音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

天上の声か、恐怖の楽器か?

2024-02-19 21:00:00 | 古典
土曜日は、次男夜勤のはずでした。
ところが午前1:30にスマホに電話。
 
「会社の階段で、転倒して骨折ったみたいだから迎えに来て。」って

午前中、地域の小学校でうどん作りをして帰ったら夫と土曜日でも見てくれるところを受診してくれてました。

見事に膝骸骨が真っ二つ。
ギプスしておくので、月曜日に別の病院で手術してって言われたらしい。

全治3ヶ月。
チタンで繋いで、半年後また手術して取りましょうと言われました。

私は12月に骨折。骨は治ったけれどその後コロナになって後遺症も治りきらないのに…。
参りました。

私のベッドがまた役に立ち。
杖では足りなくて次男は松葉杖をつくようになりました。
あ~あ!
いよいよお祓いしてもらわなくては。
ってそんなに信じているわけではありませんが。こう続くとね。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


アダージョとロンド ハ短調 K.617を作曲しました。

楽器編成はグラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの五重奏。

自筆譜の最初のページ(大英図書館所蔵、シュテファン・ツヴァイク・コレクション Zweig MS 61)
盲目のグラスハーモニカの名手、マリアンネ・キルヒゲスナーのために1791年5月23日に作曲され(モーツァルトの自作作品目録の日付による)、6月10日、ウィーンのブルク劇場の音楽アカデミー(演奏会)で初演されました。続いて、8月19日にケルントナートーア劇場でも演奏されています。

グラスハーモニカは
グラス・ハープを工夫し、多数の音を様々に奏しやすくさせ、細かな音の動きや、同時に多数の音を独りで奏することが容易になりました。

直径の異なる碗状にした複数のガラスを大きさ順に十二平均律の半音階に並べ、それらを鉄製などの回転棒に突き刺して回転させながら、基本的には、水で濡らした指先をガラスの縁に触れさせる摩擦によって、グラス・ハープと同様に共鳴するガラスからの音で音楽を奏します。

パガニーニは
「何たる天上的な声色」と言い、
トーマス・ジェファーソンは
「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」と主張し、
ベンジャミン・フランクリンは
「何ものに比べがたい甘美な音」と表現したと伝えられています。
またフランクリンは、もしハープが「天使の楽器」であるなら、
アルモニカは「天使の声」であると形容しました。
ゲーテ、モーツァルト、ハッセ、テオフィル・ゴーティエなども、この楽器を絶賛した記録が残っています。

マリー・アントワネット


も、これを習って奏したと記録されています。

作曲家のグルックや、イギリスの演奏家ウィリアム・デレヴァル(William Deleval)が、水を入れる量によって音程を調整された複数のゴブレットを奏でる演奏会をベンジャミン・フランクリン

が1757年にイギリスで聴きました。
その魅惑的な新楽器をもっと工夫したいと思い、1761年にフランクリンはこのアルモニカを完成させました。

ロンドンのガラス吹き師チャールズ・ジェームズ(Charles James)と共に製作された最初の1台は、
1762年1月にマリアンヌ・デイビーズ(Marianne Davies)による演奏で世界に初披露されました。この楽器は、アメリカ合衆国において発明された楽器の記念すべき第1号でした。

ちなみに、ベンジャミン・フランクリンは発明家としての信念に則り、爆発的な人気を呼んだこの楽器の特許の申請を生涯拒否し続け、発明による喜びを潔く社会に無料奉仕したのでした。

この魅惑的な音色を持つ新しい楽器は最初から熱狂的な支持を得て、人々はその音色に酔いしれ練習に熱中し、1700年代のうちにおよそ4,000台とも、5,000台ともと言われるほどの台数が欧州各地に出回ったとされています。

しかし、その風が変化したのは、練習や演奏に熱中した多くの人が、アルモニカのせいで神経障害やうつ病、目まい、筋肉の痙攣などに罹ったと言い出した時です。
アルモニカはその美しい音色とは裏腹に大変怖い楽器だという噂が口々に伝わって、人々の恐怖感が煽り立てられました。

実際に、精神病院に入院したり夭折した者もいましたが、それがますます根拠のない憶測を招き、えも言われぬ甲高い響きが死者の魂を呼び寄せて神秘的な力を宿らせ、聞いた人の頭をかき乱しておかしくしてしまったなどと口々に言い始めるようになってしまいました。

更には演奏会場で子供が死亡するという事件まで発生してしまい、その事件をきっかけに、ドイツのあちこちの地方で警察当局が全面的にアルモニカ演奏の禁止令を発令するまでに発展しました。家庭内の痴話喧嘩から、早産やペットの痙攣まで、おかしなくらいにそれらが次々とアルモニカのせいにされ、奏しているのを発見されると逮捕される始末でした。

催眠術と呼ばれる技術を最初に始めたのは、モーツァルトのパトロンでもあったウィーンの医師フランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer) 

でした。
メスマーは自ら仮説を立てた動物磁気説に基づき、後世に催眠術や催眠療法と呼ばれるものに近いことを行ないました。(現代、英語で「催眠術」のことを"Mesmerize(メズマライズ)"と言い、「催眠術師」のことを"Mesmerist(メズマリスト)"と言うのは彼の名に由来します。)

このメスマーの治療では、しばしば締めくくりにガラス製のアルモニカを演奏することでも知られていました。

人気の彼は、盲目のピアニスト、マリア・テレジア・フォン・パラディス(Marie Paradies)


の治療を依頼されましたが、視力を一時的に取り戻すことに成功したにもかかわらず、彼女の精神衛生を後に害したとされ、ウィーンから追放されるという処分を受けました。

現代においても、当時の神経障害の要因について明確な科学的根拠が解明はされていません。良からぬ噂が楽器に対する精神的な先入観を植えつけたせいとも言われています。

第一に、ガラスとの摩擦によって引き起こされる持続的な振動のせいで、演奏後には指先に痙攣を覚えますが、それが神経を害するというものです。

第二に、そこはかとない高音が聴覚から脳を共鳴させ、悪影響を与えるというものです。

第三に、柔らかい吹きガラスの類は、鉛を25~40%も含んだクリスタル・ガラスを用いていたため、濡らして触れる指先から鉛が浸透し、鉛中毒を起こしたせいというものです。

しかし、第三の説については特に信憑性が低いです。鉛中毒は18世紀と19世紀前半において、アルモニカ奏者であろうとなかろうと、治療のために医者から鉛の化合物を処方されて長期間服用してきた患者もいれば、食物や飲物の中に防腐剤や甘味料として恒常的に添加されていた酢酸鉛を人々は多く経口摂取していたし、更にスズや鉛の鍋やヤカンなどが調理に使用されていました。

第一、第二の説も、はっきりと科学的には証明されていません

この後、この楽器はすっかりと姿を消してしまいました、

ゲアハルト・B・フィンケンバイナー(Gerhard B. Finkenbeiner)によって1984年に復興されました。

発明当時アルモニカの第一人者は、オーストリアの盲目の女性演奏家マリアンヌ・キルヒゲスナー(Marianne Kirchgessner)でした。モーツァルトは彼女と親しくしていて、彼女のために『アダージョとロンド ハ長調 KV.617』の美しい五重奏曲や『アダージョ ハ長調 KV.617a』の独奏曲を作曲しました。

最近までこの曲は、パイプ・オルガンやピアノで代用されて演奏されてきましたが、いよいよ再びグラスハーモニカの「天上の声」で世界を浄化しだしたみたいです。



ショパンのピアノ

2024-02-18 23:07:00 | ロマン派
木曜は、ピアノの調整に来てもらいました。
1年ぶりです。


全部開けて、お掃除して、

そう狂ってませんでしたが、

2箇所ほど、この赤いレザーにヒビがいってました。
「まだすぐにとは言いませんが、これが破れてしまうと、レバーが降りたままになるので破れる前に交換をおすすめします。」と、調律師さんにっこり。

私はほぼ弾かないですが、弾いてもらうのにあまり、ひどい音だと申し訳ないです。
古いピアノですが…よく鳴ってくれています。
なんとか後数年は持ってほしいです。

私はほぼ弾けないけれど、ピアノの超絶技巧曲のランキングを探していたら、ショパンのエチュードop25第6番がランクインしていました。
他にもいろいろありましたが、力で押す感じだけでなく、ピアノの繊細さ、ピアノを充分に生かした曲を選んてみました。

フレデリック ショパン(1810-1849年)ポーランド ジェラソラヴォラ生まれ、フランス パリ没

25歳のショパン、婚約者マリア・ヴォジンスカ作、1835年
エチュード Op. 25 番 6嬰ト短調は、1835年作曲、1837年にヘンレ社から出版されました。

1830年11月2日にワルシャワを離れ、ショパンはイタリアに行くつもりでしたが、イタリアは激しい暴動の最中だったため、パリに目的地を変更しました。

後年、彼はパスポートの裏書き「Passeport en passant par Paris à Londres」(「パリ経由でロンドンへの移動中」)を引用し、自分がこの街にいたのは「ただの通過目的だった。」と冗談をよく言ったそうです。

ショパンのパスポート身体的特徴
年齢:26歳 身長:170cm 髪:ブロンド 額:ノーマル まゆ毛:ブロンド 瞳:灰青色 鼻:ノーマル 口:ノーマル ひげ:ブロンド あご:丸型 顔:卵型肌:白色

その後彼は決してポーランドに戻ることはなく、ポーランド大移民のうちの一人となりました。

フランスでは、彼は自分の名前のフランス語版を使用し、1835年にフランス市民権を取得した後はフランスのパスポートで旅行しました。

パリでは、ショパンは芸術家やその他の著名な人物と出会い、才能を発揮しました。
カミーユ・プレイエル(1788-1855年)

ピアニストで楽器製作会社とコンサートサロンを経営し、ショパンに演奏の場とピアノを提供しました。とも出会っています。
これが作曲家とプレイエルの楽器との長く密接な関係の始まりでした。

ショパンの弾いたプレイエルピアノ
1831年12月7日、ショパンはロベルト・シューマンの作品レビューで、傑出した同時代人から初めて大きな支持を受けました。

『アルゲマイネ・ムジカリッシュ・ツァイトゥング』(音楽に関する最初の出版記事)の「2 変奏曲」では、「紳士諸君、脱帽です!天才です」と宣言されています。

1832年2月25日、ショパンはカデ通り9番地にある「サロン・ド・MM・プレイエル」でパリでのデビュー・コンサートを行い、賞賛を集めました。

批評家のフランソワ=ジョゼフ・フェティスは、『レビュー・エ・ガゼット・ミュージカル』に次のように書いている。「ここに一人の青年がいる。彼は…模範をとらず、ピアノ音楽の完全な刷新ではないにしても、…」

このコンサートの後、ショパンは、本質的に親密な鍵盤テクニックが、大きなコンサート会場には最適ではないことに気づきました。

その年の後半に、彼は裕福なロスチャイルド銀行家に紹介され、その後援により、他のプライベートサロン(貴族や芸術的、文学的エリートの社交的な集まり)への扉も開かれました。

1832年末までにショパンはパリの音楽エリートの間で地位を確立し、ヒラー、リスト、ベルリオーズなどの同僚から尊敬を集めるようになりました。

彼はもはや父親に経済的に依存しなくなり、1832 年の冬には、自分の作品を出版したり、ヨーロッパ中の裕福な学生にピアノを教えたりして、多額の収入を得るようになりました。これにより、彼は嫌いだった公共の場でのコンサートの緊張から解放されました。

300席の会場であるサロン ド プレイエルで年に一度コンサートを行いました。他に彼は少人数の友人グループのためにパリの自分のアパートで演奏することを好みました。

1833 年 3 月 23 日のコンサートでは、ショパン、リスト、ヒラーがJ.S. バッハの 3 つの鍵盤のための協奏曲を(ピアノで) 演奏しました。

ショパンはリストの「ヘキサメロン」の作曲にも関わりました。彼はベッリーニの主題の第 6 (そして最後の) 変奏曲を書きました。ショパンの音楽はすぐに出版社の間で成功を収め、1833 年にモーリス・シュレジンジャーと契約を結び、フランスだけでなく家族のつながりを通じてドイツやイギリスでも出版されるようになりました。

その頃作曲されたのがこのエチュードop25第6番です。
プレイエルとショパンは大型化、大音量化するピアノと演奏スタイルに異を唱えているように思えます。

それはその頃彼らが行っていた親しい友人をまねいたサロンでのコンサートで得た成果のように思えます。

ショパン最後のピアノ プレイエル
大音量は出ないそうです。

最も大変な難しさは、曲の冒頭などでの3 度のトリルの速さです。ただし、片手で3度の半音階を演奏したり 、3〜5と1〜2の指使いでコードを交互に演奏したりするなど、他の困難もあります。ある時点では、両手でこれを下降ディミニッシュセブンスコードで行われます。





16世紀17世紀の医者事情

2024-02-17 21:00:00 | バロック
眼科に来ました。
前回より2週間たち、コロナでヘロヘロになった上に視力もまたどっと落ちた気がします。
眼圧検査はプシュッと空気を当てられる度に目を閉じてしまいます。
「頑張ってあげてくださいね!」と何度も言われてしまいました。

それから診察。
今日は再診のせいかまだ早く。
9:00に来て会計までして12:00でした。
楽譜が読みにくいのが困ります。なんとか視力回復したいです。

1600年代のお医者様はどんなだったでしょう?

ジャン パティスト ポクラン モリエール(1622-1673年)フランス王国パリ生没

が当時の医者諷刺(モリエールのいしゃふうし)を行っています。

医師(内科医)
中世ヨーロッパの初期段階において、 医者は聖職者と同じ扱いでした。
15世紀中ごろになると医者たちの世俗化も進んだが、それでもなおキリスト教とのつながりを密接に保ち続けていました。

ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年焼きごてで傷口を焼き化膿を防ぎました。


ゲルスドルフ『傷手当の便覧』1517年。矢を麻酔無しで引き抜く、医者は神の助けを祈るようにすすめました。

教育
パリ大学医学部。
当時の大学には、Philiatre(医師希望者)
Bachelier(医学学生)
→Licencié(医学士)
→Docteur(医学博士)という地位が存在しました。

まず、医学部に入るにはすでに文学で学士号(maître es arts)を有している必要がありました。
当時の医者達は処方箋にラテン語を用いたし、医学教育もすべてラテン語で行われたからです。
理髪外科医や薬剤師はラテン語など知らなかったため1段低い医者とされ、ラテン語こそが医者の権威を特徴づけるものとなりました。文学士のほかにも、3名の医者のサインの入った身上調書が必要でした。

こうしてPhiliatre(医師希望者)と呼ばれる学生になると、2年間、解剖学や生理学、病理学などの講義を受けて、医学部の入学試験を受けました。

こう見るといかにも近代的な教育を行っていたように思えますが、試験では古代ギリシアのヒポクラテスやガレノスの教えをいかに噛み砕いて説明できるか、それのみが重要でした。

Bachelier(医学部生)になるには、入学試験に合格することは当然として、カトリック教徒で、かつ医学部で行われるすべての宗教儀式に出席することが条件でした。

プロテスタントの学生は入学さえできず、たとえカトリックであっても、親が医者でない場合は、普通の学生とは違って多額の出費が強いられました。

当時の医学生たちは、人体解剖を行う機会もごくマレにありましたが、それでも古代医学の教えにあうように解釈を施すことに励み、それは学位論文においても変りませんでした。

「くしゃみは自然な行為であるか?」
「散髪には月の満ち欠けを考慮する必要があるか?」
「歯痛は恋愛の兆候か?」
「恋愛は精神病と同じ治療を施すべき病であるか?」など、これらは当時提出された学位論文の題名でした。その審査ではこうした論文をテーマに弁論術が競われました。

Licenciéになるにも、各種試験や学位論文の審査を通過する以外に、仰々しい宗教儀式を経なければなりませんでした
Licenceを取得すれば正式に医師として活動が許されるようになるため、この段階でも再び学生の素行や家柄が厳しく精査されました。こうして学部内の秘密投票で授与の可否が決定されました。
大法官からLicenceを受け取り、祝福を与えられた後、殉教者の祭壇を前に教会への絶対的な忠誠を誓いました。

外科医
当時の医師たちが古代の賢人たちの教えを重視し、そこから外れないように解釈を施したことは先述したが、それだけでなく、彼らは解剖学、生理学の基礎である外科を蔑視していました。

外科が不浄なものとして軽蔑されたのは、解剖行為が教会によって禁じられていたからです。
ルイ14世が痔瘻を患って死にかけた際、首席外科医が国王の痔の手術に成功したことで、それまで虐げられていた外科は大きく前進し、信頼を勝ち取りました。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没


1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れました。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命しました。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていました。しかしバッハは健康を回復したため、ハラーの仕事はお預けとなりました。

翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れました。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けました。
手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べました。
しかし実際には、手術は失敗していました。
テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったといわれています。

2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、7月28日午後8時40分に65歳でこの世を去りました。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル( 1685- 1759年)
神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランド ロンドン没

ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。その後ロンドンに戻りますが、『イェフタ』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、夏には片目失明者となります。
間もなく右眼の視力も悪化します。
そのような中でオラトリオ『イェフタ』はなんとか完成させますが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなりました。
その後も演奏活動だけは続けていました。
1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けました。
しかし、結局は成功せず
翌1759年4月14日、体調の悪化により死去。74歳でした。

ジョン・テイラー(英: John Taylor、1703年 – 1772年)


はイギリスの眼科医です。当時の著名人を多く患者として抱えており、バッハ、ヘンデル(いずれも手術の失敗により失明)、ギボンなどを治療したことで知られています。
おそらくは右利きで、患者のこめかみや頬骨を支えにできる左目しか手術をしなかったとされています。

テイラーは1703年にノリ薬種商の息子として生まれます。眼科学を学び、ヨーロッパ中を遊学してバーゼルやリエージュなどで医学博士号を取得しました。

1736年にはジョージ2世

の侍医に任命されました。彼は、30年以上に渡って、ロンドンを拠点としてヨーロッパのほとんど全ての宮廷を次々に訪れて回診を行いました。

当時からその眼科医としての優れた医療技術で「勲爵士」(シュヴァリエ)として広く名をはせていたテイラーでした。
しかし、それはほとんど彼一流の自己宣伝術によるものであったと、1885年発行の『英国人名事典』


は書いています。彼は、自分が治療を行うたびに「まさにキケロ的というべき、いまだ形容されざる並外れて困難な」手技だったともったいぶるのが常でした。

1750年、ライプツィヒに滞在中だったテイラーは、高名な音楽家のバッハの眼を手術しました。直後に地元の新聞は手術が成功であったと報じたが、実際には失敗しており、その数ヶ月後に2度目の手術が行われたが治癒できず、バッハは全盲状態になったとされる。結局この手術から数週間後にバッハは亡くなります。
1758年ヘンデルも手術しますが、やはり失敗。

この頃にはテイラーは風刺やあざけりの対象になっており、バラッド・オペラには彼をテーマにする芝居さえありました。

1772年にテイラーはプラハの修道院で亡くなったころ既に盲目だったと言われています。

ヘンデルのオラトリオ「イェフタ」より「清らかな泉と洪水よ」


夕映えの中で

2024-02-16 21:00:00 | ロマン派
火曜日の夕方6時からサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルレッスンでした。
だいぶ明るくなってきました。
新しいメンバーがなんと名古屋から通って来られるそうです!
その方の三響フルート。

トリルキーが1個多い。これのおかげでGAのトリルが簡単な運指で行えます。
すごい!
榎田先生「キー増やすと重くなるからなぁ!ドイツ人が好きなんだよ〜。いろいろ増やしやがって!
逆に軽いの好きなのがフランス人なんだよ。」
パウエルも最近エレガンス出してたなぁ!軽いの!あれはフランス人好みなんだ。
新しいメンバーも加わって「小組曲」4曲全曲を練習しました。

8時終了。とっぷり暮れました。

リヒャルト・シュトラウス(1864- 1949年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン行政区ガルミッシュ・パルテンキルヒェン郡ガルミッシュ・パルテンキルヒェン没

の最晩年1949年84歳の時に書かれた「4つの最後の歌」管弦楽伴奏の歌曲手、最後の曲は「夕映えの中で」です。

シュトラウスはまずヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788-1875年)
プロイセン王国、オーバーシュレージエン・ラティボール近郊ルボヴィッツ城生まれ、プロイセン王国の旗 プロイセン王国、オペルン県ナイセ没

の詩「夕映えの中で」に出会い、この詩に特別な意味を感じて1948年5月に曲付けしました。

そしてヘルマン・ヘッセ(1877-1962年)ドイツ帝国ヴュルテンベルク王国カルフ生まれ、スイスティツィーノ州モンタニョーラ没


のすべての詩集のうち3つの詩「春」、「九月」、「眠りにつくとき」によるソプラノ用の管弦楽伴奏歌曲をまとめました。

デニス・アーノルドによると、第5曲は作曲者の死により未完に終わっているそうです。

シュトラウスがこれら4曲をもって完成した曲集として構想したという証しはありません。

1954年出版の『グローヴ音楽事典』では、「3つのヘッセ歌曲」は、それより早いアイヒェンドルフ歌曲とは別個に、一まとまりとして扱われていたました。

作曲者の死後にこれら4曲を「四つの最後の歌」と総称したのは誰か、また曲順を今のように並べたのは誰なのかは不明です。
ともあれしばらくの間、文字通りに「作曲家の最後の歌」だとみなされていましたが、1983年になって「あおい」(Malven)という歌曲(1948年11月作曲)が発見されました。

献呈先であるソプラノ歌手のマリア・イェリッツァがこれを生前に封印していたため、この歌は彼女の遺品として公開されました。

4つの歌曲はいずれも死を詠っていて、しかも作曲者の迫り来る死の直前に完成されています。
「春」 Frühling (7月20日)

「九月」 September (9月20日)

「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen (8月4日)

「夕映えの中で」 Im Abendrot (5月6日)

初演は作曲者の死後、1950年5月22日にロンドンにおいて行われ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団の伴奏により、キルステン・フラグスタートによって初演されました。

「夕映えの中で」
私たちは苦しいときも嬉しいときも
手をとりあって歩んできた
もうさすらうのはやめて ふたりで
静かな地にやすらおう

まわりの谷は翳り
空はもう暮れはじめている
二羽のひばりだけがまだ空高く上っていく
夢を追いかけて もやの中を

こちらにおいで ひばりはさえずらせておけばいい
もうすぐ眠りのときが来る
その孤独の中では
もう道に迷うこともあるまい

ああ 悠々として 静かな安らぎ!
かくも深く 夕映えの中で
旅の疲れを感じるとは
もしかしたら これが 死?




暗い郵便馬車

2024-02-15 21:09:00 | ロマン派
子育てサロンの後は免許更新のための講習でした。
優良ドライバーから、一般になったので一時間の講習でした。
「この講習に何か得ようと期待してきた人?帰ってから本を読む人?」
「はい。」と、素直に手を上げたら…1人でした。
「あれっ?」
「100人に1人くらいです。」
なんだか褒められた気がしない。恥ずかしい!

枚方市役所前
でもおもしろかったですよ。
10年前は対向車が無い時はハイビームを付けることが決まったばかりで、そのことが、メインテーマでした。
今回は歩行者優先。
横断歩道に人が立っていれば、止まること。
それと自転車の違反も逮捕されること。などが加わっていました。
令和4年中の大阪府下の交通事故死者は141人。
昭和36年がピークで1038人から減ってますが、現在はこれでも全国ワースト1位だそうです。
…残念。
気をつけて運転したいと思います。

車のない時代、車といえば郵便馬車でした。

フランツ シューベルト(1797-1828年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

フランツ・アイブルによって描かれたシューベルトの肖像画(1827年)

が「郵便馬車」という曲を書いています。
「冬の旅」(Winterreise)D911, Op.89の中の1曲目です。
シューベルトが死の前年の1827年に作曲した連作歌曲集。

歌詞はドイツの詩人ヴィルヘルム ミュラー(1794-1827年)アンハルト デッサウ生まれ、ベルリン没

彼の詩「美しき水車小屋の娘」もシューベルトが歌曲にしています。が、生前会ったことはないそうです。

の詩集によるもので、全2部計24曲で構成されています。

 失恋した若者が街を捨ててさすらいの旅を続けます。全曲を通して絶望感と失われたものへの憧れに満ちていて、唯一の慰めである「死」を求めながら旅を続けます。

 この曲を作った頃のシューベルトは梅毒で処方された水銀中毒のため、すでに健康状態が悪化し、経済的にも困窮していました。
絶望感に打ちひしがれ、死について考え始めました。尊敬するベートーヴェンの死も大きな打撃となりました。

この曲で描かれている絶望の中で生き続ける若者は、シューベルト自身の姿でもあります。シューベルトは最初に前半12曲を完成させ、友人たちに披露しましたが、あまりの内容の暗さに彼らも驚愕したと伝えられています。

フランツ・ショーバーが「菩提樹は気に入った」と口にするのが精一杯でした。


シューベルトはこの12曲で作品を完成としましたが、ミュラーの詩の続編の存在を知った彼は再び作曲に取り掛かり、続編の後半12曲を10月に完成させます。第1部は1828年1月に出版。第2部は彼の死後の12月に出版されました。

第2部冒頭の曲が
「郵便馬車」(Die Post)です。
別れた恋人や捨ててきた街を忘れることが出来ない若者の痛切な心を歌います。

Von der Straße her ein Posthorn klingt.
Was hat es, daß es so hoch aufspringt, Mein Herz?

通りの方から郵便馬車のラッパが鳴り響く。
どうしてそんなに高鳴るんだ、僕の心よ?

Die Post bringt keinen Brief für dich.
Was drängst du denn so wunderlich, Mein Herz?

あの郵便馬車はおまえに何の手紙も持ってこないぞ。
なのにどうしてそれほど変に急かすんだ、僕の心よ?

Nun ja, die Post kommt aus der Stadt,
Wo ich ein liebes Liebchen hatt', Mein Herz!

そうだ、あの郵便馬車はあの街から来たんだ、
僕が恋人を愛したあの街から。僕の心よ!

Willst wohl einmal hinüber sehn
Und fragen, wie es dort mag gehn, Mein Herz?
 
きっとあっちの方を見て
あの街がどんな様子なのか尋ねたいんだろ、僕の心よ?


人形

2024-02-14 21:06:00 | ロマン派
火曜日朝は子育てサロンでした。
2月13日は来月のおひな祭りのためのお雛様。
紙のお皿にクレヨンや鉛筆で
子どもたちにシールを貼ったり絵を書いてもらって、ストローでお雛様の顔をつけて

できあがり!

いろいろなお内裏様と

お雛様。
みんな素敵に作ってくれました。

西洋音楽で人形というといろいろありますがフランツ フォン スッペ(1819ー1895年)オーストリア帝国ダルマチア地方スプリト生まれ、オーストリア= ハンガリー帝国ウィーン没
のオペレッタ「美しきガラテア」
台本はギリシア神話から題材を得たポリー・ヘンリオン(Poly Henrion、本名Leonhard Kohl von Kohlenegg)によるものです。

台本作家はビクトール マセ(1822-1844年)フランスモルビアン県ロリアン生まれ、フランスパリ没



1865年6月30日にベルリンの野外劇場で初演されました。同年9月9日にカール劇場

でウィーン初演されました。

あらすじオペレッタ「美しきガラテア」

美しきガラテアとしてのミンナ・ウェイジャー、1865年、ウィーン・カール劇場

彫刻家ピグマリオンのアトリエで召使いのガニメートはワインを飲んで上機嫌です。

そこに美術収集家のミダスがやって来て、ピグマリオンが製作中のガラテアを見せろとガニメートに頼みます。
「駄目だ」と断るガニメートでしたが、結局買収され、ミダスにガラテアを見せます。


ミダスはたちまちガラテアの虜となり、「私のガラテア物語」と歌います。そこへピグマリオンが帰ってきて、ミダスを追い出します。

ピグマリオンはガラテアを自分だけのものにしようと思っていました。

思慮分別があり、美しく、上品なガラテアは、ピグマリオンの理想の女性としての資質を備えていました。
しかし、彼女にはたった一つだけ欠点がありました。
それは、彼女が石の彫刻だということでした。
ピグマリオンは美の神ウェヌスに、「ガラテアを生きた女性にして欲しい。」と祈ります。

すると、ガラテアは生きた人間となります。
人間となったガラテアは、「不思議なことが起こった」とワルツを歌います。
ガラテアは、ピグマリオンに「お腹が空いた。」と訴えたので、
ピグマリオンが買い物に行きます。

留守にガニメートが現れ、ガラテアと恋の火遊びをします。
 
女優のカティンカ・ホッペとマリー・ル・スールが演じるガニメード(ズボンの役と言われる女性が演じる男役)とガラテア
そこへミダスも現れ、ガラテアに宝石を与えて彼女を飾ります。

帰ってきたピグマリオンは、生きたガラテアが理想の女性などではなく、他の女たちと一つも違うところのない人間であると思います。

生きたガラテアは、気分屋で、気位が高く、衣服や装飾品が好きで、虚栄心が強く、不実、と女のあらゆる欠点を備えていると思ったのでした。

ピグマリオンは失望し、ゼウスに頼んでガラテアを再び石像に戻してもらいます。
ピグマリオンは石に戻ったガラテアをミダスに売り、ガラテアは全ての女性を愛するこの美術収集家のコレクションに加えられます。




再会の期待を込めた「告別」

2024-02-13 21:14:00 | 古典
名古屋の夜の部は体調が良くないのでご辞退して、そのまま帰ってきました。
ごめんなさい。
行き迷ったと言ったら、2人が同じ方向だからと新幹線名古屋駅まで
送ってくれました。
名古屋の人優しいです。フルートもうまい!

駅で名古屋のお土産買いました

名古屋マカロンラスク

こちらは富久田先生からみんなに頂いたマドレーヌ。

甘さ控えめでふわふわ!美味しかった。

「また、会いましょうね!」と別れました。
先生も「もうこけないでくださいね!」
はい。気をつけます。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン

のピアノソナタ第26番「告別」
は、ベートーヴェン自身が標題をつけています。名前をつけたのは、この『告別』と『悲愴』としかありません。


彼のパトロンで、弟子であり友人でもあったルドルフ大公

ルドルフ・ヨハネス・ヨーゼフ・ライナー・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Rudolf Johannes Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich, 1788年1月8日 - 1831年7月24日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出された。一般的にはルドルフ(ルードルフ)大公の呼び名で、ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

のウィーン脱出が関係しています。

オーストリアは1809年4月9日にナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥入りました。
ナポレオンの軍勢は5月12日までにウィーンへと侵攻します(第二次ウィーン包囲)。

オラース・ヴェルネが描いたヴァグラムの戦いでのナポレオン1809年

神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルドルフ大公は5月4日に同市を離れることになりました。

ベートーヴェンはピアノソナタの第1楽章の草稿に
「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れました。

初版の表紙1811年
オーストリアの降伏により同年10月14日に終戦。
フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻りました。

第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しています。

さらに第3楽章には
「Das Wiedersehen(再会)」、
「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれています。

この曲を出版したブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は各楽章の表題をフランス語に置き換えて
"les adieux"
"l'absence"
"le retour"
と表記しました。
親交の深かったルドルフ大公のために作曲されたこのピアノソナタの標題にはベートーヴェン自身もこだわりがあったらしく、
「Das Lebewohlは
les adieuxとは全く違うものである。前者は心から愛する人にだけ使う言葉であり、後者は集まった聴衆全体に対して述べる言葉だからである。」と手紙で抗議しています。

ただし、作曲者自身もスケッチ段階では第1楽章の「Das Lebewohl」を取り消して「Der Abschied(別れ)」、第3楽章は「Die Ankunft(到着)」としていたことが分かっています。

出版社へと持ち込まれたのは第24番、第25番のソナタと同じ1810年2月10日でしたが、このソナタ第26番のみ翌年に作曲者自身による修正を施され、1811年7月に出版されました。

ベートーヴェンのいう
Das Lebewohl」はドイツ語辞書でひくと「別れの挨拶」という意味が、出てきます。

日本語で「告別」は、別れを告げる。という意味の他に告別式など、亡くなった人との永遠の別れを含む言葉で、再会の期待を込めて言うときには違うような気がします。

但し、現代の辞書をひいてみるとベートーヴェンの「告別」を指す言葉と載ってしまっているので、もうこの言葉はベートーヴェンのこの曲を指す言葉として新しい意味を持ったと思われます。

但し、キリスト教圈の告別式は天国で、幸せに包まれることで、再会を期待した式でもあるので日本のような物忌みや縁起の悪い意味が含まれません。

彼らにとっては現世で再会できても、来世で再会できても同じ。

しかも、「告別」は第1楽章だけで、第2楽章は「不在」第3楽章「到着」と再会の喜びを表したものであると思って聞いてみると、また、音楽も違って聴こえてくる?




散逸した楽譜を発見

2024-02-12 21:00:00 | 近代
今日は名古屋ドルチェ楽器で富久田治彦教室の発表会です。
新幹線に乗って行こうとヤフー路線検索で行ったら、スマホを忘れて在来線一本遅れ。 
「しまった!」と検索しなおしたら、大丈夫間に合います。

しかし、丹波橋で近鉄線乗換えで一本早いのに乗れ、新幹線ははじめに予定したのより一本前に乗れました。

なんだこれ?

結果、予定時刻より30分早くつけそう。部屋が空いてない…。
不満はないですが、どうしたものやら?
しかし、また、迷ってしまったので結局定時に着いたのでした。

懐かしい人たちがいらして嬉しい楽屋裏でした。




演奏はコロナ後遺症でいろいろまずかったわりに、すばらしいピアニストの鬼頭さんに助けられてまぁまぁの演奏だったかな?

愛知県の音楽の最高学府の生徒さんたちがたくさん出演されていてコンサートとしてもおもしろかったです。
私のまだ知らない曲を演奏されていて刺激をたくさんもらいました。

1989年発見出版された
ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958年)イングランド ダウンアンブニー生まれ、イングランド ロンドン没

1989年ヴォーン・ウィリアムズ
のバレエ組曲(ステプトーによるフルートと弦楽合奏のための編曲1989)

フルートソロはヴォーン・ウィリアムズの曲によく出てきます。

この曲は1913年(?)作の小組曲です。

シランクス献呈者ルイ・フルーリーが依頼した作品のひとつです。しかしながら彼が手にした譜面は散逸しました。

没後作曲家のもとで発見されたスコアに校訂を加えたもので、1989年ロイ・ダグラス編曲により出版されました。

バレエ組曲
即興曲 Improvisation
ユーモレスク Humoresque
ガヴォット Gavotte
パスピエ Passepied


ロジー伯のトンボー

2024-02-11 21:00:00 | バロック
朝、松井山手でレッスンの後、甲子園まで行きました。
甲子園は大阪のシンボル的な扱いで、名前は知っていましたが、降りたのは初めて。

「久米さん!」駅で、マンドリンi嬢に会いました。
「一緒に行きましょう。」
I嬢も初めてらしく
2人でスマホ片手に探しながら行きました。

駅からすぐでした。


甲子園公民館

ピンクのドアやカーテンがかわいいです。

私はギターの鈴木淳一さんと吉松隆シリーズ。

前にやった
「朝の歌」「L嬢の物語」「リムセ」「ベルベット ワルツ」
の4曲と、吉松隆のデジタルバードから、「鳥の歌」を初めてやりました。

コロナで寝ていたので、ほぼ練習なし。本番前5分までになんとか一回合わせて、無事演奏できました。


高井さんはタンスマン特集

本庄さんは


シルヴィウス ヴァイス(1687-1750年)グロットカウ生まれ(ブレスラウ生まれとされていましたが、最近の証拠によりグロットカウに修正されました。)ドレスデン没

ヴァイスは、生前は最も有名で、かつ技術的に最も洗練されたリュート奏者でした。

リュート奏者だった父ヨハン ヤコブヴァイスの下に生まれました。

ロブコヴィッツ家
ロブコヴィッツ宮殿
の第 4 王子フィリップ・ヒヤシンス (1680 年 - 1734 年) は芸術の後援者であり、イギリスへの数回の旅で楽譜を収集しました。当代最高のリュート奏者の一人である作曲家シルヴィウス・レオポルド・ヴァイスは、フィリップ・ヒヤシンスと二番目の妻アンナ・マリア・ヴィルヘルミーナ・フォン・アルタンの両方に音楽を教え、いくつかの作品を王女に捧げました。

その後ドレスデン宮殿に務めました。

トレモロ奏法の発明者と言われています
リュート曲の作曲家でもあり、約650曲以上(未考証を含めると約850曲)を残しました。

ヴァイスの作品の多くは、ソナタや組曲、舞曲などに分けられます。室内楽や協奏曲も作曲したといわれていますが、これらの分野の作品のほとんどが現存していません。

それは残された妻が貧しさから楽譜を切り売りし散逸してしまったと言われています。

後半生においてヴァイスはヨハン・ゼバスティアン・バッハ


と親交を結びました。2人が即興演奏を楽しんだとする言い伝えを記録しています。

ヴァイスの息子ヨハン・アドルフ・ヴァイスは、ドレスデンの宮廷リュート奏者として彼の跡を継ぎました。

「ロジー伯のトンボー」
トンボーは墓のことで
ロジー伯爵 (Johann Anton Losy von Losinthal ; 1650頃-1721) はボヘミアの領主で、その職の傍らリュートの研鑽を積んでいて、芸術の庇護者てした。彼が亡くなった時、作曲され、その墓の前で演奏されたと思われます。

ロジー伯は多くのリューティスト、音楽家に慕われ、おそらくヴァイスも、この一世代以上年上の先輩と面識を持ち、敬愛していたと思われます。



聖母マリアの夕の祈り

2024-02-10 21:02:00 | ルネッサンス
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ政雄先生、ヴィオラ金重美代さんとフルート久米素子のアンサンブルレッスンでした。

1月に先生方の音登夢YouTubeに出演させていただいて以来初レッスンでした。

コロナでフラフラでしたが、なんとか復活。

メルカダンテのフルート四重奏Emoll
を、まず初見で。

これはひどい楽譜(久米主観)で、ほぼフルート独演会。他のパートはほぼ、ほぼ伴奏。
しかもフルートは超絶技巧で長くて休み無し。
「これやりたかったら、いつでもできるから。」と金重さん。
よく、最後まで吹かせて頂けました。
先生方の忍耐力に感謝です。

後はモーツァルトのフルート四重奏。
AdurとGdur。
どちらを今年は練習するか?お試しです。
Gdurは美しいです。
しかし三楽章が散逸したのか?書かなかったのか?
ありません。
前に三楽章を他の弦楽四重奏のロンドを入れて演奏しているのを聴いたことある。という私の怪しい記憶をもとに政雄先生がモーツァルトの弦楽四重奏を出してきて下さいました。
ハ長調のロンド付きの19番をやってみました。
「おかしくはないけれどおもしろくはないね。」ということで懸案になりました。

後はAdurをひたすら。
忘れていたこともあったり、ペータース版は初めてだったりして、戸惑うこともありましたか、やっぱりいい曲です。
今年はこちらを頑張ることになりました。
練習後はやっぱりお茶とケーキ。

今回はお店のなかがいちご尽くし。りんごのケーキ

も入れて楽しい組み合わせでした。

このカルテットほんと天国です。

直子先生の隣で演奏できるなんて本当に幸せです。

天国といえばモンテヴェルディの「聖母マリアの夕の祈り」
クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)イタリア クレモナ生まれ、ヴェネツィア共和国ヴェネツィア没

クラウディオ・モンテヴェルディではないかと考えられている音楽家の肖像、1597年頃、画家不明(オックスフォード・アシュモリアン美術館所蔵)。モンテヴェルディが30歳頃、マントヴァのゴンザーガ家に使えていた頃の画像ではないかと言われています。真正であれば現存する最古の画像であると考えられています。

は、マントヴァ公国の宮廷楽長、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任し、ヴェネツィア音楽のもっとも華やかな時代の一つを作り上げました。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられていて、長命もあいまって、その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されます。

生前より高い人気を誇り、後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。
オペラの最初期の作品の一つである『オルフェオ』を作曲しました。

モンテヴェルディの次の大きな作品は1610年の『聖母マリアの夕べの祈り』(Vespro della Beata Vergine、『聖母マリアの晩課』とも)でした。 

出版譜に書かれた音楽の規模が非常に大きいために、一回の礼拝ですべて演奏することを目的としていたかどうかについては意見が分かれています。
ただし、音楽的には全体の統一性が方々に見られます。

楽譜表紙
(ヴェネツィア、1610年)

聖母マリアの夕べの祈り (Vespro della Beata Vergine; SV 206, 206a)は教会音楽です。 カトリック教会での聖務日課の一部である晩課が元になっています。演奏に90分を要し、ソロと合唱とオーケストラが必要な大規模な作品で、これはバッハ以前の教会音楽では最大のものであったと考えられます。

モンテヴェルディが分化を提案した第一作法と第二作法を同化させながら作曲されています。

1610年7月に、ニコラ・ゴンベールのモテットをパロディした6声のミサ《In illo tempore loquante Jesu》とともに出版されています。

グラハム・ディクソンの主張によれば、晩課よりも聖バルバラ殉教日(12月4日)

聖バルバラのイコン
のためによりふさわしく書かれているという説もあります。

その論拠として、雅歌(歌の中の最高の歌とされる)のテキストは他の女性聖人と関連付けられるものであり、マリアについて歌った曲は他の女性聖人の名前に簡単に差し替えられるという点を挙げていまず。

モンテヴェルディはこの曲を晩課のための音楽として「市場性の高いもの」を目指して作った可能性があります。

この曲は、モンテヴェルディがマントヴァ宮廷

パラッツォ デル テ宮殿
の楽長をしていた1610年にヴェネツィアで出版されました。

この作品は、ヴェネツィアやローマでの役職のためのオーディションのために書かれた可能性があります。(その結実としてモンテヴェルディは1613年にサン・マルコ寺院の楽長に就任します。)

サン・マルコ寺院
人数の面と技術の面で十分な合唱団(最大10声)と7つの異なるソリストが要求される少人数の合唱隊が必要になります。

興味深いことに、ヴァイオリンとコルネットにはソロパートが要求されていますが、リピエーノ(詰め物・埋め草)楽器については指定されていません。

さらに、演奏者自身がその時々に応じた器楽作品などを選択することができます。

このような選択の例は他にも、マニフィカトに二つの版があることからもわかります。(一つの版はより小さいグループでも演奏可能に書かれています)これはこの作品が単一の作品で演奏されるものではなく、個別に演奏されていた可能性があるためだと考えられています。

規模の壮大な祈りの音楽というだけでなく、世俗的な音楽をも取り入れた音楽は決してその祈りの焦点を失っていません。
グレゴリオ聖歌


を定旋律として用いることによって全体の統一性を実現しています。

「聖母マリアの夕の祈り」の第一曲神よわが助けに 主よ我を助けに(2分48秒)