音楽の喜び フルートとともに

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夏山フルートカルテットinびわ湖ホール

2022-12-11 08:54:00 | コンサート
今日は、びわ湖ホール。

吉延さんのお誘いです。
飛騨高山の伊藤公一セミナーで出会いました。
来年、北海道に移住されるということで、見逃せません。

プログラムは現代の作曲家アンジェリスの「ランニング」から、珍しいスポーツ系の音楽。
メンバーのお1人が、毎日走っておられてマラソン大会にエントリーされるほどということで選ばれたそう。
爽やかな疾走感のある曲でした。

モーツァルトの「おいらは鳥刺し」をピッコロとコンサートフルートで、アルトフルートとバスフルート2本でもう一曲。
最後はフルート四重奏Ddur。
2本もよかったし、四重奏も美しかったです。

休憩を挟んで第二部は八木澤教司さんの「コロラトゥーラ」2006年に出版されたもので、高校生のアンサンブルコンテストなどで人気の曲です。
2004年の「フィオリトゥーラ」の続編です。
若々しい息吹を感じる曲です。

大トリはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」
大編成で鳴り物いろいろある曲を4人で演奏するのは大変!
長いスケールをバス、アルト、コンサートフルートと受け渡しながらやったり、グランドハープのメロディをフルートで吹くなど超絶技巧。

前にブラスバンドでやりましたが、管楽器がたくさん並んでいても大変なのに、4人でやり切って、流石の演奏でした。

まだまだなかなか聴けないサウンド。
ピッコロ、コンサートフルート、アルト、バスの四重奏でバッハのトッカータとフーガ。
フルートアンサンブル リンクス



恋多き独身貴族

2022-12-10 09:15:00 | 近代
実家の木瓜の花。
かわいくて好きな花ですが、この鉢はいつもは3月から5月に咲きます。

いろいろ品種によってあるみたいですが…。

フランシス ジャン マルセル プーランク(1899-1963年)
フランス共和国パリ生没


製薬会社の父と敬虔なローマカトリックの母との間に末っ子長男として生まれました。


プーランクのパリの生家ちかくのソサエ広場
ピアノは母から学び、後にはリカルド ビニェシユ

に学びました。
プーランクは、「私は彼を熱狂的に賛美した。1914年時点で我がラヴェルとドビュッシーを弾いた唯一のヴィルトゥオーゾだった。…私がピアノについて知ることは全て彼から学んだ。」
と言っています。

やがてビニェシユはプーランクに作曲を勧め、オーリック、サティの助けを得て成長します。
オーリックは「我が精神の真の兄弟」と呼んでいます。

1917年「黒人の狂詩曲」を発表し、パリで流行りのスラングを入れて作曲し周りを驚かせました。

ストラヴィンスキーはこの曲を出版するように力を貸し、プーランクは生涯そのことを忘れなかったとか。

ラヴェルともこの頃知り合います。
また、この頃からドラングランジユが若い作曲家のために演奏会を開き、これを評論家が作曲家たちを、「コメディア」に「バリ6人組」として掲載します。



オーリック、デュレ、オネゲル、プーランク、タイユフェール、ミヨーの「パリ6人組」はこのコンサートに出ていただけの繋がりであったとミヨーは書いています。

1920年頃はプーランクは両親の遺産でアンドル エ ロワール県に城を購入し、作曲をしやすい環境を用意しました。
名声も高まっています。

しかし、私的には性的嗜好に悩んでいました。
画家のリシャール シャンレールに恋愛感情を持っていて「田園のコンセール」の写譜を贈り「あなたは私の渇きの陽光であり、生きて働く理由です。」とそこに書いています。

同時期に幼馴染のレイモンド リノシエに求婚しています。

リノシエは彼の嗜好を知っていて、他に心惹かれる人がいたために、断っています。

1931年リノシエが32歳で急逝し、プーランクは打ちのめされます。

「墓碑銘」は彼女の思い出のために作曲されています。

1930年頃にはシャンレールとの愛情は友情に変わり、生涯続いています。

32年からは運転手のレイモン デトゥーシユと恋愛関係になり、また、友情関係に変化し、デトゥーシユは50年女性と結婚しています。

1936年作曲家仲間のフェルーが衝撃的な事故で亡くなります。
プーランクはショックを受けロカマドゥールの聖所を訪れ、 



「黒い聖母への連祷」「ミサ曲ト短調」「フランス組曲」を書き始めています。

1940年第二次世界大戦で招集され、6月2日ボルドーの防空部隊に所属し、7月18日動員を解かれています。

すぐにフレデレーク(フレディ)レベテフと付き合い1946年マリー アンジュが生まれます。
プーランクは彼女の名親になっています。彼女は第一相続人になっていて、やはり実子だと言われています。

1950年には旅のセールスマンのリュシアン マリウス ウジェーヌ ルベールと付き合います。

「冷気と火」「スターバト・マーテル」など充実した仕事をしています。

1953年映画「カルメル会修道女の対話」に着手します。

しかし、権利衝突とルベールの重篤な病に悩まされます。

1955年にルベールが亡くなり、同じ頃リュシアンも亡くなります。
「カルメル会修道院の女が完成したのは愛しい人が最後に息をした、まさにその瞬間だったのです。」と、書いています。

この頃「フルートソナタ」をストラスブール音楽祭でジャン ピエール ランパルとの共演で初演しています。

そして退役軍人ルイ ゴーティエと恋に落ちます。

仕事は、順調で1958年コクトーと協力し、モノドラマ「人間の声」を初演しています。

アメリカに演奏旅行に出たりしています。

1963年パリの自宅で心臓発作で亡くなります。生涯独身でした。




ペロティヌス3声ポリフォニーの始まり

2022-12-09 09:15:00 | 中世
うちの庭のお茄子。

まだ、できてます。
炒めて生姜を、かけて食べました。
まだまた、おいしいですよ。

インド原産で日本では750年正倉院の古文書に「天平勝宝2年茄子進上」と書いてあるのが最古だそうです。
貴重な食材で粕漬が進物に使われていました。
増えたのは江戸時代。

農業全書に「紫、白、青の三色あり、また、又丸きもの、長きもの」と記載されています。

日本には70種ありますが、世界では1000種ほどもあるそうです。

ヨーロッパでは13世紀から15世紀に伝わりましたが、長く観賞用だったそうです。

16,7世紀以降、地中海沿岸部で食べられるようになりました。

13世紀になすをどのように調理したのか?
音楽は少しわかっています。

レオニヌスという作曲家が長いモノフォニー単声音楽の時代に終止符をうち、ポリフォニー多声音楽の時代を切り開きました。

レオニヌスは定旋律の上にもう1つの旋律、対旋律をつけました。
これはレオニヌスのGloria in excelsis Deo「天のいと高きところに神に栄光あれ」

「オルガヌス大全」という本にはこのレオニヌスの楽譜も載っていて、ノートルダム楽派と呼ばれています。

しかし、この本にはもう一人の作曲家
がレオニヌスよりも多い声部からなる楽譜を書いています。

2声以上を書いたことにより、同じ本の中でもノートルダム楽派から、一歩進んだことになります。

足取りも知られていませんが、後世に与えた影響は莫大です。

名前の記載がない作者ですが、これは3声、4声からなるポリフォニーで、これを書いたのはペロティヌスで、「オルガヌス大全」を書いた本人ではないかと言われています。

定旋律の上に複雑な装飾的な旋律、下にはドローンと呼ばれる動きの少ない低音の声部が流れます。

オルガヌス大全に載っている
ペロティヌスのAlleluia, Nativitas「ハレルヤ 乙女マリアの誉れある誕生」


冬の日の幻想

2022-12-08 09:42:00 | ロマン派
今日、やっと家のレッスン再開しました。
抗原検査は2度陰性。熱も37.6度まで。
しかし、ただの風邪でもこんなにしつこい喉、鼻水、たんの症状はうつしてはいけません。

換気扇、空気清浄機、アクリルのスクリーン、マスク、消毒で挑みました。
お手本に吹くのも自粛。
ごめんなさい。

久しぶりにみんなの顔が見られて緊張の中にもうれしかったです。

ノリタケの森ミュージアムでの写真。


デザイン画の展示もありました。
デザインした絵と寸分違わない仕上がり。

これなどため息が出ました。
寒くなって来ました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

の1866年作曲の交響曲第一番「冬の日の幻想」は、ニコライ ルヴィンシュタインが設立したモスクワ音楽院

で講師をするために招かれました。

9月から開校までチャイコフスキーはニコライ邸に滞在し、ニコライに勧められて交響曲を書きました。

1866年12月にモスクワで第2楽章を1867年5月サンクトペテルブルクで第3楽章を初演していますが、部分的な演奏でした。
翌年2月ニコライ ルヴィンシュタイン


の指揮により全曲演奏されます。
この時は、弟アナートリーに「私の交響曲はすごい評判だった。特にアダージョは喜ばれた。」と書き送っています。
曲はニコライ ルヴィンシュタインに献呈されています。標題は珍しくチャイコフスキー自身がつけています。



クーラント

2022-12-07 09:20:00 | リズム
家にこもって一週間と1日。
写真も尽きてきました。
前に撮ったパンジー。
実家で、咲いています。明後日母を病院に連れて行く予定ですが、回復するのやら?

クーラントというリズムは、3拍子の踊りのリズムです。
拍をはっきり出す曲ではなく、「流れるような」音楽が特徴です。

caurant フランス語 形容詞 流れるような、なめらかな、一般的な、今の、日常の
男性名詞 流れ、電流 (思想 物 人口)の流れ

corrente イタリア語 形容詞 流れる、走っている、すばやい、流暢な、現行の、普及した、反復の
男性名詞 成り行き、傾向、水平梁、縦げた

フランスのピエール ファレーズ(1510-1573年)が1548年に書いたクーラントがもっとも古いものです。

彼は1545年にルーヴェンで出版社を立ち上げました。印刷は外注でしたが、1553年には自分の印刷機で印刷し、その後アントワープに移転しより大きな出版顧客を得て17世紀まで続く印刷会社の基礎を築いた人です。
彼はリュート奏者でもあったと言われています。
180もの楽曲を残しています。

クーラントはこの頃はフランスもイタリアも変わりませんでしたが、独自の発展を見せます。

フランスでは、気品があってすばやい動きの踊りとして発展し、ルイ14世(1638-1715年)フランス王国サン・ジェルマン・アン・レ生まれ、ヴェルサイユ没

の頃には大臣の候補者にクーラントを踊らせ、うまく踊れれば採用!?
ということになったそうです。

クーラントの舞踏譜。半円が頭、短い直線が足、そして曲線は足の動きを表しています。振付家のラウール=オージェ・フイエによる《コレオグラフィ 人物・図形・指示記号による舞踊記述法》より。

イタリアではクーラントはコレンテと言われて、速い上にジグザグに走るような動きもあり、フランスの踊とは違う発展を見せました。

そしてバッハはその2つのクーラントの特徴を使い分けて作曲しています。

フランス風組曲より6分23秒からクーラント


コレントの表記のあるパルティータ第5番
4分49秒からコレント

実際のクーラントの踊り。



ハーフレングスのマスター

2022-12-06 09:04:00 | ルネッサンス
女性の上半身を描く画家(Master of female harf length)は
1530-1540年頃107点の作者が特定できてない作品郡のことをさします。

これは、道化師と3人の若い女性
アントワープで見つかりました。個人蔵

この画家の作品には、定番の宗教画の他に多くの働く女性が含まれています。

1530-1550年のアントワープ(アントウェルペン)は、世界交易の中心地でした。
ヴェニスや、ポルトガル、スペインの商人が自ら船で出向いた繁栄のようではなく、開かれた港から初めは胡椒、次は銀で、多勢の世界中からやってくる商人たちがもたらした繁栄でした。

胡椒はローマ時代からヨーロッパでは栽培できないのでインドから輸入していました。東ローマ帝国がオスマン・トルコに支配され、ポルトガルが船を出して北回りでヨーロッパに入れるようになりました。

ここで脚光を浴びたのが、北の港アントワープです。
現地価格の40倍にもなった胡椒は貨幣の代替にも出来る貴重な商品でした。繁栄はイタリア争奪のイタリア戦争に踏み出すまで続きます。

ヴェネツィアのオッターヴィア ペトルッチ(1466-1539年)が初めの楽譜集を出版したのが多声歌曲集「オデトカン」で1501年。
アントワープでも1548年

クリストフ プランタンが活版印刷を建てますが、この女性たちが見ている楽譜は、ヴェネツィアで印刷されたものか、手書き譜面で当時、高価だったと思われます。

ルネッサンスフルートの女性が細かい楽譜を追い、リュートの女性は横から覗いています。真ん中の女性は歌っているのでしょう。
小さなメモのようなものは、簡単な写しかもしれません。

道化師はうっとり聞いています。
このあと、同じサロンでコラボするのでしょうか。

豊かな富が隅々まで届いていることを感じます。

この時代のルネッサンスフルートとリュート歌の合奏は見つけられませんでした。 
この時代の作曲家は多いのですが
オケゲム、デュファイ、オブレヒト、ジョスカン・デ・プレ、イザークなどなど、他の楽器のにしようかと思いましたが、絵の時代の雰囲気を伝えるにはぎりぎりかな?
という作曲家の演奏を掲載しました。曲はフランドル楽派ではないので気をつけて下さい。
チェーザレ ネグリ(1535-1604年)イタリアミラノ生まれ


お菊夫人

2022-12-05 09:17:00 | ロマン派
今日は地域のコミニティのお祭りでした。
相変わらずの体調で
金券受付の当番でしたが、欠席の連絡。
昨日のコンサートも欠席。
あちこちに迷惑をかけてしまいました。
根性出して練習してたんだけど…無理して出て誰かに移しちゃ大変。
休みも大切。

名古屋城では、菊の展示会をやっていました。
秋の菊 にほふかぎりは かざしてむ 
 花よりさきと しらぬ我が身を
           古今和歌集

菊の花を頭に飾るのは不老長寿を願ってのことですが、花より先に死ぬやもしれない老いた我が身にしては。

菊は日本では万葉集780年には出てこず、古今和歌集905年には何首か出てくるのでその間頃に伝わったらしいということがわかっています。

江戸元祿時代になって人気が出ました。
菊合わせと呼ばれる品評会が各地で行われ、品種も増え

段仕立てや菊人形など見せ方も発展しました。

後期になると大輪仕立てが

流行ります。
幕末に中国に逆輸入され、中国の菊に大変化を起こします。

中国の菊がヨーロッパに1789年に入りましたがその頃は入った品種も少なく人気が出ませんでした。

その後1861年プラントハンターのロバート フォーチュンによって日本の菊数種が持ち込まれ、人気が沸騰しました。
イギリスを中心に園芸育種が進み、ヨーロッパ全土に菊の栽培、品種改良がブームになります。

マダム クリサンテーム(お菊夫人)はそのブーム中で出版されました。
ピエール ロティ(1850-1923年)フランス ロシュフォール生まれ、フランス アンダイエ没

右からロティとお菊さんとピエール ル
コール
海軍士官であった彼が長崎に駐在中に日本人女性と一時結婚していたという自伝的小説。すぐに25版が出版されるなど大人気でした。

これをアンドレ メッサージュ(1853-1929年)フランス モンリュソン生まれ、パリ没
がオペラにしました。
小柄で黒髪の娘と結婚して、竹と紙でできた家に住みたいという夢を抱いて日本にやってきた士官のピエール。

江戸で生まれ家が没落して長崎に売られてきた芸者のお菊さんと恋に落ち、結婚します。

愛を育みますが、ピエールがフランスに帰国する日がやってきます。

この作品は当初は人気があり

三浦環が出演したりしていますが、プッチーニの「蝶々夫人」の出現で全曲上演することはなくなりました。 

メッサージュはフォーレとの共作、サン・サーンスのオーケストレーションなど他の仕事で影響をあたえています。
この中で唯一今も歌い継がれているアリア「恵みの太陽が輝く日」(Le jour sous le soleil beni)[蝉たちの歌]は、今もソプラノの大切なレパートリーの一つとして残りました。
 



椿の花の貴婦人

2022-12-04 09:18:00 | ロマン派
これは椿かな?
サザンカかも。
サザンカの品種は椿との交雑と書いてあるので、わからなくても当然。
寒い時に咲く等ありますが、原種は九州、四国が北限だそうです。
品種改良により本州まで咲くようになったそうです。

椿は733年「出雲風土記」に名前が出てきます。椿は北海道南部まで広く分布しています。
「万葉集」「源氏物語」に名前が出てきます。

豊臣秀吉は茶花として椿を愛用し、「茶の湯」に欠かせない花になりました。

江戸時代には品種改良が進み、2代将軍徳川秀忠は椿を好み、1630年「百椿図」が発行されました。

1634年烏丸光広が書いた「椿花図鑑」



には619種の椿が収められています。
そして今では2000種類の椿があるそう。

音楽の世界で椿というとジュゼッペ ヴェルディ(1813-1901年)フランス帝国タロ地区レ ロンコーレ生まれ、イタリア王国 ミラノ没
の「椿姫」

人気女優サラ ベルナールがモデルのアルフォンス ミュシャのポスター。

ベルナールの髪と左足元に椿の花が、描かれています。

1852年のアレクサンドロ デュマ フィス(1824-1895年)フランス帝国パリ生没



の舞台に感銘を受けたヴェルディが自らファニーチエ劇場のために書きました。

デュマ フィスの原題は「椿の花の貴婦人」でこのポスターもそのタイトルですが、

ラ トラヴィアータ 道を踏み外した女に変えられています。

当時の世情として、検閲もあり、娼婦が主演の話しは受け入れられないという判断です。

24歳で始めの妻子を病死で全て亡くしたヴェルディは34歳の時にソプラノ歌手のジュゼッピーナ ストレッポーニ


と付き合いだします。

翌年には故郷のブッセートに帰り、二人は同棲していますが、世間の目は厳しくジュゼッピーナは苦労しています。

母が亡くなるとパリに戻り、父との関係も修復しています。

娼婦であっても、誇り高く生き、愛する人のため身を引き死ぬというヴィオレッタの

ストーリーとジュゼッピーナへの思いは重なっているといいます。

初演は準備期間が少なく大失敗でした。
しかし、今や最も演奏されているオペラの一つです。

死の床にあるヴィオレッタがアルフレードからもらったかつての恋文を読み歌います。

さようなら、過去の幸せな夢よ
頬の赤みはもう青ざめた

恋しくなるアルフレードの愛
疲れた魂を慰めて支えて

ああ 見当違いの微笑みを
神は私を許して受け入れてください、
すべては終わっています。

喜びも悲しみもすぐに終わる
墓はすべての死すべき者を閉じ込める!
泣いたり、私の墓に花を置いたりしないでください。

私の名前の十字架を置いて、これらの骨を覆ってはいけません!

ああ、あの間違った笑顔への欲求。
神は私を許して受け入れてください、
すべては終わっています。











白鳥姫

2022-12-03 09:24:00 | ロマン派
名古屋城の鷺。

白鳥

鴨。

そして、金のしゃちほこにはカラス。

街中にも鳥たちは生息しています。
なかなかうまく撮れませんが。

ジャン シベリウス(1865-1957年)フィンランド大公国ハメ州ハメーンリンナ生まれ、フィンランド ウーシマー州ヤルヴェンパー没


1908年劇付随音楽として「白鳥姫」を書いています。
台本はスウェーデンの劇作家ヨハン アウグスト ストリンドベリ(1849-1912年)

彼は1905年自分の妻ハリエット ボッセが劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」をヘルシンキで主演したのを観て感激し、自分のかいた「白鳥姫」にも曲をつけて欲しいとシベリウスに頼みました。

ストリンドベリはこの作品に様々な民話の要素を盛り込みます。

ですが、劇付随音楽としてはあまり演奏されることはなく、組曲版が演奏されています。

孔雀、コマドリ、白鳥の鳴き声が曲に出てきます。
もしかしたら孔雀は鳴き声
でも歯を鳴らす音でもなく、羽を広げたときに羽をざわざわさせて、威嚇するときの音かもしれません。



第1曲「くじゃく」(The Peacock) - 劇ではくじゃくが歯をならす音をカスタネットで表現しています。

第2曲「ハープ」(The Harp)

第3曲「薔薇を持った乙女たち」(The Maidens with Roses)

第4曲「きけ、こまどりが歌っている」(Listen! The Robin sings)

第5曲「王子は一人」(The Prince alone)

第6曲「白鳥姫と王子」(Swanwhite and the Prince)

第7曲「賞讃の歌」(Song of Praise)









12月の曲

2022-12-02 09:12:00 | ロマン派
風邪の為、自宅待機中に12月に入りました。
今週はレッスンもキャンセル。週末のコンサートに備えます。
コロナでもなく、インフルエンザでもなく、喉が痛い風邪です。
家族全員かかり、私が最後。
うちだけかと思ったら、FBの友だちも同じ喉が痛いだけの症状の風邪にかかり、抗原検査2度受けたけれど陰性。熱はなくだるくてつらい。
同じ経過です。
時間が経つと鼻水、咳。こうなるともう少し。
今ここです。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没



「四季」は1875年
サンクトペテルブルクの音楽雑誌「ヌーヴェリスト」月刊誌の依頼に答えて1年間詩人とコラボ、連載しました。

12月の詩人はヴァシーリー アンドレーヴィチ ジェコーフスキー(1783-1852年)ロシア帝国トゥーラ ミンシェンスコエ村生まれ、ドイツバーデン=バーデン没

父は地主貴族プーニン家の一員、母は露土戦争の捕虜のトルコ人で使用人でした。
非嫡出子なので下流貴族のジェコーフスキー家と養子縁組しました。
プーニン家に連なるものとして教育を受け、モスクワ大学で学びました。
1802年ヨーロッパ雑誌「報知」にトマス グレイの「墓畔の哀歌」を翻訳して紹介。
ドイツロマン主義をロシアに入れ、評価が高まります。

大公妃アレクサンドロ フョードロブナや皇太子後のアレクサンドル二世の傅育官を任じられ、1860年ロシアにおける自由主義的な改革に貢献しました。
高位を利用し自由主義の作家を擁護し、プーシキンの作品を出版し、ゴーゴリを育てました。
ロマン主義を影で支えました。
1841年、退任するとドイツに移住。58歳でドイツの娘バルト(18歳)と結婚2子をもうけ、69歳で亡くなります。

12月 クリスマス

ある年の洗礼祭の夕べ
娘たちが恋占いをしていた
片方の靴を脱ぎ捨てて
門の外に放り出して