月の満ち欠けと行事③ 7日目の月、上弦
別名は弓張月
夕暮れ、月は南の空に円を垂直に切った形で、右半分を輝かせています。この月は深夜西に沈む頃には傾いて、直線部分が上にきます。月を弓に見立てると、弦が上になるので上弦の月といい、別名は弓張月(ゆみはりづき)、舟にも例えられます。
七夕
この7日目の行事が「七夕」。江戸時代の五節句の一つでは「しちせき」と読んでいました。
七夕の行事はいくつかの流れが集まってできあがったといわれています。
牽牛星(けんぎゅうせい)(鷲座の星アルタイル)と織女星(しゅくじょせい)(琴座の星ヴェガ)が天の川をへだてて接近するので、年に一度の逢瀬に例えて、さまざまな空想伝説が生まれました。その一つが、二つの星が願いをかなえて会えることから、乞巧奠(きこうでん)という中国伝来の祭りが生まれました。巧みを乞う奠(祭り)の意味で、女子が機織りなどの手芸に上達することを祈りました。
これには、さらに源流があり、海や川、池の縁に棚を作り、その上で乙女が神を迎えるために機を織り、禊(みそぎ)をしました。7日に神はけがれを持ち去るという祭りで、乙女は「棚機つ女(たなばたつめ)」と呼ばれ、「織女星」「たなばた」に結びつきました。これらに、日本古来の7月7日の「盆初め」「七日盆」の行事も加わりました。
青森地方の「ねぶた(ねぷた)祭り」も睡魔のねぶた(ねぷた)を水に流したのが始まりとされます。各地では、この日に人や牛馬が水を浴び、井戸さらえなどを行いましたが、これらはけがれを水に流すという日本固有の習俗でした。
中国の星祭りは奈良時代の宮廷に伝えられ、『万葉集』にも二星の歌が多く詠まれています。
「たなばた」は江戸時代に武家の風習となり、やがて庶民にも広まりました。寺子屋による手習いの普及が、6日に硯を洗い、手習いや手芸の上達の願いを短冊に書いて笹竹につるして、軒端に立てるようになりました。
現在、学校で習字の授業が少なくなり、笹竹も近所から消え、子どもたちが七夕飾りを手作りする風習は急速に衰えてきました。一方、商店街では人集めの七夕祭りが賑わいを見せています。今年の旧暦7月7日は、新暦の8月13日に当たり、七夕は立秋(新暦8月7日)直後の季節の変わり目の行事です。
七夕の準備をする子どもたち
9日目の月
9日目の月は上弦の月から、2日しか経っていないのに、ふっくらとし、明るく見えます。陽が沈む前に見えることもあり、日の入りには南の空から東に寄った位置にいます。陰陽説では九は陽の極まる縁起のいい数で、九の重なる9月9日は重陽の日、重九(ちょうく)の日とされ、五節句の中でももっともめでたく、菊節句とも呼ばれました。
菊の花びらを摘む
重陽の日
昔、中国は河南省の南陽の地に、菊が咲きつめているところを潜って流れ出る谷川があり、その水は甘く、飲めば、気を益し長寿を保つといわれていました。
菊は中国が原産で、黄色の菊が尊ばれ、薬草とされていました。大和時代に日本に伝わりますが、観賞用として栽培されるのは、平安時代の『古今集』の頃で、旧暦9月9日に中国に倣った「菊花の宴」が盛んに催されました。
宴では、天皇より群臣が菊の花びらを浸した杯「菊酒」を賜り、長寿を祝う儀式でした。菊の花に綿をひと晩かぶせ(菊の被綿(きせわた))、翌朝、その移り香や露を含んだ綿で身体を拭うと長寿を保つとされました。鎌倉時代には、将軍に臣下が菊を献上するだけで、菊花の宴は行われませんでした。
江戸時代、五節句の一つになると、江戸城に諸大名が集まり、祝の品を将軍に献上して、祝ったとされます。江戸時代中期の元禄の頃から、武士の間で菊の栽培が流行し、江戸、京都で新品種が盛んに開発されました。菊人形の見世物が行われるのは、江戸も後期です。民間でも、菊酒を飲み、栗飯を食べて祝ったそうですが、他のご節句に比べると娯楽性が乏しく、気取りがあるため、民間行事として浸透していません。
ところが、旧暦の9月(新暦の10月)は、収穫後の秋祭りの季節です。9日に「御」を付けて、「おくんち」と呼び、重陽のめでたさにあやかる民間の「祭日」になりました。九州では「おくんち」が盛んですが、東北では収穫が遅くなるため、末の29日を三九日「みくにち」といって、収穫祭を行っています。めでたい重陽は秋祭りの呼び名として残っています。
(イラストも)(暦の会会員、暦カレンダー製作会社代表)
(金曜掲載)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年1月18日付掲載
月に交わって、いろんな行事があるんですね。七夕まつりも7日月(上弦の月・半月・ハーフムーン)の日の行事なんですね。
別名は弓張月
夕暮れ、月は南の空に円を垂直に切った形で、右半分を輝かせています。この月は深夜西に沈む頃には傾いて、直線部分が上にきます。月を弓に見立てると、弦が上になるので上弦の月といい、別名は弓張月(ゆみはりづき)、舟にも例えられます。
七夕
この7日目の行事が「七夕」。江戸時代の五節句の一つでは「しちせき」と読んでいました。
七夕の行事はいくつかの流れが集まってできあがったといわれています。
牽牛星(けんぎゅうせい)(鷲座の星アルタイル)と織女星(しゅくじょせい)(琴座の星ヴェガ)が天の川をへだてて接近するので、年に一度の逢瀬に例えて、さまざまな空想伝説が生まれました。その一つが、二つの星が願いをかなえて会えることから、乞巧奠(きこうでん)という中国伝来の祭りが生まれました。巧みを乞う奠(祭り)の意味で、女子が機織りなどの手芸に上達することを祈りました。
これには、さらに源流があり、海や川、池の縁に棚を作り、その上で乙女が神を迎えるために機を織り、禊(みそぎ)をしました。7日に神はけがれを持ち去るという祭りで、乙女は「棚機つ女(たなばたつめ)」と呼ばれ、「織女星」「たなばた」に結びつきました。これらに、日本古来の7月7日の「盆初め」「七日盆」の行事も加わりました。
青森地方の「ねぶた(ねぷた)祭り」も睡魔のねぶた(ねぷた)を水に流したのが始まりとされます。各地では、この日に人や牛馬が水を浴び、井戸さらえなどを行いましたが、これらはけがれを水に流すという日本固有の習俗でした。
中国の星祭りは奈良時代の宮廷に伝えられ、『万葉集』にも二星の歌が多く詠まれています。
「たなばた」は江戸時代に武家の風習となり、やがて庶民にも広まりました。寺子屋による手習いの普及が、6日に硯を洗い、手習いや手芸の上達の願いを短冊に書いて笹竹につるして、軒端に立てるようになりました。
現在、学校で習字の授業が少なくなり、笹竹も近所から消え、子どもたちが七夕飾りを手作りする風習は急速に衰えてきました。一方、商店街では人集めの七夕祭りが賑わいを見せています。今年の旧暦7月7日は、新暦の8月13日に当たり、七夕は立秋(新暦8月7日)直後の季節の変わり目の行事です。
七夕の準備をする子どもたち
9日目の月
9日目の月は上弦の月から、2日しか経っていないのに、ふっくらとし、明るく見えます。陽が沈む前に見えることもあり、日の入りには南の空から東に寄った位置にいます。陰陽説では九は陽の極まる縁起のいい数で、九の重なる9月9日は重陽の日、重九(ちょうく)の日とされ、五節句の中でももっともめでたく、菊節句とも呼ばれました。
菊の花びらを摘む
重陽の日
昔、中国は河南省の南陽の地に、菊が咲きつめているところを潜って流れ出る谷川があり、その水は甘く、飲めば、気を益し長寿を保つといわれていました。
菊は中国が原産で、黄色の菊が尊ばれ、薬草とされていました。大和時代に日本に伝わりますが、観賞用として栽培されるのは、平安時代の『古今集』の頃で、旧暦9月9日に中国に倣った「菊花の宴」が盛んに催されました。
宴では、天皇より群臣が菊の花びらを浸した杯「菊酒」を賜り、長寿を祝う儀式でした。菊の花に綿をひと晩かぶせ(菊の被綿(きせわた))、翌朝、その移り香や露を含んだ綿で身体を拭うと長寿を保つとされました。鎌倉時代には、将軍に臣下が菊を献上するだけで、菊花の宴は行われませんでした。
江戸時代、五節句の一つになると、江戸城に諸大名が集まり、祝の品を将軍に献上して、祝ったとされます。江戸時代中期の元禄の頃から、武士の間で菊の栽培が流行し、江戸、京都で新品種が盛んに開発されました。菊人形の見世物が行われるのは、江戸も後期です。民間でも、菊酒を飲み、栗飯を食べて祝ったそうですが、他のご節句に比べると娯楽性が乏しく、気取りがあるため、民間行事として浸透していません。
ところが、旧暦の9月(新暦の10月)は、収穫後の秋祭りの季節です。9日に「御」を付けて、「おくんち」と呼び、重陽のめでたさにあやかる民間の「祭日」になりました。九州では「おくんち」が盛んですが、東北では収穫が遅くなるため、末の29日を三九日「みくにち」といって、収穫祭を行っています。めでたい重陽は秋祭りの呼び名として残っています。
(イラストも)(暦の会会員、暦カレンダー製作会社代表)
(金曜掲載)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2013年1月18日付掲載
月に交わって、いろんな行事があるんですね。七夕まつりも7日月(上弦の月・半月・ハーフムーン)の日の行事なんですね。
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