近江富士。
いつもの京阪鉄橋。
見えてきました近江富士。
スーツケース長男宅に運びました。
大型テレビの次は。
コーヒーメーカー。
と出会っています。
コダーイ(左)と2番目の妻のピーツェリー・サロルタ(中)、そしてベーラ・バルトーク(右)(音楽院にて)1960年代
カーウェンのソルフェージュ手話の描写。これをコダーイは流用しています。
の愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をしました。
長男が出張するのに「スーツケースが無いので買いに行くから手伝って。」
と聞いた夫。
「スーツケースあるから持っていくよ。」
と、言うことで
いつもの京阪鉄橋。
見えてきました近江富士。
スーツケース長男宅に運びました。
新しい家電が増えていました。
大型テレビの次は。
コーヒーメーカー。
1人を楽しんでいるみたいです。
野菜を買って、先月持ち込んだカセットコンロでお鍋をして久しぶりの家族団らんして食べました。
コダーイ・ゾルターン(1882ー 1967年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ケチケメート生まれ、ハンガリー ブタペスト没
作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。
幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごしました。
父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始めます。系統的な音楽教育を受けることはほとんどありませんでした。
1900年、ブダペスト大学のハンガリー語・ドイツ語学科に入学し、同時にブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のリスト・フェレンツ音楽大学)で音楽を学びました。
そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学びました。ケスラーは、マックス・レーガーの従兄で、ブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家でした。
後にコダーイは民俗音楽学の分野における重要人物のひとりとなりました。
1905年から人里離れた村を訪れて曲を集め、1906年にはハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」(A Magyar népdal strófaszerkezete) を書きました。
この頃、コダーイは後に妻となるシャーンドル・エンマ
と出会っています。
さらにエンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに会い、彼にハンガリー民謡の手ほどきをしました。
2人は共に民謡集の出版を手がけました。
コダーイ(左)と2番目の妻のピーツェリー・サロルタ(中)、そしてベーラ・バルトーク(右)(音楽院にて)1960年代
哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。
そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受けます。
1907年にブダペストに戻り、ブダペスト音楽院教授となります。
コダーイは第一次世界大戦中も休みなく民謡収集の旅へ出かけました。
1910年には19歳年上のエンマと結婚しました。
エンマは作曲家・ピアニストで、著名な作曲家とコダーイを繋ぎました。
コダーイはこの間に2曲の弦楽四重奏「チェロとピアノのためのソナタ」と「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」を発表します。
これらはすぐには成功しませんでしたが、1923年にブダ・ペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」が初演され、大成功を収めました。
この後、コダーイは自作の指揮でヨーロッパ中を巡る事になります。
1925年の児童向け合唱曲 「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、コダーイは音楽教育に大きな興味を持つようになります。
教育用の曲を多数書き、同様に書物も出版します。
この分野におけるコダーイの研究はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与えました。
カーウェンのソルフェージュ手話の描写。これをコダーイは流用しています。
著作の数々は音楽教育を理解するための原理を定めました。
コダーイはまた、プロの合唱団のための曲と共に、「マロシュセーク舞曲」「ガランタ舞曲」「『孔雀』による変奏曲」「ミサ・ブレヴィス」を作曲しました。
オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、有名となりました。
1920年代にも引き続き、ハンガリーの村々を回り、民謡を収集・録音する作業を続け、民俗音楽における多数の論文を執筆し、また民謡に基づく合唱を作曲していきました。
1930年にはブダペスト大学の哲学科で学生に講義を行い、その中の討論で民俗音楽の歴史と意義についての議論を深めていきました。
コダーイは第二次世界大戦中もブダペストに残り、1942年に教職から退きました。
戦争中は「いくさ歌」や「神の奇跡」などペテーフィ・シャーンドル(1823-1849年詩人ハンガリー革命影響を与えた)
の愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をしました。
戦闘がブダペストで始まると、修道院に待避し、そこでオルガン曲のミサ・ブレヴィスを合唱・独唱・オーケストラ用に編曲しました。
戦争が終わった1945年ハンガリー国民芸術会議の議長となり、1962年にはハンガリー人民共和国の勲位を受けました。
コダーイはその他に国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長の職につきます。
1956年のハンガリー動乱では大統領候補に推されました。
1958年に妻エンマが亡くなります。
翌年12月には当時19歳でリスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタと再婚しました。
その後、1960年から66年にかけては毎年、海外に長期旅行し、様々な講演や会議への出席をこなしました。
コダーイは1967年に亡くなり、ブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬されました。84歳没。
「山の夜」は女性合唱のために作曲されました。