音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

精密や機械時計師

2025-02-16 21:00:00 | 近代
ピッコロを預けて5時間。
谷六の交差点。
とっぷり日が暮れました。
梅田でいるとお金使わないと休むところもありません。
ロカボのお店でナッツの小袋でも買おうかと入りましたが、値上げし過ぎて買う気になりませんでした。

それからダイソーでシリコンのヘラ、使い過ぎてデコボコが出来てきたので代わりのヘラ。よかったまだ100円でした。
5時半。
電話ありませんが、もう谷六で待つことにしました。
6時か7時ということでしたので、連絡もらったらすぐに行けるように。 
6時 矢田工房さんの前まで来ましたが、急かしては悪いと15分待ちました。
もういいかな?と4階に上がり「すみません。中で待たせてもらってもいいですか?」 と言うと返事が無い。
あれれ?
と思ったら奥から「もうできてますよ。」とビッコロを組み立てながら出て来られました。
「試してみますか?」
鳴ります!
気になっていた高いAの音もストレスなく鳴ります。
「ありがとうございます。」
「高いCまで鳴るようになりましたよ。」
想像の上をいく出来!
繋ぎのところの管の内側にテープをはって、上がりにくかったBキーを修理。
キーのバランスも調整してくださったそうです。

見違えるように良くなるようになりました。
本当に感謝です。
「楽しんでくださいね!」
と、声をかけて頂いて帰ってきました。
後は。練習あるのみ!

モーリス ラヴェル(1875 - 1937年)フランス共和国シプール生まれ、

1913年
ラヴェルは、スペイン国境から18キロ (11 マイル) 離れたビアリッツ近郊のフランスのバスク地方の町シブールで生まれました。
父ピエール=ジョゼフ・ラヴェルは、フランスとスイスの国境に近いヴェルソワ生まれで、教育を受け、成功したエンジニア、発明家、製造業者でした。母マリー(旧姓デルワール)はバスク人ですが、マドリードで育ちました。

ジョセフ・ラヴェル(1875年)、マリー・ドゥルーアール(1870年)、4歳のモーリス・ラヴェル(1879年)

ジョセフはエンジニアで発明家でした。彼の発明品ループ・ザ・ループは人気のアトラクションでした。1903年死亡事故が起きるまでは。

ラヴェルの両親はともにローマカトリック教徒で、マリーも自由思想家で、その性格は長男モーリスに受け継がれました。

長男は生後6日後にシブール教区教会で洗礼を受けました。

家族は3か月後にパリに移り、そこで次男のエドゥアールが生まれました。(エドゥアールは父親と仲がよく、やがて父親の跡を継いでエンジニアの道に進みました。)

モーリスは特に母親を慕っていました。彼女のバスク系スペイン人の血統は彼の人生と音楽に強い影響を与えました。
彼の最も古い記憶の中には、母親が歌ってくれた民謡があります。
家庭は裕福ではありませんでしたが、家族は暖かく、2人の少年は幸せな子供時代を過ごしました。

ジョセフは息子たちを工場に連れて行って最新の機械装置を見せるのが好きでしたが、音楽や文化全般にも強い関心を持っていました。

後年、ラヴェルは「子供時代を通して私は音楽に敏感でした。父はほとんどのアマチュアよりもこの芸術の教育を受けており、幼い頃から私の趣味を育て、熱意を刺激する方法を知っていました」と回想しています。
ラヴェルが幼少期に正式な一般教育を受けたという記録はありませんが、伝記作家のロジャー・ニコルズは、ラヴェルは主に父親から教育を受けたのではないかと示唆しています。

ラヴェルは長じてその精緻なオーケストレーションから「精密な機械時計師」「オーケストラの魔術師」と呼ばれています。

機械時計という呼び名をラヴェルは嫌っていたようですが、創造的なクラフトマンの家庭に育ったラヴェルの1つの側面のような気がします。

シェヘラザードは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの2つの作品のタイトルです。どちらも、アラビアンナイトのヒロインであり語り手でもあるシェヘラザードに対する作曲家の強い関心に由来しています。最初の作品である序曲( 1898年)は、ラヴェルの現存する最初期の管弦楽曲ですが、初演時の評判は芳しくなく、その後も最も人気のある作品ではありませんでした。4年後、彼は同じタイトルの歌曲集で大きな成功を収め、これは今でも標準的なレパートリー作品であり、何度も録音されています。

どちらの曲もロシアの作曲家、特に1888年にシェヘラザードを基にした交響組曲を書いたリムスキー=コルサコフの影響を受けています。最初の作品はロシア音楽の影響を強く受けており、2番目の作品はリムスキー=コルサコフの交響詩に触発されたテキストを使用しています。序曲と歌曲集の音楽的な関係は希薄です。

シェヘラザード序曲
シェヘラザード、妖精序曲は、1898年に作曲されましたが作曲者の存命中には出版されず(1975年に出版されました)、同名のオペラの序曲として計画された管弦楽曲です。

この作品は、1899年5月27日に作曲者自身が指揮したフランス国立音楽協会の演奏会で初めて演奏されました。

評価は賛否両論で、観客からはブーイングと拍手が入り乱れ、批評家からは辛辣な批評が寄せられました。


エドゥアール・フレデリック・ヴィルヘルム・リヒター、1844 – 1913
シェヘラザード
その結果、ラヴェルは二度とこの曲を演奏しませんでした。

シェヘリザードとスルタン・シャリアル、1880年、フェルディナンド・ケラー
序曲シエラザード



ピッコロを待ちながら

2025-02-15 21:00:00 | 現代
昨夜、練習しているとビッコロのヘッドスクリューがなぜかくるくる回って5ミリ位でています。
「あれ?」と思って掃除棒で図ってみると、

真ん中に来ていない。
戻そうかと思ったけれど動かない。
今でも高いのにこれ以上高くなってもなぁ?
と思いつつ…でもずっとこの楽器高音鳴らしてはいますが、結構苦しい。

ベートーヴェン第九の最後の二分音符=132という速さで鳴らそうと思うと苦しすぎる。
根性でなんとかなるかと頑張っていたけれど、ついに矢田工房さんに電話。
ああ…こんなにぎりぎりになって!
来週土曜日本番。
顰蹙〜!
と思いながら
すると矢田さん落ち着いた声で「すぐに持ってきてください。」
ありがとうございます。と
谷六まで行ったら、
「う〜ん。この掃除簿はこのフルートのでは無いですね。」

つまり動いてなかった。
それでも
「これ高音だせますか?」
「いや苦しいです。」
「やってみますが、土日休みなので月曜日取りに来られるということではいかがですか?」
うわあ〜最短!速い!しかし「すみません。二泊三日になるとその間練習できないので月曜日にまたお持ちするということではいかがですか?」
すると少し考え込んで矢田さん「もしかして、今日6時とか7時に来られるのは可能ですか?」
「えっ!そんなことできるのですか?もちろんありがたいです。」
神様、仏様、矢田様…と不謹慎にも心の中で拝んでしまいました。

「繋ぎのところに当たらないと高音が出ないのですが、
このフルート当たってない可能性があるので、ちょっと難しいけどやってみます。」

この繋ぎ。
「ありがとうございます!」
ハンミッヒに無理やりパウエルの頭部管をつけたのでそれがきいているみたいです。
しかし、ハンミッヒのままだと444ヘルツ…オケは442ヘルツなので使えません。
安くあげたくてメルカリでポチってしまったのでこの始末。

今、梅田まで来て時間潰し中。
ユザワヤさんでフルートの管の中を拭くダブルガーゼの黒と、フルートケースの生地が少し足らなかったのでテープで補填…うまくいくかな?

ダブルガーゼは「1メートル買いだと会員割引ですよ。」と何度も勧められましたが、50センチ800円。
これで10本位作れます。
前回もこれくらい買って10年以上持ちました。まだ2本あるのだけど、水色で舞台上では目立つので…黒。
楽器屋さんで買ったら一本2000円以上だものね。なんかすごい防水機能のある特殊な布でできてるらしいけど…。
洗濯して使えば吸水性は同じ気が〜。(個人の見解です。みみっちい私。)
とにかくビッコロを待ちながら、13:00頃に矢田工房さんを出て梅田に移動してユザワヤさんによってまだ15:45。

疲れたので阪急三番街のフードコートに座って一服。
何も頼まないと悪いので、頼むものを探しに立ったら、目の前にベトナム料理のファーストフード店。ベトナムに縁があるなぁ。
ハス茶というのを頼みました。
見てると器をしっかり温めて、茶葉を入れ、熱湯機のアツアツのお湯を淹れてくれました。

紙コップだけれど、ほんのり苦味があって香ばしい。

さて、6時まで後は何をしよう。

廣瀬 量平(ひろせ りょうへい、1930 - 2008年)
北海道函館市生まれ、京都府京都市没

日魯漁業(現・マルハニチロ)に勤める父・理喜男と、レストラン五島軒店主の若山徳次郎の長女・柳の長男として生まれます。

1943年(昭和18年)市立函館中学校(現市立函館高等学校)に入学しますが、翌年父の転勤に伴い樺太豊原市へ引越し、樺太庁立豊原中学校

に転入。

1945年(昭和20年)3月函館に戻ります。

終戦後、北海道立札幌第一高等学校(現北海道札幌南高等学校)へ転校。
1948年(昭和23年)、北海道大学予科文類 
昭和9年(1934年)の北海道帝国大学正門
に入学、この頃から作曲を始めます。
教育学部へ進み、1953年(昭和28年)に卒業後、上京。1955年(昭和30年)に東京藝術大学作曲科

東京音楽学校(1926年)
に入学。1961年(昭和36年)に同専攻科を修了。

在学中、池内友次郎、島岡譲、矢代秋雄らに師事。

1977年(昭和52年)から1996年(平成8年)まで京都市立芸術大学音楽学部教授を務め、その後同大学音楽研究科長、音楽学部長を歴任。

ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院講師(1997年)、

ドイツ・エッセン音楽大学講師(2003年)、国立音楽大学講師(1977年 - 1979年)、同志社女子大学大学院講師(1997年 - 2001年)、東京芸術大学講師(1991年 - 1998年)も務めました。

1984年(昭和59年)から1988年(昭和63年)まで日本現代音楽協会委員長。

2000年より2004年まで、京都市立芸術大学伝統音楽研究センターの提唱者にして初代所長。のち同大名誉教授となります。

2005年(平成17年)より京都コンサートホール館長となり、死去するまで務めました。

2008年11月24日、肝不全により京都市内の病院にて死去。78歳没。

フルート作品においてはフルートオーケストラという編成の創生期から、精力的に作品を発表しています。
1979年の「ブルー・トレイン」の画期的成功を皮切りに、15曲以上にのぼります。

リコーダー作品においては、「ラメンテーション」「メディテーション」をはじめ既に現代の古典としての扱いを受けています。
特にヨーロッパ地域では、音楽大学の入試に使われたり、コンクールの課題曲になったりと、スタンダードナンバーと言えるほどです。

「尺八とオーケストラのための協奏曲」は、音楽之友社の高校音楽教科書で、邦楽器をオーケストラに取り入れた画期的例として、詳しい曲紹介が掲載されています。

ブルートレイン
日本におけるブルートレイン( Blue Train)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびその後身のJRグループによって運行されていました、

ブルートレイン「はやぶさ」・「富士」(14系)
客車を使用した寝台列車を指す愛称です。
ただし、これは「列車愛称」とは異なり、運行する車輛の色が青だったことを由来とする包括的な列車の通称です。
20系のブルートレイン色(青15号とクリーム1号)
ブルトレとも略称されました。

一般には、国鉄時代の1958年(昭和33年)に登場した20系客車(以後「20系」と略す)以降の、青い車体色で特徴付けられた固定編成専用寝台客車を使用した特急列車を指します。

その創始は、同年10月1日のダイヤ改正で車両が旧形のものから20系に置き換えられた「あさかぜ」です。

国鉄20系客車 ナハネフ22 1
鎌倉総合車両センターにて2004年撮影(※現在は鉄道博物館にて保存・展示の車両)

老朽化や新幹線・飛行機、高速バス、ビジネスホテルの普及による需要の低下で採算の悪化で続々廃止になり、2015年(平成27年)をもってブルートレインは全廃となりました。

東京駅に到着した運転最終日の「はやぶさ」・「富士」(2009年撮影)

廣瀬量平:ブルートレイン
2本のピッコロの差音により列車の轟音を表現しています。





フエ宮廷音楽

2025-02-14 21:00:00 | 民謡
月曜日富久田先生のレッスンの後に行ったランチ。
2:30頃〜、京都のお店は14:00〜17:00まで休みのお店が多いです。
バスで出町柳まででたものの、行ったことのあるお店はお休みが多く、そうそうと思いついて京津線の出町柳駅前まで行ってみました。

こちらの方は京大の学生さんがよく通るので安くてガッツリ系とんがっているお店が多いような気がしています。

ほらっ!なんか変わってる。

ベトナム料理?食べたことない。

あやしい集合型ビルの中

ビニールのアコーディオンカーテンの間仕切り。

でも案外温かい。カウンターにしました。

ベトナム風揚げ春巻き

ベトナム焼き鳥セット
春巻きは野菜がたくさん詰まっていて、唐辛子の入った透明な油につけていただくスタイル。
これがおいしかった。
鶏は香辛料に浸けて焼いたみたい。
スープは玉ねぎ、ごはんにはにんじんと大根のピクルスと甘辛いタレがかかっていました。
何か詳しくはわかりませんが、思ったよりあっさりしていて食べやすかったです。
聞けば、作っているのは給仕をしてくれた若いベトナム人の女性だそうです。
「日本食に寄せないで」と頼んでいるそうです。

ベトナムの音楽に
フエ宮廷音楽ニャーニャックがあります。

李朝時代:李朝(1010年 - 1225年)から宮廷音楽が存在し、後に組織的に運営されるようになりました。
この時期、ニャニャックは優雅な歌詞と高貴なメロディーを持ち、封建君主制の長寿、繁栄、権力を象徴していました。

ベトナムのグエン王朝時代(1802-1945年)

グエン・テ・ト・ジア・アン(在位1802-1804年)初代グエン王

に祭り(戴冠式、死去、その他の厳粛な祭り)の際に演奏された封建時代の宮廷音楽のジャンルになりました。

フエ宮廷音楽は2003年にユネスコにより人類の口承及び無形遺産の傑作として認定されました。

ユネスコの評価によると、「ベトナムの伝統音楽のジャンルの中で、ニャーニャックだけが国民的地位を獲得している」とのことだそうです。

「ベトナムでは13世紀から宮廷音楽が発展しました。グエン王朝時代に、フエの宮廷音楽は最も成熟し、完成された状態に達しました。

ユネスコに正式に認定されたベトナムの無形文化遺産です。

フエ宮廷音楽は、多くの宮廷楽器を含むオーケストラが、 11世紀から12世紀にかけてリー王朝(1009-1225年)の仏塔の石柱のレリーフの形で登場し、1945年にグエン王朝の最後の王が退位するまで続きました。

基本的に、ベトナムの宮廷音楽における儀式音楽、村の寺院における供儀音楽、結婚式や葬式で演奏される儀式音楽は、すべて文芸グループと武芸グループの 2 つの主要なグループに分けられます。

19 世紀初頭のフエ王室オーケストラにおける楽器グループの区分とその起源は、何世紀も前に北部のベトナム人の村で行われた多くの共同儀式に見出されます。

日本へは8世紀(奈良時代)にチャンパ王国(ベトナム南端)の僧仏哲が伝えたインド系の楽舞が、林邑楽として四天王寺に継承されています。この後、ニヤーニャックの隆盛期がやってきます。ニャーニャック









アレクサンダー大王と聖セシリアの日

2025-02-13 20:59:00 | バロック
月曜日は1ヶ月ぶりに渡辺橋近くのサロン・ド・ブリンシパルで、フルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
ドボルザークの「セレナーデ」ヘンデルの「アレクサンダーの饗宴」、それから、軽音シリーズ「テイク・ファイブ」と「煙が目にしみる」を練習しました。

1ヶ月休んだたげでみんなうまくなっています。
私も頑張らないと! 
しかし、休んでいる間にドボルザーク2ndから1stに移動になってた!?
あちゃ〜!これから練習です。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)ローマ神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国ロンドン没

1736年
聖セシリアの日(11月22日2世紀頃に殉教したカトリックの
音楽の聖人)を祝うためジョン・ドライデン(1631-1700年)

によって書かれた「アレクサンダーの饗宴」の頌歌(1697年)を原作とし、ティモテオスが音楽によってアレクサンドロス3世
(BC356-BC323年アレクサンドロス大王)

をさまざまな感情に導く様子を音楽で描写します。

ヘンデルは1736年1月17日に作曲を完了し、同年2月19日にコヴェント・ガーデン
コヴェントガーデンにあるロイヤルオペラハウス
で初演されました。作品は大きな成功をおさめ、翌日の新聞報道によると初演には少なくとも1300人が集まりました。

初演ではアンナ・マリア・ストラーダ


とセシリア・ヤング(のちにトマス・アーンと結婚)
のソプラノ、ジョン・ビアード

のテノール、エラードのバスで歌われました。

もともとの詞が音楽の力を描写することに意を用いており、ヘンデルはホルン、チェロ、トランペット、ファゴット、フルート、ハープなどのさまざまな独奏楽器を用いています。
またアリアやコーラスはティモテオスの歌の内容に応じて変化に富んでいます。

初演では頌歌そのものに加えて、曲の途中で3つの協奏曲が演奏されました。

第1部の途中で有名なハープ協奏曲(ハープ、リュート、リリコードその他のための協奏曲、
オルガン協奏曲作品4の6の異稿にあたります。HWV 294a)が、
第2部の最後の合唱(ハミルトンによって追加された詞による、現在は歌われないことが多い)の前にはオルガン協奏曲(作品4の1、HWV 289)が演奏されました。
幕間にはイタリア語のカンタータ「チェチーリアよ、まなざしを向けたまえ」(Cecilia, volgi un sguardo、HWV 89) と

ハ長調の合奏協奏曲HWV 318を演奏し、後者は『アレクサンダーの饗宴』協奏曲として知られています。

『アレクサンダーの饗宴』のフル・スコアは1738年に出版され、150人の予約者に配布されました。ただし協奏曲は含まれていません。

『アレクサンダーの饗宴』はその後もしばしば再演され、ヘンデル生前の20年間近くに25回の上演回数を重ねましたが、かなりの改作を経ています。

1742年にダブリンで演奏されたときにはハミルトンの詞による短い第3部を追加しています。1751年3月1日の再演では劇『アルチェステ』のための付随音楽をもとにした『ヘラクレスの選択』という作品が第3部として加えられました。

アレクサンドロスとタイス、ルドヴィコ・カラッチ画(1611年)
アレクサンダーの饗宴
第1部
アレクサンドロス王はペルシア王を破った記念の宴会を開き、ティモテオスがリラを弾きながら歌います。

まず、アレクサンドロスを生き神としてたたえます。ついで酒神バッカスをたたえる歌を歌います。

悲しい曲調に変わり、ダレイオス王の死を哀悼します。

『アレクサンドロス大王の前に出たダレイオスの家族』パオロ・ヴェロネーゼが1565年から1570年頃アレクサンダーはイッソスの戦いでペルシャアケメネス朝ダレイオス王を破りましたが、彼の家族を寛容に遇しました。

ふたたび主題が変わり、タイスの愛が歌いあげられます。

第2部
トランペットとティンパニを加えた激しい伴奏による合唱で軍楽が模される。ティモテオスは戦いに倒れたギリシア人兵士たちについて歌い、復讐の怒りを奮い立たします。王はたいまつを手にとり、タイスが先導してペルシアの破壊に向かいます。

リコーダーの伴奏で、テノールはティモテオスが音楽によってさまざまな感情を抱かせることができたことを述べます。

ついで合唱がセシリアをたたえ、「ティモテオスは人を天上にあげ、セシリアは天使を地上に降ろした」と歌って曲を終えます。

幕間で演奏される
合奏協奏曲ハ長調「アレクサンダーの饗宴」HWV318


フルートとギターの協奏的二重奏曲

2025-02-12 21:07:00 | ロマン派
10日午前中は、ギターの渡邉信行さんと合わせ練習でした。

この楽譜ミュゼスコアというソフトで渡邉さんが手書き譜から起こしてくれました。
見やすい!

これは総譜(スコア)なので、見て演奏すると言うより、動きを確認するために見るので細かいてす。

こちらはフルートパート譜。
めっちゃくちや見やすくなりました。

だって元はこれレニャーニのフルートとギターのための二重奏協奏曲op23



出版年はわかりませんが、おそらくレニャーニの生きた1790-1877年の間にイタリアの楽譜出版社アルタリアから出版されたと思われます。

ルイジ レニャーニ(1790-1877年)

は、イタリアの名手ギタリスト、歌手、作曲家、弦楽器製作者でした。

彼は声楽歌としてキャリアを初め、ロッシーニやドニゼッティのオペラでテノールを演じました。
1819年ウィーンでマウロ ジュリアーニの後継者として認められ賞賛されました。

ギター演奏家としてイタリア、ドイツ、スイスを演奏して回りました。

40歳頃からパガニーニと友人となります。
ニコロ・パガニーニ(1782-1840年)

は、ルイージ・レニャーニを当時のギターの第一人者とみなしていました。
パガニーニ自身も熱心なギタリストで、弦楽器とのアンサンブルでギターの曲を作曲しました。

この二人の巨匠は、1836年にトリノでデュオとしてリサイタルを行う計画を立てていましたが、ヴァイオリニストの健康状態が悪かったため、予定日の直前にキャンセルされました。

1850 年、ギタリストはコンサートから引退してラヴェンナに住み、バイオリンとともに愛用していた楽器の製作に取り組みました。ネックの調整ネジを特徴とする有名なギター「レニャーニ モデル」は、中央ヨーロッパで広く模倣されました。
ルイジ レニャーニは、ラヴェンナで 87 歳で亡くなりました。

レニャーニは 250 曲を超える作品で、クラシック ギターのレパートリーに多大な貢献をしました。
これらの作品には、ギター独奏曲、ガタイア奏法の指導、幻想曲、ポプリ、カプリッチョ、有名なオペラのテーマの変奏曲、ギターの二重奏曲、協奏曲などが含まれています。

特に人気のものは、すべての長調と短調で書かれた 36 曲のカプリースで、おそらくパガニーニのヴァイオリンのための 24 曲のカプリースに触発されたものです。

また「レニャーニモデル」は19世紀半ばまで人気でした。
ヨハン・シュタウファー・テルツ・ギター (c.1820-1830)
CF マーティン シニア作ウィーン シュタウファー スタイル ギター) (1834-1835)
マーティン・シニアがスタウファーズで働いていたときのルイジ・レニャーニモデルです。

レニャーニ 36曲のカプリースNo.7



寛容な時代

2025-02-11 21:00:00 | ルネッサンス
1ヶ月ぶりに京都今出川大宮の冨久田治彦先生のレッスンでした。
1ヶ月練習していたライヒャのスケールエテュードの3番、1ヶ月開くからと毎日4番も練習していたのに、楽譜…忘れました!
こんなこと初めて。

バ〜ンと2回分やってドヤ顔するはずだったのに〜。
残念。来月3回分…はさすがに時間がなくて上がらないでしょう。

しかし、ギターの渡邉信行さんとするレニャーニのグランドデュオは見てもらいました。
今朝、なんと渡邉さんが、imslpの楽譜から印刷譜を起こして送ってくれました。
1800年代のスコアの無い楽譜、つまり手書きパート譜だけだったのを楽譜ソフトで結合譜を作り、パート譜を…。
すごい!
見やすい!
ただし今日は前の楽譜が慣れているので手書き譜で見ていただきました。

2カ月ぶりですが「今日は。音がいいね!」と褒めてもらってうれしかった。

高音を吹くときに口を緩め、低音を吹くときに逆に口を固めに絞る。
フォルテで緩め、ピアノで固める。

これを徹底するように言われました。
なるほど納得です。

冨久田先生のレッスンは具体的でわかりやすいです。

今日はこの前の雪が、嘘のように暖かかったです。

帰りに市バスに乗ったら、前から足の悪い人がやってきました。
市バスは後ろから入って前からでる方式です。ゆっくり回ろうとしていると、
運転手さん、前のドアを開けて、「前から入ってください。」
ルールはいろいろあるのだろうけど、こういうの好きです。


宗教寛容令(しゅうきょうかんようれい、 英:Edict of toleration)とは、特定の宗教の信者が迫害されないこと、すなわち特定の宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証したものです。
古来何度か出されています。

古代
紀元前539年 – キュロス・シリンダー:アケメネス朝のキュロス2世

が、バビロンのマルドゥク信仰など様々な信仰(ユダヤ教も含むとされる)の復興を認めたものです。

311年 – ガレリウスの宗教寛容令:ローマ帝国の皇帝ガレリウス、コンスタンティヌス1世
ふさはリキニウスが発した勅令。ディオクレティアヌス時代からのキリスト教迫害を公式に終わらせました。

中世
1264年9月8日 - カリシュの法令:ヴィエルコポルスカ公ボレスワフ・ポボジュヌィ

が発した、ユダヤ人の高い法的地位を認めた法令。

1436年 – バーゼルの誓約:バーゼル公会議において、神聖ローマ皇帝ジギスムント

らがボヘミア王国のウトラキスト(フス派穏健派)の信仰を一部許容しました。

近世
1562年1月 – サン=ジェルマン勅令:一月勅令とも。フランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシス 

が、ユグノーの信仰を条件付きで認めた勅令。2カ月で破棄

1568年1月28日 – トルダの勅令:「宗教寛容と良心の自由の法令」とも。東ハンガリー王国のヤーノシュ2世 

が発した勅令。国内で従来認められていたカトリック、ルター派、カルヴァン派に加えてユニテリアンの信仰も保証しました。その他の信仰も、公式な保護は与えないながらも認めました。

1573年1月28日 – ワルシャワ連盟協約
ワルシャワ連盟協約の原本
ポーランド・リトアニア共和国の貴族が締結しました、あらゆる信教の自由を認めた法令。後にヘンリク条項に加えられ、以降のポーランド王は即位する際に必ず宣誓することを義務付けられました。

1579年1月23日 – ユトレヒト同盟:八十年戦争において、プロテスタントの多いネーデルラント北部の独立派7州が結成した対スペイン同盟。個人の信教の自由を認めるとともに、今後カトリック州が信仰を捨てずに同盟に加わることを認めました。

1598年4月13日 – ナントの勅令

:フランスのアンリ4世が、ユグノーに限定的な信教の自由を認めた勅令。公の場での信仰、集会の許可、公職や大学への就職、要塞都市の維持を認めました。1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を破棄。

1609年 – ルドルフ2世の勅書:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世

が、ボヘミア王としてボヘミア・シロンスクの非貴族階級を含めた全住民に信教の自由を認めました。

1649年4月21日 – メリーランド寛容法:アメリカ東海岸のメリーランド植民地で、キリスト教内での信教の自由を認めた法律。イギリスのアメリカ植民地において宗教的寛容を唱えた2番目の法令で、ヘイトスピーチを制限したものとしては世界初。  法令は1649年に破棄され、また復活し、アメリカ合衆国憲法修正第1条(1791年制定)制定に大きな影響を与えました。

1664年9月16日 – ブランデンブルク寛容令:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム

が発布した宗教寛容令。
プロテスタント各派間の寛容を定めるとともに、カトリックやプロテスタントが他宗派の信条を批判することを禁じました。

1689年5月24日 – 寛容法:
イングランド議会で可決され、ピューリタンなどの非国教徒プロテスタントに対する差別を撤廃した法律。ただしカトリックやユニテリアンなど急進派プロテスタントは意図的に除外されました。

1692年3月22日 – 天主教公認の上諭:清の康熙帝

が、イエズス会によるカトリック布教を公認し、宣教師や教会への攻撃を禁じました。
1724年にキリスト教を再び全面禁止。

1712年3月29日 – ビューティンゲン寛容法:イーゼンブルク=ビューディンゲン伯エルンスト・カジミール1世が、完全な思想・良心の自由を認めた法令。

1773年6月17日 – エカチェリーナ2世

の寛容勅令:ロシアのエカチェリーナ2世が、国内のタタール人などのムスリムの抗争への対応として発した勅令。ロシア領内に存在するあらゆる信仰に対する寛容を約束しました。

1781年10月13日/1782年1月2日 – ヨーゼフ2世の寛容令・寛容勅令:神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 

がハプスブルク帝国内の非カトリック教徒(ルター派、カルヴァン派、セルビア正教)に信教の自由を与えた法令(ヨーゼフ主義)。1782年の勅令ではユダヤ人も適用範囲に含めました。ヨーゼフ2世は1790年の死で撤回。

1784年 – トリーア寛容勅令:トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェル・フォン・ザクセンが、トリーア領内のプロテスタントへの寛容を述べた勅令。

1787年11月29日 – ヴェルサイユ勅令:フランスのルイ16世

が、ユグノーやユダヤ人など非カトリック教徒に公民としての権利を認めた勅令。

近代
1839年7月17日 – ハワイ寛容勅令:ハワイ王国のカメハメハ3世が、従来優勢だったプロテスタントに加えてカトリックの宣教も認めた勅令。

1844年3月21日 – 1844年の寛容勅令:オスマン帝国において、イスラーム圏での「背教の罪」が必ずしも死刑とはならないとする解釈が出され、パレスチナへのユダヤ人植民が容認されました。

1847年3月30日 – フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

の寛容勅令:プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、棄教の自由を認めました。

20世紀
1905年4月30日/1906年10月30日 – ニコライ2世の寛容勅令:ロシアのニコライ2世

が、ロシア正教会以外の宗教に法的地位を与えた勅令。1906年の勅令では、ロシア正教会から分離したセクトにも法的地位を認めました。

1598年ナントの勅令を出したアンリ4王妃マリー・ド・メデシスとアンリ4世の結婚。

新作オペラ「エウリディーチェ」(史上第2番目のオペラとなる!)は、ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年8月20日 - 1633年8月12日) 

はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物。

16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。

想像で捉えるほかありませんが、ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなセリフを用いる劇が考えられました。 

この運動の中で、1597年ごろにペーリがギリシャ神話を題材にした『ダフネ』(Dafne)を作曲しました。 

これが今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品です(台本はすべて現存していますが音楽は断片のみが伝わっています)。
後のペーリの作品である『エウリディーチェ』
フィレンツェで16世紀末から活動していた芸術家集団「カメラータ」による、古代ギリシア悲劇を再興させようとする試みの中で生み出された作品です。

ペーリは、この作品でモノディ様式を駆使し、また、『エウリディーチェ』の序文で、語りの部分における音高の変化と、歌の音程のある動きとが古代ギリシア演劇の理論において区別されていたことに触れ、語りと歌の中間をいく、古代ギリシアの人々が英雄詩の吟唱に用いていたと考えられるものを見いだそうとしたと述べています。

通奏低音が据え置かれる中、歌唱声部は協和音と不協和音の間を行き来し、特に強調すべき音節(単語)に達した際には、協和音となるように留意しました。

なお、ペーリは、オッターヴィオ・リヌッチーニと組む形で1598年に音楽劇《ダフネ》を制作・発表していたが、この作品の音楽は失われている

台本は、ギリシア神話に基づき、リヌッチーニによって書かれました。

1600年10月、フランス王アンリ4世とマリーア・デ・メディチ

の婚礼の催し物として、フィレンツェのピッティ宮殿において初演されました。

エウリディーチェ
プロローグ
「悲劇」と名付けられた登場人物により、有節歌曲の形式で、王室の婚礼に対する祝福の言葉が歌われます。

トラーキアの野
オルフェオとエウリディーチェの婚礼の場面から始まります。
エウリディーチェが自らの幸福な気持ちを歌い、仲間のニンフたちともに去る。オルフェオが友人たちと現れ、「過去の苦しみも今は幸せに変わった」と歌い、ティルシが婚礼の神を称えて「こよなく美しい星が清らかに燃える中で」と歌う。しかし、ダフネーが現れて、エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだ、と告げます。

オルフェオはエウリディーチェを取り戻しに行く決意を固め、「私は泣かない、嘆かない」と歌います。 

地獄
オルフェオは、女神ヴェーネレの導きで地獄の入口にたどり着きます。

ヴェーネレは、「あとは自分の音楽の力で進むように」と告げて立ち去ります。
オルヴェオが「私の涙に泣け、地獄の霊たちよ」と歌うと、地獄の王プルトーネは憤りますが、オルフェオの歌声に感動したプロセルピナやカロンテに促され、地獄の掟を破り、オルフェオにエウリディーチェを返す決断をします。

トラキアの野
友人たちがオルフェオの安否を気遣っていると、エウリディーチェを連れてオルフェオが現れます。

オルフェオは「私の歌に喜べ、緑の森よ」と歌い、エウリディーチェが続いて「この喜ばしい大気の中で」を歌います。一同がオルフェオの音楽の素晴らしさを讃えて幕となります。

「エウリディーチェ」プロローグ トラキアの野 「森の中なら」



くまのお店で癒される

2025-02-10 21:01:00 | 国民楽派
6日に病院の帰りに行ったお昼ご飯のお店。
『くまきっきん』




京町家を改装して作られたみたいで

長い廊下があり、

中庭には桜。咲いていました。
そして奥は結構広いダイニング。
チキン南蛮定食1100円!

本格紅茶付き

お砂糖は入れなかったけれど、枡に入ってきました。

一杯以上の量。

おいしかったです。
検査用に瞳孔が開く目薬をさして、世界がおぼろげで不安な時に食欲を満たすのは良い感じ。

向かい側のお菓子司には小さな祠。

ヨハン・ハルヴォルセン - Johan Halvorsen (1864-1935年)ノルウェードランメン生まれ、ノルウェー オスロ没

幼い頃から優れたバイオリニストで、ノルウェーの音楽界で著名な人物となりました。

クリスチャニア(現オスロ)とストックホルムで音楽教育を受け、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に入団する前はベルゲンでコンサートマスターを務めました。

アバディーンのコンサートマスター、ヘルシンキの音楽教授を経て、サンクトペテルブルク、ライプツィヒ(アドルフ・ブロツキーに師事)、ベルリン(アドルフ・ベッカーに師事)、リエージュ(セザール・トムソンに師事)で再び学生として学びました。

1898 年、アグネス・ナイブリンによるベルゲンの音楽祭。左から右へ:クリスチャン・カペレン、カタリヌス・エリング、オーレ・オルセン、ゲルハルト・ローゼンクローネ・シェルデラップ、アイヴァー・ホルター、アガテ・バッカー・グロンダール、エドヴァルド・グリーグ、クリスチャン・シンディング、ヨハン・スヴェンセン、 ハルヴォルセン
1893年にノルウェーに戻り、ベルゲン国立劇場のオーケストラとベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めました。

1885年にベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターとなり、1893年には首席指揮者に就任しました。
1899年にはクリスチャニアに新設された国立劇場のオーケストラ指揮者に任命され、1929年に引退するまで30年間その職を務めました。

ハルヴォルセンは、劇場音楽のほかに、30 を超えるオペラの指揮を手掛け、 30 を超える劇伴音楽も作曲しました。

劇場から引退した後、ようやく 3 つの交響曲と 2 つの有名なノルウェー狂詩曲の作曲に専念する時間を持つことができました。

ハルヴォルセンの作品は、エドヴァルド・グリーグに代表される国民的ロマン派の伝統を発展させたものですが、革新的なオーケストレーションを特徴とする独特のスタイルで書かれています。

ライプツィヒのカードパーティー c. 1887 年、ニーナとエドヴァルド グリーグ、ヨハン ハルヴォルセン、フレデリック ディーリアス、クリスチャン シンディング

ハルヴォルセンはグリーグの姪と結婚し、グリーグの葬儀で演奏された葬送行進曲など、グリーグのピアノ作品のいくつかをオーケストレーションしました。

ハルヴォルセンが亡くなってから5日後、グリーグの従妹で未亡人のニーナ・グリーグも90歳で

亡くなりました。

現在最もよく知られている作品は、ボヤーレネス・イントッグスマルシュ(貴族の入場行進曲)とベルゲンシアーナ、そしてゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのテーマに基づくヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲であるパッサカリアとサラバンドです。

2016年初頭、トロント大学 の図書館員は、1909年に3回しか演奏されず、紛失したと考えられていたヴァイオリン協奏曲の手書き楽譜を発見したと発表しました。この曲は107年後の2016年に4度目の演奏が行われました。

ノルウェーのおとぎ話の絵、
作品37(1933年)、1925年の付随音楽の改訂版

1.Peik, prinsessen og stortrollet (ペイク、プリンセスとビッグトロール)

2.Prinsessen kommer ridingende på bjørnen (クマに乗ってプリンセスがやってくる)

3.Trollenes inntog i berget det blå (市庁舎へのトロルの入場)

4.Dans av småtroll (リトル トロールのダンス)

クマに乗ってプリンセスがやってくる







雨も雪もむなしくふることなく大地を潤し

2025-02-09 21:38:00 | バロック
土曜日、夕べから降り出した雪は枚方では植栽か日陰に少し残っている程度。道路は通常運行できそうです。

朝母退院。というわけで、夫の運転で牧野出発…と思いましたが、京都は雪が積もっているだろうと、松井山手に置いてあるスカイラインなら、オールシーズンタイヤなので、取りに行ってから出発しました。

車で20分、隣りの市とは言え府境を越えると寒いです。
スカイラインも雪が残っていました。
さてアクアを置いてスカイラインで出発。

ちょっと降って来ました。
第二京阪の側道は日が当たらないのでやばい!

事故ってる!
それからもう少し行くともう1台。歩道の木に突っ込んできました。
怖いなぁ…。
しかし、車線変更をした途端、車がコントロールを失ってクルッと回って歩道の植込みと桜の木に衝突して止まりました。

『あ〜あ、やっちまった…。』

でも他の車は巻き込んでいないし、歩道も誰もいなかった。
エンジンをかけると動きました。
気を取り直して再度出発。

よく考えたら二車線あっても誰も左車線を走っていない。
よく知っている人は他の車の跡をついていくのですね。

さて、母を迎えに行かくちゃ。とそのまま行きましたが、病院の駐車場て見たら


バンパー結構壊れてました。
ありゃ〜!
しかし、先に母を連れ帰らなくちゃ。
無事送り届けたら、家に帰って夫警察に電話。
事故証明取りに伏見警察と現場に戻って現場検証。
桜の木を支えていた木の柵が折れていたそうです。
後で弁償の話があるかも。
がっくり。
雪の日はやっぱりスタッドレスにチェーンつけましょう。それか、使わない。

ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハアイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

                の「雨と雪が天から降るように」(BWV 18)は、教会カンタータです。彼はおそらく1713年頃に ワイマールで六十年祭(のためにこれを作曲しました。

バッハは1708年以降ワイマール宮廷に勤めました。

1714年3月2日、彼はコンサートマスターに任命されました。
この地位での彼の任務には、城の教会で演奏される教会カンタータを月に一度作曲することが含まれていました。

バッハはこのカンタータを、六十祭四旬節前の最後から2番目の日曜日である六十週目の日曜日のために作曲しました。

指定された朗読は、聖書のコリント11:19 – コリント12:9 LUTとルカ伝8:4–15 LUT、種まき人のたとえ話でした。

バッハは、エルトマン・ノイマイスター( 1671年5月12日 ウイヒテリッツ生まれ、1756年8月18日ハンブルク没)

のテキストに曲を付けました。

このテキストは、彼がアイゼナハの宮廷のために書き、1711年にゴータで『霊的な歌と演奏』というコレクションとして出版していたものです。
(ゲオルク・フィリップ・テレマンは以前にすでにこの曲に曲をつけていました。)

次の文では、詩人はマルティン・ルター(1483年、 マンスフェルト県アイスレーベン生まれ、1546年、アイスレーベン没)

アウクスブルクのトーマス・カエターノ枢機卿の前のルター、彩色木版画、1557年
の連祷の一節を使って、神の言葉を脅かす危険についての警告を挿入しています。

最後のコラールは、ラザロ・シュペングラー(1479年、 ニュルンベルク生まれ、1534年ニュルンベルク没)

の賛美歌「アダムの堕落によってすべての腐敗が起こった」(1524年)の第8節です。

1715年頃に作曲されました。

バッハは1724年にライプツィヒでこのカンタータを、楽器編成を拡大し、異なる調で再演しました。
この作品は、当時新たに作曲されたカンタータ『軽妙な歌劇』とともに演奏されたと考えられます。

「雨と雪が天から降るように」(BWV 18)
シンフォニア
レチタティーヴォ(バス):
雨も雪も天から降るとむなしく戻ることはなく、大地を潤し実り豊かに生い茂らせ、そうして蒔く人には種を与え、食べる人にはパンを与えます。

それと同じように、私の口から出る言葉も、むなしく私のもとに戻ることはなく、私の望むことを成し、必ず私が与えた目的を果たします。

レチタティーヴォとコラール(連祷)(テノール、バス、合唱):私の神よ、ここに私の心があります。あなたは私にあなたの精神と力を与えてくださいます。

アリア(ソプラノ):
私の魂の宝は神の言葉です

コラール:
主よ、私は心の底から祈ります




オペラ以外のビゼー

2025-02-08 21:00:00 | ロマン派
7日午後からセンメルトリオの練習でした。
2月23日六甲の里夢で「おとただまの会」コンサートに出ます。
フルート久米素子、ヴィオラ金重美代さん、ピアノ坂田恭子で出演します。
曲はビゼー「カルメン幻想曲」トリオ編曲版。
金重さんが怪我をしていた上、私の目の手術で思うように合わせられず、今月になって詰めて練習です。 
目の方は思ったより視力がでず、しばらく投薬治療になりましたが、前に比べると楽譜は見えるようにはなっていますが…。

気をつけなくっちゃ。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没

1860年頃に撮影されたビゼーの写真。
ビゼーと言えば歌劇「カルメン」。現代において最も演奏されている歌劇。
そして「アルルの女」の組曲、
「真珠採り」、レアな人で「ジャミレ」が知られていますが、その他の曲はあまり知りていません。
しかしビゼーはオペラ以外の曲も書いています。

ビゼーは芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度であるローマ賞(1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続しました。)に2回挑戦しています。

一度目1856年18歳の時には優勝該当者無し、二度目1857年カンタータで優勝。

ローマ・ボルゲーゼ庭園内のメディチ荘 (Villa Medici)。今日でも奨学生が寄宿している。
5年分の奨学金が支給され、彼ははじめの2年間をローマのフランスアカデミーで、3年目をドイツ、そして最後の2年間をパリで過ごすことになりました。

しかし、ドイツには行かず仕舞いになったものの、ローマには1860年7月まで逗留していました。

パリにまっすぐ引き返す代わりにイタリア中を旅行して、1858年と1859年には行かなかった土地に向かいましたが、ヴェネツィア入りした頃に母親が重病であるとの知らせを受けて、直ちに帰国します。

『ローマ』は、このイタリア留学がきっかけとなって作曲されました。

リミニ

に滞在中、初めて、4つの楽章にそれぞれイタリアの別々の都市(ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ)の名を冠した『イタリア交響曲』という案を練っています。
1860年8月のビゼーの書簡にその記述が見られます。

この頃には初期の草稿がいくらか出来上がっていた可能性がありますが、楽譜は現存していません。

1861年までに書き上げられたスケルツォ楽章「ヴェネツィア」(ローマ留学中に作曲された作品に手を加えたものと考えられているは同年11月に非公開で初演され、2年後の1863年1月11日にジュール・パドルーの指揮によってシルク・ナポレオン(Cirque Napoléon)において公開初演が行われました。

演奏は低調で、多くの聴衆は敵意に満ちた反応を示しましたが、1月18日に国立美術協会で行われた再演では、ずっと前向きな反応が得られました。

このスケルツォ楽章は、現在でも全体の中で出来が良いと認められています。

1866年までにビゼーは全曲の初稿を書き上げましたが、不満を覚えて全体の改訂に着手しました。
この際に変奏曲だった第1楽章は主題だけを残して全面改訂され、第3楽章には終楽章のテーマが挿入されました。

1868年6月に完成した第2稿は、1869年2月28日に交響的幻想曲『ローマの思い出』のタイトルで、またもやパドルーの指揮で上演されました。

この時はスケルツォ以外の3つの楽章が演奏され、それぞれに「オスティの森の狩」、「行列」、「ローマの謝肉祭」という標題的な題名がつけられていました。ただし、これらがビゼーによる命名かどうかは不明です。

第2稿にもビゼーは満足できず、作品にもう一度手を加えた。最終稿となる第3稿はどうやら1871年までにはビゼーの手を離れたと思われます(ビゼーが他の企画に没頭していたからです)。

1875年にビゼーは36歳で早世します。
生前には最終稿による『ローマ』の全曲演奏は行われず、その初演はビゼーの死から5年経過した1880年10月、パドルーによって行われました。

その際のタイトルは『ローマ - 4部からなる交響曲』とされていましたが、1880年にシュダーン社から出版されるにあたり、『ローマ - 演奏会用の第3組曲』と変更されました。

シュダーン社は『ローマ』を、『アルルの女』第1、第2組曲につぐ第3の組曲にしようとしたものと考えられます。 

出版譜はおそらく1871年にされた変更を採用していて、各楽章のタイトルは「序奏とアレグロ」、「アンダンテ」、「スケルツォ」、「カーニヴァル(謝肉祭)」とされました。

現在の出版譜では各楽章のタイトルは全て削除されています。

第1楽章
アンダンテ・トランクイロ ― アレグロ・アジタート(ハ長調) Andante tranquillo - Allegro agitato

第2楽章
「スケルツォ」アレグレット・ヴィヴァーチェ(変イ長調) Scherzo: Allegretto vivace

第3楽章
アンダンテ・モルト(ヘ長調) Andante molto

第4楽章
「終曲」アレグロ・ヴィヴァチッシモ(ハ長調) Finale: Allegro vivacissimo






没後100年伝統的な概念を打破

2025-02-07 21:02:00 | 近代
6日、病院に行ってきました。
診察終えて、母に会ってきました。
元気そうでした。
話し出すと止まらなくて、お昼ごはんが届いて冷めそうになりました。

駅から病院に行くまでに鷺が2羽
母のお琴の師匠中島警子先生が今年数えで100歳になられるそうです。
その記念演奏会、宮城道雄を偲ぶ夕べ第50回…大阪新音の人と約束の50回。

宮城道雄先生が亡くなられて新音の方がそのお話しを持ってこられた時に「50回はやりましょう。」と約束されたそうです。

「ちょうど区切りの年やね。」と、母はそのお話しで頭がいっぱいみたいです。
中島先生、
さすがに弾かれはしませんが、企画に余念がないそう。
恐るべし100歳。 
母は数えで85歳。
でも、休んではいられないのでしょう。

今年2025年は
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、1866 - 1925年)
フランス共和国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

没後100年です。

サティと言えば、ピアノ曲で有名ですが、『パレード』は、レオニード・マシーンが振付し、エリック・サティが音楽を作曲し、ジャン・コクトーが脚本を書いたバレエです。

このバレエは、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929年)

のバレエ・リュスのために1916年から1917年にかけて作曲されました。

このバレエは、1917年5月18日金曜日にパリのシャトレ座で初演され、衣装と装置のデザインはパブロ・ピカソ(1881-1973年)、

ピカソ、ヴィラ・レ・クロシェットの絵画『愛好家』(バーゼル美術館)の前に立つ、1912 年夏
振付はレオニード・マシーン(1896-1979年)

(ダンサーも担当)、
オーケストラの指揮はエルネスト・アンセルメ(1883-1969年)

が担当しました。

このバレエのアイデアはジャン・コクトー(1889-1963年)

が考案したものです。

彼はコンサートでサティの「洋ナシの形をした3つの小品」を聴き、そのような音楽に合わせてバレエのシナリオを書こうと考えました。

サティはバレエ音楽を作曲するというアイデア(それまで作曲したことはなかった)を歓迎しましたが、以前に作曲した曲をこの機会に使うことは許可しませんでした。

そこでコクトーはシナリオを書き始め(テーマは3組のサーカス芸人が屋内公演に観客を呼び込もうとする宣伝パレード)、

それに合わせてサティが音楽を作曲しました。

この作品の制作は第一次世界大戦のさなかに始まり、コクトーは企画と製作段階の間、ベルギーの戦場を何度も往復しました。

ピアノ曲の最初のバージョンはミシアに捧げられ、1916年に上演されました。

結局、他の計画(とさらなる陰謀)が中止された後、ディアギレフの支持が得られ、振付は、戦争勃発の直前にパリを去ったワツラフ・ニジンスキーの後任として、バレエ・リュスのプリンシパル・ダンサーでディアギレフの恋人となったばかりのレオニード・マシーンに託されました。

舞台装置と衣装デザインは、当時キュビズムの画家だったパブロ・ピカソに託されました。

衣装デザインに加え、ピカソは公演前の晩餐会に出席する一団の出演者を描いたカーテンもデザインしました。

イタリアの未来派芸術家ジャコモ・バッラは、カーテンやその他の『パレード』のデザインを手伝いました。

1917年2月、サティを除くすべての協力者がローマに集まり、 『パレード』の制作を開始した。

初演は1917 年 5 月 18 日、パリのシャトレ座
で行われました。

劇用の大きなカーテン、舞台装置と衣装はパブロ・ピカソ。


マリア・チャベルスカの写真はハリー・ラックマンが撮影。

詩人のギヨーム・アポリネールは1917年にプログラムノートを書いた際、『パレード』を「一種のシュルレアリスム」(une sorte de surréalisme 無意識の精神を表現できるようにすることを目指し、非論理的または夢のような場面やアイデアを描写しました。アンドレ・ブルトンによると、その意図は「以前は矛盾していた夢と現実の状態を絶対的な現実、超現実、つまりシュルレアリスムに解決すること」)と表現しており、パリでシュルレアリスムが芸術運動として出現する3年前にこの造語が作られたことになります。

バレエ・リュスによる『パレード』のイギリス初演は1919年11月14日にロンドンのエンパイア劇場で上演され、文化イベントとなりました。

『パレード』 の筋書きは、パリのミュージックホールやアメリカの無声映画など、当時の大衆娯楽を取り入れています。

パリの正式な劇場の外、パリの街路を描いています。
ミュージックホールや遊園地など、日常生活のさまざまな要素を再現しています。

『パレード』以前は、大衆娯楽の素材を使用することは、バレエというエリートの世界には不適切であると考えられていました。

ピカソのキュビズム的な衣装のいくつかは厚紙で作られ、ダンサーは最小限の動きしかできませんでした。

楽譜にはいくつかの「騒音を出す」楽器(タイプライター、霧笛、牛乳瓶の詰め合わせ、ピストルなど)が含まれていました。
これらはコクトーによって追加されたものでした(このことはサティはややがっかりさせました)。
クトーは数年前にスキャンダルを引き起こしたイーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」に匹敵する成功を生み出そうとする彼の熱意を示すものと考えられています。

『パレード』は、一般的なストリート エンターテイメントをエリート層にもたらしたという点で非常に革命的でしたが、観客からは軽蔑され、批評家からは賞賛されました。

『パレード』に含まれる ラグタイムは、後にピアノ独奏用に編曲され、独立したピアノ曲としてかなりの成功を収めました。

バレエの初演は数々のスキャンダルを巻き起こしました。

観客の一部はブーイングをし、非常に騒々しく、熱狂的な拍手にかき消されるまで暴動を起こしそうになりました。

反対の多くはピカソのキュービズム的なデザインに集中しており、「sale boche」(汚い工作)という叫び声で迎えられました。

画家のガブリエル・フルニエによると、最も記憶に残るスキャンダルの一つは、『パレード』に否定的な批評を書いた音楽評論家のジャン・プーイ(1876- 1958年)の間の口論でした。

サティは評論家に

「Monsieur et cher ami – vous êtes un cul, un cul sans musique! Signé Erik Satie」

(「親愛なる友人よ、あなたは音楽のない馬鹿だ! 署名、エリック・サティ」)

と書いたポストカードを書きました。
評論家はサティを訴え、裁判でコクトーは法廷で何度も「馬鹿」と叫んだとして警察に逮捕され、殴打されました。
また、サティは8日間の禁固刑を言い渡されました。

2013年、コンプレックス誌のデール・アイジンガーは『パレード』を史上最高のパフォーマンスアート作品の20位にランク付けし、「これまでにもバレエやオペラのコラボレーションはあったが、20世紀初頭のこのアーティスト集団ほど伝統的な形式の概念を打ち破ったものはなかった」と書いています。

サティ作曲「パレード」ピカソの舞台衣装によるプロモーション