探偵を演じたあの映画 蝶人

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2013-07-15 09:42:54 | Weblog


「これでも詩かよ」第9弾&ある晴れた日に第138回  

君が怒れば、私は悲しい。
君が歌えば、私はほほえむ。
君が泣けば、私も泣こう。
君が笑えば、私も笑うだろう。

君が描けば、妻は眺める。
君が食べ過ぎれば、妻は心配。
君が頭をボカボカ叩けば、妻も頭を抱えて絶望。
君が「お母さん、シリトリしよ」と言えば、妻はうれしい。

君が耳に指を突っ込んで通りを激走すれば、私はうろたえる。
君が両手をバシバシ叩き、ウウウウ唸るなら、私は棒立ちになる。
君が「お父さん、蛇ですよ」と教えてくれれば私は驚き、それがムカデだったらひと安心。
君が「黒木メイサのDⅤD見ますよ」と言えば、私も一緒に見るだろう。

君が簡単ケイタイを使えたので、妻はビックリ。
君が電話ばかりすれば、妻は心臓がパクパク。
君から電話が無くても、妻はハラハラ、ドキドキ。
君が日に40本も電話する日が続けば、妻は死んでしまうだろう。

君が喋れば、私は聞こう。
君が「ミニストップへ行ってきます」とえば、私は「行ってらっしゃい」と応じる。
君が激しくドアを閉めれば、私は眉を顰める。
君が私を嫌っても、私はじっと我慢するだろう。

君が列車遅延に巻き込まれたら、妻はオロオロ。
君が地震に遭えば、妻は停電の暗闇の中を自転車で藤沢まで捜索に行く。
君が無事に帰宅すれば、妻は安心。
君が眠れば、きっと妻も寝られるだろう。

君が怒れば、私は悲しい。
君が歌えば、私はほほえむ。
君が泣けば、私も泣こう。
君が笑えば、私も笑うだろう。


耕君がおだやかな一日を過ごしてくれるただそれだけが我が家の願い 蝶人
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君のパーティ

2013-07-14 09:25:32 | Weblog


「これでも詩かよ」第8弾&ある晴れた日に第137回  



君のパーティに票を入れると、基本的人権がそうとう奪われる。たぶん。

君のパーティに票を入れると、表現の自由もかなり奪われる。あじゃぱー。

君のパーティに票を入れると、口先ばかりで実態の無い3本の博打矢作戦に加担することになる。ややや。

君のパーティに票を入れると、経済の縮小均衡配分政策を捨てることになり、少子化社会にあっては暴挙に近い経済成長の生体実験に巻き込まれ、国民生活の安寧を危険に晒すだろう、まちがいなく。

君のパーティに票を入れると、日本の貧富格差はますます深まり、持てる者と持たざる者との対立は深刻になるだろう。びしばし。

君のパーティに票を入れると、世の中が暗くせちがらくなり、いらざる競争が激化し、外国と無益な事を構える危険性が高まる。どんどん。

君のパーティに票を入れると、いずれ国を滅茶苦茶にすること間違いなしの思いつき経済政策を認めることになる。あかんあかん。

君のパーティに票を入れると、うちの耕君のような障碍者や経済的弱者への物心両面の援助が少なくなる。ばかたり。

君のパーティに票を入れると、第2次世界大戦ちゅうにこの国がアジアの民衆に対して侵した領土的政治的経済的社会的肉体的侵略の史実が曖昧になるだろう。そうとう。

君のパーティに票を入れると、国民とか市民とか住民が中心の考え方が大きく後退して、国とか国家とか敷島の大和心とかを大声で喚き散らす人間が増える。らあらあ。

君のパーティに票を入れると、絶対的戦争放棄が放棄される。ぜったい。

君のパーティに票を入れると、国民主権はないがしろにされ、拝啓天皇陛下が元首になる。明治明治。

君のパーティに票を入れると、憲法が政府の横暴を阻止できなくなる。ありゃりゃ。

君のパーティに票を入れると、税金が増え、医療費が増え、年金が少なくなる。かんにん、かんにん。

君のパーティに票を入れると、その反民衆的な歌詞と壱越調律旋の陰鬱なメロディーが嫌いで、できたら「君が代」を明るく元気な「青い山脈」に取り変えたいとひそかに願っている私のような人間は、大東亜戦争当時の私の祖父と同様に牢屋に入れられることになるだろう。いやや、いやや。

君のパーティに票を入れると、日本を取り戻すとかいって懐かしの大日本帝国憲法が復活するだろう。ああだうだうの輸送船。

君のパーティに票を入れると、安全性とかエネルギー問題はそっちのけで、核武装に不可欠な原発維持に突き進むだろう。ハイヨー、シルバー!

長くなりすぎるのでもうやめるが、ざっと以上のような理由で、残念ながら私は君のパーティに投票できないんだ。悪しからず。



景気より大事なことがあるはずだけどとりあえず全部忘れて安倍チャン万歳 蝶人
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ドナルド・キーン著「足利義政と銀閣寺」を読んで

2013-07-13 09:03:51 | Weblog


照る日曇る日 第607回


本邦の歴史上これほどにも政治的にも武人としても無能で、周囲に迷惑をかけた将軍が他にいただろうか。

父義満に倣って若き日には多少の政治的イニシアチブを発揮してはみたものの、細川対山名の戦国武将対決の修羅場からは逃げの一手で花の御所から東山に逃亡、国政の最高責任者たるものが万事を放擲して後に銀閣寺となる隠居所と庭園作りに精を出すのだから下々の者はたまったものではない。

細君の日野富子には終生頭が上がらなかったのはお笑い草だが、最大の問題は将軍職の跡継ぎ問題だった。三顧の礼を尽くして嫌がる実弟義視を無理矢理還俗させて新将軍に就けたにもかかわらず、富子との間に実子義昭が誕生すると悪妻の泣き落としに大いに動揺してうろたえる。

この動揺の間隙をついて浮上したのが細川山名2大勢力で、彼らは将軍職の相続争いを彼らの権力闘争に利用したのだった。だから不肖義政の家庭内問題の不始末が、京の都を完全に焼き払ったあの応仁の大乱を引き起こしたことになる。

ところがこの日本一の超無能男こそが現在の日本文化の美意識の大本を作った東山文化の創始者であり、住宅も庭園も茶も能の幽玄も水墨の絵画墨蹟もことごとく彼の教養と美意識の発露であったというのだから驚かずにはいられない。先進国中国の文化遺産を巧みに吸収、換骨奪胎しおおせた史上最悪の将軍義政は、著者がいうように、「すべての日本人に永遠の遺産を遺した唯一最高の将軍」だったのである。

余談ながら同時代の能役者世阿弥の蹉跌も後継者問題からであった。足利義政と同様彼も弟の子元重(音阿弥)を後継者に定めたのだが、その後誕生した実子元雅の父観阿弥を上回る天分に驚き、その動揺を悪将軍義教に衝かれて観世流分裂に追い込まれたとも考えられる。

政治、芸術、実業いずれの世界にあっても、今も昔もいちばん難しいのは後継者問題なのだろう。




震災で南に逃げた人々の気持ちは分かるが好きにはなれない 蝶人
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梅原猛・観世清和監修「元雅と禅竹」を読んで

2013-07-12 09:05:46 | Weblog


照る日曇る日 第606回

金春禅竹の疾走する悲しみ

「翁と観阿弥」「世阿弥」に続く「能を読む」シリーズの第3巻は、世阿弥の長男観世元雅と娘婿金春禅竹の登場である。本巻では元雅の代表作である「藤戸」「天鼓」「弱法師」「隅田川」、そして禅竹の「定家」「芭蕉」「杜若」「三輪」「龍田」などを中心に彼らの作品と考えられている38曲をとりあげ、現代語訳を付した懇切丁寧な解説を施している。まさに「能を読む」醍醐味ここに尽きるといっても過言ではないだろう。

父世阿弥から「比類なき達人」とたたえられた元雅の作品に通底するのは、その短い生涯を予知していたかのような名状しがたい悲痛の念である。「弱法師」における盲目の美少年俊徳丸の夕日の日想観の光景はかの黒澤明の「乱」でも引用された名場面だが、さしずめ小林秀雄なら「モーツアルトのト短調交響曲を耳にしているような疾走する悲しみ」とでも評するに違いない。

梅原氏は金春禅竹の作品に流れる男女合体・両性具有の思想について論じ、「定家」における藤原定家と式子内親王の爛れた邪淫、「芭蕉」における芭蕉の精と山僧の性交、「杜若」における在原業平と彼が関係した8人の女性たちの象徴である杜若の精との男女和合の歌舞の道に触れて、「これぞ天台本覚思想の真髄である草木国土悉皆成仏の現れである」と喝破するのだが、いつもなら素直にウンウンとうなずくはずの僕ちゃんが、思わず小首をちょいとかしげたのはいったいどういう風の吹きまわしだったのだろう。

足利義満という権力者によって能の世界の絶頂に立ったかに思われた世阿弥と元雅だったが、その子義教の代になると急激に遠ざけられ、元雅は暗殺、世阿弥は佐渡に配流され、代わって世阿弥の甥音阿弥が重用されるようになる。

私はかねていくら短気で横紙破りの独裁者義教でも、そこまでやるには余程の理由があるはずだと思っていたのだが、松岡心平氏の「元雅の地平」を読んでその裏事情についてはじめて知ることができた。

世阿弥の長男元雅と次男元能(「申楽談義」の著者)は、かねてより南朝の小倉宮を支持する南大和の豪族越智氏の反権力闘争に加担しており、そのとがめを無実の世阿弥までが蒙ったのである。血気にはやった若者の政治参加が、天才能楽師親子の死命を制した。今も昔も政治の火遊びはあたら有為の才能を殺してしまうのである。


       モデルの道端ジェシカより元体操の池田敬子選手が好きだ 蝶人
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真っ赤な果実のビタミーナ 

2013-07-11 09:14:52 | Weblog


「これでも詩かよ」第7弾&ある晴れた日に第136回  


うちの妻君が「水曜日だから、これ捨てるわよ」と言って台所の流しから持ち出したペットボトルに、私は待ったをかける。
あわてて彼女から赤いラベルのペットボトルを取り戻し、目の前に置く。
私はゴミ収集車が「♪エリーゼの為に」を鳴らしながらやって来るまでに、この詩を書き上げなければならない。

「真っ赤な果実のビタミーナ、ビタミンCたっぷり」
「おいしく摂れるビタミンC450mg」
と、そのボトルの包装ラベルには書かれている。

しかしそんなことはそうでもいいのだ。
ブドウ、グレープフルーツ、イチゴ、アセロラ、ラズベリー、ブラックカラント、トマトなどなど、いろんな果実がいっぱい入ったこの真っ赤な飲み物に、いま私は夢中なんだ。

私の眼を射るその独特の赤は、「ベサメ・ムーチョ」を絶唱する藤沢嵐子の頸動脈のように欲情に燃えあがり、
私の喉を潤すその味は、夜な夜な千夜一夜の物語を語り続けるシェヘラザード姫のつばのように、こってりと甘い。

おお、甘露甘露! 
嵐子さん、あなたの赤を、私ははげしく欲する。
おお、甘露甘露! 
シェヘラザード姫、あなたのつばきを、私は限りなく欲する。

西暦2003年7月8日の昼下がり。
ニイニイゼミが狂ったように鳴き始めた新宿南口の青空の下で、私は1本150円の「真っ赤な果実のビタミーナ」を飲む。
広場の真ん中で立ったまま、私はアラビアのロレンスのように、何本も何本も、とっかえひっかえ次々に飲み干す。

甘露甘露、真っ赤な果実のビタミーナ!
わが愛しき真っ赤な果実のビタミーナちゃん!
もう駄目だ。もう止められない。
Oh Yeah! 私は君に夢中なんだ。


        「朝毎読日経」といわれしはいつの日かいまコンビニに毎日はない 蝶人


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文化学園装飾博物館創立77周年記念「『装苑』」と「装苑賞」その歩み展」を見て

2013-07-10 09:40:39 | Weblog


ふぁっちょん幻論第79回&茫洋物見遊山記第130回

文化出版局から1936年に創刊された服飾雑誌『装苑』がわが国のふぁっちょんと雑誌の世界に大きな影響を与えたことはいうまでない。思えば私が同誌のパリ特派員であった故久田尚子さんとお近づきの栄を忝なうしたのも、およそ40年の昔のことで、それは展示会にみえた彼女の高価なエルメスのハンカチーフの忘れものを私がただちにタクシーに乗って届けに行ったからだった。

当時の文化学園の前庭は広大な原っぱのようで、そのいちばん右奥に木造の旧遠藤記念体育館が立っていたのを昭和の夢のように思い出す。まだ巨大な高層ビルが建つ前ののんびりした時代だった。今回の展覧会にはその当時に刊行されていた『装苑』の創刊以来のバックナンバー850冊がずらりと展示されていて殊の外懐かしかった。

また会場には、高田賢三や山本耀司、小篠順子(コシノ・ジュンコ)、山本寛斎、故熊谷登喜夫、安部兼章など、1956年に『装苑』が創設した「装苑賞」(服飾界の「芥川賞」に相当する)の受賞作がほぼ全点展示されており、実に見ごたえがある。

総じて50年代の作品はデザインがシンプルで個性的であり、自信たっぷりにがっしり構築されているという、かの小津映画の服飾&インテリアにも通底する好ましい印象がある。ところが60年代、70年代と進むにつれて、その自信が次第に揺らぎ始め、なにやら妙な不安定さが強まってくるのだが、先行する欧米のモード対する畏敬の念と生真面目な模倣の姿勢は不変である。

突如状況が一変するのは80年代で、洋服の構造が異様なまでに肥大歪曲大型化し、それまではまがりなりにも端正でありエレガントであったドレスが、なにやら巨大な、のっぺりとして醜い「1枚の大凧」のような姿かたちのものに変身してしまうのである。

ここでは従来の欧米ふぁっちょんに対する謙虚な模倣と学習の念が吹き飛び、服飾の定型に対する乱暴な否定と冒涜するような不遜な気分が横溢する。80年代はバブルの時代であるとともに「現代変態バサラの時代」であったことが分かる。

つづく90年代から現在までは、もはや死語となった「ポスト・モダンあるいはミニマリズムの時代」で、デザインの細部に亘って異様なまでの造作を施して自己満足に耽るという、かの狂乱の80年代とはベクトルが全然異なる、されどこれまた実に奇妙な時代が原子力潜水艦のやうに深く静かに潜行しているのである。

つまり外見は平静で端正な無風の時代なのだが、ちょっ「と内部を抉って見ると「♪そこにはただ風が吹いているだけ」であり、要するに「空無の時代」、「本質が欠落した時代」なのである。

もうひとつ忘れてはならないのは、このコレクションにはいまはやりの「カワイイ」作品が厳密にはただの1点もないということだ。そしてそれが「装苑賞」に代表される東京コレクション(及びパリコレ、ミラノコレ)的なるものの正統性と同時に商業的な衰退と没落を同時に象徴していることで、そのことの本当の意味は、安部自民党政権が凋落する頃には明明白白のものとなっているだろう。

すなわちこれまで「可愛い」というキーワードによって大きく展開されてきたアホ莫迦一大トレンドの終焉と、深海で死んだ振りをしていた「装苑賞」的な正統的なるものの復権の日が近づいているのである。

かわいいのがファッション!? 冗談じゃないそれはちんけなファッチョン。ほんとのファッションって凄えもんなんだぜ


なお同展は東京新宿の同館にて来たる9月28日まで開催中(日曜・祭日は休館)



    「キャワイイ」は思考停止の阿片の言葉君を蕩かし骨抜きにする 蝶人

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島津保次郎監督の「兄とその妹」を観て

2013-07-09 09:18:17 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.502



 製作は満蒙国境で皇軍がソ連とノモンハンで交戦し大敗した1939年。佐分利信、三宅邦子、桑野通子、上原謙、河村黎吉、笠智衆などの懐かしの名優たちが出演している。

さて本作で国内の私企業のどこにでもあるような醜いかけひきにブチ切れて、主人公が家族とめざしたのは旧満州国だった。

 たしか漱石の「それから」の平岡も、国内で喰いつめて満州に行くのだが、主人公の代助だって、「それから」という小説が終わった直後に、三千代を喰わせみずからも生き延びるために、当時「いまそこにある新天地」であった満州に、大いなる夢と希望を抱きつつ雄飛した可能性は大である。

 戦前と戦中、そして戦後が一直線に繋がっている地平では、やれ大陸への侵略だの植民地主義の発露だのと外野席から難癖をつけても、当事者や関係者にとってはとんでもない言いがかりに過ぎないのだろうが、これを進出された中国側から見れば、立派な暴力的侵略であり、犯罪であり、国際的違法行為に他ならず、いくら阿保馬鹿安倍が急に學者もどきに変身して「学問的には未確定である」なぞとほざいてもその客観的歴史自体が侵略の事実を証明している。

 では漱石や子規は植民地主義者であったか。そうであったともいえるし、そうでなかったともいえる。こういう「無法」を私たちは古代の昔から自覚的・無自覚的に犯してきたし、犯されもしてきたので、きっとこれからも犯し侵すのだろうよ。


侵略をしたことがないと言い張るならば今度おめえがそういう目に遭えばよーく分かるだろうぜ 蝶人
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「トスカニーニ・コンプリートRCAコレクション」を聴いて

2013-07-08 07:45:27 | Weblog

音楽千夜一夜第310回


トスカニーニの前にトスカニーニなく、トスカニーニの横にフルトヴェングラー、トスカニーニの後にはわずかにカラヤン、クライバーあり。

この偉大なマエストロが指揮した84枚のCDを聴けば、その凄さをつぶさに実感することができるだろう、1枚たったの116円で。
当節は小澤をはじめラトル、メスト、ハーデイング、ドゥダメル等々居ても居なくても誰も困らない2流、3流の指揮者でも「マエストロ」と軽々しく呼ぶようだが、それは不勉強なロバの耳たちがもっともっと素晴らしい偉大な先人の演奏にその残滓なりとも触れたことがないからである。

ここには、本当のマエストロとはこの人とフルトヴェングラーにしか与えてはいけない称号であった、と心の底から痛感させる世紀の名演奏、名録音の数々がある。

ベートーヴェンでもヴェルディでも、曲は前へ前へと不橈不屈のエネルギーで前進するのだが、かといって緩徐楽章や恋のアリアにさしかかった折の適正なテンポの維持に心配りを怠っているわけではなく、この伴奏ならばこの歌手がもっとも真価を発揮できるであろう、と熟慮したうえでの管弦楽のうるわしい展開になっていることが、例えば私が愛聴するヴェルディの最大最高の傑作「ファルスタッフ」に耳を傾けているとよく分かる。

ベトちゃんでもブラちゃんでも20世紀の指揮術の規範は今では誰も訪れることになくなったこの聖檀に安置されているのであり、その真価が分からない人間は、あまちゃんを見てじぇじぇじぇと驚き、豚や鱶にでも喰われればいいのだ。

私はトスカニーニの真価はやはりオペラのカンタービレのめくるめくような疾走感と自他一体の燃焼天国感にあると思うが、それはこの全集の中に1枚だけ添えられているDⅤDの中でひときわ鮮やかに体感できるだろう。

1943年12月にNYのNBCスタジオで収録されたヴェルディの「諸国民の賛歌」のライヴ演奏を視聴していると、彼の命を賭けた反ファシズムの戦いと、彼が理想とする音楽への激しい希求とが混然一体となってまっすぐ押し寄せてきて、それが見るものの胸をいくたびでも熱くするのである。


「こんにちは」坂道行き交う人々が必ず挨拶するという尾道へ行きたし 蝶人
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アラン・パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」を見て

2013-07-07 08:34:55 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.500


60年代アメリカ南部の黒人差別の根深さを鋭くえぐったアラン・パーカーの力作です。

黒人というだけで白人が異人類視し、抑圧し、殺戮する視座はいったいどのようにして歴史的に生得の資質となっていったのか。それはもしかして皮膚の色がもたらす原初的な恐怖と異物感によるものなのかしらん、

と私は、最近よく出くわす蛇に対する自分の恐怖とその直後に湧きおこってくる一種の憎悪、さらのその後から押し寄せる殺意のようなおぞましい複合的感情を呼び覚ましながら、この白と黒、北と南、先進と後進、中心と周縁、知識と情念、信と不信などの対立軸がぐるぐる回転しながら大捜索の末に殺人犯が挙げられて有罪となるまで、の顛末を眺めておりました。

しかしこれが黒と白ではなく同種同文同貌の間柄においてどうして敵意と反感と憎悪が巻き起こってしまうんだろう。

それはともかくやっぱり正義の味方のウイレム・デフォーより南部出身のやさぐれ捜査官ジーン・ハックマンの役どころに惹かれるなあ。


天皇を元首にしたい政党に投票するとはあんたも莫迦だね 蝶人
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辺見庸著「青い花」を読んで

2013-07-06 10:01:44 | Weblog

照る日曇る日 第605回

地口と詩を自在に操りながら震災と戦争の時代を彷徨する寄る辺なき魂の孤独と悲しみを、あるときは悲劇的に、またある時は喜劇的に歌いあげる変幻自在なレトリックをてって的に駆使した超詩小説である。エイトコラサーノヤットコセ。

この主人公が生きているのは現代にほど近い近未来で、またしても自立して全世界と向き合うことに失敗したニッポンチャチャチャは、どうやら中国と同盟を結んで米帝と戦争状態に入っているようだ。ガチョーン。

しかし頼みの中国は内乱分裂状態に陥っているようで、いずれにしても勝てるあてのない戦争に突入したこの国と民草を覆っているのは、限りない絶望と虚無である。アラエッサッサア、アンタ、マタヤッチャッタノネエ。いやさか、いやさか。

3.11規模の大震災にふたたび遭遇して故郷を追われた、著者を思わせる主人公には、もはや生きる根っこもなく、なんの夢も希望も欲望もなく、中国製のヒロポンを口にすることだけを願いながら夜の食国をさすらうのだが、その脳内にはかつての大日本帝国戦争の悪夢やうしなわれた妻子の幻影が走馬灯のようによぎるのであった。アジャパア。



おいらはドラマー やくざなドラマー おいらが怒れば虎馬呼ぶぜ 蝶人
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小川洋子著「ことり」を読んで

2013-07-05 09:59:23 | Weblog


照る日曇る日第604回

明晰な仏蘭西語をしのばせる現代日本語による叙述。小川洋子の眼は恐ろしく透明でどんな被写体をも驚異的な精度で射ぬき、それを水晶のような日本語に定着する。徹底的に推敲された用語はそれ以外に絶対にあり得ないという高い水準に定位されている。

さて今回の作品は、まるで我が家の長男と次男のような仲の良い兄弟が登場して、心が洗われ、思わず泣きたくなるようなまじわりを示すあえかな出来栄えでした。

小鳥を愛し、小鳥との会話をするために新しい言語を開発したお兄さんは、周囲から奇人変人扱いされるのですが、その弟の「小鳥のおじさん」だけにはその新言語が通じるのです。

以前「日本の犬はアメリカの犬と話せるか」という宝島社の企業広告を見た時、彼らには万国共通のワンワン語があるのだから、そんなことは当たり前じゃないかと思ったが、猫にはニャンニャン語が、小鳥には小鳥語というものがあるのである。

さなきだに生き難い生き馬の目を抜くようなあざとい世の中を、ハンディを抱えたこんなよわよわしい、ちょっと奇妙な2人が、どのように細々と生き抜き、どのような行く末を迎えるのだろうと、私たちはハラハラしながら頁を繰るのだが、そこにはいかにも「小鳥のおじさん」にふさわしい最期が待っているのでした。



南西諸島特産のオオゴマダラがなんで鎌倉の空を飛んでるんだ うれしいようなヤバイような妙な気持ち 蝶人
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中上健次著「千年の愉楽」を読んで

2013-07-04 11:10:32 | Weblog


照る日曇る日第603回


中上の小説の故郷は路地である。古くて新しい伝説が生まれる場所、路地では、それがどこであっても古くて新しい人間が生まれ、そして死に、いまもなお陸続と生まれて死んでいる。

路地の不滅の女主オリュウノオバは、地球上の緯度や経度に束縛されることなく、熊野から南米ブラジルはもとよりマルケスが死にかかっているコロンビアに飛んで、「百年の孤独」のウルスラ・イグアランのごとく悪い血のために不条理に夭折する呪われた一族のために次のような永遠の歎きの歌をうたうのである。

山の彼方の空遠く 空の向こうに海がある
海の向こうから人が来て 人はどんどん人を産む
親の因果は子に報い、子供の因果は孫に来て、
孫の良き血も悪き血も 曾孫と玄孫に流れます 
それでも切れぬ因縁は
巴里にロンドン、ニュウヨオク、
ボストン、東京、リオデジャネイロ、
コマンド、柳河、ローデンバック、
丹波の国の里山の、世界のどこに生まれても、
来孫、崑孫、仍孫、雲孫と 家族大樹は果てもなく
どこどこまでも伸びるのじゃ 
東西南北変わりなく 成さぬ仲でも親は親、豚の尻尾でも子供は子供、
子供を産むのは両親で、二人の親には祖父母あり、
その祖父母には親がいて、親の因果は子に酬い、
奇人変人みな死んで 死んだとおもうたはこりゃ目の錯覚
あれそこに飛ぶ黄色い蝶 真っ赤な雪が降るぞえな 
大きな栗の樹の下で 身の丈十丈の大男 
死んでも見切れぬ夢を見て 色即是空 輪廻転生
一目瞑れば百年で 二目瞑れば千年で 三つ瞑ればスフインクス
因果は巡る風車 西郷隆盛娘です 
さあさ皆さんお手を拝借 五十六十洟垂れ小僧 
八十九十糞喰らえ 百歳なんてあっと言う間 
万人善人 霊魂不滅 一族再会 倶会一処 
さてもさても
なんのおめえが孤独哉


           千年の愉楽閲してリラの花 蝶人

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