音楽の喜び フルートとともに

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共鳴する

2009-03-08 19:25:09 | 音楽

考えても見てください。私達の体は一枚の皮膚でさえぎられています。あなたの手をつねってみても、私の手が痛くなることは絶対にない。あなたが痛いと思っていても、その手の痛みがわかることは絶対にない。
結局は何かを介して、伝え合うことしかないのだと思います。
言葉はその何かの一つです。

音楽は、例えば、1拍120と書かれていて、その1拍に16分音符が4つ書かれていると、1秒の8分の1の速さに4つ音があると言うことです。
その音4つが同じ長さで演奏されるかと言うと、そうではない。4拍子のはじめに書いてあると、その頭の音は少し長く、そのはしょった分は後の3つの音を少し短く。4拍の最後にあると、4拍目は少し長く…。そうなると、1秒の8分の1のそのまた何分の1のタイミング。
それから、リタルランドだんだんゆっくりとか、フェルマータ長く保ってなど、きわめて大雑把な言葉の指示を読み取ります。その国、時代によって伝えられてきたスタイルによっても、またリズムの取り方も違います。
その肌感覚のような、小さな微妙な違いが、音楽的体験によって人から人に伝えられていきます。

確かに理論もありますが、むしろ、感動によって、こっちの方がかっこいいとか、気持ち良いとか、この作家ぽいとかそんなことの積み重ねのような気がします。
そのある程度積み重ねた練習とか体験を持つ人々が集まると、もうわかりあってしまう。そして少しでもずれると気持ち悪い。
そして、その美的感覚を練り上げて、一つの楽曲を合奏しているときの感覚。共鳴としかいいようがない。
なぜ、そこにその音を落とすのが良いのかどうかなどともうそこでは、検討したり、考えたりしているわけではないのに、私がそこに落とすと、絶妙のタイミングで他の人がそれを受けて音を落とす。
そこに音があるのが自然だし、それを受けるのも自然であると、瞬時にして何十人もが音を出す。
こういう言葉以前の共鳴とか、共感する能力が人間にはある。そのことが合奏するとわかるし、その瞬間こそが、音楽の偉大な喜びなんだと、私は思います。