金木犀の強い香りが、町中漂っているような気がします。
引越しの片付けに追われていると、母から電話。人間ドッグにいったら、心臓でひっかかって明日検査入院、一泊2日。年を重ねると、いろいろ出てきます。病院で「「誰か聴いて貰える人は?」と言われて、考えたら娘しかなかった。」と母が電話で話すのを聞いて、父はもう社会的責任をおえなくなったんだなぁ。と改めて思いました。こういうところから、だんだん終わっていくのです。
誰しもがいつか通る道。どう老い、どう死ぬのか?は、人類共通のテーマです。
身内の老いは、それを見せてもらえ、学べるチャンスです。
社会的責任を一つづつ、降ろし、仕事、友人、家族。最後に残るのはなにでしょう?
力にゆとりがある頃にできていたことが、少しずつ面倒になり、人と会わなくなり、しかし、最後に自分を律するのは自分しかない。
中学教師だった父は、よく机に向かって勉強していましたが、もうそれはしなくなり、趣味の絵もかかなくなりました。
老人会のカラオケには、まだ欠かさず行きますが、以前歌の意味や、紀行文を書いてくばっていましたが、パソコンが使えなくなり、もうやめています。
新聞は隅から隅まで読み、教育問題は気になるらしく、憤慨したり、嘆いたり。ですが、好きだったイチローの事を聞いてももうわかりません。しかし、阪神タイガースの勝敗はきっちり知っています。
貸し農園の、作物は雨以外、毎回行って世話をしています。
買い物も行きますが、家に何があるのかは、把握できず、要らないものを買っては母に叱られています。
母は、若い頃と変わらず、よく動いているように見えますが、やはり、いろいろ無理がきているようです。
昨日もいつもと変わらず、生活した後、「今日、死ぬから、みんなを呼びなさい。」と、家族、友人を呼んで和やかに別れの挨拶をして、静かに亡くなる人が時々います。
どうしたらそんな風に亡くなることができるのか?
また、両親はどう老いていくのか?私はどう老いて死ぬのか?
人間はどこまで成長することができるのか?
または、どう成長しない部分を受け入れるのか?
壮大な課題です。