カウンセリング研究会【くりのみ】では、毎月、次の3コースを開催している。
・教育とカウンセリングコース
・道元とカウンセリングコース
・親鸞とカウンセリングコース
一般に、念仏と坐禅は遠い存在のように理解されているようだが、決してそうではないことを指摘している文に出会った。紹介しよう。
西谷:僕はやはり仏教の中で禅が一ばんとりつきよいと思いますがね。というのはやはり理屈ぬきでね。
曽我:念仏と禅は二つ別のように思っているけれども、念仏は禅なんであいます。念仏すなわち禅であって、念仏というのは禅の道なんであります。散乱そのままにお念仏を称える。ただ南無阿弥陀仏と称えれば、おのずから、いわゆる定にあらず散にあらざる不可思議の境地というものがそこに開けてくる。
訓覇:禅に通ずるというのは結果的にいえば、平安末期の日本の仏教が一つの楽観的な観念論になってしまった。それに対する一つの抗議として、禅と念仏とが、まあ坐れ、ただ念仏、というかたちで出てきていると思いますから、同じ使命をもっている。そういうことで生きてきたんじゃないかと思います。…
西谷:だから仏教的なことばだと、理の仏教から事の仏教へ、ですね。それが共通なんだ。
曽我:あまりことばが多すぎるからね。沈黙する。沈黙して別に考えるわけでなしに、寂かな一つの境地は。念仏というのことは要するに寂かな境地が開ける。禅と同じ境地が開ける。
「曽我量深対話集」弥生書房 p90~ より
“大拙先生をしのんで”
曽我 量深
金子 大栄
西谷 啓治
訓覇 信雄
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