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記憶ネタは、あっという間に出世して、当時「平成の怪物」と呼ばれた元大関武双山の記憶です。武双山は、茨城県相撲連盟理事長で国体11回出場という父親の元で育った「親子鷹」です。専修大学を中退して入った相撲界で幕下最下位格付け出しでデビューし、2場所連続7戦全勝優勝で無敗のまま十両昇進を果たすと、幕内にもざんばら髪のままで定着した出世の早さが印象的です。
幕下2場所、十両2場所というスピード出世だった故、新人が研修を受ける「相撲教習所」をまだ卒業しておらず、教習所の卒業式に幕内で出た史上初の力士となります。しかも、上位初挑戦だった1994年初場所で、いきなり横綱曙を倒す金星を得て、小結を通り越して関脇に昇進し、初土俵から関脇まで8場所という驚異的な記録も作っています。
相撲は押し相撲でした。固太りの体質で無理に体重を増やしていなかったのが良く、おっつけから低く押す相撲で当時の上位陣に対しての脅威でした。それでも、武双山といえばなかなか関脇の壁を破れない力士でした。持病でもあった肩の亜脱臼や、足の指が反り上がって足袋で強引に矯正しないと相撲が取れないハンデがあり、苦しんだ時期でした。
それでも、後輩千代大海の大関昇進は、当時関脇で足止めを食らっていた魁皇と武双山にとって大いに刺激になりました。武双山の唯一の優勝は関脇時代で13勝2敗です。この優勝と次の場所の12勝が効いて、6年にわたる足止めからついに大関に昇進します。それでも、新大関の場所を全休し翌場所も負け越して関脇に一旦は陥落します。
その翌場所で、執念の相撲を見せて10勝5敗の成績を挙げて大関に復帰しましたが、その後は大関を守るのがやっとの内容で、ついに大関としては優勝ゼロに終わります。それでも、人望は厚かったようで、元三重ノ海の武蔵川親方から部屋を譲り受けて「藤島部屋」を持ち、審判部副部長の要職も務めています。怪物と呼ばれた人物としては物足りない印象もありますが、この世代の横綱が相次いで相撲界を去っており次期理事長候補なのではと期待しています。
幕下2場所、十両2場所というスピード出世だった故、新人が研修を受ける「相撲教習所」をまだ卒業しておらず、教習所の卒業式に幕内で出た史上初の力士となります。しかも、上位初挑戦だった1994年初場所で、いきなり横綱曙を倒す金星を得て、小結を通り越して関脇に昇進し、初土俵から関脇まで8場所という驚異的な記録も作っています。
相撲は押し相撲でした。固太りの体質で無理に体重を増やしていなかったのが良く、おっつけから低く押す相撲で当時の上位陣に対しての脅威でした。それでも、武双山といえばなかなか関脇の壁を破れない力士でした。持病でもあった肩の亜脱臼や、足の指が反り上がって足袋で強引に矯正しないと相撲が取れないハンデがあり、苦しんだ時期でした。
それでも、後輩千代大海の大関昇進は、当時関脇で足止めを食らっていた魁皇と武双山にとって大いに刺激になりました。武双山の唯一の優勝は関脇時代で13勝2敗です。この優勝と次の場所の12勝が効いて、6年にわたる足止めからついに大関に昇進します。それでも、新大関の場所を全休し翌場所も負け越して関脇に一旦は陥落します。
その翌場所で、執念の相撲を見せて10勝5敗の成績を挙げて大関に復帰しましたが、その後は大関を守るのがやっとの内容で、ついに大関としては優勝ゼロに終わります。それでも、人望は厚かったようで、元三重ノ海の武蔵川親方から部屋を譲り受けて「藤島部屋」を持ち、審判部副部長の要職も務めています。怪物と呼ばれた人物としては物足りない印象もありますが、この世代の横綱が相次いで相撲界を去っており次期理事長候補なのではと期待しています。
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