音楽の喜び フルートとともに

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「不死鳥」低音のための協奏曲

2025-01-27 21:00:00 | バロック
実家の梅の木。つぼみが膨らんでいました。
花まではまだ早いですが、春はもうそこまで来ているようです。
最高気温12度、来週にはまた寒くなるようです。

うちの裏庭にはジョウビタキ(尉鶲、常鶲)がやってきました。
渡り鳥で西日本では冬の間だけいるそうです。
うちで見たのは初めて。
りんごでも枝に刺しておけばよかった。

ミシェル・コレット(Michel Corrette, 1707 - 1795年)
フランス王国ルーアン生まれ、フランス共和国パリ没

は、フランスのオルガニスト、作曲家、音楽教則本の著者。
父はオルガニストで作曲家でした。

1737年頃から1780年まで、パリのイエズス会の大学でオルガニストを勤めました。
1773年以前にイングランドに旅したことも知られています。

1780年、アングレーム公爵

アングレーム公爵夫人(ルイ16世とマリー アントワネットの娘テレーズ、従兄弟のアングレーム公爵と結婚しました。)
にオルガニストとして仕え、15年後、87歳でパリで亡くなりました。

彼が作曲した、舞台のためのバレエ音楽とディヴェルティメントの中には、
『Arlequin(アルルカン)』『Armide(アルミード)』
『le Jugement de Midas(ミダスの審判)』
『les Âges(時代)』
『Nina(ニナ)』
『Persée(ペルセウス)』
があります。
オルガン協奏曲など多くの協奏曲を作りましたが、その中でも25曲のコミック協奏曲が有名です。
その他にも、ソナタ、歌曲、室内楽器楽曲、クラヴサンのための小品、カンタータ、宗教声楽作品などがあります。

『The Grove Concise Dictionary of Music』にコレットの項目があるが、「彼の音楽のほとんどは安っぽく取るに足らず、彼の作品の多くは通俗的なメロディが使われている」と評価が低く、その後散々な批判がされてきました。

しかし、それは古典派の時代に入っていたにもかかわらずバロック時代のスタイルで作曲し続けたためでは無いか?と思います。

彼の最も大きな音楽史的な功績は
オルガンの演奏や作曲の他に、コレットは演奏会を運営し、音楽を教えたために多数の教則本を書いたことです。

彼は20に近いさまざまな楽器(ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート、リコーダー、バソン、クラヴサン、ハープ、マンドリン、声楽などなど)のための音楽教則本を書きました。
タイトルは、『Art de se perfectionner sur le violon(ヴァイオリンを完璧に弾きこなすための技術)』とか、『L'Ecole d'Orphée (オルフェウスの学校)』といったようなもので、フランスとイタリアのスタイルを書いたヴァイオリンの専門書もあります。

そうしたコレットの教育の仕事は「現代の演奏技術に明晰な洞察を与える」という功績を残しました。

「協奏曲 不死鳥」は低音楽器のために書かれました。
作曲年代はわかっていませんが、珍しい楽器編成のせいか演奏機会は現代でも多いです。

4つのヴィオラあるいはチェロ、バスーン、あるいは3つの低音楽器と通奏低音のために書かれています。

CONCERTO LE PHENIX / Michel Corrette




フレンチ玉ねぎスープの頃

2025-01-26 21:00:00 | バロック
長野県民のソウルフード、ミルクパン。

夫が長野出張で買ってきました。ミルククリームがたっぷり入っていて濃厚なのにさっぱりしていておいしかった。

他には

お多福豆

老舗だるまのアウトレットらしいです。潰れた豆で作られていますが、時々固まりがあって味は確かにだるまのお多福豆。
甘いけれどまろやかな甘さでこれ好きです。
他にも甘いものをあれこれ買ってきました。
家でじっとしている身には気晴らしになってありがたいです。
枚方は今日も暖かかったです。

パリのご当地グルメと言えば
フレンチオニオンスープ(スーパ ロニョンsoupe à l’oignon)

ローマ時代からの長い歴史の中で、オニオンスープは形を変えて存在し続けていますが、この人気の料理を改良して広めたのはフランス人でした。

言い伝えでは、ルイ 15 世が狩猟小屋で料理をしているときにこの料理を考案したと言われています。
食糧庫が空になっていることに気が付いたルイ 15 世
(1710-1774年)

が、バターとシャンパンを加えてスープを作りました。
これがフランス中に広まったという言い伝えがあります。
真偽の程はわかりません。

フランスのオニオンスープ、スーパ・ロワニョン( soupe à l’oignon)は、タマネギをバターや油できつね色になるまでじっくりと炒めます。

ブイヨンを注いでことことと煮込みます。

かりっとトーストしたフランスパンの輪切りを一切れスープ皿に入れ、スープを注ぎ、おろしたエメンタールチーズ、グリュイエールチーズまたはパルメザンチーズをふりかけて食べます。

耐熱性の器にスープを注いでからフランスパンを浮かべ、チーズをふりかけてからオーブンに入れ、焼き色がつくまで焼くとスーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)します。

フランスでは二日酔いに効くと言われています。

ジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683-1764年)フランス王国ディシャン生まれ、フランス王国パリ没
ルイ14世と15世の治世を生き、その音楽は重用されました。

ヘーベの祝祭または、抒情の才能

1739 年の作品。
プロローグと 3 つの作品(幕) からなるオペラ バレエです。

台本はアントワーヌ・ゴーティエ・ド・モンドルジュ(1707-1768)によって書かれました。この作品は、1739 年 5 月 21 日にパリのパレ・ロワイヤルにあるアカデミー・ロワイヤル・ド・ミュージックの劇場で初演されました。

1679 年のパレ・ロワイヤルの眺め。劇場は東棟 (右側) にありました。

詩(歌)音楽、バレエを三つの愛のエピソードを若さの女神ヘーベが味わう形で表現し、人気を得ました。

プロローグ
オリンポス山を背景にした場所。

ヘーベは望まぬ注目に悩まされています。
キューピッドは、芸術を祝う祭りを見るために 一緒にセーヌ川のほとりに逃げようと提案します。

第1幕: 詩
レスボス島で、二人の詩人サッフォーとアルカイウスの愛が、嫉妬深いテレモスによって傷つけられ、ヒュマス王にアルカイウスを追放するよう説得します。

王が狩りに出かけているとき、サッフォーは王を驚かせ、寓意劇を上演し、それによって真実を知った王はアルカイウスを赦し、恋人たちは喜びます。

第2幕: 音楽
場面:寺院の柱廊
スパルタ王リュクルゴスの娘イフィセは、戦士であるとともに熟練した音楽家であるテュルテウスと結婚する予定です。

神託により、イフィセは「メッセニア人の征服者」と結婚しなければならないと告げられ、テュルタイウスは兵士たちを率いて彼らとの戦いに赴きます。
この戦いはバレエで演じられます。
テュルタイオスが勝利し、大歓喜の中で幕を閉じます。

第3幕: ダンス
背景に集落がある木立。 
華やかな庭園で
ダンスの上手さで有名な羊飼いのエグレが夫を選ぶことになっています。
神マーキュリーは変装して彼女の村を訪れ、彼女に恋をし、羊飼いエウリラスの嫉妬を引き起こします。
エグレはマーキュリーを選び、二人はダンスのミューズである テルプシコールと彼女の信者の助けを借りて祝います。

第1幕詩





天才も人生はままならない

2025-01-25 21:00:00 | 古典
24日午後、ハープの弦が着きました。

切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
まとめると送料無料になるので…少しでも安く買いたい…セコい!

22日の夜営業が終わってからメールで注文して、23日の10:00に確認のメール返信。
24日午後には宅急便で着いたので早いです。
感謝です。

すぐに装着。

グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
こちらの方が少し小型なので、短くなった弦を使えます。
ただし、都合よく同じ弦が切れるわけではないので、あまり使わないレバーハープは3本の弦が切れたまま放置されています。
いつでも使えるようにしておきたいですが…私には贅沢なようです😭💦


ヴォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

はパリでは、稼ぎがよくなく自宅に人々を招いてコンサートを開きますが、称賛は得ますがお金を出してはくれません。

ウィーンに行きコンスタンツェ
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。

コンサートは盛況ですが、あまり稼げないので
ハイドンが彼の才能を認め、ウィーンに留めるためにプラハのオペラの仕事に彼を推薦したりしていますがうまくいきません。
ウィーンでオペラフィガロの結婚を上演しますが、うまくいきません。翌年プラハで上演すると人気が出て一息つきます。

モーツァルトは品行が悪く、浪費癖があり、なかなか高給の仕事には恵まれず、収入は激減。

ピアニストとしてコンサートを開いて収入を得ていましたが、思うようにお客は増えませんでした。
シカネーダーの劇場でオペラを書いて稼ぎました。

魔笛1791年チラシ

モーツァルトは亡くなる3年前にこのような手紙を書いていました。

「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころ、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。

目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。

こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。

僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。

長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。

有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」

天才と人々は言いますが、モーツァルトにすれば、それは長い長い毎日の練習と努力の積み重ねによるもので、人より早く初めただけのことと言いたかったのかもしれません。

そして天才と言われても生きていくために稼ぐのは大変だったのだろうと思います。

ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595

は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
作品目録によれば、1月5日に完成したと記されています。

前作の第26番『戴冠式』(K. 537)から3年間のブランクがあります。

この頃には既にモーツァルトの人気は低迷していて、会員が集まらないために3年以上も予約演奏会を開くことが出来ない状態で、ピアノ協奏曲を作曲するチャンスには恵まれなかったためです。

1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅行中に、ウィーンへ戻った際には再び予約演奏会を開くするつもりで、この演奏会のプログラムを飾るためにこの協奏曲を作曲しました。

しかし、実際に演奏されたのは、1791年3月4日に宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸において催された演奏会においてであり、友人であるクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアから出演依頼を受けたモーツァルトは、1788年に第1楽章を手がけていた本作を完成させて演奏を行いました。

この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会です。

なお、この演奏会ではモーツァルトのかつての恋人で義姉のアロイジア・ランゲ

がモーツァルトのアリアを歌いました。











3人そろった!

2025-01-24 21:00:00 | ロマン派
お久しぶりのセンメルトリオ。
フルート、ヴィオラ、ピアノ全員揃いました。
昨年3月からピアノの坂田さんが入院。やっと復帰されたと思ったら、11月に金重さんが転倒して、ヴィオラの弦を押さえる手を骨折。

2月に出演予定のコンサートには「ピアニカ出でようか?」と言っていた金重さん。
大丈夫。
間に合いました。

3人でトリオできる幸せ。
噛み締めました。 

曲はビゼー作曲、シンプソン編曲「カルメン幻想曲」。
もともとはフルート、ファゴット、ピアノのためですが、金重さんがヴィオラに書き換えてくれています。
なかなかおもしろい編曲です。
「アラゴネーズ」「間奏曲」
「アルカラの竜騎兵」「ジプシーのうた」の4曲組曲になっています。

歌劇「カルメン」の第三幕への「間奏曲」はこの激情的なオペラの中の癒しの一時です。

真面目な官吏ホセがたばこ工場で問題を起こし、捕らわれたジプシーのカルメンに恋をします。
ホセはカルメンに誘惑され、法を破って彼女を牢屋から逃がしてしまいます。

酒場でカルメンと落ち合ったホセは帰営ラッパに帰ろうとしますが、カルメンに激怒され、彼女を追っていきます。

密輸団入るかどうか迷っていると、衛兵隊長が帰還を促しにアジトにやってきます。
心揺れるホセですが、密輸仲間に見つかり隊長は捕らわれ、密輸団に加わることになってしまいます。

この後演奏される第三幕への「間奏曲」。
つかの間のカルメンとの蜜月。

第三幕では「以前ほど愛していない。束縛しないで。」とカルメンはホセに言い放ち、闘牛士のエスカミーリョに心奪われていきます。
そんなカルメンにホセはどす暗い情念にとらわれていきます。




がっくり来た時の曲?!

2025-01-23 20:55:00 | ロマン派
22日から29日の左目の手術準備です。
殺菌する目薬を日に4回さします。
なるべく家にいて人に会わないように言われています。
とは言え、レッスンと合わせが、1回ずつ。
術後もこっちはホントに会えないのでちょっと後が大変になるから…。

練習があるので、退屈はしませんが、ハープの3オクターブ目のC弦が切れました。
1番使うところです。
本番まで待ってくれました。
切れちゃうと弾けるけれど、練習にはあまりなりません。
注文して、届くのは明後日くらいかな。
スムーズに練習できないとストレスがたまります。
それにハープのガット弦は高い!
それなのに昨年2割ほど値上がりしました。
仕方ないのですが、ふところが痛くてストレスです。

それからなぜか更新したらなんと記事が、タイトル写真とハッシュタグ以外飛んでしまいました。
がっくり。
なぜ?!

がっくり来た時のクラッシック音楽と検索するとグリーグのピアノ協奏曲が出てきました。
なぜ?と思ったけれど、
初めの部分ががっくり〜!!のシーンに入れたらぴったりきそう?!

エドヴァルド・グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー ベルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

1868年、作曲者が25歳のときにデンマークのセレレズを

ソレロッド教会を背景にしたオーベロドから見たソレロッド湖(1895 年頃)
訪問している間に作曲されました。

グリーグの初期の傑作です。

グリーグはその後出版社からの依頼を受け、1883年ごろに2番目のピアノ協奏曲を書こうとしましたが書き上げられず(スケッチが残されています)、代わりにこの曲に何度も改訂を行っています。

現在演奏されるのはグリーグの最晩年の1906年から1907年頃改訂され、

グリーグ
1917年に出版されたものです。

初期版と曲想の大きな違いはありませんが、楽器編成が異なり、独奏と管弦楽譜で400か所以上の変更点が見られる。

数あるピアノ協奏曲の中でも、非常に人気の高い曲で、またグリーグの代表的な曲です。

グリーグはシューマンのピアノ協奏曲をライプツィヒ音楽院に留学していた1858年にクララ・シューマン


の演奏で聴いていて、それに大きく影響を受けたと言われています。

1870年にグリーグと会見したリスト

1870年頃のリスト
が、彼の持ってきた手稿譜を初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがあります。






リュートの大家

2025-01-22 22:58:00 | ルネッサンス
びっくり!再掲したら本文消えてしまいました。どこか変なところを触ったのか?
聴き合い会のレポートしたんだけど…。
タイトル写真は素晴らしかったマンドリンの宮澤拓之さん。

ノイジドラーのピアノとビウエラの聞き比べおもしろかったので音楽だけ復元。

ハンス ノイジドラー(ノイジトラーはプレスブルク(現在のスロバキア、ブラティスラヴァ)で生まれ、1530年にドイツのニュルンベルクに定住した際に初めて歴史の記録に登場します。
2月に市議会から居住許可証を発行され、9月にその地で結婚しました。

1531年4月に市民権を取得し、その後すぐにツォテンベルクに家を購入しました。1530年代にはそこでリュートを教え、1536年から1549年の間に8冊のリュート音楽の本を出版し、1550年までには弦楽器製作者としても事業を開始しました。

最初の妻との間に13人の子供をもうけましたが、その結果、莫大な経済的困難に陥り、最終的に借金を返済するために家を売却しました。

1556年1月に妻が亡くなり、5か月後に再婚しました。

2番目の妻は1562年8月に亡くなる前にさらに4人の子供を産みました。

ノイジトラーはニュルンベルクで亡くなりました。

ハンスの息子であるメルヒオール・ノイジトラー(1531年 - 1590年)とコンラート・ノイジトラー(1541年 - 1604年以降)もまた、著名なリュート奏者および作曲家でした。)



養育費を稼いだ作曲家

2025-01-21 20:56:00 | バロック
相変わらずキャベツは高いですが、アスパラ菜というものが安かったので買ってきました。


癖がなくおいしかったです。
太い幹はアスパラのようなのかな?と思ったのですが、香りの薄い菜花の茎のようでした。
これはこれでアリ!

うちはみんなアスパラが好きなので、アスパラと思うと少し違うのですが。

月曜日はおとなしく家で練習。
厄介なハープの発表が終わったので少し落ち着いています。

しかし、明日1月21日(火)
「第21回聴き合い会」を開きます。
プログラムを作ってますが、体調を崩してドタキャンする人が…。

みなさん、お身体お大事にしてくださいね。

これのお世話をした翌日から、左目手術の準備が始まります。
目薬を入れて雑菌を減らして、体温記録。
風邪ひかないようにしなくっちゃ!

バロック時代にも元気な作曲家がいました。
バーバラ ストロッツィ(1619-1677年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、ヴェネツィア共和国パドヴァ没

「ガンバを弾く女」
バルバラ・ストロッツィがモデルを務めたと推測される絵画。あたかも高級娼婦のように描かれていますが、これは当時ヴェネツィア社会の「自立した女性」のイメージでした。

は、当時の最も優れた歌手、最も多作な作曲家の 1 人として称賛されています。

1677 年に亡くなるまでに 8 冊の歌曲集を出版しました。

1644年最初の曲集『Il Primo Libro de Madrigali』

これは、当時の最も有名な作曲家の作品よりも出版された作品数が多いことになります。

有名な詩人ジュリオ・ストロッツィ(1583-1660年モンテベルディの台本作家)

ジュリオ ストロッツィ(ベルナルド ストロッツィ(伯父)画)
の娘(養女、おそらく私生児)であり、フィレンツェで最も有力な一族の 1 つに生まれました。

父ジュリオの音楽討論サークルに歌手や会員として参加し、これは実質的にはストロッツィ邸に集まってバルバラの歌を聴く会であったようです。

バルバラは少なくとも1634年、15歳の頃から「インコニティ」の集会で非公式に歌を披露していましたが、それが余興に収まらなくなってきて、彼女は「ウニーゾニ」の会員ではなく「女主人」として、集会で皆にお題を出したり、賞を与えていたりしていたことが記録されています。

またフランチェスコ・カヴァッリ(1602-1670年)


に作曲を師事。

父親の死後に作曲と作品の出版を精力的に続け、出版譜の献辞から、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント2世(1578-1637年)


や、リューネブルク公国后妃ゾフィーが初期のパトロンであったと察せられています。

作品の大半はソプラノと通奏低音のために作曲されています。

これらはストロッツィ自身が歌うために作曲されたものと推測されています。

ストロッツィの作風は、モンテヴェルディ(1567-1643年)


の作品によって具体化された「第2の作法」(厳格対位法重んじ不協和音を制限する第一作法から離れて、より自由な表現を重んじる初期バロック音楽を擁護し、これを第二作法と名付けました。)に固く根を下ろしていますが、声それ自体の表現力を基礎として、より叙情性が強調されています。

後半生において、おそらく経済的困難から音楽活動に行き詰まり、音楽界から身を退きました。

その後の消息と没年については長らく不明とされてきましたが、近年になって、養育費の必要から高利貸しを営んでいたことが明らかにされています。

たくましい!

彼女の創造力は実に強力で、カンタータという音楽ジャンル全体の創始者と称されることもあります。 


『Arie, Op. 8』(1664)収録の

「何ができようか」

Che si può fare op. 8


恋の苦悩を歌っています。






ROKUDAN

2025-01-20 21:00:00 | 日本
日曜日は塚口駅近くのt-raumで野田先生のハープ教室の発表会でした。
アンサンブル発表会ということで、みなさん、ハープ同士、ギターとハープなどいろいろなアンサンブルが登場しました。

朝牧野に送ってもらったら京阪が枚方市〜淀屋橋間、人身事故で不通。
しかもやったばかりで予定では11:00回復らしい。

代替輸送というとJRか阪急。
どちらもそこへ行くまでに枚方市駅から電車かバスこれはもう大幅遅刻。

送ってきてもらったばかりの夫にLINEして阪急高槻まで送れるか?聞いてみたら行けるということで、迎えに来てもらいました。

牧野に再度来てもらって乗り込むと「高槻より大山崎の方が近い。」と夫。
「高槻の方が近いんと違うの?」
「混んでるかもしれない。分からないけど」
しばらくしたら「梅田まで送ろうか?」
「?!」
素早く計算する私。
「梅田に近寄ると混むから、だったら塚口で行った方が早いんと違う?」
「わかった。それだったら車を替えて、次男を連れて行く。」ということですぐにUターン。家まで帰って車をアクアからスカイラインに替えて、次男を乗せて出発。なんで次男?ってスカイラインを後で実家に置いてあるオデッセイと交換するためかな?

大山崎から名神に乗って、50分で塚口に、結局、アンサンブル仲間の誰よりも早く着きました。

11:50から金重さんのハープと久米フルートでアルルの女の間奏曲のリハ。
次に渡邊さんのヴァイオリンと久米ハープで「カヴァレリア ルスティカーナの間奏曲」
最後がハープの鈴木健司さんと、ヴィオラ金重さん、フルート久米で「ベルガマスク組曲のメヌエット」
「カヴァレリアルスティカーナ」以外は良い出来です。

とにかくリハに間に合ってよかった。
2時から本番。
プログラム2番に「アルルの女」のメヌエット。


最後から3番目に「カヴァレリアルスティカーナ」一曲置いて最後が「ベルガマスク組曲」
「アルルの女」は金重さんのハープ、途中展開部から、住谷さんのピアノが入ります。
さすが住谷さん上手いです。

ゆったりとしたテンポで上手く演奏できたと思います。

「カヴァレリアルスティカーナ」はリハよりはよかったと言っておきます。
…精進、精進!

「ベルガマスク組曲」はとにかく鈴木さんが難しいハープを弾きこなし、アンサンブルが楽しかったです。



今日、おもしろかったのは八橋検校の「ROKUDAN」黛敏郎編曲のハープ独奏です。

八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年 - 1685年)

は、出身は諸説ありますが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくたいいしょう)』により陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされています。
他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。名は磐城説で城談(じょうだん)、摂津説で城秀(じょうしゅう)。

八橋検校は、寛永年間(1624-1645年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍しました。

三味線
その後、江戸にくだり、筑紫善導寺

の僧・法水に師事して筑紫流箏曲を学びました。

この箏曲を基に現在の日本の箏の基礎を作り上げました。
独奏楽器としての楽器や奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めました。

代表作に組歌の
『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』など

また、段ものの『六段の調』、『乱(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられています。

寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人・藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当(やまずみ こうとう)を名乗りました。

1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めます。

その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともあります。

胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓の弓の改良も行っています。

江戸時代の琴屋
六段の調(ろくだんのしらべ、六段調、六段)は段物と呼ばれる箏曲のひとつで、段物または調べ物の中の代表曲。

箏の調弦は平調子。

(後に雲井調子の替え手も出来た)各段が52拍子(104拍・初段のみ54拍子)で六段の構成となっています。

箏組歌や大多数の地歌曲と異なり、歌を伴わない純器楽曲です。

本来は箏の独奏曲ですが、後世合奏用にいくつもの箏の替手が作られて合奏されることも多く、また三絃にも移され、さらにその替手が作られ、加えて胡弓や尺八各派でも手付けがされており、三曲合奏や箏の替手とあわせ二重奏など、いろいろな合奏編成で演奏されることも多いです。

黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年〈昭和4年〉2月20日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)

は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたりました。

ROKUDAN ハープのための(1989年)この曲は、篠崎史子のために黛敏郎が作曲しました。世界中で上演されるハープソロの傑作です。箏の名曲である「六段」からインスパイアされた創作です。

松岡みやびさんによる演奏です。


兵士たち

2025-01-19 21:00:00 | 現代
今日もこもってハープの練習。
何時間もやりましたが、ちっとも解決しませんが…
仕方ありません。これで行くしかありません。
16日に母とランチをしようと歩いた藤森駅のちかくには「軍人湯」という銭湯があります。

外から見ても何の変哲もない感じですが、名前の由来は、向いにある現在の聖母女学院本館に





かつて「第16師団本部司令部」があり、当時の軍人たちが汗を流した銭湯=軍人湯ということだそうです。

今でも師団街道、第一軍道、第二軍道という名前が残っている通り伏見は戦前、軍都でした。

「第16師団本部司令部」と言うと1905年日露戦争の時に、本土を守るために設営されました。
1919年には満州に駐在。
1937年には日中戦争が始まり、参戦。

太平洋戦争では1941年(昭和16年)11月6日に第14軍戦闘序列に編入。
緒戦のフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯しました。

1944年(昭和19年)8月からは第35軍隷下となりレイテ島に移駐。この年の10月20日に連合国軍がレイテ島に上陸。大本営はレイテ島での決戦を予定しましたが第16師団は壊滅しました。

当初13,000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死。

師団長牧野四郎中将も1945年(昭和20年)8月10日に自決しました。

ベルント・アロイス・ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918-1970年)ドイツ ブリースハイム生まれ、ドイツ ケーニヒスドルフ没

はドイツの現代音楽の作曲家です。

途中戦争による中断がありましたがケルン音楽大学とケルン大学で学んだのち、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会に参加、ルネ・レイボヴィッツからセリエリズムの影響を受けます。

1956年にISCMドイツのプレジデントに昇格。

1957年に母校の音大でフランク・マルタンの後任として作曲科の教授を勤め、篠原眞やヨハネス・フリッチェなどを育て、後年のシュトックハウゼン(1923-2007年)

体制の橋渡しをします。
晩年には最後の作品である

『私は私を望んでいる、そして私は太陽の下ですべてを許さない』

の楽譜を完成させて から5日後、謎のピストル自殺を遂げています。

1965年オペラ「兵士たち」を作曲しています。

オペラ「兵士たち」
商人の娘マリーはストルジウスと付き合っていますが、若い貴族のデスポルテスに誘惑されます。

デスポルテスは少しの間、付き合った挙句マリーを漁場番に与え、マリーは暴行を受けます。

マリーは行方不明になり、ストルジウスは傭兵に変装し、デスポルテスに近づき彼を毒殺。
自らも毒を飲み死にます。

マリーは物乞いとなり、街をさすらっています。
そこに父親が通りがかり、娘とは知らずにお金を与えます。

最後のシーンは幻影的です。
父親は奴隷にされ、戦死した兵士たちの果てしない行列に加わり、酔っ払った将校たちも参加します。
行列は地獄の光景へと盛り上がります。
人間同士も、個人も、集団の良心も、軍の力によって強姦されると終幕。



アルルの女のメヌエットの原曲

2025-01-18 21:45:00 | ロマン派
金曜日は、塚口近くのt-raumで発表会前最後のハープの合わせでした。
午後7:30〜
渡邊信行さんのヴァイオリンとハープ久米で「カヴァレリア ルスティカーナ」の「間奏曲」。
退院してから毎日4時間は練習していますが、ホントにちっとも上手くなりません。

先生「ゆっくりしましょう。」とニッコリ。

渡邊さんも「弓が足りないなぁ。」と言いながらも、ゆっくり弾いてくれました。

せめて一拍40位ではやりたいのですが、30でもようやっと…。

合わせるどころではありません。
ハープは難しい!

8:00からは鈴木健司さんのハープ、ヴィオラの金重美代さんと久米のフルートでベルガマスク組曲〜「メヌエット」超絶技巧のハープを鈴木さん、ちゃんとインテンポにしてきました。すごい!
野田先生にアドバイス頂いてもちゃんとすぐに演奏が変わります。
さすがです。
これは楽しめそうです。

最後に9:00から金重さんのハープと久米のフルートで「アルルの女」の「メヌエット」ピアノも入りますが、今回は当日のみ。
金重さん昨年11月から腕を骨折していたので練習できていません。かわいそう!
私はこれは「どんなになっても合わせるからね。」と余裕の言葉。
安心して弾いてもらいたいから。

でも、本当のところこの曲は大変難しいです。
超絶技巧というわけではありませんが、フルートという楽器の特性上、音程が特に取りにくいのです。
ゆっくりすれば、ゆっくりするほどアラが目立ちます。
基礎ができているか?が試される曲です。
試練になりました。

t-raumの猫さん

明後日 21日本番です。
頑張ろう!
特に私はハープ!

組曲「アルルの女」は
エルネスト ギロー(1837-1892年)

が4曲を選んで構成したものです。

有名な「メヌエット」は、ビゼーの「美しきバースの娘」という歌劇の中の音楽から採ったものです。
ややこしい。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)

1875年ビゼー

『パースの美しい乙女』は、全4幕のオペラで、台本はジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュとジュール・アデニが、サー・ウォルター・スコットの1828年の小説『パースの美しい乙女』に基づいています。

この作品は、1867 年 12 月 26 日にパリのテアトル・リリック(テアトル・リリック・アンペリアル・デュ・シャトレ)で初演されました。

観客は大変感激し、半数の客が作家たちに次回作の制作を依頼するチップを残しました

14世紀、内乱期のスコットランドの王都パースが舞台。
婚約を間近に控えたキャサリン

とスミスが、些細なトラブルが元で互いに不貞を働いたと誤解してしまいます。

2人のいさかいは領主やジプシーの女王らを巻き込んで一大事となってしまいますが、最後は誤解が解けて結ばれます。

美しきバースの娘」の中で領主のロスセー公爵とジプシーの女王マブが歌う二重唱。
「ここにいる私たちは。孤独です。」
組曲「アルルの女」のメヌエットにギローが編曲する前の曲です。
こちらは、「アルルの女」のメヌエット。