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怪童と呼ばれた男(尾崎行雄)

2013-06-20 18:41:13 | 他スポーツ
先日、東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)の元エース、尾崎行雄さんの訃報がありました。尾崎行雄の時代は私は生まれていないので、新聞報道と記録面の情報ですが書きます。尾崎行雄は大阪の浪商高校の出身で、高校を中退してのプロ入りでした。

今だと高校を中退させての入団は世論の反発を招きそうですが、当時はドラフト制度もできておらず、金銭をちらつかせば高校を中退する決断をするのはわからないでもありません。尾崎行雄が伝説に残っているのは1年目から活躍したのも理由でしょう。

尾崎行雄のピッチングフォームも独特でした。両腕を後ろに振って勢いをつける投げ方は、当時ロッキングチェアに引っ掛けて「ロッキングモーション」と呼ばれました。最近の選手では野茂英雄のトルネード投法が近いですが、こういう勢いをつける投げ方は、どうやって盗塁を防ぐかは重要です。

野茂英雄の場合は、ひねらないで投げることもできて、クイックもやっていましたが、それでもメジャーの俊足選手は盗塁を挑んできました。尾崎行雄のランナーを出したときの映像は見たことがありませんが、クイックができないと通算103勝はあり得ないでしょう。

当時はスピードガンのない時代でしたから、尾崎行雄のストレートの威力は伝聞に頼るしかありませんが、当時チームメイトだった張本勲氏によれば「150kmは出ていた」そうです。力勝負でねじ伏せることができた豪腕投手でした。

もっとも、当時のプロ野球は、「優勝するためにはエースを一人潰さないといけない」という投手受難の時代でした。当時中日ドラゴンズのエースだった権藤博さんの酷使を表す言葉に「権藤、権藤、雨、権藤」と言われたほどです。尾崎行雄もこの酷使で、選手生命は短く、プロには10年在籍しましたが実働(一軍登板)はわずか6年と、彗星のように消えることになりました。

それでも、怪童と呼ばれた豪腕投手だったことで、歴史には確実に名を刻みました。この時代を無事にくぐり抜けたのは400勝した金田政一さんだけという厳しい時代でした。今の時代ならローテーションで大事に使われただろうと思うと残念な思いもあります。

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