週のはじまりから、暗い話です。
これは、「山口隆志」の死亡証明書。65年目の便りです。
実家に帰ると、「封書が届いた。」と、父が言います。
差出人は厚生労働省。
隆志というのは、父の兄。7人兄弟の6番目。
ロシア政府から、提供された4万1千名の「ソ連邦シベリア抑留中死亡者名簿」と、新たに昨年12月に公開された、「ロシア国立軍事古文書館」に収納されている70万枚の「旧ソ連邦日本人抑留者に係わるカード」を照合して、「山口隆志」が、父の兄であることがわかったというのです。
ロシア語は読めませんが、翻訳がついていて、下記のように書いてあるらしいです。
H700-5470
氏名 ヤマグチ タカシ
生年月日 大正13年
死亡年月日 昭和21年 5月29日
埋葬地 第47収容所
他には、カルテ。死因は肺結核。
「1946年5月29日収容所第3支部にて死亡。区画番号No.5 墓番号 No.7に埋葬された。目印として、5/7と記された小さな碑銘板のついた杭がある。」
22歳でなくなったらしい。
両親、7人いた兄弟は、二人を残してすでに去り、父の実家では、代替わりし、すでに、隆志さんを知る人は無く、こちらに転送されてきたらしいです。
末っ子だった父も80歳。実際はすぐ上の兄だったのに、「2番目の兄だったかな?」とか、記憶も遠く。感慨も薄いらしい。
せめて、第47収容所って、どこにあるのか調べてみようと、厚生労働省のHPを調べてみましたが、400以上ある収容所の一部は名前がわからず、その中の一つらしく、わかりません。
HPの別の名簿に名前がありました。
ポニ地区の地図が掲載されていたので、見ると、ハバロフスクの一地区で、47ではなく、第46収容所があったことがわかりました。この名簿と、今度送られてきた照合書類の記載が同一人物であれば、ハバロフスクで亡くなったのかも?
しかし、この名簿の死亡時期、21年8月7日は、この照合書類とは合わない。
私も、歴史の一部を見るような気持ちで、伯父さんだからという、感慨もわかない、身内にさえ忘れられた65年目の死亡証明に、人としてあまりに粗末なものを、感じました。せめて、「山口 隆志」が確かに存在した。という事実を残したくて、ここに、投稿します。
これは、「山口隆志」の死亡証明書。65年目の便りです。
実家に帰ると、「封書が届いた。」と、父が言います。
差出人は厚生労働省。
隆志というのは、父の兄。7人兄弟の6番目。
ロシア政府から、提供された4万1千名の「ソ連邦シベリア抑留中死亡者名簿」と、新たに昨年12月に公開された、「ロシア国立軍事古文書館」に収納されている70万枚の「旧ソ連邦日本人抑留者に係わるカード」を照合して、「山口隆志」が、父の兄であることがわかったというのです。
ロシア語は読めませんが、翻訳がついていて、下記のように書いてあるらしいです。
H700-5470
氏名 ヤマグチ タカシ
生年月日 大正13年
死亡年月日 昭和21年 5月29日
埋葬地 第47収容所
他には、カルテ。死因は肺結核。
「1946年5月29日収容所第3支部にて死亡。区画番号No.5 墓番号 No.7に埋葬された。目印として、5/7と記された小さな碑銘板のついた杭がある。」
22歳でなくなったらしい。
両親、7人いた兄弟は、二人を残してすでに去り、父の実家では、代替わりし、すでに、隆志さんを知る人は無く、こちらに転送されてきたらしいです。
末っ子だった父も80歳。実際はすぐ上の兄だったのに、「2番目の兄だったかな?」とか、記憶も遠く。感慨も薄いらしい。
せめて、第47収容所って、どこにあるのか調べてみようと、厚生労働省のHPを調べてみましたが、400以上ある収容所の一部は名前がわからず、その中の一つらしく、わかりません。
HPの別の名簿に名前がありました。
0024 第1449特別野戦病院・ポニ地区その1 | 62 | 210807 | ヤマグチ タカシ | ハバロフスク地方 |
ポニ地区の地図が掲載されていたので、見ると、ハバロフスクの一地区で、47ではなく、第46収容所があったことがわかりました。この名簿と、今度送られてきた照合書類の記載が同一人物であれば、ハバロフスクで亡くなったのかも?
しかし、この名簿の死亡時期、21年8月7日は、この照合書類とは合わない。
私も、歴史の一部を見るような気持ちで、伯父さんだからという、感慨もわかない、身内にさえ忘れられた65年目の死亡証明に、人としてあまりに粗末なものを、感じました。せめて、「山口 隆志」が確かに存在した。という事実を残したくて、ここに、投稿します。
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