毎田周一師の言葉。
「苦しいときは、苦しいといふ外はない。
悲しいときは、悲しいという外はない。
これが一顆明珠だ」
~毎田周一全集 第九巻~
新型コロナの第三波の流行です。
第二波の時、
TV等で「冬を迎える前に、対策・準備が必要」との提言も聞かれたが、
実際のところはどうだったのか?
一般論でも、冬場になれば、ウィルスの流行は予見されるところ。
マア、素人でも、「go to トラベル」「go toイート」は、
愚策であることは想定されること。時機が悪すぎ。
そもそも、コロナ収束後の施策としても、
「飲んだり、食ったり、旅行をしたり…」に税金を使うのは如何か?とも思います。
今は、(おとなしく生活する)が一番大事なことと思います。
里村専精師の
「浄土真宗にようこそ」No116をお届けします。
「諸行無常」から「諸法無我」。
「諸法無我」が、私たちの課題です。
「諸法無我」のためにこそ、聞法があります。
菩薩十地の第八、不動地に大きな展開があります。
七地沈空を突破する秘密が、実にさりげなく語られています。
ここに八地に入る菩薩に、諸仏が八地の菩薩を讚歎します。
諸仏の七勧と呼ばれていますが…。
無量寿経で言えば、17願との出遇いです。
諸仏称讃を承けて、菩薩の内面に大きな変化が生まれます。
自力の回向を超えた、他力回向の世界が見えて来ます。
「諸法無我」の世界は、自分で力んで見いだすものではないのです。
それは真如の行ずる事実に覚めるのですが…。
第八地の菩薩は、真如の回向に覚めて八地に安立します。
偉大な菩薩は、一切衆生の救済を自己の上に見ます。
偉大なままにこの菩薩は、底下の凡愚とともに救われる大道を見ています。
龍樹なども易行品を書きますが、
それは八地の菩薩の大きな転換のうえのことです。
「諸法無我」とは、本当の人間を見つめる大地なのです。
コロナ禍の “いま” 「身と心」のバランスを大事にしたい!
【11月の学習会のお知らせ】
◆親鸞とカウンセリングコース
11月21日(土) 午前10時~12時
タワーホール船堀 306会議室
◆道元とカウンセリングコース
11月27日(金) 午後6時30分~8時30分
タワーホール船堀 和室1
◆zoom法音道場
毎週 月・火・木・金 午前10時55分~11時30分
ご参加のご希望の方は、ご連絡下さい。
090-7808-2201(鈴木)
『毎田周一全集 第十巻』からの抜き書きです。
念仏とはどういふことでありませうか。
南無阿弥陀仏といふことであります。
そのうち南無とは跪くといふことであり、
阿弥陀仏とは光明無量、寿命無量の実在といふことであります。
つまり念仏とは永遠の生命の前に跪くといふことであります。
私達が永遠の生命を認識するとき、
必然的にその前に跪かざるを得なくなるのであります。
永遠の生命を認識するとは則ちその前に跪くことなのであります。
これが念仏であります。
◆毎週、月曜日 火曜日 木曜日 金曜日
午前10時55分~11時30分
zoom法音道場で、念仏・『歎異抄』音読・井戸端
◆毎月一回 土曜日 午前10時~12時
カウンセリング研究会【くりのみ】で、
三淘念仏・和讃、『教行信証』音読、井戸端
だれでも参加できる、《ならい処・かたり処・やすみ処》です。
コロナ禍の「今」、すなおな心で自分と向き合うチャンスです。
毎田周一師の言葉をお届けします。
天下第一の書は、
人にとって異なると共に又その人にとって唯一冊である。
何故なら自己の生涯を賭けて読むほどの本が、
これで読み切った、
解ってしまつたといふことは、
あり得ないからである。
その一冊の本が読み切れないとき、
他の本に移る余裕はないからである。
天下第一の書は、
人々にとって正に永遠の恋人のようなものである。
くりのみ会では、『正法眼蔵』『教行信証』を
zoom法音道場では、『歎異抄』を読んでいます。
毎田周一師の言葉をお届けします。
親鸞・道元・基督の比較の立場、それが学者的立場である。
閑人の閑事業である。
そんなものを比較して見て居れば一文の足しにでもなるとふのか。
宗教のことはかゝることではない。
道元に真に学ばれて、そこから何を得来られしか、それを聞きたい。
基督に心を傾けて参到してそこかろ何を得られしや、
それをこそS氏に聞きたい。
単なる外面的な批判や放言を聞いても、何の足しにもならない。
『毎田周一全集 第九巻』
ボクが主宰している小さな学習会は、
*原典の繰り返しの音読。(教行信証・歎異抄・正法現蔵・随聞記)
*参加メンバー各人の、素直な受けとめの交流。
を二本柱にして展開しています。
「難しい」は、禁句。
頭を使うと(難しい)が出てきます。
原典にぶつかってハネ返されることを(歓ぶ)です。
毎田周一師の言葉
■南無すること、跪くこと、己を空しうすることは、やがてこの発展的世界の内面的自覚である。これを南无阿彌陀佛といふ、念仏といふ。それ故に念仏者は、発展的創造的に働くものでなければならない。念仏はそれ故に消極的退嬰的ではないのである。
「毎田周一全集 第五巻」より
◆zoom念仏道場開催中。
月曜日・火曜日・木曜日・金曜日
午前10時55分~11時30分
お立ちよりください。
招待メールを送付します。
毎田周一師のことば
■世界には、天下第一の書といふに値する書物が何と多いことであろうか。
私達がそれを手にすることを待ってゐるではないか。
試みにあげてみよう。
プラトン対話篇、万葉集、論語、スピノーザのエチカ、教行信証、
ゲーテのファウスト、歎異抄、正法眼蔵、
そして大乗の仏典をみれば、
どれ一つとして天下第一の書の名に値しないものはないではないか。
《毎田周一全集 第十巻》
ボクが主宰しているカウンセリング研究会【くりのみ】では、
教行信証、歎異抄、正法眼蔵の音読を進めています。
『毎田周一全集 第10巻』から
馬鹿は、親鸞聖人の「愚禿」の現代語でありませう。
或ひは聖徳太子が「愚心及び難し」と法華義疏でいはれた、
その「愚心」の現代語でありませう。
これらの愚禿なり愚心なりを私達現代人は「馬鹿」の二字によつて、
特に生々と実感し体感するのではありませんか。
要するにそれは「私が馬鹿である」といふことなのであります。
私自身の「馬鹿の自覚」なのであります。
そしてこの徹底的な馬鹿の自覚が私にとつては、
唯一の救ひの道、安心の道なのであります。
そのことを以下に明らかにしてみませう。
むしろ馬鹿の二字を礼讃し、
馬鹿の自覚の有難さを闡明(センメイ)してみたいと思ひます。
結局自らを馬鹿と知ったものの限りない歓びを歌ふことになります。
いはば「馬鹿の歌」であります。
☆「闡明」の意味…不明確であったことを、はっきりさせること。
☆次回、「馬鹿の歌」を紹介します。
毎田周一師の「ことば」をお届けします。
(毎田周一全集 第5巻)
仏教の育てを受けて来た日本人が、(あっさり)してゐる、
淡白であるといふのは、事柄を事柄に委すといふことである。
前にいつた事実の承認である。
それは自分の考へを主張したり、
主観を固持したりして頑張らないことである。
(あっさり)といふところに、だから日本人の救ひがあるのである。
(あっさり)といふことは、
認識そのものゝの立場である。
事実を事実のありのまゝに承認する、認識するといふのみで、
そこへ人間の意思を、さしこまうとせないことである。
この知性のみといふ立場があっさりといはれる。
日本人の独特の仏教の受領の仕方である。
そしてそれは仏教の本来的なことでもある。
40年以上前になります。
ロージャズのカウンセリングを学び始めたころ、
「共感」について学びました。
ロージャズのパースナリティー理論には、
「自分はあたかもその人になるのだが、
しかも決して“あたかも……のような”という条件を失わない状態」とある。
共感(as…if)を、このようにおさえた。
それから40数年後。
毎田周一師の、
「事実を事実のありのまゝに承認する、認識するといふのみで、
そこへ人間の意思を、さしこまうとせないことである」
と重ねて領解している。
仏教(仏道)は、葬式や法事のソエモノではありませんよ。(笑)
あなた自身の内奥に眼を向けることです。
毎田周一師のことばをお届けします。
『毎田周一全集 第5巻』より
『大無量寿経』を若々しく読まうではないか。
そこに青年の情熱と理想を感得し、
大いに法蔵菩薩と共鳴しようではないか。
法蔵菩薩を阿弥陀仏として向ふに飾っておいて、
私は凡夫だから仏と違ふ、
といふような立場で読む読み方は、
本当のものではないやうに思はれる。
私は凡夫と誰が決めたのであるか。
私はこれだけのものであると断定することは、
生命に対する侮辱である。
生命とはそのやうに限られたものであるか。
生命は底は無限である。
ステイホームが始まるまでは、
毎週水曜日の夜、「願海庵」で『大無量寿経』を読誦してきました。
残念ながら、3ヶ月のお休みでした。
本日、緊急事態宣言が全面解除になりましたので、
近々、再開しようと思います。