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新世界からボヘミアに向けた曲

2022-04-15 21:08:44 | 名曲

塚口t-raumでハープレッスンでした。
今日は、黒猫さんが門番。
出たかっただけ…。

サルビアなのか?チェリーセージなのか?咲いていました。

ホルンガッハというすごいハープでレッスン。金重さんとの二重奏もレッスン。
ホルンガッハ2台で贅沢なレッスン。
下手でもビンビン響いて気持ちよく練習できます。

アントニン レオポルド ドボルジャーク(1841-1904年)

オーストリア帝国ネルホゼヴェス生まれ、ハンガリー=オーストリア帝国ウィーン没

肉屋と宿屋を営む父親の元、長男として生まれたために、家業を継がせるために修行に必要なドイツ語をズロニチェに学びに行きますが、そこで出会った職業訓練校の校長アントニン リーマンがヴァイオリン、ヴィオラ、オルガン、和声学を彼に教えました。

家業が苦しくなり、父親はドボルジャークを戻そうとしますが、リーマンと伯父が反対し、この伯父が学費を負担しオルガン学校に入学します。

2位の成績で卒業すると、1862年建設のチェコ劇場の


ヴィオラ奏者の職に着きます。
1865年金属細工師チェルマーク家の二人の娘の音楽教師をし、姉のヨゼフィーナに恋をしますが失恋。
そこでいくつかの作曲をします。
この頃から作曲を始めますが、1871年作曲の時間をとるために楽団を辞めます。

1873年「白山の後継者たち」を作曲し、出世作になり、その年、チェルマーク家の妹アンナと結婚します。

1874年プラハの聖ヴォイツェフ教会のオルガニストに就任し、生活が安定します。
ワーグナーの影響に長くありましたが、この頃から離れていきます。

1877年モラヴィア二重奏曲を出すとブラームスが出版社ジムロックに紹介状を書き二人の交流が始まります。

1878年ジムロックは、ブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵する「スラブ舞曲集」を依頼、発表すると人気が沸騰し、ヨーロッパ中にドボルジャークの名前が知れ渡りました。

ウィーンや、ロンドンで演奏、1888年にはプラハを訪れたチャイコフスキーと親交を結び、モスクワも訪問しています。

1891年ニューヨーク ナショナル音楽院ジャネット サーバー理事長から院長職就任依頼があり、固辞しますが、当時の年俸の25倍の15000ドルを提示され、13歳を筆頭に6人の子どもがいたので応じます。

サーバーはアメリカの国民楽派確立を目指し、ドボルジャークに期待をかけます。

1893年交響楽第九番「新世界より」を作曲します。

「この曲は、以前のものとは大きく異なり、わずかにアメリカ風である。」と友人への手紙に書いています。

「アメリカの黒人やインディアンの民族の主題を使ったというのはナンセンスで嘘です。私はただアメリカの旋律の精神をもって書こうとしたのです。」

「新世界より」と書いているように、アメリカの黒人の音楽が故郷ボヘミアの音楽に似ていることに感動し、故郷ボヘミアに向けて作られた作品であって、アメリカを直接描いた作品ではありません。

緑色のところがボヘミア

1893年カーネギーホールで初演すると大成功をおさめます。

第2楽章は「家路」として有名になり、歌詞をつけて世界的に流行しました。

1895年ホームシックに陥ったドボルジャークは、世界恐慌の煽りを受けたサーバーが報酬を遅延しだしたのもあり、プラハに帰ります。

プラハ音楽院で教鞭をとり、ウィーン音楽院からも招聘されますが、ボヘミアを離れがたく断ります。

数々の栄誉や報酬を受け取りますが、オペラだけはヒットさせることができず、最後のオペラ「アルミダ」1904年初演も不評。
1905年尿毒症と進行性動脈硬化症を起因とする脳出血で亡くなります。


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