沖縄人民党合流50年④ 奪われた土地とり戻す
沖縄県が日本に復帰する前から池原秀明さん(80)=沖縄市=は、同市知花(ちばな)の米軍嘉手納弾薬庫地区内で手作業の土地の開墾を始めました。米軍が奪った祖父の代からの土地を取り戻すためでした。「見つかれば銃殺されることも覚悟の上だった」
米軍に隠れ耕す
日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。「重機を使えば見つかる。松林が広がる土地を農業ができるようにするには、どれだけ大変だったか」
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たちです。
7~8年かけて池原さんは5千坪の土地を「黙認耕作地」として開墾し、ブロックを積み上げ豚舎を建設。養豚を始めました。
「地代を上回る収入を出してみせる」。米軍キャンプ・シールズ内に土地を所有する反戦地主の島袋善祐(ぜんゆう)さん(87)と意気投合。島袋さんは限られた農地で収益を上げようと、ミカンの超密植栽培を試みていました。
池原さんは、県の職員を退職後、法律に基づいて県に申請し牛舎を建設。本格的に肉牛生産ができる環境を整え、82年に土地の返還を勝ち取ります。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手になりました。土地を強制収用できるのは「適正且(か)つ合理的であるとき」と定めた駐留軍用地特別措置法を空文化する状況をつくり出したからです。
池原秀明さんが手作業で開墾し、返還を勝ち取った土地。奥の建物が牛舎=沖縄市知花
基地共存できぬ
日本共産党に入党したのは67年。東京の大学に在学していた時でした。沖縄に帰郷後、米軍の毒ガス撤去を求める中で沖縄人民党の人と知り合い、活動をともにするように。
86年から共産党沖縄市議を8期。昨年、勇退するまで務めました。「嘉陽宗儀さん(元党県議)たち先輩に育てられ、住民の相談相手になることを心掛けてきた」。住民の利益増進に尽くし、基地のない平和な沖縄をめざしたたかってきました。
68年に米軍の戦略爆撃機B52が嘉手納基地内で墜落し、大爆発。数キロ離れた実家で爆音を聞いた生後3カ月の長男はその後数年間、爆音のたび恐怖で泣きだしたといいます。「94年にもF15戦闘機が墜落し、うちの牛舎に残骸が飛び込んできました。いつ犠牲になるか分からない状況は今も同じです。基地とは共存できないことを訴え続けなければ」(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月5日付掲載
日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たち。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手に。
粘り強さですね。
沖縄県が日本に復帰する前から池原秀明さん(80)=沖縄市=は、同市知花(ちばな)の米軍嘉手納弾薬庫地区内で手作業の土地の開墾を始めました。米軍が奪った祖父の代からの土地を取り戻すためでした。「見つかれば銃殺されることも覚悟の上だった」
米軍に隠れ耕す
日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。「重機を使えば見つかる。松林が広がる土地を農業ができるようにするには、どれだけ大変だったか」
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たちです。
7~8年かけて池原さんは5千坪の土地を「黙認耕作地」として開墾し、ブロックを積み上げ豚舎を建設。養豚を始めました。
「地代を上回る収入を出してみせる」。米軍キャンプ・シールズ内に土地を所有する反戦地主の島袋善祐(ぜんゆう)さん(87)と意気投合。島袋さんは限られた農地で収益を上げようと、ミカンの超密植栽培を試みていました。
池原さんは、県の職員を退職後、法律に基づいて県に申請し牛舎を建設。本格的に肉牛生産ができる環境を整え、82年に土地の返還を勝ち取ります。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手になりました。土地を強制収用できるのは「適正且(か)つ合理的であるとき」と定めた駐留軍用地特別措置法を空文化する状況をつくり出したからです。
池原秀明さんが手作業で開墾し、返還を勝ち取った土地。奥の建物が牛舎=沖縄市知花
基地共存できぬ
日本共産党に入党したのは67年。東京の大学に在学していた時でした。沖縄に帰郷後、米軍の毒ガス撤去を求める中で沖縄人民党の人と知り合い、活動をともにするように。
86年から共産党沖縄市議を8期。昨年、勇退するまで務めました。「嘉陽宗儀さん(元党県議)たち先輩に育てられ、住民の相談相手になることを心掛けてきた」。住民の利益増進に尽くし、基地のない平和な沖縄をめざしたたかってきました。
68年に米軍の戦略爆撃機B52が嘉手納基地内で墜落し、大爆発。数キロ離れた実家で爆音を聞いた生後3カ月の長男はその後数年間、爆音のたび恐怖で泣きだしたといいます。「94年にもF15戦闘機が墜落し、うちの牛舎に残骸が飛び込んできました。いつ犠牲になるか分からない状況は今も同じです。基地とは共存できないことを訴え続けなければ」(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2023年11月5日付掲載
日中は県の職員として農業指導に従事。県庁から帰って毎晩遅くまで米軍の目をかいくぐり、土地を耕しました。
池原さんは1971年12月に結成された反戦地主会のメンバーの一人。反戦地主は基地に土地を提供する契約を拒み、軍用地主に支払われる賃料を受け取らない人たち。
軍用地として収用されながら未使用だった土地を、十分な収益を見通せる農地に変えたことが返還の決め手に。
粘り強さですね。