社会保障と新自由主義② 「必要充足」から逸脱
神戸大学名誉教授 二宮厚美さん
―新自由主義の政策は、社会保障制度をどのように変質させてきたのでしょうか。
日本の社会保障が本来どんな原則で成立しているかという点は、明確にいえます。憲法25条で生存権を保障する国の責任が規定されているからです。
一言でいえば、「必要充足・応能負担原則」です。給付は生存のための必要に応じて保障し、負担は支払い能力に応じて課すという原則です。新自由主義はこれを「私的欲求充足・応益負担原則」に変えます。両者の違いを対比しながら説明してみましょう。
日本の公的医療制度では、患者は自己の私的欲求に基づいて医療サービスを選ぶのではありません。医師が病気を診断し、健康のために必要と判断した治療を、患者の合意に基づいて提供します。給付が保障されるのは現金ではなく、医療行為の現物です。医師が必要と認め、保険診療に含まれる治療法であれば、費用がいくらかかっても施せるし、施さなければなりません。
必要充足原則に基づくと、必要なサービスは、現物の形で保障されなければならないのです。重要なのは、金額の上限を設けないということです。現物給付原則といいます。
保育や教育や福祉でも原則は同じです。例えば、生活保護の生活扶助費は、現金で支給されますが、その金額は日常生活に必要な食費・被服費・光熱費などを綿密に計算して決定されています。
「高齢者医療費2倍化法案を止めよう」とアピールする人たち=6月1日、参院議員会館前
給付に上限設定
新自由主義は、これを現金給付方式に変えることで、必要充足原則から逸脱します。典型が介護保険制度です。保険給付に金額で上限を設けたのです。
要介護度5の人であれば、月額約36万円まで保険サービスを使うことができ、自己負担額を除いた費用が保険から給付されます。保障されるのは現物のサービスではなく、一定額の現金なのです。36万円を超えるサービスについては全額自己負担になる一方、介護保険のメニューにないサービスも、自己負担で自由に併用できる仕組みです。
これでは、必要な介護が保障されません。重度の要介護者の場合、人間的な生活保障には月々60万~80万円程度の介護給付が必要だというのが常識です。それを36万円で打ち切る。それ以上のサービスについては、対価を支払える人だけが、専門家の判断によらず、私的欲求を満たす形で使えばよいという仕組みなのです。「私的欲求充足・応益負担原則」と呼ぶ理由です。
利益に応じて負担する「応益負担」とは、実は、市場取引の原則です。この原則に基づき、公的医療・介護の自己負担割合は2~3割に引き上げられてきました。こうした新自由主義的な社会保障改革が必要充足原則を壊し、医療・介護難民を生み出しています。
絶望郷を夢見る
―究極の現金給付方式がベーシック・インカムですね。
新自由主義の元祖ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」はベーシック・インカムの原型とされ、新自由主義派が夢見る制度です。国民に一定額の最低所得を保障するかわりに、あらゆる社会サービスを現金給付に一本化し、それでおしまいにしてしまう。必要なサービスは市場で買いなさいとなる。生存に必要な現物給付を国家が保障する必要がなくなり、給付額の上限が確定するので、社会保障費の圧縮をめざす新自由主義のユートピア(理想郷)となっています。
フリードマンは「老齢扶助、社会保障給付の支払い、扶養児童手当、一般援助、農産物価格支持制度、公営住宅」などを現金給付に一本化すれば、現状の「半分以下の費用ですむ」(『資本主義と自由』)と主張しました。多くの国民にとっては、生きるために必要な手術も受けられないディストピア(絶望郷)となるでしょう。
理論的には、新自由主義的ではないベーシック・インカムも考えられます。例えば、高齢者向けの最低保障年金はその一種で、実現すべき課題です。
しかし、日本維新の会などの新自由主義派が唱えるベーシック・インカムは、フリードマンの構想に近づけて社会保障を縮小する方向です。部分的に導入する構想でも、必要充足原則を破壊し、生活保護を切り詰めるなどの効果を発揮することに警戒が必要です。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年12月16日付掲載
日本の公的医療制度では、患者は自己の私的欲求に基づいて医療サービスを選ぶのではありません。医師が病気を診断し、健康のために必要と判断した治療を、患者の合意に基づいて提供します。医師が必要と認め、保険診療に含まれる治療法であれば、費用がいくらかかっても施せるし、施さなければなりません。重要なのは、金額の上限を設けないということです。現物給付原則といいます。
保育や教育や福祉でも原則は同じです。
新自由主義は、これを現金給付方式に変えることで、必要充足原則から逸脱。私的欲求充足・応益負担原則です。
神戸大学名誉教授 二宮厚美さん
―新自由主義の政策は、社会保障制度をどのように変質させてきたのでしょうか。
日本の社会保障が本来どんな原則で成立しているかという点は、明確にいえます。憲法25条で生存権を保障する国の責任が規定されているからです。
一言でいえば、「必要充足・応能負担原則」です。給付は生存のための必要に応じて保障し、負担は支払い能力に応じて課すという原則です。新自由主義はこれを「私的欲求充足・応益負担原則」に変えます。両者の違いを対比しながら説明してみましょう。
日本の公的医療制度では、患者は自己の私的欲求に基づいて医療サービスを選ぶのではありません。医師が病気を診断し、健康のために必要と判断した治療を、患者の合意に基づいて提供します。給付が保障されるのは現金ではなく、医療行為の現物です。医師が必要と認め、保険診療に含まれる治療法であれば、費用がいくらかかっても施せるし、施さなければなりません。
必要充足原則に基づくと、必要なサービスは、現物の形で保障されなければならないのです。重要なのは、金額の上限を設けないということです。現物給付原則といいます。
保育や教育や福祉でも原則は同じです。例えば、生活保護の生活扶助費は、現金で支給されますが、その金額は日常生活に必要な食費・被服費・光熱費などを綿密に計算して決定されています。
「高齢者医療費2倍化法案を止めよう」とアピールする人たち=6月1日、参院議員会館前
給付に上限設定
新自由主義は、これを現金給付方式に変えることで、必要充足原則から逸脱します。典型が介護保険制度です。保険給付に金額で上限を設けたのです。
要介護度5の人であれば、月額約36万円まで保険サービスを使うことができ、自己負担額を除いた費用が保険から給付されます。保障されるのは現物のサービスではなく、一定額の現金なのです。36万円を超えるサービスについては全額自己負担になる一方、介護保険のメニューにないサービスも、自己負担で自由に併用できる仕組みです。
これでは、必要な介護が保障されません。重度の要介護者の場合、人間的な生活保障には月々60万~80万円程度の介護給付が必要だというのが常識です。それを36万円で打ち切る。それ以上のサービスについては、対価を支払える人だけが、専門家の判断によらず、私的欲求を満たす形で使えばよいという仕組みなのです。「私的欲求充足・応益負担原則」と呼ぶ理由です。
利益に応じて負担する「応益負担」とは、実は、市場取引の原則です。この原則に基づき、公的医療・介護の自己負担割合は2~3割に引き上げられてきました。こうした新自由主義的な社会保障改革が必要充足原則を壊し、医療・介護難民を生み出しています。
絶望郷を夢見る
―究極の現金給付方式がベーシック・インカムですね。
新自由主義の元祖ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」はベーシック・インカムの原型とされ、新自由主義派が夢見る制度です。国民に一定額の最低所得を保障するかわりに、あらゆる社会サービスを現金給付に一本化し、それでおしまいにしてしまう。必要なサービスは市場で買いなさいとなる。生存に必要な現物給付を国家が保障する必要がなくなり、給付額の上限が確定するので、社会保障費の圧縮をめざす新自由主義のユートピア(理想郷)となっています。
フリードマンは「老齢扶助、社会保障給付の支払い、扶養児童手当、一般援助、農産物価格支持制度、公営住宅」などを現金給付に一本化すれば、現状の「半分以下の費用ですむ」(『資本主義と自由』)と主張しました。多くの国民にとっては、生きるために必要な手術も受けられないディストピア(絶望郷)となるでしょう。
理論的には、新自由主義的ではないベーシック・インカムも考えられます。例えば、高齢者向けの最低保障年金はその一種で、実現すべき課題です。
しかし、日本維新の会などの新自由主義派が唱えるベーシック・インカムは、フリードマンの構想に近づけて社会保障を縮小する方向です。部分的に導入する構想でも、必要充足原則を破壊し、生活保護を切り詰めるなどの効果を発揮することに警戒が必要です。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年12月16日付掲載
日本の公的医療制度では、患者は自己の私的欲求に基づいて医療サービスを選ぶのではありません。医師が病気を診断し、健康のために必要と判断した治療を、患者の合意に基づいて提供します。医師が必要と認め、保険診療に含まれる治療法であれば、費用がいくらかかっても施せるし、施さなければなりません。重要なのは、金額の上限を設けないということです。現物給付原則といいます。
保育や教育や福祉でも原則は同じです。
新自由主義は、これを現金給付方式に変えることで、必要充足原則から逸脱。私的欲求充足・応益負担原則です。
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