今日は、心と体のワーク。
前回のワークでの問いかけ、ある水準まで来て、突破できないのは、天井に達したと思った途端に安心していないか?
その視点で、生活を見直してみると、自分の演奏でだめだなと思うところを見つけると、それを何とか人並みに持って行こうと、そこに熱く熱く関わり、ガンガン一人で練習し、「ああ人並みになったなぁ。」と到達したと思った途端、安心してしまう。このようなことが良くあると言うことに気がつきました。
「人並み」で満足するというのは、「女、子ども」。その先に行くのが「アート」というものではないかしら?
なるほど、これではいつまでたってもうまくなれないのは必然です。
水準に達すると「安心」して眠ってしまう自分をいくら見つけても、突破しないよ。
その先に行きたければ、そこに行き着くまでの「ふんばっている」自分を見つけなくちゃ。
「がんばり」とか「一生懸命」は、その時は、ギリギリでやっているので、安心したり、これでいいと思った途端に、0に戻るのではなくて、マイナス。-10とか-20になってしまう。
現場で、マイナスの感情を覚えても良い、大事なのは選択できること。
マイナスとプラスの感情の両方が見えて、どちらかを今の自分として選択できればそれが、心が自由であるということで、人は選択肢があれば、プラスの感情を選ぶようになります。
こうでなくてはならないというのは執着。執着に気づけば人は変わるけれど、そういう自分を赦さずに隠そうとすれば、するほど、その執着は強く大きくなり、表に出てきます。
そういう自分を見たくなくて、逃げると、解決したような気になってしまうけれど、他の事でまた起きてくる。それは、何も相手のせいで起きたことではなくて、自分のものの見方、感じ方の癖だから、自分が変わらない限り、何も変わらない。
成果をあげたければ、現場にとどまり続けて、対立ではなくて、共同、協調、共感するということを選び続けること。人と人とのことだけではなくて、自分と自分のことでも、人に教えてもらわなくては、自分は自分の癖にどっぷりとつかっているから、わかりようが無い。
人に言ってもらって、初めて自分の癖を変えることができるのです。
人間関係だけのことではなく、フルートでも、ピアノでも、焼き物や、絵画にしても、物や、自分との対話無しに、できることなどないでしょう。
なるほど、人と何がしかの共感がなければ、どんな芸術も成立しないでしょう。
個性や孤独は、孤立や閉鎖とは違う。
裸の自分をさらして、傷ついても、なお人を愛して、信じて立つような。そのようなものなのかもしれません。