先程、4月の「唯識勉強会」から帰りました。
勉強会の後での懇親会で、この頃気になっている疑問を教えてもらいました。
私の疑問は、『大無量寿経』の最初の一文、「我聞如是。一時仏、住王舎城耆闍崛山中」の中の「我」が大変気になっています。
この「我」は、多くの解説書が、「釈迦十大弟子の一人、多聞第一にといわれた阿難尊者」としています。
その通りでしょう。
釈迦入滅後の第一結集で、摩訶迦葉さんが監督で主演は阿難さんと伝えられていますし、『大無量寿経』を素直に読んでもそうなるのでしょう。
ただ、この頃、それでは何か面白くない気がするのです。
聖書では、『マタイによる福音書』マルコによる福音書』『ルカによる福音書』『ヨハネによる福音書』とあります。
それに倣えば、「阿難による・・・」となるのに、「我」と置いている。
仏典は、ここに大きなカラクリを仕掛けているように思うのです。
私は、王舎城の出来事を、私が40年前に体験したカウンセリンクワークショップと重ねて感じていこうと考えています。
経典を「現在のこととする」「一人一人のこととする」「生活の中でのこととする」etc。所詮、私は仏教に関してはアマチュアですから、自由連想・妄想をたくましくして、仏教世界を“遊歩”しようと思います。