音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

実はアイルランドと関係あり

2025-02-06 21:10:00 | 古典
寒い中、サンルームのいちごは咲き続けています。
実はならないけど…やっぱり養分足りないのかな?
後、サボテンさんも元気です。
びよ〜んと伸びています。

こちらは波平さん?

一本だけひょろひょろと伸びてきました。

自宅療養、退屈だなぁ。と、ダラダラ練習していたら、目が覚めるようなことがありました。

これに出ます。えっ!後17日。
しかも、フルートが足りないと言う異常事態。
2ndとPiccoloを両方吹くという荒業。
どちらも吹いたこと無い😭1stはあるんだけど。

断ろうかな?
と思ったけれど、困るだろうなあ?と声掛けていただいたホルンK氏の顔が頭に浮かび…。

四楽章だけだし…。と言っても20分以上。げ〜!
やばい!練習しなくちゃ。
というわけで絶賛練習中。
本当にやばい!
病院の先生に怒られそうです。
でも、音楽があってうれしい💖

ベートーヴェンの交響曲第9については散々やったので、第7番。
この第4楽章はさあ!さっさと行かなくちゃ!って感じがするので、頑張れそうです。

交響曲第7番
ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1811年から12年にかけて作曲されました。

ベートーヴェンは1802年『ハイリゲンシュタットの遺書』を書き、精神的な危機を乗り越えると次々と名曲を生み出しています。

交響曲第7番イ長調作品92

は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1811年から1812年にかけて、ボヘミアの温泉街テプリッツ

テプリッツ 洗礼者聖ヨハネ教会のある城の広場

で健康を回復するために作曲した4楽章からなる交響曲です。この作品はモーリッツ・フォン・フリース伯爵(1777-1826年)
フランソワ・ジェラール作「伯爵とその家族」
に献呈されています。

1813年12月8日にウィーン大学で初演されたとき、ベートーヴェンはこの作品が彼の最高傑作の一つだと言っています。

第2楽章「アレグレット」は非常に人気があり、聴衆はアンコールを求めました。

ベートーヴェンが交響曲第7番の作曲を始めた頃、ナポレオンはロシアに対する軍事作戦を計画していました。

交響曲第3番(おそらく交響曲第5番も同様)に続き、交響曲第7番は、長年続いたナポレオンの支配からの解放を求めるヨーロッパ戦争

を背景に、ベートーヴェンとナポレオンが音楽的に対峙した作品の一つであると思われます。

この時期のベートーヴェンの人生は、聴力の低下が徐々に悪化したことで特徴づけられています。(1819年以降は「会話ノート」が必要となりました。)

この作品は、1813年12月8日にウィーンで行われたハーナウの戦い(1813年10月30日31日フランス対オーストリア)
ハーナウの戦い、オラース・ヴェルネ作、1824年
で負傷した兵士のための慈善コンサートでベートーヴェン自身の指揮により初演されました。

プログラムには、ナポレオンのフランスに対するイギリスの勝利を讃える愛国的な作品「ウェリントンの勝利」も含まれていました。

7番は大変好評で、聴衆はアレグレット2楽章のアンコールを即座に要求しました。

シュポーアは特に、ベートーヴェンの指揮台上での熱狂的な身振り(「スフォルツァンドが始まると、彼は激しい勢いで両腕を引き裂き、フォルテの入り口で空中に飛び上がった」)や「ベートーヴェンの友人たちがコンサートの再演を手配した」ことに言及し、それによって「ベートーヴェンは金銭的困難から解放された」と記しています。

第7番の第4楽章は彼自身が編纂した「12のアイルランドの歌」の第8番目の「私を墓から救ってください」Save me from the grave and wiseをモチーフに展開しています。

ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1712-1773年)

はスペイン領ネーデルランド メヘレン生まれのパン屋の息子です。
1733年にケルン選帝侯領のボンでクレメンス アウグストの宮廷のバス歌手として雇われました。
そのボンで息子ヨハンを育て、孫のルートヴィヒをもうけました。

彼の故郷メヘレンは、アイルランドの伝道師聖ロンバウツ(Rombout;Rumold)の埋葬の地そして修道院領の中心地でした。

そして孫のルートヴィヒは、このアイルランドの民謡から様々な影響を受けています。

「12のアイルランドの歌」より第8番「私を墓から救ってください。」

交響曲第7番 第4楽章



悪評で一度は破棄

2025-02-05 21:07:00 | ロマン派
2月4日さっき、母の手術が終わりました。
付き添いたかったけれど、家で安静中。男たちは仕事でいない。
もう少しずらしてって言ったのに…。

看護師の妹が仕事の合間に手術に立ち会ってくれました。
自分の病院だからね。
会議やら何やらあったみたいだけど、なんとか都合つけてくれたみたい。
無事終わったと連絡ありました。

首の後ろの付け根に肉腫ができていてそれをとる手術です。
良性みたいだけれど、だんだん大きくなってきたから、先生が取りましょうということ、決行しました。
写真送ってくれましたが顔色も悪くない。
土曜日辺り退院です。
それは行くつもり。
少し安心しました。

ジャン・シベリウス( Jean Sibelius )(1865- 1957年)

『カレリア』(Karelia, フィンランド語:Karjala)は、フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスの管弦楽作品。

当初は劇音楽として作曲されました。その後改訂を重ね、現在の形になりました。

1892年にアイノ・ヤルネフェルト
1888年頃
と結婚したシベリウスは、新婚旅行にカレリア地方を訪れました。

カレリアは、フィン人(北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国があります。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族です。)の発祥の地。

シベリウスはカレリア地方の民謡や伝説に、作曲のインスピレーションを得ました。
『カレワラ』(Kalevala、カレヴァラ) は、カレリアとフィンランドの民族叙事詩。[1]19世紀に医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot, 1802年 - 1884年)によって民間説話からまとめられた。フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つ

翌1893年、シベリウスはヘルシンキ大学のヴィープリ(ヴィボルグ、現ロシア領)出身の学生の団体から、その年の秋に行う野外歴史劇のための音楽を依頼されました。

歴史劇は、カレリア地方
カレリア 国境線西側のフィンランドには北カレリアと南カレリアが広がる。白海、オネガ湖、ラドガ湖、フィンランド湾など水域が多い
の13世紀から19世紀までの歴史を7つの場面で描くものでした。

野外劇は1893年11月13日にヘルシンキで上演され、音楽はシベリウス自身の指揮で演奏されました。

アレクサンダー帝国大学
「音楽の音は一音も聞こえず、全員が立ち上がって歓声をあげ、拍手していた。」
— ジャン・シベリウス、弟クリスティアンへの手紙より

発表後の評判は悪く、シベリウスはこれを失敗作として廃棄しました。
しかし、「たいそう優れたものだった」という評価もあります。

この劇音楽のうち1曲を序曲として残し、他に8曲を選びそれを組曲としました。

これらは劇の上演から6日後の演奏会で演奏されました。

組曲はさらに3曲に絞ることにした。

このため『カレリア』は最終的に「序曲」作品10と

「組曲」作品11の2つの作品として1906年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版され、今に残ることになりました。

「カレリア」序曲 作品10
組曲と比較して演奏の機会は少ないです。中間部に組曲の第1曲「間奏曲」と共通の主題が現れる。

「カレリア組曲」作品11
3曲から構成されています。
シベリウスの管弦楽曲のうち比較的よく演奏される作品で、第3曲「行進曲風に」は単独で演奏されることも多いです。

第1曲:間奏曲
劇の第3景、リトアニア公爵ナリモンド

がカレリアの住民から税を取り立てていた時代の場面の音楽。ほぼ1つの主題の繰り返しからなります。

第2曲:バラード
劇の第4景、ヴィープリの城内で吟遊詩人が歌う場面の音楽。
コールアグレのソロが有名です。

ヴィボー城 スウェーデン王国の拠点1293年建築

しかし、この旋律は原曲ではバリトン独唱とホルンが担当しています。

第3曲:行進曲風に(アラ・マルチャ)
劇の第5景、16世紀の場面の音楽。2つの主題からなる行進曲。

劇音楽版の復元
1893年の初演後まもなく、シベリウス自身はこの曲の譜面を廃却しましたが、初演を担当したヘルシンキ交響楽団の首席指揮者であったロベルト・カヤヌスが、自筆譜の一部などを保存していました。

後年、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホによって不足分の譜面が補筆され、1997年にBISレコードによって全曲が世界初録音されました。

それによると、作品全体は序曲および全8幕(第7幕と8幕は続けて上演)10曲で構成され、途中2曲で声楽が導入されています(第1幕で男性民謡歌手による重唱、第4幕でバリトン独唱=組曲版の第2曲に相当)。なお、この序曲は作品10とほぼ同一ですが、劇音楽の方が概してテンポ指定が速いなど、若干の違いがあります。




ジーグを踊りたい

2025-02-04 20:54:00 | バロック
3日月曜日、洗髪のために近所の美容院に行ってきました。
目に水が入ったら化膿するかもしれないので、洗髪はまだ自分でできません。
お風呂は良いのですが…。
4日目もう我慢も限界。

ここは火曜、水曜定休なのですが、月曜日は営業しています。
そして安い。
洗髪とブローで1650円。
予約は要らないし、温かい雰囲気で、「シャンプーだけで申し訳ないです。」と言ったら
「全然大丈夫ですよ。そんなん言わないでください。」と言われて丁寧に洗っていただきました。
それにヘッドマッサージ、ブロー前には肩もほぐしていただきました。

本当にありがたい!
すっきり、頭が軽くなったようです。
ジーグでも踊りたい気分です。

ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully', 1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス王国パリ没

『狂えるオルランド』(くるえるオルランド、Orlando Furioso)は、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533年)レッジョ公国モデナ生まれ、フェラーラ公国フェラーラ没
によるルネサンス期イタリアの叙事詩。全46歌、3万8736行に及ぶ大長編でルネサンス文学の代表作です。

ジョン・ハリントン訳『狂えるオルランド』第3版(1634年)の表紙。初版は1591年
サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュとパラディンの活躍を背景にオルランド(ローラン仏語)の失恋と発狂、エステ家の起源が語られています。

フィリップ・キノー(1635-1688年)

台本によるオペラ。

ローランの楽譜
1685年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でパリ・オペラ座により初演。

1682 年頃のヴェルサイユ宮殿、アダム・ペレルによる版画
1685年3月8日から同劇団のパリの公立劇場であるパレ・ロワイヤル劇場で上演されました。

1761年にパレ・ロワイヤルで再演されたリュリの『アルミード』
リュリは自分の壮大なオペラを上演するためこの劇場に新しい舞台装置を設置させました。

寓話的なプロローグと5幕からなる音楽悲劇の形式をとっています

プロローグ
妖精の王デモゴルゴンがルイ14世を讃え、リュリ

有名な騎士ローランの物語を見たいと頼みます。

カール大帝の甥のローランがカタイ王の娘アンジェリークを愛していますが、実は彼女はアフリカ軍の兵士メドールに恋をしています。

第1幕
ローランが愛の証としてアンジェリークに魔法の腕輪を贈ります。

第2幕
アンジェリークは森の中の愛の泉に近づきます。ローランを見ると、彼女は魔法の指輪を使って姿を消し、ローランは絶望してさまよい立ち去ります。

その後メドールが現れ、アンジェリークに恋しており、自殺しようとしているとつぶやきます。
その時、アンジェリークは姿を現し、彼への愛を告白します。

しかし彼女は、ローランがそれを知ったら激怒するのではないかと心配しています。

第3幕
アンジェリークとメドールはすぐに結婚し、


ローランから逃げる計画を立てます。

第4幕
アンジェリークがどこにも見当たらず、ローランが絶望します。
彼は洞窟の壁にアンジェリークとメドールの名前が刻まれているのを見つけます。

近くで村の結婚式の音が聞こえ、村人たちはメドールとアンジェリークの脱出について話します。
また、村に泊めてくれたお礼に2人がくれたローランのブレスレットを見せます。
ローランは狂気に陥ります。

最終幕
妖精ロジスティルの影響で、眠っているローランに古代の英雄たちの夢が訪れ、アンジェリークへのむなしい愛を捨ててキリスト教軍に戻るよう促します。

ローランは目覚め、理性と栄光への欲求を取り戻し、戦いへと出発し勝利します。

オペラ「ローラン」よりジーグ

ジーグはバロック時代の組曲を構成する舞曲の形式の一種。
発祥地は、グレートブリテン島やアイルランド島と考えられています。

giga(伊、古独)とよばれる中世の擦弦楽器の名称とその奏者の名前か、もしくはgiguer(古仏)の跳躍するという説があるものの、明らかになっていません。 

フランス式ジーグ
多くの場合、複合3拍子(8分の6拍子、4分の6拍子)となり、付点リズム、跳躍などを設け、複雑なアクセントやフーガ的書法が用いられ、サラバンドのすぐ後ろに置かれます。

イタリア式
フーガ的書法をとらずに、基本和声の上に急速に駆け巡る経過句的形式で書かれます。単純明快で分散和音的なつくりになっています。

リュリ 歌劇「ローラン」よりジーグ




東西の鬼

2025-02-03 21:00:00 | ロマン派
2月2日は節分。
うちではいわしの煮付けと、小さな鰯の唐揚げを食べました。
恵方巻も今年は切り分けた巻き寿司一本を3人で分けておしまい。

節分(せつぶん、せちぶん)は雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことだそうです。

節分は「季節を分ける」ことも意味しているそうです。

江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多いです。

太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていました。

旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになります。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられていたため、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われていました。

葛飾北斎画:『北斎漫画』
『節分の鬼』豆撒き
宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていました。

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去されました。

平安時代頃から行われている「追儺」から生まれました。
中国から伝わったこの行事は日本に定着していき、現在の節分の元となりました。

『吉田神社追儺』 - 都年中行事画(1928年)
『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まっています(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」(この年、天下諸国に疫病あり。多くの民が死に、はじめて土牛を造り大儺(だいだ)す)。

曾我蕭白《雪山童子図》(鬼)(1764年)。
これが室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となっていきました。

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、
当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)

を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになりました。

鬼を撃退するためにタントラを唱える空海を描いた葛飾北斎 (1760–1849) の肉筆画
西洋音楽の中で鬼と言うとゴブリンやトロール。

ゴブリンは、洞穴、木立に住み、幼い子を食べる、概して邪悪なものです。

「死者とともに現れ、人間へ妖精の食物を食べるよう誘惑します」
醜く不愉快な小鬼
悪戯好きな家付きの妖精
教会の墓地の地下や岩の裂け目、古い木の根元に住む妖精
を指し、彼らはピレネー山脈の割れ目から発生し、ヨーロッパ全土へ広まったといわれています。


森のトロール (テオドール・キッテルセン, 1906).
トロールは、北欧の国、特にノルウェーの伝承に登場する妖精の一種です。

当初は悪意に満ちた毛むくじゃらの巨人として描かれ、それがやがて小さい身長として描かれました。

変身能力があるのでどんな姿でも変身できます。

鼻や耳が大きく醜いものとして描かれることが多い。
別格のトロールたちには二つまたは三つの頭があります。

ノルド語の「Troll」は、怪物や妖精を指す一般名詞で、『巫女の予言』ではスコルについて「トロッルの姿」をしていると表現され、『エッダ』(神話)では「トロッルは天の輪を呑みこむ」とあります。

腕力が強く、魔術を使います。

ノルウェー国旗の盾を持つバイキング姿のトロール(マグネット製)
一般的なトロールについてのイメージは、巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せます。
醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くない。凶暴、もしくは粗暴で大雑把、というものです。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェーベルゲン没

1867年イプセンの依頼により彼の戯曲「ペール・ギュント」にグリーグが音楽をつけました。

イプセンからグリーグへの手紙(1874年1月23日)
戯曲「ペール・ギュント」のあらすじ
落ちぶれた豪農の息子で、母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントは、かつての恋人イングリを結婚式から奪取して逃亡します。

しかしイングリに飽きたら彼女を捨て、たまたま出会った緑衣の女(トロルの娘)と婚礼寸前まで行くが逃げ出します。

密かに帰宅しましたがその場で病床のオーセは息を引き取ります。

再び逃亡したペールを追ってきた純情な女ソルヴェイと恋に落ちますが、そこへ緑衣の女が奇怪な小児を連れて現れたので、ペールはソルヴェイを待たせたまま放浪の旅に出ます。

山師のようなことをやって金を儲けては無一文になったり、精神病院で皇帝になったり遍歴した後に老い、身一つで帰郷します。

死を意識しながら故郷を散策していると、ボタン職人と出会いますが、彼は天国に行くような大の善人でもなく地獄に行くほどの大悪党でもない「中庸」の人間をボタンに溶かし込む役割の職人でした。

「末路がボタン」というのだけは御免だと、ペール・ギュントは善悪を問わず自分が中庸ではなかったことを証明しようと駆けずり回りますが、トロルの王も「やせた男」もそれを証明してくれませんでした。

彼は最後の証人として会ったソルヴェイに子守唄を歌ってもらいながら永眠します。

ペール・ギュントが訪れる山の王の宮殿でトロールたちが踊ります。  

アーサー・ラッカム山の王の城にて




放埒な王が愛したタルト

2025-02-02 21:00:00 | バロック
京都三条若狭家

の稚児餅。
祇園祭の時期に食べるお餅です。
病院の帰りに通っただけ、買ってませんが、白味噌の餡を求肥で包んだお菓子。
美味しそう!

神馬堂の焼き餅は買って帰りました。
180円。味も変わっていません。
トースターで温め直していただきました。

家で安静2日目。
2月になりました。
左目はまだ赤いですが、身体は元気になってきました。

メイズ・オヴ・オナー・タルト(英語: Maids of Honour tart)はイングランドの伝統的な焼き菓子で、甘みをつけたチーズカードをつめたパイ生地を用いたタルトです。
別名メイズ・オヴ・オナー・ケーキ(Maids of Honour cake)。

薄いパイ生地にバターシロップをつけ、中にレモンカードなどを用いたクリームを入れたお菓子です。
カッテージチーズやクリームチーズを用いるレシピもあります。

ジャムやアーモンド、ナツメグを加える場合もあります。

ベイクウェルタルト

ショートクラスト生地を敷いた上にジャムやフランジパーヌの層をのせ、さらにトッピングとしてアーモンドフレークを加えたイングランドの砂糖菓子
など他のイギリスの伝統菓子に似た製法で作られ、生地やフィリングについてはいくつかバリエーションがあります。

伝説によると、このタルトはヘンリー8世(1491-1547年)


の時代までさかのぼると言われています。

このタルトについて広く知られている俗説として、王妃のメイド・オヴ・オナー(女官たち)がケーキを食べているところを見て、そのケーキを食べてみたいと王が所望したという逸話があります。

王はこのケーキを美味しいと思い、女官たちにちなんだ名をつけました。

さらに、そのタルトを作った女官は監禁されて王のためだけに菓子を作らねばならなくなったという物語もあります。

また別の話として、このタルトはその時女官であり、ヘンリー8世のために菓子を作ったアン・ブーリン(1501-1536年)

平民から王の愛人、王妃になりましたが、1000日で廃位、罪を得て処刑されました(男児を産めなかったからとも言われています)

ロンドン塔のアン(19世紀画)

にちなんで名付けられたという伝承もあります。

しかし逸話はいずれも伝承で、正確なことはよくわかっていません。

サリー州のキュー、キュー植物園の近くにあるニューウェンズのティールームは「元祖メイズ・オヴ・オナー」("The Original Maids of Honour") を名乗っています。
1850年にレシピを買い取って営業を始めたと言われています。

最初にこのタルトが「メイズ・オヴ・オナー」という名称で印刷物に記載されたのは1769年頃のことで、18世紀末のレシピも残っています。

ヘンリー8世の頃のイングランドの音楽家と言えば、

トマス・タリス(Thomas Tallis, 1505 - 1585年)は、
イングランド王国の作曲家、
オルガン奏者。

青年期にはロンドンの教会やウォルサム・アビー修道院(1536年頃 - 1540年)
のオルガン奏者をつとめ、カンタベリー大聖堂


での職を経た後、1542年より王室礼拝堂のオルガン奏者となっりました。

1572年からは弟子のウィリアム・バード(1543?-1623年)

も王室礼拝堂に着任し、同僚として共に働きました。

タリスの仕えた国王は、テューダー朝のヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世とエリザベス1世の4人です。

カトリックとプロテスタントが激しく対立する宗教改革の時代に生きたため、ラテン語および英語による作品が残されています。

残された作品の数は少ないですが、素朴で美しく慎ましい感情が表現されています。 

タリス自身はカトリックでしたが、多くはプロテスタント向けの英語の詞で作曲されています。

1575年にタリスとバードは、エリザベス女王から五線紙に音楽を印刷するための許可を得ました。

タリスはまた、エリザベス女王によって年30ポンド相当の収入が得られる土地を与えられました。

この時期のオルガンはショート・オクターブ(初期の鍵盤楽器(チェンバロクラヴィコードオルガンにおいて、低音域を拡張するために変則的に鍵に音を割り当てる方法)もまだ用いられていた時代なので、器楽作品は地味で目立たない印象を与えることが多いです。

タリスが名声を決定的にしたのは「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」のような過剰多声楽曲です。

和声的には単純でも、聴取の限界を超えた声部が幾重にも重なり、他にない荘厳さを生み出します。

後半、バス声部の完全四度進行の反復が宗教的な瞬間の創出に成功しており、数度のゲネラルパウゼ(一時停止)で聴神経が一挙に引き締まります。

この時代には当然和声理論は確立しておらず、同時代のイタリアのルネサンス音楽よりも簡素な対位法の下で自由に旋法内の音を選べたのでできた表現でした。

1567年に書かれた「大主教パーカーのための詩編曲」の第3曲の旋律は、後にヴォーン・ウィリアムズが「トマス・タリスの主題による幻想曲」に用いたため、特に有名になりました。また、この第9曲は「タリスのカノン」という別名を持っています。

40声のモテット
「我、汝の他に望みなし」
Spem in alium

あなたの他に何も望みを持たず

私は、あなたの他に何も望みを持たず、

イスラエルの王よ、あなたは時に怒り、時に慈悲深くあり、
そして、人がすべての罪に苦しんでいることから解放してくださいます。

主なる神よ。天と地の創造主よ。
かえりみて下さい。
卑しき私たちを。





アントレ行列の曲

2025-02-01 20:54:00 | バロック
7日にお参りした上賀茂神社。
お社の奥の神山に神が降臨されたことで神山をお祀りしている世界遺産。


葵が御神紋で源氏物語で、光源氏が葵祭の主役勅使代(天皇の命を伝える役割)を務めたことが書かれています。

葵の御神紋
大學のゼミの出席扱いになるので葵祭を見学に行ったことも…。
葵の花を飾って平安時代と変わらない装束で行列が行きます。

御所を出発して下鴨神社を経由して終点が上賀茂神社です。
葵祭は4月。冬は静かです。
節分祭の準備中でした。

レオポルド モーツァルト(1719-1787年)神聖ローマ帝国自由帝国都市アウクスブルク生まれ、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク没

1719年、アウクスブルクで製本師の父ヨハン・ゲオルク・モーツァルト(Johann Georg Mozart 1679年-1736年)と母アンナ・マリア・ズルツァー(Anna Maria Sulzer 1696年-1766年)の長男として生まれました。
父方は代々石工職人、母方は代々織師でした。

1737年、ザルツブルク大学に入学。哲学と法律を学ぶはずでしたが、音楽に熱中して1739年に退学となりました。
ザルツブルクの名門貴族トゥルン=ヴァルサッシナ・タクシス伯爵家の従僕兼楽士として採用され、以後、本格的に音楽家としての道を歩み始めます。

1743年、ザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者(無給)に採用され、以後ザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach) 1753年 - 1771年


の元で仕えます。

1747年、アンナ・マリア・ペルトゥル(Anna Maria Pertl 1720年-1778年)

と結婚。
7人の子供をもうけますが、成人したのは三女の愛称ナンネル(Nannerl 1751年-1829年)

と三男のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年-1791年)

のみでした。

1747年、ザルツブルク宮廷室内作曲家に就任。
1757年、宮廷作曲家の称号を授与されます。

1758年、ザルツブルク宮廷楽団第2ヴァイオリン奏者に就任。
1763年、宮廷副楽長に昇進。この後死ぬまでこの地位に留まりました。

1785年、ウィーンへ赴きヴォルフガングと再会。これが2人の最後の別れとなりました。
この時、息子の勧めでフリーメイソンに入会しています。

1787年、ザルツブルクでナンネル夫妻らに看取られて68歳で死去し、聖セバスティアン教会の墓地に埋葬されました。

ザルツブルク・聖セバスティアン教会にあるレオポルトの墓石(右)。中央はコンスタンツェの墓石。

ザルツブルク司教と決別していたヴォルフガングは臨終の床に立ち会わず、葬儀にも参列できませんでした、

友人のゴットフリート・ジャカン(Gottfried Jacquin)宛の手紙で
「最愛の父が死んだと知らされた。僕の心境を察してくれるだろう!」と悲しみの情を吐露しました。

アントレ Entree -はバレエの始まりに演奏される曲で、この曲に乗って行列して入場します。



対決!エラールvsプレイエルハープ編

2025-01-31 21:00:00 | 近代
病院最後の日の朝食。
薄い食パン、牛乳、パイナップル。オムレツ…かな?ミンチ肉がうっすら入っていました。

7日午前中に退院ということで、帰りました。
途中、上賀茂神社でお礼参り。
「手術無事終わりました。ありがとうございました。」
三条通り商店街の町中華、台湾風

エビチリ定食1380円
サラダと

大根餅もついてます
でお昼を頂いて帰りました。
「あ〜!娑婆に帰ってきた気分。」
とは言っても、まだ無理はできません。
安定するまで走るな飛ぶな
特に転ぶな〜っ!です。
つまり安静に。

こういう時は、やっぱり音楽!

モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国シプール生まれ、フランス共和国パリ没

フランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれました。

生家は、オランダの建築家により17世紀に建てられたもので、アムステルダムの運河に面する建物さながらの完全なオランダ様式を呈しています。

ラヴェルの生家
母マリー(1840年 - 1917年)はバスク人、父ジョゼフ(1832年 - 1908年)はスイス出身の発明家兼実業家でした。

同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878年 - 1960年)が生まれました。

左からエデュアール、母マリー、モーリス、父ジョゼフ
ラヴェル自身が生後3カ月しか滞在しておらず、後の25年間戻ることがなかったことから、バスク地方の表現への直接的な影響については議論がありましたが、母親に非常に親しみを感じ、その存在を通じてバスクの文化的な遺産を学び、最初の思い出は母親が彼に歌ったバスク民謡だったといいます。 

サン・ジャン・ド・リュズのラヴェルの休日
成人になると、定期的にサン=ジャン=ド=リュズに戻り、休日を過ごしたり仕事をしたりしました。

やがてパリ音楽院へ入学。
音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学びました。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となりました。

1901年、ラヴェルの個性が確立された『水の戯れ』 (Jeux d’eau) が書かれ、曲は当時の音楽的流行から自立したものとなりました。

1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされました。 その中の一曲
『序奏とアレグロ』(Introducción et allegro, )
は、1905年に作曲した、ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲。

エラール社のダブル・アクション方式のペダルつきハープの普及のために、依嘱された室内楽曲です。

初演は1907年2月22日に、フランス写真協会主催の演奏会においてパリで行われました。

クロード・ドビュッシー(1862-1918年)

がハープと弦楽合奏のために作曲した『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』とほぼ同時期の作品です。

ドビュッシーの作品の方はプレイエルの新型の半音階ハープの普及のために作曲された作品で、エラールはこのプレイエルの動きに対抗するためにラヴェルに依頼しました。

『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』が実はエラールのハープでも演奏可能だったのに対し、『序奏とアレグロ』をプレイエルのハープで演奏するのはまったく不可能でした。

エラールのハープ

1820年エラール社のハープ(7音を半音ずつ上げることと下げることができます)
が現代のハープの原型となったのに対して、プレイエル

プレイエル社クロスストラングハープ、弦を増やすことで半音を出そうとしましたが演奏するのが難しかった
の発明品は忘れ去られてしまいました。

『序奏とアレグロ』は変ト長調、単一楽章のソナタ形式ふうの作品で、美しい2つの旋律主題を軸に繰り広げられています。

序奏は4/4拍子、主部はワルツ風の曲調となり3/4拍子。

ハープのやや長めの印象的なカデンツァも挿入されていて、室内楽編成によるハープ協奏曲のようです。


教育で力を発揮した音楽家

2025-01-30 21:00:00 | 近代
病院のWi-Fiのせいか、なぜかログアウトし、その後はまたしてもログインできず、帰ってアンインストールをして、ログインしたら入れました。
手術の夜も下書き保存していたのに投稿9:00にできず😭💦
今頃になってしまいました。

1月29日は左目の手術でした。
朝、次男が京都の病院まで送ってくれました。 
8:30から入院手続きなので、
7:00に出発。
6:59日の出。
今日も快晴です。
失敗率の少ない手術とは言え、やっぱりどきどきします。
今回は12:30から手術。
次男は「めしは手術の後だな。」と言ってでていきました。

コロナで面会は手術当日でも30分までだから。
また、流行っているみたい。

前回は2時からだったので、ゆっくりだったのですが、診察。
手術前の目薬16回。
お昼は先にでてきました。
「途中だったら温め直しもあるので食べててくださいね。」

と、言うことで食べました。
…なんと前回と全く同じ!
曜日で決まっているのかなぁ?
まあ、最後までしっかり食べて、結局1番過ぎに移動。
「病院あるあるやな。」と後で次男。

「早く呼び出しといて待たされる。」まあね。

手術は「ちょっと心配だったけど、まあうまく行きました。」と先生。

よかった。
30日10:00には退院します。

「2回目なのでちゃんと動かさないでくださったので、やりやすかったですよ。」ですって、だって1回目は「上むいて、上!」とか「違うそっちは右!後1ミリ下!」とか立て続けに言われて視界はぼやけてるしどこをどう見ているのか?自分でもわからないのに、どうすればいいんだ〜!って感じ。
最後の方に「反対の目と同じところ明かりの方を見てくれたらいいんです。」って言われてやっと納得。
先生ってコミュ力いるなぁ!私も生徒さんに同じことしてるんではないか?と3週間考えた末の今回。 
音楽の教え方も同じ。
以前学んだ師匠出口和世さんのお話し。

1相手が変わるという確信がない、(理解できるように言えないと思う時は)言わないこと

2.批判は一度目は親切、2回目はおせっかい、3回目は余計なお世話、4回目は暴力。

3、誰かが叱られているときは、それに重ねて言わない。集団でいうのは暴力

などなど他にもいろいろあったような気がしますが、レッスンの時には特にこの3つは思います。
なかなかコミュニケーションは難しい。
まだまだ修行しなければ。

ナディア ブーランジェ(1887-1979年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

実家は代々音楽家の家庭で、
父エルネスト・ブーランジェ(1815年 - 1900年)は、パリ音楽院で1835年にローマ大賞を受賞したオペラ作曲家でした。

エルネストは母校で教鞭を執り、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世(1179-1146年)

の子孫)門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚しています。

ライサはエルネストの43歳年下でした。2人の間に1888年に生まれたのが長女ナディアで、1893年に生まれたのが夭折した次女リリでした。

1897年、10歳でパリ音楽院に入学し、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドール

とガブリエル・フォーレ

に、伴奏法をポール・ヴィダルに師事しました。

在学中は和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏、フーガで首席になり1904年卒業。

長年の目標としてきた1908年のローマ大賞では次点に終わりました。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していません。

1908年の提出作品は騒動を起こしました。
声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏曲を提出しました。

カミーユ・サン=サーンス

などの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれています。
ブーランジェがローマ大賞に挑んだのはそれきりでした。

ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていました。

6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアでした。 

リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時も、姉の手引きを受けていました。

ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていました。

姉妹の父エルネストが1900年に没したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのですが、今度はリリが1918年に急逝すると、ナディアは作曲を辞めました。

リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していましたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていました。

ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》があります。

《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョ(1852-1914年)

のために作曲されましたが、自信不足や極度の自己批判のために、数多くの改訂を加えています。

プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られています、 

後者は1914年の上演が計画されていましたが
同年にプニョが他界したためと、第1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わりました。

1912年に指揮者としてデビューを果たしました。

主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団やボストン交響楽団、ハレ管弦楽団、BBC交響楽団などを指揮しました。

ソリストとしても活動し、1925年にアメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドに委嘱した《オルガンと管弦楽のための交響曲》の初演でオルガンを弾きました。

1907年にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920年より、アルフレッド・コルトーのエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執りました。
1921年には、フォンテーヌブロー・アメリカ音楽院
で和声法の教授に就任して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎されました。

ブーランジェはジャズやストラヴィンスキーなど新しい音楽にも態度を開き、学生一人一人が自ら才能を発揮できるように仕向けたので、多くの生徒が彼女の門をたたくようになりました。

ブーランジェは最終的に1948年に院長に昇格しています。
またアメリカのロンジー音楽学校でも教鞭をとりました。

第二次世界大戦中はアメリカに過ごして、ウェルズリー大学、ラドクリフ大学、ジュリアード音楽院の教壇に立っています。

1946年から1957年までパリ音楽院のピアノ伴奏科で教授を務め、晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979年に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送りました。

1979年、パリで92歳で逝去しました。
歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じ墓に葬られています。

ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法、対位法、楽曲分析、ソルフェージュ、スコアリーディング、伴奏法(ソルフェージュの応用)などです。

しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》

を暗譜することと、しばしばバッハが行なっていたように、フーガを即興演奏できるようになることが要求されました。

世界各国から非常に数多くの学生を集め、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリア、カナダ、トルコ、極東からも学生を集めました。

1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家でした。

彼らはブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立しました。

ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇にほとんど絶え間なく浸透しました。

コープラン、バークリー、バーンスタイン、ピアソラ、バレンボイム、ホロヴィッツなどなど
大勢の門下生を育てました。

ピアノと管弦楽のための変奏幻想曲
la Fantaisie variée pour piano et orchestre de Nadia Boulanger



田舎の生活

2025-01-29 21:00:00 | ロマン派
先週末に行った井手町。
町役場の道の駅で野菜を買った後、
橘諸兄縁りの井提寺(いでじ)の跡を見てきました。

と言ってもお寺の名残りの石柱が残っているだけです。
長く伝説の中にだけ存在していましたが、2001年に発見されました。

橘諸兄(たちばな の もろえ、684−757年)は、敏達天皇(びだつてんのう、538−585年)の後裔で美努王(みぬおう・みのおう)の子。

橘諸兄・『前賢故実』(江戸後期〜明治の伝記集)より

元の名前は葛城王(かつらぎのおおきみ)でした、

後、母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぎ橘諸兄と名乗りました。
翌年に天然痘が大流行し、当時の政治首班だった藤原四兄弟などが次々と病死し、同年9月の時点で主な公卿が当時従三位参議だった鈴鹿王と諸兄の2人のみとなってしまいました。

そのため冠位を得て
聖武天皇を補佐し、権勢を振るいました。
740(天平12)年の恭仁京造営
恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)
にも関わりました。
しかし、孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が権力を握り引退。

大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もあるそうです。

『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、信憑性をもつものとされています。

ここは橘諸兄が平城京の北部山背国綴喜(現在の綴喜郡井手町)に造営した別荘(玉井頓宮)跡と考えられており、別荘内に母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺として井出寺(井堤寺・廃寺)を建立したとされています。

井手寺(井堤寺)は、東西南北とも約160メートルの規模で塔や金堂を中心に七堂伽藍の整った大きな寺であったと伝えられています。

井手寺跡周辺では、平成16年から本格的に発掘調査がはじまり、彩色を施した「垂木先瓦」や「軒丸瓦」「軒平瓦」、建物の礎石をおいた跡などが発見され、引き続き調査が行われています。

万葉集に橘諸兄の句が残っています。

あかねさす昼は田 賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹(せり)これ

解釈 昼間は班田の仕事で忙しく、夜の暇(いとま)に摘んだのです、この芹(せり)は。

丈夫(ますらを)と思へるものを太刀(たち)佩(は)きてかにはの田居(たゐ)に芹ぞ摘みける

解釈 立派な方だと思っていましたのに、腰に太刀を佩(は)いたまま、蟹(かに)のように田の中を這い廻って芹を摘んでおられたなんて。

墾田永年私財法を作った橘諸兄は激務のために忙しく、仕事が終わった夜になってから農地に入り芹を摘んでいたようです。

権勢を奮っていた彼も、つかの間、自然に触れて癒やされました。
後年、閑職に追われた橘諸兄も、案外田舎の生活を楽しんでいたのかも。

エデュアルド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン =ノルウェーベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1869-1871年26歳から28歳に作曲したピアノ曲

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19

1867年グリーグは従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)

とコペンハーゲンで出会い、結婚しました。
新婚のグリーグが憧れ、思い描いた田舎での生活。

1877年には、故郷の東ベルゲンに移住し、1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、そこで生涯をニーナと共に過ごしました。

「田舎の生活の風景」
Folkelivsbilder, Op.19
1.ベルゲン
Auf den Bergen
2..ノルウェーの結婚式Norwegischer Brautzug
3.ここから
Fra






「スペードの女王」

2025-01-28 21:00:00 | ロマン派
山城の森。
26日に行った森。
里山の近くですが、原生林が広がっています。

倒木に見事な苔。

私は近づかないけれど、何を思ったのか倒木の上を歩き出す夫。
何気ないように見えますが、先の方は川が流れていてかなり高いです。
「怖いから帰ってきて!」と思わず叫びました。
普段は穏やかなのですが、時々ギャンブラー。
なんどか驚かされたことがあります。

「スペードの女王」はアレクサンドロ プーシキン(1799-1837年)ロシア帝国モスクワ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
の短編小説です。
1834年雑誌「読書文庫」に掲載され、人気を博しました。

サテン金藤紙を使ったトランプにみるスペードの女王(アドルフ・ヨシフォヴィッチ・

1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地オレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留しました

しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになります
この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士などとともに『スペードの女王』が書かれました

1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきました。

マリインスキー帝国劇場の経営陣は「スペードの女王」。イヴァン・フセヴォロシスキー

に1887年から1888年に草案を起こさせ、オペラの作曲をピョートル チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

に委嘱しました。

当初は依頼を断ったチャイコフスキーでしたが、1889年に承諾することにしました。
台本を作成したモデスト・チャイコフスキー

彼は同年の暮れにかけて劇場の支配人らに会い、題材について議論するとともに一部のシーンの下書きを行うなどしました。

オペラの総譜はフィレンツェでわずか44日間で仕上げられました。

後日、主人公の役を演じることになったテノール歌手と打ち合わせを行い、第7場のゲルマンのアリアに対し異なる調性を用いて2つの版を作成しています。

変更点は印刷譜の第1版と第2版の校正記録と添付の書類により確認できます。

チャイコフスキーは作曲を行う傍ら台本にも手を加え、一部のテクストを変更するとともに2つのアリアに自作の歌詞を追加しています。

作曲者チャイコフスキー(中央)と、初演でゲルマン役を演じたニコライ・フィグネル(左)およびリーザ役を演じたメデア・マイ=フィグネル(右)《1890年撮影》

オペラ「スペードの女王」
平民出身の若者ゲルマンは軍隊での仲間の貴族たちがトランプの賭けをしていても、そばで見ているだけで入ろうとしません。

ゲルマン
駐屯地の近くに住む伯爵夫人は「スペードの女王」と呼ばれています。彼女は賭けで負け知らず。それは昔情事と引き換えに賭けに勝つ秘密を手に入れたと、噂されています。

プーシキンの伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。賭博を好み、晩年は視力が衰えた彼女のため大きな書体のトランプが用意されていたという。またトランプで負債を負った孫に勝ち札を教えて負けを取り戻させたエピソードも実際に伝わっています。

ゲルマンの仲間の1人エレツキー侯爵が伯爵夫人の孫リーザと婚約したと自慢しています。

リーザ、伯爵夫人、エレツキー
リーザは自宅で鬱々としています。
伯爵夫人に婚約を勧められてしまいましたが、実はその横にいたゲルマンに恋していました。

そこにゲルマンがやってきて「あなたが他のやつと婚約したと聞いて自分を拳銃で撃つ所でした。」と言います。
そこに伯爵夫人がやってきたので、ゲルマンを匿います。

夫人が去ると気持ちに負けてゲルマンの抱擁を受け入れてしまいます。

後日エカテリーナ二世の仮面舞踏会の喧騒の中で、リーザはゲルマンにこっそり頼まれていた祖母の部屋の鍵を預けます。

夜中、伯爵夫人の部屋に忍び入ったゲルマンは夫人の帰宅を待ちます。
夫人が寝室で横になったところに姿を現し、賭けに勝つ秘密を教えるように迫ります。

答えない夫人に、拳銃を取り出し脅すと、夫人はそのまま倒れて亡くなります。

そこにリーザがやってきて、自分が心を捧げた恋人は自分より、賭けの秘密の方が大切だったのだと知り、涙に咽びます。

兵舎の自室に帰ったゲルマン。
そこに窓をノックする音が聞こえます。
開けてみると伯爵夫人の幽霊が立っていて、「リーザを守るために秘密を教えなければならない。」と言います。

「3.7.1。」

ゲルマンの手紙にリーザは真夜中の土手にやってきます。
ゲルマンもやってきて、話しますが、ゲルマンは取り憑かれたように「3.7.1」と伯爵夫人の話ししかしません。

リーザはやはりゲルマンは伯爵夫人の秘密にしか興味がないのだ。と絶望し、走り去ったゲルマンを見送った後、自ら命を絶ちます。

賭博場でリーザの元婚約者エレツキーと賭けをするゲルマン。
教わった通りに3を賭けると勝ちます。
財産を7に賭けると、また勝ちます。
勝てると信じたゲルマンは最後に1に全財産を賭けます。
賭けが始まり1に賭けたはずのカードを見るとそのカードはなぜか「スペードの女王」。

伯爵夫人の幽霊の哄笑が響き渡り、ゲルマンは狂い、自ら死にます。

伯爵夫人の幽霊が出てきて賭けの秘密を教えるシーン