音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

家庭のミューズ

2024-09-22 21:13:00 | 近代
土曜午後からギターの川原久美子さんと合わせでした。

9月23日(月 祝日)今津公民館で13:00〜西宮ギター練習会でバッハの管弦楽組曲バティネリ、モーツァルトのフルートソナタK.14の第2楽章、イベールの間奏曲、ピアソラのアヴェ・マリアを演奏します。

ドライベジタブル買ってきてくれました。
これヘルシーで美味しいです。
オクラは食べたらぬめりが出てきます。

お返しの肉球フィナンシェ。
先週末知恩寺手作り市で買ってきました。
これ見た途端、川原さんのことが頭に浮かびました。
だって川原さんスペシャルな猫好きなんです。
猫のはるおさんを飼っているだけでなくほら今回も…

にゃんこのイヤリング!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

アーモンド取引で財をなした富裕なユダヤ人の家庭に生まれます。父は商館をとりしきるかたわら地元の音楽協会の中心人物を務め、母はかつてパリで声楽を学んでいました。
生まれつき小児麻痺を患っていたため、車椅子を使っていました。

1920年代以降はリウマチにも悩んでいました。

パリ音楽院で作曲を学びます。
1914年第一次世界大戦では健康上の理由から従軍を免れます。
しかし、戦争と関わる仕事を求めて「フランス・ベルギー親善協会」(亡命者の受け入れや援助などを行うための組織)で働きます。

1915年ブラジル大使になり2年間ブラジルて過ごします。
1918年には連合国経済使節団のフランス代表となったポール クローデル(1868-1955年フランスの劇作家、詩人、外交官。外交官としては駐日・駐米フランス大使などを歴任)

に従ってアメリカまで同行し、そのままニューヨークを経由して1919年にフランスに帰国します。
そこで、「フランス6人組」

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない

として知られるようになります。
1920-30年にはリューマチの進行に苦しみながらも作曲した曲が評価されるようになり、映画音楽にも手を出し人気を博します。

1940年、ユダヤ人だったミヨーは、前年に始まった第二次世界大戦を避けるためにアメリカ合衆国に逃れます。

合衆国では、カリフォルニア州のミルス・カレッジ

で作曲を教えつつ、サンフランシスコ交響楽団、シカゴ交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ボストン交響楽団などで客演指揮を行いました。

この中には、シカゴ交響楽団創立50周年のための委嘱作品『交響曲第1番』(1940年)や、クーセヴィツキー夫人ナタリーを追悼するためクーセヴィツキー財団による委嘱作品『交響曲第2番』(1944年)の初演が含まれています。

1944年作曲の「家庭のミューズ」op245は、ピアノの独奏のために作曲されました。後にオーケストラに編曲されました。

作曲の経緯なとはよくわかりませんでした。

ダリウス・ミヨーは
1925年、幼少から知り合いで従姉妹のマドレーヌ(1903ー2008年)と結婚しました。

1925 年 5 月 4 日、結婚式当日のミヨー家。@ ミヨー アーカイブス
彼女は、80年間パリの文化生活の中心にいた俳優兼脚本家で、結婚後ミヨーがリューマチを患い車椅子に乗っていたことから常に彼の後ろにいで車椅子を押していました。

1930年には息子ダニエルをもうけます。
1940年5月にドイツ軍がパリの射程圏内にまで迫ったとき、オペラ座はミヨーの『メディア』の初演を行っていました。
マドレーヌはセネカ、エウリピデス、コルネイユの文章を引用して台本を書きました。

しかし、音楽には高射砲の音が伴い、3回目の上演でオペラが中止されると、マドレーヌはダリウスに フランスを去るよう促しました 。

「あなたのためにできることはたくさんあるわ。でも、わたしはあなたを背負って隠すことはできないのよ」

と、彼らは10歳の息子ダニエルとともに、リスボンを経由してアメリカ合衆国に着きました。

その後戦争が終わるまでそこで暮らしました。

マドレーヌはラジオ劇の朗読をしたり、台本を書いただけでなく、文化人との広い交友も知られています。

ジッド、クローデル、コクトー、サンドラール、マルローなどの人気作家、レジェ、ピカソ、マッソンなどの画家、ルノワール、カヴァルカンティ、レルビエなどの映画監督と交流しました。

夫の死後105歳まで生きたマドレーヌはフランスの文化人を知る生きた情報源で、話し上手な人だったそうです。
フランス語ですが、彼女のインタビュー動画が残っています。

Mはマドレーヌのことでしょう。
家庭では息子が絵を描き、猫を飼い、台所では食事の用意がされ、洗濯したり、花が飾られていたり、病むときには看病。
音楽を合奏したり、友人たちと夜の集いをしたり、トランプ占いに興じたり「家庭のミューズ」(家庭の女神)はミヨーに安らぎと安定を与え、作品を書く原動力となっていたようです。

「家庭のミューズ」op245
第1曲 私のもの – M.M.M.M. に捧ぐ
第2曲 目覚め
第3曲 家事
第4曲 詩情
第5曲 台所
第6曲 家の中の花
第7曲 洗濯
第8曲 音楽の合奏
第9曲 絵を描く息子
第10曲  猫
第11曲 トランプ占い
第12曲  看病
第13曲 夜の集いの楽しみ
第14曲 夜の読書
第15曲 ミューズへの感謝

第10曲 猫







最新の画像もっと見る

コメントを投稿