音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

川にまつわる交響曲

2023-07-11 21:02:00 | ロマン派
月曜は京都の富久田先生のレッスンに行ってきました。
モーツァルトのフルート四重奏Ddurの本番が8月6日に演奏会で披露するので見ていただきました。
この曲、まだまだ磨けます。

今出川大宮のバス停の近くに近畿産業信用組合のゆるキャラ「とらきち」が立っています。
銀のとらきち…微妙。

鴨川もお天気悪い。

叡山電鉄まで行って、電車拝んでから、「雨降る前に帰らなきゃ。」と、帰ってきました。
家についた途端に雷雨が降ってきました。

ル メックの餡とラズベリーのパン、お昼ごはんに、忘れず買って帰りました。

鴨川が京都を代表する川なら、ライン川。ドイツの歴史はこの川を中心に展開しています。

実は全長1233kmうち、ドイツを流れているのは698kmだそうです。
源流はスイスでフランス、オランダを経由して北海へながれています。


ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没


交響曲第3番変ホ長調op97は「ライン」と呼ばれています。

1847年5月に長男を失い、11月に親友のメンデルスゾーンが亡くなり、シューマンは衝撃を受けます。

それでもドレスデンの男性合唱団の指揮をすることになり、シューマンはこれを混声合唱団に拡大するなどして力を注ぎます。

1849年5月にドレスデンで革命蜂起(ドレスデン5月蜂起)

立憲君主制を求め新憲法民主的な選挙により選ばれた議員たちが新憲法の元に王を選ぼうとしましたが、拒否され、新憲法を巡ってプロイセン王国内であちこちで蜂起が起きました。200人の死傷者を出し失敗。
が起きるとシューマンは心情的には自由主義の立場でしたが、精神障害や家族の安全のこともあってマクセンに避難します。

ここでも数曲完成させ、1850年、デュッセルドルフ管弦楽団、合唱団の音楽監督に招かれます。

9月に到着すると盛大な歓迎を受けます。

シューマンはライン川沿岸を好んで散歩し、9月と11月には ライン川上流に位置するケルンにも足を伸ばしました。

壮大なケルン大聖堂

に感銘を受け、おりしもこの時期に挙行されたケルン大司教ヨハネス フォン ガイセル

の枢機卿就任式
の報に接し、交響曲の霊感を得たと言われています。
11月にチェロ協奏曲を完成させると、直ちに交響曲の作曲に取りかかって12月には完成しています。

「ライン」の副題はシューマンがつけたものではないですが、ライン川の川下り、それを取り巻く環境に触発され、その関連は深いといわれています。

第1楽章ローレライ

ローレライが歌声で船人を水底へ引き込んだと言われる伝説がある
第2楽章コブレンツからボン 

コブレンツにはライン川とモーゼル川の合流地点があり、「ドイツの角」と呼ばれる川に突き出た街があります。
第3楽章ボンからケルン

第4楽章ケルンの大聖堂

第5楽章デュッセルドルフのカーニバル

醜い精霊ホッベディッツに扮して大きな音を出して寒い冬を追い出すカーニバル
となっています。
1851年シューマン自身の指揮によりデュッセルドルフで初演されています。 

この曲はいろいろな編曲がほどこされています。
特にグスタフ・マーラーによる編曲が有名で、よく演奏されています。


最後の曲集

2023-07-10 21:01:00 | バロック
久しぶりに宇治植物園に行ってきました。
午前中雨でしたが、すっかり止んで曇り空。湿度多めです。

アガパンサスや

紫陽花

カンナ属が

睡蓮や

木槿も咲いていました。

巨大タペストリーはカエルさん。
ボランティアのみなさんが植えたそう。
温室や、ハーブ園もあって1回では紹介しきれません。
レストランもあってランチ食べて





半日で回るには調度いい所です。

ヨーロッパでは18世紀にイギリスを中心に世界中にプラントハンターが派遣され、珍しい植物を持って帰り、キューガーデンやライデン植物園などの宮廷植物園に展示されました。
植物園の鑑賞、研究用というだけでなく、珍しい植物は高値で取引されました。

フランソワ クープラン(1668ー1733年) フランス王国パリ生まれ、没。
バロック時代のフランスの作曲家。
多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名な人物で「大クープラン」として知られています。

1693年ルイ14世のオルガニストとして選ばれます。

教師としてクラヴサンを王族に教えます。
クラウザン曲集第4巻は1730年出版されましたが、序文で健康が悪化していることを記しています。
「3年ほど前、これらの作品は書き上げられました。しかし、私の健康は日々弱るばかりなので、友人たちは仕事を休むようを忠告してくれます。
なので、その後何も大きな仕事をしていません。所賢が今日まで、私の作品に喝采を送らんとせられたことに御礼申し上げます。」
1733年、亡くなります。

生涯最後のクラヴザン第4巻。
第27オルドルは「ケシ」Les pabots

Franz Eugen Köhler, Köhler's Medizinal-Pflanzen
ルイ14世の建てたヴェルサイユ宮殿には、広大な庭園と

温室があったといいます。
ケシは紀元前五千年前メソポタミアで栽培されていました。
ヨーロッパでも古くから栽培されていました。

François Couperin: Les Pavots – Quatrième livre de pièces de clavecin


ギターとフルート古典派の最高峰

2023-07-09 21:00:00 | 古典
土曜はギターの川原久美子さんが、合わせに来てくれました。

京都在住の川原さん、京都のお干菓子と、クッキーを持ってきてくれました。
子どもの頃、おばあちゃんが京都に行ってはお土産に買ってきてくれました。

「懐かしい!」
でも、よく見たら、ジェリービーンズや、クッキーが入っていて昔の落雁とは少し違います。
桃の紅茶と頂きました。

お題「イタリア」のコンサートが9月18日にあるので、カルリにしようかと思っていましたが、せっかくなのでギターとフルートの古典派最高峰マウロ・ジュリアーニの曲を取り上げることにしました。

マウロ・ジュリアーニ(1781ー1829年) ナポリ=シチリア王国ヴィシェーリエ生まれ、ナポリ王国 ナポリ没
兄のニコラと共にパルレッタに移り、チェロの指導を受け、バイオリンも学んでいました。
その後、ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長しました。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、1801年長男ミケーレを授かります。
1806年家族を残したままウィーンに出向くと、この地でヴィルムートという女性と関係を結び、1807年には長女マリアをもうけました。

ウィーンでは古典派の様式に通じるようになり、1807年古典派の器楽曲による出版に取り掛かります。
ヨーロッパ全土に演奏旅行をし、行く先々でその超絶技巧や音楽的な趣味が賞賛され、大成功を収めて音楽会の名士となります。19世紀初等のウィーンで活躍した演奏家や作曲家の中でも最高の1人に称えられました。

オーストリア帝国の上流社会やベートーベンやロッシーニのような作曲家にも知られるようになります。1815年ヨハン ネボ厶ク フンメル、イグナーツ モシェレス、バイオリニストのヨーゼフ マイゼータ、チェリストのメルクとともに、シェーンブルーン宮殿

の植物園
大温室で2022年ウィーンフィルのコンサートが行われました。温室は4つあり、どこで行われたかはわかりませんでした。
で室内楽の演奏会を行いました。

1815年にはウィーンの帝国議会の名士達のための公式の演奏家となりました。
楽譜出版社アルタリア

と提携し、ギター曲の大部分を出版しました。

1819年に経済的な理由からウィーンを後にします。
イタリアに戻るとトリエステやベネチアに過ごし、ついにローマに落ち着きます。
ローマでは成功せず、わずかな作品を出版し、一度きりの演奏会を開いただけでした。
1813年生まれの娘エミリア

は1821年から26年まで腹違いの姉、マリアと共にラドラジオーネデブス修道院で教育を受けています。

1823年7月重病の父のお見舞いに度々ナポリを訪れています。
ナポリ=シチリア王国の都ではジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によってその後ギター曲を出版してもらうことができました。
1826年にはポルティチにてフランチェスコ一世

とポルポーネ家の宮廷のために御前演奏を披露しました。
娘エミリヤとしばしば共演するようになりました。
1828年の末までに体を壊して、1829年5月4日ナポリで生涯を閉じました。

「レントラーの6つの変奏」op63は1816年ウィーンで出版されました。

ヴァイオリン奏者のヨーゼフ マイゼダー(1789-1863年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

に献呈されています。
彼はウィーンでの合奏仲間で
おそらく彼と合奏するために作曲されたと思われます。

レントラーというのは、4分の3拍子のドイツ南部の民族舞踊のことです。
13世紀チロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェッラーから発展した民族舞踊。
伴奏音楽は器楽やヨーデルが混ざることもあります。

19世紀になるとより速いテンポで優雅さが求められるようになり、男性はHobnailという底に釘が打ち付けてある長靴を履いて踊るようになります。

ワルツ、ウィンナワルツの系列です。
これはヴァイオリン版ですが、私はペータールーカス グラーフ編曲のフルートギター版で演奏します。



水遊びの季節

2023-07-08 21:00:00 | バロック
これ何かな?
と近づいたら

ディコンドラ シルバーフォールという苔の一種でした。
和名はアオイゴケといいます。
原産はアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、東アジア

シルバーフォール、銀の滝いい名前です。

神聖ローマ帝国のヘッセン州カッセルにある世界遺産ベルバルク ヴィルヘルムスヘーエは水の宮殿と呼ばれています。
1696年ヘッセン=カッスル伯カール1世

によって建設が始められました。

イタリア視察旅行を行い、ファルネーゼ宮殿を真似て、ヘラクレス像を建てました。

1701年にはイタリアの建築家ジョバンニ フランチェスコ グエルニエロをローマから呼び寄せ設計を依頼しました。
カール1世が亡くなるとフリードリヒ1世とヴィルヘルム8世の兄弟が引継ぎます。
ヴィルヘルムの息子フリードリヒ2世

はイギリス女王のメアリー


と結婚し、イギリスのキュー王立植物園に通って建物と庭園を研究し、ウィリアム チェンバーズに教えを請い、プルート洞窟

などを設置し、大噴水

 
を完成させ、イギリス式庭園自然を模した曲がりくねった小道を作り、

ランダムに木を植えました。

ヘッセン選定候領ヴィルヘルム1世(ヴィルヘルム9世)

になると、水力エンジニア、造園家とともにイギリス式庭園に改築、1798年ヴィルヘルムスヘーエ城、


1801年レーヴェンブルク城

を完成します。

1807年から6年間はナポレオンのヴェストファーレン王国に支配されジェローム ボナパルト


がヴィルヘルムスヘーエ城を使用しました。
その後戻ったヴィルヘルム2世
は公園を北に拡張し、新しい滝や水路を建設。最先端のモダニズム建築を導入し、ガラスと鉄を使用した温室

や鋳鉄製の鉄橋のあるトイフェルス橋(悪魔橋)を設置しました。

その息子フリードリヒ ヴィルヘルム1世

は1866年プロイセンオーストリア戦争にオーストリア側で参戦、敗北を喫っしてプロイセン国に併合されました。

ドイツは1871年にプロイセンを中心にドイツ帝国として統一されました。
第3代ドイツ国王皇帝ヴィルヘル厶2世


はヴィルヘル厶スヘーエ城を気に入り、夏の離宮として使用しました。

第二次大戦後、公園は国有化され、カッスル州によって管理されるようになりました。

ゲオルク フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選定候領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

1710年頃のヘンデル
1710年ヘンデルはドイツのハノーファー選定候ジョージ

の宮廷楽長についていました。
ところが1712年にイギリスに渡ると再三の帰国命令にも従わず、ロンドンに定住しました。

ところが、1714年ハノーファー選定候がイギリス王ジョージ1世になることになりました。

そこでヘンデルは王との和解を図り、1715年テムズ川での王の舟遊びの際に「水上の音楽」を演奏しました。

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)

しかし、この話は証拠がありません。
1717年、舟遊びの時に演奏され、王は舟で往復する間、三度もこの曲を演奏させたという記録が残っています。

また、1736年、プリンスオブウェールズ(皇太子フレデリック ルイス)

の后に決まったオーガスタ

を迎えるための舟遊びが開かれ、ここでもヘンデルの曲が演奏されています。
この曲は以前のものとは違いました。

今では舟遊びのたびに分けて作曲されたものと考えられています。

イギリスやドイツの王族の間で当時、舟遊びや水遊びが流行っていた事をこの逸話は伝えています。





サマー・タイム

2023-07-07 21:01:00 | 近代
うちの千日紅は元気に咲いています。
南米産、花季が長いのでついた名前。
百日紅=サルスベリより長い…。かどうかはわかりませんが。
百日紅は7月〜10月
千日紅は6月〜10月
花の少ない暑い時に咲いてくれます。

雨がどしゃ〜っと降ったと思ったら、快晴33℃、また雨。
今日木ようは快晴です。

ジョージ ガーシュウィン(1898-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没

父はロシア、母はベラルーシからのユダヤ系移民でした。
13歳からピアノを学び、1919年には歌曲「スワニー」を書き大ヒットします。
1920年からは兄のアイラ(1896-1983年)

と組んでミュージカルやポピュラー音楽を書いてヒットさせています。

1924年、「ラプソディ・イン・ブルー」1928年「パリのアメリカ人」を書き、管弦楽との曲に、自信が無かったガーシュウィンはラヴェルに教授を頼みます。

1828年ラヴェルの誕生日を祝う会、右端がガーシュウィン
しかし、ラヴェルは「ガーシュウィンには生まれながらの音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」とナディア ブーランジェへの手紙に書き
「既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」と、断ります。

1935年フォークオペラ「ポーギーとベス」は、オール黒人キャストで初演されます。この中で歌われた「サマー・タイム」はポピュラーソングのスタンダードになっています。

詩は兄のアイラと作者のエドワード ヘイワードとの共作です。
ボストンのコロニアル劇場で初演されました。

「ポーギーとベス」
アフリカ系移民の住むキャットフィッシュロウ(なまず横町)が舞台。

足の不自由な乞食のポーギーは給仕女のベスに思いを寄せています。
ベスの内縁の夫クラウンは賭博のトラブルから仲間を殺して逃亡します。
これを聞いたベスはポーギーと一緒に暮らすことになります。

住民たちはブラウンに殺されたロビンスの部屋に集まり、彼の死を悼むとともに泣けなしの金を出し合って葬儀の費用を捻出します。

殺人事件の1ヶ月後、ナマズ横丁の住民たちは離島にピクニックに出かけます。ポーギーは足が不自由なために留守番です。ベスもピクニックに参加しますが、島に隠れていたクラウンと出会ってしまいます。
島から戻ったベスが、熱を出して寝込み、ポーギーが献身的に彼女を看病をします。回復したベスはクラウンのことを告白し、ポーギーへの愛を誓います。

その翌日、ハリケーンが島を襲います。住民たちが集まっているところにクラウンが登場し、ポーギーと険悪ムードになります。

漁師ジェイクの妻クララが難波した夫の船を見つけ、嵐の中へ飛び出していきます。クラウンは嵐を恐れる住民たちを臆病者と罵りクララを追います。

ハリケーンの翌日嵐のために死んだ仲間のために葬式が終わった後、クラウンがポーギーの部屋に忍び込みます。発見したポーギーは乱闘の末にクラウンを殺してしまいます。

翌日警察による捜査が行われ、ポーギーは検視のための参考人として警察へ連行されます。
ポーギーが犯人であることは発覚しなかったものの、彼は自分が殺した相手を見ることができなかったため、警察に1週間拘留されてしまいます。
勾留が解けて帰ってきたポーギーはベスの姿がないことに気づきます。
住民たちからポーギーがいない間に遊び人の麻薬の売人スポーティング ライフがベスを誘惑し、二人が遠いニューヨークへ行ってしまったことを知らされます。

ポーギーは悲嘆にくれるどころか、ベスを見つけるため、不自由な足を押して数千キロ離れたニューヨークを目指し、旅立ちます。

「サマー・タイム」は第一幕の冒頭で生まれたばかりの赤ん坊にクララが歌いかけるブルース調の子守歌です。

夏になれば豊かになれる。
魚ははねてバターの木は伸びる。
父さんは金持ち。
母さんは綺麗だから、坊や泣くのはおよし。
ある朝、お前は立ち上がって歌う。そして羽を広げて飛んでいく

でもその朝まで
何にもあなたを傷つけさせない
お父さんとお母さんがそばにいるから


ひまわりの行く方と

2023-07-06 21:00:00 | ロマン派
近所のお宅のひまわりがきれいです。 
ヴィンセント ヴァン ゴッホ(1853〜1890年)オランダずんでると生まれフランス オーベル=シュル=オワーズ没

1887年自画像
のひまわりは全部で7点だそうです。

1888年8月から1890年にかけて南仏アルルの芸術家の家「黄色い家」

を飾るために製作されました。
ゴッホは南仏の気候と愛する日本の気候が似ていると思いこんでいました。
そのため画家たちを集めてそこで一緒に生活しながら創作しようと思っていました。

しかし、応じたのはゴーギャンだけでした。それもゴッホの弟テオに頼まれてシブシブ…。

それもすぐに破綻しますが、ゴッホはその家を飾る「ひまわり」を死の直前まで描き続けます。

この2点目のひまわりは
敬愛するゴーギャンを待ちながら描いています。
1920年実業家の山本顧彌太氏が2億円で購入し、自宅に飾っていたところ、1945年第二次大戦中、空襲にあい焼失しました。

こちらのひまわりは1987年SOMPO美術館の代表取締役だった後藤康男が58億円で購入しました。今もSOMPO美術館に飾られています。
この作品は第二次大戦前1930年頃までは銀行家のパウル フォン メンデルスゾーン バルトルディが持っていました。
1934年、ナチスの政策と経済制裁により、売却されました。
そのため遺族がSOMPO美術館を訴えています。

「ナチス没収品に関するワシントン原則」が1998年に制定される10年前のことでした。

パウル フォン メンデルスゾーン バルトルディ(1875-1935年)
マックス リーバーマンによる肖像画(1909年)
は、作曲家のフェリックス メンデルスゾーンの弟で銀行経営家で美術収集家でした。

フェリックスは1847年に亡くなりました。
1850年リヒャルト ワーグナーがK.フライゲダンクという名前で出版した論文「音楽におけるユダヤ性」で
ジャコモ マイアベーアや、メンデルスゾーンなどユダヤ人の作曲家にたいして、「ユダヤ人どもがこの問題を個人的な水準を引き下げるのを防ぐために」「金儲け主義」「強欲」なユダヤ人には真の芸術作品を創造することはできない。と、芸術性を否定します。

当時は反響はほぼありませんでしたが、ピアニストのイグナーツ・モシェレス(メンデルスゾーンの友人)が編集部に抗議の手紙を送っています。

1892年、ゲヴァントハウス前に、メンデルスゾーンの記念像が建造されます。

1933年ナチスドイツによりユダヤ人作曲家の音楽の公演を全て禁止する指令が発布されます。

1936年ライプツィヒ市長カール ゲルデラー

がフィンランド出張中にナチスの将校がゲヴァントハウス前のメンデルスゾーンの銅像を降ろし、スクラップにするように命令しました。
戻った市長は抗議の後、銅像再建を進め、翌年3月ライプツィヒ市長を辞職しました。その後彼は反ナチの活動に加わり、ヒトラー暗殺計画に加わり失敗、1945年処刑されます。

この傾向は1世紀続きます。ニーチェはベートーヴェンとワーグナーの幕間に過ぎないといい、カール オルフ

らはナチスの機関の一部である帝国音楽院で演奏を禁じ、「真夏の夜の夢」を書き直すことを推奨しました。

「メンデルスゾーンは音楽における危険な事故として出現したもので、決定的にドイツの音楽を「退廃的」にした張本人である」とナチスによって流布されました。
また、メンデルスゾーン奨学金も中断されました。

再評価されたのは1960年代になってからで、彼の作品の多くが出版され、2008年にゲヴァントハウス前の銅像も再建されました。

私にはまだその関係をよく理解できませんがメンデルスゾーンはユダヤ教ではなく、カトリックを信じていて、多くの宗教曲を書いています。
そして、wikipediaでも多くの紙面を割いて強調しているように見えます。

また、バルトルディという姓はユダヤ特有の姓で嫌っていたとファニーが書いていたことを取り上げています。

私には、差別はメンデルスゾーンの生前も死後も、1世紀以降も続いているように見えます。

メンデルスゾーンの人気の宗教曲「おお、鳩の翼に」
O for the wings of a dove!
Far away would I rove!
In the wilderness build me a nest,
And remain there for ever at rest.
鳩のように飛べたなら
はるかかなたへ飛んでゆけるのに ! 
荒れ野に巣を作り、
とこしえに休らうだろうに !



猫の子守唄

2023-07-05 21:12:00 | 近代
月曜は、塚口駅t-raumでハープのレッスンでした。
ハーブまだ四年目なのに、「オーケストラでハープを弾いて」と頼まれたけれど、とてもじゃないから断った話しを先生にすると「モルダウならもうできますよ。」
「練習しておいたら。」とにっこり。
考えただけでも冷や汗が出てきました。

帰ろうとしたら、t-raumの黒猫さん。

撫でて欲しいのかな?と思って近寄ったら

立ち上がって逃げられました。

イーゴリ ストラヴィンスキー(1882-1971年)ロシア帝国オラニエンバウム生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

ポーランド系の小貴族の家系に生まれます。
リトアニア大公国の領地を持っていましたが、徐々に没落し、父の代には三男だったために財産を受け継ぐことはありませんでした。
父はマリンスキー劇場つきのバス歌手として有名でした。

1901年官吏の道を目指してサンクトペテルブルグ大学法学部に入学しましたが、1902年夏にリムスキー=コルサコフ


と出会い、個人授業が受けられることになりましたが、その年父が亡くなります。

1905年「血の日曜日事件」が起きます。サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、


政府当局に導入された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出しました。

ロシア第一革命のきっかけとなりました。
これによる混乱でストラヴィンスキーの学位取得が1年遅れ、1906年に学位を取りました。
この頃にはリムスキー=コルサコフから定期的に授業を受けられるようになりました。
1908年6月リムスキー=コルサコフが亡くなります。

1908年から管弦楽作品「幻想的スケルツォ」「花火」を書きます。
バレエ「リュス」のセルゲイ ディアギレフ


はこの2曲を聞いて、ストラヴィンスキーと親密な関係を持つようになりました。
1910年このバレエ「リュス」のために書いた「火の鳥」が初演され、大成功を収めます。

1911年ペトルーシュカが初演され、これも成功。
1913年パリで「春の祭典」

『春の祭典』初演時のバレエ・ダンサーたち(1913年)。左から2番目がマリー・ランベール。初演時の衣装、舞台装置。
が初演されましたが、賛否両論の怒号が演奏を消すほどでした。しかし、終演後すぐに評価は急上昇し、大成功を収めることになりました。

彼は夏はウクライナ
ウクライナのストラヴィンスキー博物館
で冬を、スイスで夏を過ごしていましたが、1914年第1次世界大戦が勃発するとウクライナには帰れなくなり、スイスに居を定めました。

1917年ロシア革命が起きると故国の土地は没収され、収入は断たれます。
バレエ「リュス」の公演も戦争でできず、生活は困窮します。

この頃ロシアの民衆詩や寓話による土俗的な作品を書いています。
「きつね」「結婚」「兵士の物語」など次の新古典主義を準備するものでした。

「猫の子守唄」は、1915-16年に書かれた歌曲集です。

コントラルト(アルト、テノールより高い音域、女性の低い声部)と3本のクラリネット
小クラリネット(高音域)
クラリネットA管
バスクラリネット
のために作曲されました。
4つの小品からなり、ロシア語の歌詞でV.バセックによる「庶民の子守唄」という雑誌記事から取られました。

1919年ウィーンで初演されました。
「猫の子守唄」
1.おやすみ猫ちゃん
  おやすみ猫ちゃん 暖炉の上で      
  フェルトの上で 両手を頭にして      
  きつねのコートを肩に掛けて
2.ペチカの上の猫ちゃん
3.ねんね
4.猫ちゃん 猫ちゃん

全部書いてもいいけれど、どれも猫への愛があふれています。
民謡に取材したと言っても、これはストラヴィンスキー、猫好き決定でしょう。







7月刈り入れの曲

2023-07-04 21:03:00 | ロマン派
実家近くの水田。
少なくなりましたが、まだまだ残っています。
車載温度計によるとこの辺りだけ、気温が一度位低いです。

実家の百日紅(サルスベリ)も咲いてきました。

1880-1883?フランシスコ マヌエル ブランコ
中国原産、江戸時代に日本に入りました。

又しても 百日紅の 暑さかな
            正岡子規

暑いです。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1875年から76年にかけて出版された月刊誌「ヌーヴェリスト」の詩人とのコラボ。7月の曲は「刈り入れの歌」

詩人はアレクセイ コルツォフ(1809-1842年)ロシア帝国ヴォロネジ生まれ

牛商人の息子として生まれます。彼は9歳から2年だけ地元の学校で学んだだけで、父親から事業を手伝ってほしいと頼まれて学校を辞めています。

彼は牛を売買し、動かしました。
その間、父親に内緒で詩を書きました。
1831年文学誌に彼の詩が載りました。1835年には詩集が出版されました。コルツォフはサンクトペテルブルクとヴォロネジを仕事で行き来しながら、詩人や哲学者、文学者と合流しました。
その中にはプーシキンがいて、彼はコルツォフの詩を詩集の中に入れ紹介しました。

しかし、彼の父親は彼を管理し、支配下に置きました。
創造的な詩作活動を抑圧し、コルツォフは鬱病を発病し、後に結核に罹患し1年の闘病の末え、33歳で亡くなりました。

彼の詩は農民の生活を様式化し、農村での労働を理想化しています。
ロシアの民間伝承を収集し、素朴な農民の暮らしや仕事を称賛しました。

彼の詩はムソルグスキーやリムスキーコルサコフによっても取り上げられています。

「刈り入れの歌」コルツォフ
わが手は楽しみワクワクしてる

さあ、振り上げよう!

みなみ風、

このわが顔を吹きぬけろ!



ソリスト育成支援のためのオーケストラ

2023-07-03 20:58:00 | 近代
オペラパークコンチェルトオーケストラの録画の見学に行ってきました。
ホルンの小林浩さんのお誘いです。
園田東生涯学習センターの音楽室でした。
阪急電車はもう天神祭仕様。
若手の支援を行うためのオーケストラ。
曲はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲
指揮は白谷隆さん、ヴァイオリンソロは
冨樫音葉さんが第一楽章。
冨樫美玲さんが第二、三楽章。
二人とも中2。

コンサートマスターは近藤緑さん。
撮影された動画をYou Tubeにあげます。
オーケストラとの共演はなかなかできない中、その機会を増やそうと結成されたオケ。
しかし、なかなかの腕前です。
ソリストお二人は中二と思えない圧巻の演奏でした。
オーケストラは一発本番だったそうですが、さすがの演奏でした。

シャルル カミーユ サン・サーンス(1835-1921年)フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没
彼は13歳でパリ音楽院に入学を赦されるほど優れたピアニストでした。
音楽院でオルガニストのフランソワ ブノワに学びます。
1850年「交響曲イ長調」「ジン」を書き、3つのハーモニウムのための小品でサントセシル大賞を受賞します。

1853年にサン メリ教会のオルガニストになります。
1861年にはニデルメ二エール音楽学校のピアノ科の教師になります。
フォーレは彼の授業を受けると、シューマン、リスト、ワーグナーなどの音楽を紹介したときのことを書いています。

…授業を延長した後、彼はピアノの許へ行き私たちに巨匠らの作品を聴かせた。私たちは教育課程が厳密な古典的性格であったためにそうした楽曲から距離を置いており、さらにはその遠い昔には彼らはほとんど知られていなかったのである。(中略)当時私は15か16で、この時から(中略)私が生涯を通じて彼に持ち続けていたほとんど親に対するような愛着、絶大な称賛、絶えなき感謝が始まっている。…

その頃1863年「序奏とロンドカプリチオーゾ」を作曲しています。

ヴァイオリンの名手 パブロ デ サラサーテ(1844-1908年)スペイン王国バンブローナ生まれ、フランス共和国ピアリッツ没

に献呈されました。
ヴァイオリン協奏曲第1番のフィナーレとして作曲されました。

2019年12月ヴァイオリン独奏 佐野慎太郎さん(当時大阪音大4回生) 指揮は鈴木啓哉さん
オベラバークコンチェルトオーケストラ



舞踊の音楽

2023-07-02 21:54:00 | リズム
金曜日は牧野生涯学習センターで「第二会聴き合い会」でした。

今回はチェロの参加もありました。
バッハの無伴奏チェロ組曲のプレリュードとジークを演奏されました。

フルートのお二人ははビゼーのカルメンの間奏曲、バッハの管弦楽組曲からポロネーズトとバディネリ。
私はバスフルートで対旋律と通奏低音を吹きました。

リュートはボローノ作曲のサルタレロを3曲。
ギターのソロは、ソルの3つの練習曲、武満徹編曲のロンドンデリーの歌、アルベニスのカタルーニャ奇想曲などなど、11人が演奏されました。

私たちはCPEバッハのカルテットという名前のトリオ。
それからピアノの坂田さんとぺリローのバラード。

ヴィオラとギターのデュオや、フルートチェロ、ピアノのトリオなど楽しんだ後、最後はJFラモーの3つの舞曲
メヌエット2つとロンド風ミュゼット、ギターとヴァイオリンとアルトのための曲をみんなで合奏しました。

楽しかった!
打上げももちろんやりましたよ!

ジャン フィリップ ラモー(1683ー1764年)フランス王国ディジョン生まれ、フランス王国パリ没
ディジョン大聖堂のオルガニストだった父の跡を継ぎ、その後、パリ、リヨンの教会オルガニストに就任し1723年からパリに定住。
アレクサンドル ド ラ ブブリニエール財政官の後援を得ます。
1733年には作曲で名声を得て、フランスの楽壇の指導的な作曲家になっています。

その頃からオペラをヴォルテールと組んで書くなどしています。

また、ラモーは機能和声法と調性を体系的に理論化した初めの音楽理論家です。

ラモーの「メヌエットⅠ Ⅱ」は、作曲の経緯などよくわかりませんが、舞踊音楽として作曲されたと思われます。