国宝 阿修羅展が上野の国立博物館・平成館で開催中!
おそるべし リアリズム
国宝 阿修羅展
あの憂い顔の少年-阿修羅(あしゅら)像。代表的な日本の仏像として広く親しまれている名品(脱活乾漆造、高さ153cm、734年)です。
奈良・興福寺国宝館で常設陳列のこの像が、同寺創建1300年記念として、ほかの八部衆(仏を守護する神)や十大弟子などと共に東京国立博物館で公開中です。
造形作品として見やすい条件下で鑑賞できます。もっとも、大人気で混雑しているので、夕刻または夜間開館時がおすすめですが。
「修羅場」という言葉が示すように、元来、アスラはインド神話最高神のインドラ(帝釈天)に対抗する武闘派の鬼神です。ところが、釈迦(しゃか)の教化で仏教守護の善神になるのです。
ほかの八部衆がみな鎧(よろい)を着装しているのに、《阿修羅》のみ上半身裸で、さらに最大の特徴は三面六臂(さんめんろっぴ=顔が三つ、腕が6本)であること。異形であるのに不思議にバランスのとれた調和した身体です。会場では、高い位置から遠く一望できます。腕が空間を支配し、胴体は金色に輝き、陰は朱色に染まるかのようです。
ひそめた眉(まゆ)の下の目は、仏像一般の細い切れ長の目とは全然違い、人の目のようになまなましい。厚ぼったい下まぶたのせいで、涙ぐむとも見えますが、視線は強い。黒い口紅のようになまめく口ひげ(着色は鎌倉時代)、生命力にはずむ豊かなほおの盛り上がり。耐えぬき考えぬいて、不動の決心に至ろうと努力する様子。忍耐と集中、せつなさと慈しみの情。複合的な、とても奥深い表情なのです。
なお3面ながら耳は四つ。左右の脇の面には奥に一つのみで、正面だけ正常に二つです。この造形的処理が均整のとれた簡明な形態である理由でしょう。
不思議な臨場感
八部衆の残り7体のうち、見上げる視線の幼児《沙羯羅(さから)》も魅力的。さらに、鳥頭の《迦楼羅(かるら)》(インドではガルダ)に注目。大胆なくちばし(とさかは欠損)、凝視するまん丸の目、そして鳥特有のキョトキョトした動きを連想させるポーズ。怪奇像なのに不思議な臨場感があります。
十大弟子は、釈迦に従った高徳の僧。若い《須菩提(すぽだい)》から老年の《富楼那(ふるな)》まで現存6体です。
実物を前に気づくのは、どれも鼻に穴はない。口もと周辺が左右均等でなく、ゆがんだのも多い。
サンダルばきの足の甲はほとんど扁平(へんぺい)。後頭部から首、背にかけてのラインは直線的で単調。これらは乾漆技法のせいでしょうか?
会場で耳にした声。
「まるでアメ横あたりのおじさんだわね」-歯の欠けた《迦旃延(かせんえん)》の前で。「お年を召していらっしゃる」-あばら骨の見える《富楼那》に生身の人に対するように。
奇跡のように人間くさい造形。おそるべし天平のリアリズム!と言いたい気がします。八部衆と十大弟子の迫力に圧倒されて、鎌倉期の諸仏(作者が運慶と明らかになった如来像頭部は興味深いけれど)や伝橘夫人念持仏(法隆寺蔵)など、ほかの展示品もかすんでしまいそう。
興福寺は藤原氏の氏寺です。八部衆と十大弟子は藤原不比等の娘、光明皇后の発願によって経典「金光明最勝王経」に基づいて作られた、釈迦の説法集会の諸像です。貧窮者、病者、孤児救済施設を設けたことで知られる光明皇后が、亡き母・橘夫人追福のため造営したのですo仏教を国家宗教化する公的な面と母親孝行という私的な面、また女性の信仰の問題なども考えさせられます。教義上の格でいえば阿修羅は下位の仏ですが、この像は過去の罪業を見つめ、現世の不幸、不運を背負って、そして清純さを失わないでいる、造形芸術史上、最高格の作品ではないでしょうか。
(おおい・けんじ広島市立大学教授・美術評論)
「国宝 阿修羅展」は、6月7日まで東京国立博物館(上野)・平成館で開催。
問い合わせ先:03(5777)8600 ハローダイヤル。
7月14日~9月27日、九州国立博物館へ巡回。
【しんぶん赤旗日曜版 2009年5月3日付けより転載】
おそるべし リアリズム
国宝 阿修羅展
あの憂い顔の少年-阿修羅(あしゅら)像。代表的な日本の仏像として広く親しまれている名品(脱活乾漆造、高さ153cm、734年)です。
奈良・興福寺国宝館で常設陳列のこの像が、同寺創建1300年記念として、ほかの八部衆(仏を守護する神)や十大弟子などと共に東京国立博物館で公開中です。
造形作品として見やすい条件下で鑑賞できます。もっとも、大人気で混雑しているので、夕刻または夜間開館時がおすすめですが。
「修羅場」という言葉が示すように、元来、アスラはインド神話最高神のインドラ(帝釈天)に対抗する武闘派の鬼神です。ところが、釈迦(しゃか)の教化で仏教守護の善神になるのです。
ほかの八部衆がみな鎧(よろい)を着装しているのに、《阿修羅》のみ上半身裸で、さらに最大の特徴は三面六臂(さんめんろっぴ=顔が三つ、腕が6本)であること。異形であるのに不思議にバランスのとれた調和した身体です。会場では、高い位置から遠く一望できます。腕が空間を支配し、胴体は金色に輝き、陰は朱色に染まるかのようです。
ひそめた眉(まゆ)の下の目は、仏像一般の細い切れ長の目とは全然違い、人の目のようになまなましい。厚ぼったい下まぶたのせいで、涙ぐむとも見えますが、視線は強い。黒い口紅のようになまめく口ひげ(着色は鎌倉時代)、生命力にはずむ豊かなほおの盛り上がり。耐えぬき考えぬいて、不動の決心に至ろうと努力する様子。忍耐と集中、せつなさと慈しみの情。複合的な、とても奥深い表情なのです。
なお3面ながら耳は四つ。左右の脇の面には奥に一つのみで、正面だけ正常に二つです。この造形的処理が均整のとれた簡明な形態である理由でしょう。
八部衆の残り7体のうち、見上げる視線の幼児《沙羯羅(さから)》も魅力的。さらに、鳥頭の《迦楼羅(かるら)》(インドではガルダ)に注目。大胆なくちばし(とさかは欠損)、凝視するまん丸の目、そして鳥特有のキョトキョトした動きを連想させるポーズ。怪奇像なのに不思議な臨場感があります。
十大弟子は、釈迦に従った高徳の僧。若い《須菩提(すぽだい)》から老年の《富楼那(ふるな)》まで現存6体です。
実物を前に気づくのは、どれも鼻に穴はない。口もと周辺が左右均等でなく、ゆがんだのも多い。
サンダルばきの足の甲はほとんど扁平(へんぺい)。後頭部から首、背にかけてのラインは直線的で単調。これらは乾漆技法のせいでしょうか?
会場で耳にした声。
「まるでアメ横あたりのおじさんだわね」-歯の欠けた《迦旃延(かせんえん)》の前で。「お年を召していらっしゃる」-あばら骨の見える《富楼那》に生身の人に対するように。
奇跡のように人間くさい造形。おそるべし天平のリアリズム!と言いたい気がします。八部衆と十大弟子の迫力に圧倒されて、鎌倉期の諸仏(作者が運慶と明らかになった如来像頭部は興味深いけれど)や伝橘夫人念持仏(法隆寺蔵)など、ほかの展示品もかすんでしまいそう。
興福寺は藤原氏の氏寺です。八部衆と十大弟子は藤原不比等の娘、光明皇后の発願によって経典「金光明最勝王経」に基づいて作られた、釈迦の説法集会の諸像です。貧窮者、病者、孤児救済施設を設けたことで知られる光明皇后が、亡き母・橘夫人追福のため造営したのですo仏教を国家宗教化する公的な面と母親孝行という私的な面、また女性の信仰の問題なども考えさせられます。教義上の格でいえば阿修羅は下位の仏ですが、この像は過去の罪業を見つめ、現世の不幸、不運を背負って、そして清純さを失わないでいる、造形芸術史上、最高格の作品ではないでしょうか。
(おおい・けんじ広島市立大学教授・美術評論)
「国宝 阿修羅展」は、6月7日まで東京国立博物館(上野)・平成館で開催。
問い合わせ先:03(5777)8600 ハローダイヤル。
7月14日~9月27日、九州国立博物館へ巡回。
【しんぶん赤旗日曜版 2009年5月3日付けより転載】
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