毎田周一全集・第十二巻より
真宗では「聞」の一字が大切ですと、利いた風なことを言う奴が、
では教行信証を読みなさいといへば、
とても難しくてよめませんといふ。
教行信証を「よむこと」が、聖人の仰せを、
外ならぬ、「聞くこと」ですよ。
読むことが聞くことである。
これを心肝に銘じよである。
カウンセリング研究会【くりのみ】では、
教行信証の音読を大事にしています。
~1月の学習会~
日時:1月18日(土)午後2時~4時
場所:タワーホール船堀
会費:500円
ぜひ、お出かけください。
毎田周一師の言葉(全集九巻より)
この世になすことがなくなって、
始めて本当の仕事が出てくる。
数え八十歳の爺です。
「さて?」
なむ ナム
毎田周一全集 第十巻から
「急ぐといふことの中には
必ず誤りが含まれてゐる」
(これはわが旧師の言葉)
「悠々として
真実の道を歩め」
本日(12/24)午前、
かかり付けの病院にでかけて、
胆管に挿入してあったステントを内視鏡で抜いていただきました。
9/28(土)早朝、急性胆嚢炎の激痛で、救急車で搬送していただきました。
即、ドレナージと点滴。絶食からの食事療法が始まりました。
10/20(土) 容体も落ち着き仮退院。二週間程の自宅養生後、内視鏡手術で胆嚢全摘の予定。
10/22(火) 早朝、激しい腹痛で再入院。
胆管にステント挿入。点滴と絶食からの食事療法。
11/4(月) 仮退院。自宅での養生。
12/5(木) 午後、再入院。
12/6(金) 9時~11時30分 腹腔鏡手術で胆嚢全摘。
12/9(月) 退院
12/24(火) 内視鏡で胆管のステントを抜く。
ようやく、日常が戻りました。
但し、体重が50㌔を切り、少し貧血気味。
年末年始は、養生に努めます。
主治医の遠◇先生、病院の皆様に感謝です。
毎田周一全集 第四巻(P563)から
即ち名号に於いて私達は自己を見る。
名号といふ真理の鏡に映された自己の姿を見る。
その時映された自己を見るものは、却って鏡自身であり、
真実の自己が見るのである。
称名によって起こる内省・自覚は、
そこに映された自己を見ることによって、
却って私達自身が真実の自己となることである。
真実の自己とは常に見られた自己の側にはなくて、見る自己の側にある。
今名号といふ真実の自己の鏡に映されて自己を見るとき、
この見る自己が真実の自己であり、それは鏡自身である。
そしてそれは私達自身である。
これが称名によって起こる内容・自覚といふことであって、
即ち私達が真実の自己となることである。
(略)
この見ることは鏡自身となること、真実の自己となることである。
真実の自己となって、苦悩の自己を見るのである。
真実の自己はこの苦悩の自己を摂取する。
摂取とはその苦悩自身をわがものとすることである。
共に苦悩することである。
こゝに於いて真実の自己は苦悩の自己となる。
即ち働くものとなる。
見ることによって働くのである。
そしてこれ又称名である。
称名は働くことによって見、見ることによって働く、
即ち行為的直観である。
毎田周一師の教示は、
名号は真実の鏡である。
真実の鏡には苦悩の自分が映される。
称名(なむあみだぶ)は、行為的直観として顕現される。
ということであろう。
「鏡」。
『大無量寿経』、法蔵菩薩の31・40誓願には、次の言葉が見られる。
『猶如明鏡 覩其面像』
「猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん」
「ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように」
また、道元さまの『正法眼蔵』には「古鏡」の巻があるのは承知していますが、まだ読んでいません。
新年に勉強です。
今晩(4/22)、新小岩の専福寺で開催の【顕真会】(聞法会)に出かけました。
講師は、加来雄之先生(仏教親鸞センター主任研究員)です。
偶数月開催で、今回は第8回目。
テーマ「この行に奉え、この信を崇めよ」で、
「総序」の講義でした。
『毎田周一全集』第十巻 より
私は念仏といふことを、こんな風に理解してゐる。
南無阿弥陀仏
(一) 南無とは、頭が下がるといふこと。
(二)阿弥陀とは、智慧限りなき永久なる生命。
(三)仏とは、自覚者。
つまり頭が下がって、智慧限りなき、
永久なる生命を、自覚せるもの、といふことである。
『毎田周一全集 第四巻』より
称名に於いて私達は自己を見る。
名号といふ真理の鏡に映された自己の姿を見る。
その時映された自己を見るものは、
却って鏡自身であり、真実の自己が見るのである。
称名によって起る内省・自覚は、
そこに映された自己を見ることにょって、
却って私達自身が真実の自己となることである。
真実の自己とは常に見られた自己の側にはなくして、
見る自己の側にある。
今名号といふ真実の自己の鏡に映されて自己を見るとき、
この見る自己が真実の自己であり、
それは鏡自身である。
そしてそれは私達自身である。
これが称名によって起こる内省・自覚といふことであって、
即ち私達が真実の自己となることである。
このようなことが起こるのは、
ひとへに名号が(自覚的真理として)
私達の真実の自己の表現であるからである。
そしてそれが称名されることに、
真実の自覚が起こるといふのも、
行為的直観によって起こるのである。
4月のカウンセリング研究会【くりのみ】のご案内
◆親鸞とカウンセリングコース
4月20日(土)午後14時~16時
◆道元とカウンセリングコース
4月26日(金)午後18時30分~20時30分
『毎田周一全集 第四巻』から
浄土論に曰く、
世尊、我れ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、
安楽国に生ぜんと願ず。
彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
究竟じて虚空の如し。
広大にして辺際無し、とのたまへり。已上
天親は、私は真理の前に、真実の前へ跪くといはれる。
そしてその真理・真実は、天親によって、
尽十方無碍光如来として把握されてゐる。
無碍光とは何処までも及んでゆく動的な光である。
碍りがないとは碍りを乗りこえてゆくといふことである。
この無碍に動性がある。
そして一方をこの無碍という言葉は碍りあることを前提し想定してゐる。
無碍とは碍りがあって碍りがないといふことである。
碍りがあってもそれが一向碍りとならぬをいふことである。
ところで碍りとは何であるか。
人間の煩悩である。
人間に煩悩があっても、それが一向邪魔とはならないといふ、
その脱落が無碍である。
むしろその煩悩が、動的な光の必須欠くべからざる要素なのである。
煩悩あることをそのまゝが光なのである。
むしろ煩悩あらしめる光である。
こゝに於いて光とは生命である。
無碍光は生命そのものである。
光は実は命の象徴なのである。
だから動的な光、光の動性といつたのである。
手元にある『毎田周一全集 第四巻』から。
『教行信証』
日本人の先ず読むべき書は『教行信証』ではないか。
こんな頓馬なことを、間抜けたことを、
今日漸くいひ出す私なのである。
仏教を、釈尊の教へを、真正面から、がっちりと受けとめられた、
我国に於ける第一人者の貫禄を示されたのが、
聖人の御本書ではないか。
釈尊に学ばんと欲する限り、日本人は同国の先人として、
聖人が最も深く、そしてまともに、
釈尊の真意を領受して居られる方だと見るべきではないか。
真に我国に仏教をあらしめた方、
日本仏教徒の代表者、
その聖人の領受された全仏教を、
その奧底まで示されたのが御本書ではないか。
かういうことをいへば、さういふことを今漸く気付き、
そしていふのかと笑ふ人もあるであろう。
しかし、これが私の日本の再発見であるなら仕方のないことである。
日本で先ず読むべき書は、『教行信証』である。
この書は日本文化を代表的に表現して居り、
日本人の心を奧底まで曝け出して示すものである。
日本及び日本文化を知ろうとする外国人にとっても、
先ず読むべきは、この書である。
また例えば我国の青年が先ず物心づいて、
何か書物も読みたいと思ふとき、
読むべきは御本書ではないか。
★月例のカウンセリング研究会【くりのみ】では、
『教行信証』の音読タイムを大事にしています。
日時:4/20 5/18 6/15 7/27 8/17
午後2時~4時
会場:タワーホール船堀
毎週木曜日、午前10時30分~11時は、
Zoom法音道場『仏説無量寿経』読誦&井戸端コース
を開催しています。
短時間(30分)ですし、
一般人が集う小さな学習会ですので、
内容は、ヨチヨチと『仏説無量寿経』読誦と井戸端になります。
明日(7/13)は、「三誓偈」を読誦の予定。
さて、このZoom法音道場は、知り合いの一般人がご参加です。
一般人ですから、仏教のことも経典のことも
これまでは無縁の方々。
ボクの誘いにのって、『仏説無量寿経』を手にしてくれるようになりました。
明日は、
毎田周一全集(第五巻)から次の文を紹介させてもらいます。
仏説無量寿経は生命の讃歌である。
私達の三毒・五悪の相を超えてゆく、生命飛躍の尖端を明かせる経である。
眼前一輪の薔薇に無量寿を直覚し得ない人は、
遂にこの経を読むも詮なき人である。
無量寿とは現実の生命そのものである。
この世界の事実が、
そのまゝ無量寿を語ってゐるのであって、
無量寿経とは現実の直視なりといってよい。
毎田周一全集 第5巻から。
「念仏と科学」
跪いて光明無量寿命無量なることを知る。これが念仏の意義である。
南無阿弥陀仏である。
跪くとは心を空しくしてもの見ることである。
己れなくしてものを見るといふことである。
そのとき物事のありのままの姿が見られる。
物事のありのまゝの姿とは、無限なる事物が階調をなして、
一大世界の交響楽を奏でてゐるといふことである。
唯一の和の世界、玄沙の所謂「尽十方世界一顆明珠」である。
この世界にあつて我等は、この世界によって生かしめられ、
又逆にこの世界に働きかけてこの世界を作る。
西田博士にいはるゝ如く、
我等は創造的世界の創造的要素として働くのである。
この世界として働くといふことを、無我ともいふのであろう。
無我の世界は創造的発展の世界である。
これを光明無量寿命無量として表はす。
南無すること、跪くこと、己を空しうすることは、
やがてこの発展的世界の内面的自覚である。
これを南無阿弥陀仏といふ、念仏といふ。
それ故に念仏者は、発展的創造的に働くものでなければならない。
念仏はそれ故に消極的退嬰的ではないのである。
(略)
釈尊によって発見せられ、二千五百年の歴史を通して鍛へ抜かれた念仏の真理と、
その金剛の如き偉大を、我々は讃へざるを得ない。
誰か知る、念仏が科学的精神として現に発展し活動しつゝあることを。
念仏の皮相を見て、
その真理性を知らざるもののみが、これをあざ笑ふのである。
(23.3.3)
カウンセリング研究会【くりのみ】
zoom法音道場
にお遊びください。
ご一緒に、お念仏をしましょう。