法音カウンセラー 釋 真聴 《日乗》

カウンセリング研究会《くりのみ》
ZOOM法音道場のご案内
主宰者の《日乗》

一道

2025年02月28日 22時47分26秒 | 毎田周一師の言葉

「毎田周一全集・第12巻」より

一道


念仏一つで助かるといふのは

簡単でよい
世界中にこんな教は
何処にもない

私もそれで助かる
人も助かる
あの人達も皆助かるのだと思へば
気が楽だ

やましいことを
あゝせねばかうせねばと
いふ人のあるにつけ
どこか微笑ましくなつてくる

何も特別な道があるのではない
人も私も同じに念仏して
共々に助かってゆくばかりだ
凡夫直入(ジキニュフ)の一道なのだ

*カウンセリング研究会【くりのみ】
*Zoom法音道場では、
親鸞さま、道元さまの教えにならっております。
ぜひ、お立ちよりください。

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「馬鹿は」

2025年02月12日 23時56分29秒 | 毎田周一師の言葉

「毎田周一全集 第十巻」 より

馬鹿は
お説教をしない

利口馬鹿が
お説教をする

馬鹿は馬鹿なり
身心脱落

脱落身心
この馬鹿よ

今週の土曜日(2/15)午後2時~4時
カウンセリング研究会【くりのみ】を開催します。

会 場:タワーホール船堀 301会議室
会 費:500円
内 容:正信偈、教行信証、井戸端(楽談タイム)

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「読むことが聞くことである」

2025年01月14日 23時12分08秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一全集・第十二巻より

真宗では「聞」の一字が大切ですと、利いた風なことを言う奴が、
では教行信証を読みなさいといへば、
とても難しくてよめませんといふ。
教行信証を「よむこと」が、聖人の仰せを、
外ならぬ、「聞くこと」ですよ。
読むことが聞くことである。
これを心肝に銘じよである。

カウンセリング研究会【くりのみ】では、
教行信証の音読を大事にしています。

~1月の学習会~
日時:1月18日(土)午後2時~4時
場所:タワーホール船堀
会費:500円

ぜひ、お出かけください。

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「さて?」

2025年01月03日 21時44分01秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉(全集九巻より)

この世になすことがなくなって、
始めて
本当の仕事が出てくる。

数え八十歳の爺です。
「さて?」

なむ ナム

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「悠々として・・・」

2024年12月24日 23時25分31秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一全集 第十巻から

「急ぐといふことの中には
 必ず誤りが含まれてゐる」
   (これはわが旧師の言葉)

「悠々として
 真実の道を歩め」

本日(12/24)午前、
かかり付けの病院にでかけて、
胆管に挿入してあったステントを内視鏡で抜いていただきました。
9/28(土)早朝、急性胆嚢炎の激痛で、救急車で搬送していただきました。
即、ドレナージと点滴。絶食からの食事療法が始まりました。
10/20(土) 容体も落ち着き仮退院。二週間程の自宅養生後、内視鏡手術で胆嚢全摘の予定。
10/22(火) 早朝、激しい腹痛で再入院。
       胆管にステント挿入。点滴と絶食からの食事療法。
11/4(月) 仮退院。自宅での養生。
12/5(木) 午後、再入院。
12/6(金) 9時~11時30分 腹腔鏡手術で胆嚢全摘。
12/9(月) 退院
12/24(火) 内視鏡で胆管のステントを抜く。

ようやく、日常が戻りました。
但し、体重が50㌔を切り、少し貧血気味。
年末年始は、養生に努めます。

主治医の遠◇先生、病院の皆様に感謝です。

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「真理の鏡」

2024年12月22日 22時54分38秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一全集 第四巻(P563)から

 即ち名号に於いて私達は自己を見る。
名号といふ真理の鏡に映された自己の姿を見る。
その時映された自己を見るものは、却って鏡自身であり、
真実の自己が見るのである。
称名によって起こる内省・自覚は、
そこに映された自己を見ることによって、
却って私達自身が真実の自己となることである。
 真実の自己とは常に見られた自己の側にはなくて、見る自己の側にある。
今名号といふ真実の自己の鏡に映されて自己を見るとき、
この見る自己が真実の自己であり、それは鏡自身である。
そしてそれは私達自身である。
これが称名によって起こる内容・自覚といふことであって、
即ち私達が真実の自己となることである。
 (略)
 この見ることは鏡自身となること、真実の自己となることである。
真実の自己となって、苦悩の自己を見るのである。
真実の自己はこの苦悩の自己を摂取する。
摂取とはその苦悩自身をわがものとすることである。
共に苦悩することである。
こゝに於いて真実の自己は苦悩の自己となる。

即ち働くものとなる。
見ることによって働くのである。
そしてこれ又称名である。
称名は働くことによって見、見ることによって働く、
即ち行為的直観である。

毎田周一師の教示は、
名号は真実の鏡である。
真実の鏡には苦悩の自分が映される。
称名(なむあみだぶ)は、行為的直観として顕現される。
ということであろう。

「鏡」。
『大無量寿経』、法蔵菩薩の31・40誓願には、次の言葉が見られる。
『猶如明鏡 覩其面像』
  「猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん」
  「ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように」

また、道元さまの『正法眼蔵』には「古鏡」の巻があるのは承知していますが、まだ読んでいません。
新年に勉強です。

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念仏

2024年04月22日 23時14分51秒 | 毎田周一師の言葉

今晩(4/22)、新小岩の専福寺で開催の【顕真会】(聞法会)に出かけました。
講師は、加来雄之先生(仏教親鸞センター主任研究員)です。
偶数月開催で、今回は第8回目。
テーマ「この行に奉え、この信を崇めよ」で、
「総序」の講義でした。


『毎田周一全集』第十巻 より

私は念仏といふことを、こんな風に理解してゐる。

南無阿弥陀仏
  (一)  南無とは、頭が下がるといふこと。
(二)阿弥陀とは、智慧限りなき永久なる生命。
(三)仏とは、自覚者。

つまり頭が下がって、智慧限りなき、
永久なる生命を、自覚せるもの、といふことである。

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行為的直観

2024年04月18日 09時43分00秒 | 毎田周一師の言葉

『毎田周一全集 第四巻』より

称名に於いて私達は自己を見る。
名号といふ真理の鏡に映された自己の姿を見る。
その時映された自己を見るものは、
却って鏡自身であり、真実の自己が見るのである。
称名によって起る内省・自覚は、
そこに映された自己を見ることにょって、
却って私達自身が真実の自己となることである。
真実の自己とは常に見られた自己の側にはなくして、
見る自己の側にある。
今名号といふ真実の自己の鏡に映されて自己を見るとき、
この見る自己が真実の自己であり、
それは鏡自身である。
そしてそれは私達自身である。
これが称名によって起こる内省・自覚といふことであって、
即ち私達が真実の自己となることである。
このようなことが起こるのは、
ひとへに名号が(自覚的真理として)
私達の真実の自己の表現であるからである。
そしてそれが称名されることに、
真実の自覚が起こるといふのも、
行為的直観によって起こるのである。


4月のカウンセリング研究会【くりのみ】のご案内
◆親鸞とカウンセリングコース
 4月20日(土)午後14時~16時

◆道元とカウンセリングコース
 4月26日(金)午後18時30分~20時30分

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「煩悩があっても 邪魔とならない」

2024年03月31日 23時32分01秒 | 毎田周一師の言葉

『毎田周一全集 第四巻』から

 浄土論に曰く、
 世尊、我れ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、
 安楽国に生ぜんと願ず。
 彼の世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
 究竟じて虚空の如し。
 広大にして辺際無し、とのたまへり。已上

 天親は、私は真理の前に、真実の前へ跪くといはれる。
そしてその真理・真実は、天親によって、
尽十方無碍光如来として把握されてゐる。
無碍光とは何処までも及んでゆく動的な光である。
碍りがないとは碍りを乗りこえてゆくといふことである。
この無碍に動性がある。
そして一方をこの無碍という言葉は碍りあることを前提し想定してゐる。
無碍とは碍りがあって碍りがないといふことである。
碍りがあってもそれが一向碍りとならぬをいふことである。
ところで碍りとは何であるか。
人間の煩悩である。
人間に煩悩があっても、それが一向邪魔とはならないといふ、
その脱落が無碍である。
むしろその煩悩が、動的な光の必須欠くべからざる要素なのである。
煩悩あることをそのまゝが光なのである。
むしろ煩悩あらしめる光である。
こゝに於いて光とは生命である。
無碍光は生命そのものである。
光は実は命の象徴なのである。
だから動的な光、光の動性といつたのである。

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物心づいた青年が先ず手にすべき「一冊」

2024年03月24日 23時19分48秒 | 毎田周一師の言葉

手元にある『毎田周一全集 第四巻』から。

『教行信証』
 日本人の先ず読むべき書は『教行信証』ではないか。
こんな頓馬なことを、間抜けたことを、
今日漸くいひ出す私なのである。
仏教を、釈尊の教へを、真正面から、がっちりと受けとめられた、
我国に於ける第一人者の貫禄を示されたのが、
聖人の御本書ではないか。
釈尊に学ばんと欲する限り、日本人は同国の先人として、
聖人が最も深く、そしてまともに、
釈尊の真意を領受して居られる方だと見るべきではないか。
真に我国に仏教をあらしめた方、
日本仏教徒の代表者、
その聖人の領受された全仏教を、
その奧底まで示されたのが御本書ではないか。
かういうことをいへば、さういふことを今漸く気付き、
そしていふのかと笑ふ人もあるであろう。
しかし、これが私の日本の再発見であるなら仕方のないことである。

 日本で先ず読むべき書は、『教行信証』である。
この書は日本文化を代表的に表現して居り、
日本人の心を奧底まで曝け出して示すものである。
日本及び日本文化を知ろうとする外国人にとっても、
先ず読むべきは、この書である。

 また例えば我国の青年が先ず物心づいて、
何か書物も読みたいと思ふとき、
読むべきは御本書ではないか。

★月例のカウンセリング研究会【くりのみ】では、
 『教行信証』の音読タイムを大事にしています。

日時:4/20  5/18  6/15  7/27  8/17
           午後2時~4時
会場:タワーホール船堀

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