音楽の喜び フルートとともに

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さくらさくら花盛り

2024-03-21 21:01:00 | 近代
春分の日は萩原天神近く「いつもの処」「奏し合い会」でした。

ヴィオラの金重さんが声掛け人。
二胡、リコーダー、ソプラノからグランドバスまで、ギター、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなど、15人が集まりました。

今回は「日本」がテーマ。

私はギターの鈴木淳一さんと吉松隆のデジタルバードから「鳥の島」と、ギター二重奏をフルートとギターで「朝の歌」「リムセ」「L嬢の肖像」「ベルベットワルツ」を演奏しました。

作曲家はそれぞれ違いますが、「さくら変奏曲」を演奏されたのが、ピアノ、ギター2人、二胡、五重奏。







少し寒の戻った春分の日でしたが、「いつもの処」は、桜舞う春の空気でした。

「さくらさくら」が教育現場に登場するのは、1941年(昭和16)に文部省が出版した『うたのほん 下』が最初でした。


第1曲「かをれ」のドとレの旋律から団々と音域を広げて長音階の練習をするなど、西洋音楽の練習曲集のようでした。

一方、「さくらさくら」が最初に掲載されたのは、音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年)です。

これは五線譜による箏曲楽譜集の最初期のもので、全体は手ほどき曲を主体に構成された箏の入門的な曲集でした。

15曲掲載されているうちの4曲が新作、あとは江戸時代以来の既存曲で、「さくらさくら」はその第2曲目として「桜」と題され、掲載されています。

この写真の第1曲目の「姫松」
は江戸時代からある箏の手ほどき曲「岡崎」の替え歌で、原曲の「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆」という歌詞では教育上よろしくないということで、「姫松小松……」と改めたものです。

音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年)。
「岡崎」が近世邦楽最古の公刊譜『糸竹初心集』(1664年)に収載されているのに対して、「桜」に関する江戸時代の文献は見つかっていません。

かといって新作というわけではなく、『箏曲集』に「旧咲た桜」と記されていることなどから、


江戸時代以来の箏の手ほどき曲と考えられます。

実際、その旋律は平調子という箏曲の最も基本となる調子に箏を調弦すれば、ほとんど隣の弦への移動で弾くことができ、手ほどき曲としては最適です。
現代では、箏曲は楽譜中心に伝承されていますが、江戸時代は口伝で、楽譜は非常に少なく、「咲た桜」のように簡単な手ほどき曲の楽譜がなくても不思議ではありません。作曲者も不明です。

ということで、「さくらさくら」は「日本古謡」というのは実証はできませんがおそらく間違ってはいないと思われます。
一方、歌詞は明治の作です。

さくらさくら 弥生の空は 見渡すかぎり 霞か雲か 匂いぞずる いざやいざや 見にゆかん

━━『箏曲集』(1888年)「桜」歌詞

作詞者は不明ですが、加部厳夫と「庭の千草」の作詞者である里見義が「歌詞の選定」を担当したことが『箏曲集』の緒言に記されています。

ちなみに、「さくらさくら」のもととなった「咲た桜」の歌詞は、

咲いた桜 花見て戻る 吉野は桜 竜田は紅葉 唐崎の松 常盤常盤 深緑

━━「咲た桜」歌詞(年代不詳)

です。
この作詞者も不明です。
箏曲集編纂にあたって、既存曲11曲のうち、9曲の歌詞が替えられています。

原曲の歌詞をそのまま踏襲したのは、山田流箏曲の流祖、山田検校の作である「弓八幡」と、近世箏曲の祖、八橋検校の箏組歌「富貴の曲」だけで、むしろ、この2曲は箏曲の中でも特別な存在だったがゆえに、そのまま掲載されたと考えられます。

「咲た桜」が桜や紅葉の名所などを羅列した歌詞であるのに対して、「桜」の歌詞の方が叙情的でまとまりがあり、旋律としっくり合っています。

歌詞のテーマを桜にしぼったことも、誰もが知る歌となった要因かもしれません。

教材として学校で教えられる以前から、「桜」は愛唱歌として、さらには「桜」を元歌にさまざまに変化しつつ遊び歌として全国的に歌われるようになり、1941年に国定教科書『うたのほん 下』に収載されました。そして、この時に「さくらさくら」と題され、歌詞も再び替えられた。と考えられます。

さくらさくら 野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくらさくら 花ざかり

━━『うたのほん 下』(1941年)「さくらさくら」歌詞
そしてその時には「花ざかり」「見に行かん」の2種類の歌詞が存在していました。 参照音楽之友社「ドレミを選んだ日本人」千葉優子

箏曲の「さくら変奏曲」は伝承曲「さくらさくら」を宮城道雄(1894-1956年)


が大正12年(1923年)に8つの変奏曲として編曲したものです。

西洋音楽の変奏形式をヒントに、誰もが知っているお馴染みの「さくらさくら」を様々な技法を用いて変奏した作品です。

宮城道雄「さくら変奏曲」
第一箏宮城道雄 第二箏宮城数江 
十七弦宮城喜代子



シューマンの「春」

2024-03-20 21:53:00 | ロマン派
実家の山茱萸(サンシュユ)。
春黄金花は牧野富太郎がつけた名前です。

秋になると赤い実をつけるのでアキサンゴ花と呼ばれることもあります。
山茱萸は中国語で山のグミという意味だそうです。
中国、韓国原産。
江戸時代に日本に入ってきたそう。
実は漢方薬で滋養強壮などの効能があるそうで、薬酒にもできます。


山茱萸や まばたくたびに 花ふえて
         森澄雄

ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没
交響曲第1番変ロ長調作品38「春」(Sinfonie Nr. 1 B-Dur op. 38 "Frühling" )は、1841年1月から2月にかけて作曲され、同年3月31日、メンデルスゾーン


指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されました。
ザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世


に献呈されました。演奏時間約33分。

シューマンの交響的作品は、第一番を書くまでに、何曲かあります。

1832年にト短調を主調とするものが試みられめしたが、未完に終わっています。
この曲は、故郷の地名を採って『ツヴィッカウ交響曲』と呼ばれています。

1838年から翌年にかけて、シューマンはウィーンでフランツ・シューベルトの兄フェルディナントを訪問し、ハ長調交響曲(D.944)の自筆譜

1845年ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社出版
を発見します。3月の初演に際して、音楽誌に「天国的長さ」という表現で紹介しました。シューマンがこの曲を実際に耳にしたのは1839年12月の再演時でしたが、この曲の影響を受けました。

1840年にはクララ・ヴィーク

と結婚し、歌曲を量産するとともに、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集やウィーン古典派の弦楽四重奏曲を研究しました。

シューマンはハ短調交響曲を構想しますが、これも完成されずに破棄されました

その後、第1交響曲は1841年1月から2月のごく短期間で完成されました。スケッチはわずか4日間だったといわれています。
初演は好評で、シューマンは
「ベートーヴェン以降の近代の交響曲として、かつてない共感を得られた」と書いています。

1841年3月31日、メンデルスゾーン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、初稿はこのときに用いられた稿です。

曲の構成は改訂稿と変わりませんが、曲全体にわたってオーケストレーションが改訂稿と異なる箇所があり、冒頭のファンファーレなどのように旋律自体が異なる(3度低い)箇所もあります。

なおこのファンファーレについては、バルブなしのホルンとトランペットではストップ奏法(ベルの中に右手を入れて音程を調整する)

をしなければ出ない音で書かれており、
初演に向けたリハーサルで自身の意図した音が出ないことを知ったシューマンが、メンデルスゾーンのアドバイスにより、現在の音に変更して初演しています。

また各楽章にも次のような標題がありました。

第1楽章 - 春の始まり
第2楽章 - 夕べ
第3楽章 - 楽しい遊び
第4楽章 - たけなわの春

自筆総譜はアメリカ議会図書館が所蔵しており、スウィトナーによる録音が存在します。

シューマンは初演後さらに推敲を重ね、1841年の末にパート譜を出版、1853年には総譜を出版しました。
出版社は共にブライトコップ社です。一般に演奏されるのはこちらの稿で、初稿で与えられていた各楽章の表題は削除されています。

改訂版の初演は1842年11月3日にフェルディナンド・ダヴィッド指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって行われました。

「春」という副題については、
アドルフ・ベトガーの詩に霊感を得て書かれたといわれ、シューマンは当初のこの交響曲を
「春の交響曲(Frühlingssinfonie)」と呼び、初演時は各楽章にそれぞれ先述の標題を付けていましたが、後に取りのぞきました。

シューマンがメンデルスゾーンに宛てた手紙には、
「第1楽章について、冒頭のトランペットは高いところから呼び起こすように響き、すべてが緑色を帯びてきて蝶々が飛ぶ様子も暗示されています。
主部のアレグロではすべてが春めいてくることを示すともいえますが、これらは作品完成後に浮かんだイメージです。」と言っています。

交響曲第一番「春」




アンダンティーノ、アンダンテ?

2024-03-19 21:01:00 | バロック
月曜日の6時〜はサロン ド プリンシパルで大阪エスカルのフルートアンサンブルレッスン。
今夜は「アルルの女」第ニ組曲と、「くるみ割り人形」の「マーチ」「金平糖の踊り」「葦笛の踊り」を練習しました。
「ビゼーは、ベートーヴェンやモーツァルトのような大作曲家ではないけど、小作曲家として貴重な作曲家ですよ。」
「天才とまではいかないけどうまいですよ。」と榎田先生。

「ここに書いてあるアンダンティーノはどんな速度ですか?アンダンテより、速いか遅いか?」

「速い?」とメンバーの1人が恐る恐る答えると、
「それがね。ベートーヴェンがアンダンティーノの速さについて『わからない』と書いているんですよ。」

「バッハのBWV1030のソナタは初めがアンダンテの楽章で、次がレントですよ。アンダンテは明らかに速い楽章です。バロック時代はこんなことがたくさんあったんです。」
「あの大作曲家のベートーヴェンが『わからない』って言っているのに、われわれにわかるでしょうか?」

「もっともビゼーは1800年代後半の人だからアンダンティーノはアンダンテより速く演奏してもいいかもしれませんが、指揮者によっては前段よりゆっくり演奏しているのもあります。」

「だから言いたいのは、アンダンティーノって書いてあるからと速くするとか言うことでなく、時代背景や当時の曲を調べてテンポを決めましょう。」

で、結局エスカルではここの所は速めに演奏することになりました。

音楽用語辞典によると
アンダンテ 歩くような速さで

アンダンティーノ アンダンテよりも速く

Andanteというイタリア語にino小さいという意味の言葉を付けてAndantino
なので、もともとは小さく、速くという意味であることは確かですが
Andanteの意味をどう捉えるかでテンポが変わってくるようです。

問題のバッハのフルートソナタBWV1030の一楽章アンダンテ

かなり速いです。
ハーゲン(1720-1787年)のリュートソナタのアンダンティーノ

アンダンテよりもゆっくりです。
C.P.E.バッハの四重奏Aminor wq93 第一楽章アンダンティーノ

こちらは少し速め。
メトロノームのない時代。
どう演奏するか?は極めて感覚的なものでした。


狸囃子

2024-03-18 21:01:00 | 古典
土曜日朝、実家に置いているスカイラインを久しぶりに動かしに行ったら、
バッテリー上がっていてJAFさんを、呼びました。
すぐ駆けつけてくれました。
1時間はエンジンを止めては行けないとそのまま次男と、姪、夫と出かけました。
「どこへ行こうか?」
お天気はいいし、あちこち混んでいるので、空いてそうな方向へドライブ。

やってきたのは



信楽駅。


たぬき
梅の花も咲いて暖かい日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

トーマス ハーディ画ハイドン
「交響曲第89番」
本作は自筆原稿が残っていて、「1787年」の日付が記されています。第88番『V字』と共にヨハン・ペーター・トストのために作曲されました。
トストは1783-1789年エステルハージ家の第2ヴァイオリン奏者で裕福なウィーンの卸商組合委員でした。
その年パリで活動することになり、そのための曲をハイドンに依頼しました。
第88番、89番はトストに渡りこの曲はともに『トスト交響曲』とも呼ばれています。
ちなみにトストは後にエステルハージ家の家政婦と結婚してパリで商人として活躍しました。彼はまたモーツァルトからも曲を買っています。

古くは『W字』(Letter W)の愛称で呼ばれることがありました、これは第88番と同様に、ハイドンの生前にロンドンのフォースター社からハイドンの交響曲選集の第2集(全23曲)を出版した際に、各曲に「A」から「W」までのアルファベット一文字からなる整理用の番号が印刷されていたのが愛称としてそのまま残ったものです
これは今では呼ばれていません。

しかし、私たち日本人にとってもっと重大な秘密が…

ここの冒頭、中山晋平の童謡『証城寺の狸囃子』に酷似した2小節の分散和音で演奏された後に第1主題が出現するというサプライズが…。いや、気のせい、気のせい。





北欧コンサート

2024-03-17 23:20:00 | 楽器
金曜日カルテットの後、金重さんと四条畷駅近くの北欧 Keitto ケイットで北欧コンサートに行きました。

知らないうちに四条畷駅の近くに北欧村ができていました。

大東市との共同プロジェクトで、北欧の





レストラン、雑貨屋さん、パン屋さん、洋服、古着などのお店が広大な敷地に隣接。


ここで北欧の食器で、北欧の食事を頂き、
野間友貴さんのフィドル



ハルゲンダルヴァイオリンを聞きました。

最後には調子に乗って飛入りで野間さんのハルゲンダルヴァイオリン、ニッケルハルバ、フィドル、、ヴィオラ、フルート、オスピパと一緒にセッションしました。

足を床に踏みつけて音を出しながら、久しぶりの民族音楽の世界。

楽しかった!

ハルゲンダルヴァイオリン


ハーディングフェーレとノルウェーで呼ばれています。

ヴァイオリンより少し小型の擦弦楽器で、4本の演奏弦に加え駒の下部に4~5本の共鳴弦(響きのための弦で直接弾かない)が張られているのが特徴です。

ノルウェーのハルダンゲル地方で生まれました。別称はハルダンゲル・フィドル、ハリングフェーレといいます。

トップにはヴァイキングの時代の神の象徴「ドラゴン」、
指板や楽器の側面、縁取りなどに花模様や真珠貝での象嵌細工が施されています。

現存する最古の楽器は1651年のものです。
現地では神聖な楽器として、主に冠婚葬祭時に使用されています。

ノルウェー出身の作曲家、エドヴァルド・グリーグやゲイル・トヴェイトが自分の作品に用いています。

グリーグは『ペール・ギュント』の前奏曲などにこの楽器を用いています。
トヴェイトは2曲のハーディングフェーレ協奏曲を残しています(作品163と作品252)。

エドヴァルドド グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー べルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

「ペール・ギュント」は1874年ヘンリック・イプセン(1828-1906年)

1863年イプセン
の依頼により戯曲「ペール・ギュント」の音楽を作曲しました。

イプセンからグリーグへの手紙(1874年1月23日)
もともと舞台上演を目的としない戯曲だったため、音楽の力を借りて舞台化しようとイプセンが試みたものです。

グリーグは1875年初演の後、何度も改訂を行っています。

あらすじ
戯曲「ペール・ギュント」

落ちぶれた豪農の息子で、母オーセと共に暮らしている夢見がちな男ペール・ギュントは、かつての恋人イングリを結婚式から奪取して逃亡します。

しかしイングリに飽きたら彼女を捨て、たまたま出会った緑衣の女(トロルの娘)と婚礼寸前まで行きますがやはり直前に逃げ出します。

一度は密かに帰宅します。が、その場で病床のオーセは息を引き取ります。

再び逃亡したペールを追ってきた純情な女ソルヴェイと恋に落ちますが、そこへ緑衣の女が奇怪な小児を連れて現れます。ペールはソルヴェイを待たせたまま逃げ、そのまま放浪の旅に出ます。

山師のようなことをやって金を儲けては無一文になったり、精神病院で皇帝になったり遍歴した後に老い、身一つで帰郷します。

死を意識しながら故郷を散策していると、ボタン職人と出会いますが、彼は天国に行くような大の善人でもなく地獄に行くほどの大悪党でもない「中庸」の人間をボタンに溶かし込む役割の職人でした。
「末路がボタン」というのだけは御免だと、ペール・ギュントは善悪を問わず自分が中庸ではなかったことを証明しようと駆けずり回りますが、トロルの王も「やせた男」もそれを証明してくれませんでした。

彼は最後の証人として会ったソルヴェイに子守唄を歌ってもらいながら死にます。

組曲は2部に分かれています。

第1組曲op45

第2組曲op55
第1曲「イングリッドの嘆き」(ト短調)
第2曲「アラビアの踊り」(ハ長調)
第3曲「ペール・ギュントの帰郷」(嬰ヘ短調)
第4曲「ソルヴェイグの歌」(イ短調)

第4曲「山の魔王の宮殿にて」ハルゲンタルヴァイオリンのソロ付きアレンジで





未完のフルートカルテット

2024-03-16 21:00:00 | 近代
金曜日は、長居公園近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米のカルテットレッスン。

先月からモーツァルトのAdurのカルテットです。
第1楽章は変奏になっていて、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと主題を演奏する楽器が変わっていきます。そのためか、フルートは比較的低音域のメロディーから始まります。

そのせいか、楽器同士の融合度が高いように思えます。それでいて順番にメロディを受け持つのでそれぞれの楽器の個性が浮き上がる。モーツァルトの絶妙のバランス感覚が際立ちます。

ひと通り演奏したあとは、先日亡くなった池上敏先生が金重さんのために書いてくださっていたカルテットを演奏してみました。

モーツァルトに刺激を受けたというその曲は、第1楽章変奏曲はModerateテーマとヴァリエーション1で終わっています。
第2楽章、Alla sichiliana quasi Allegretto これだけが完成しています。
第3楽章Allegro
1ページ20小節目でいきなり途切れています。
金重さんがいうには「もう1ページあったはず」と言うことなので、探してきてくれることになりました。

改めて演奏してみるとモーツァルトの形式を踏襲しながらも、第1楽章はあかるく爽やか。
政雄先生「敏(びん)ちゃんの曲でこんな明るい曲は初めてきいた。」そうです。

完成した第2楽章は、澄み切った悲しみ…のような曲でフルートのカデンツァもあります。
美しい曲です。

今回も前回に引き続きいちご特集でした。

ふわふわいちごのシフォンケーキ

いちごカーディナル

池上先生、金重さんが作るケーキやお菓子がお気に入りで金重さんが運営する「いつもの処」の手作りお菓子つき
のコンサートに良く出入りしていたそうです。

その時に「これでチョコレートケーキを作って」と何枚も板チョコをもって来られたそうです。
全部使う前に亡くなってしまわれたので、今日はその一枚をみんなで頂きました。

「ビーフシチューもお気に入りで、みんなで食事した後、敏ちゃんが残りを持ち帰るので、みんな食べてしまわないか、気が気でない様子だったのよ。」
と、金重さん。
思い出はつきません。

「ギター四重奏のための「出立(いでたち)への前奏曲」」池上敏作曲2021年初演




マジャール民謡とドビュッシー

2024-03-15 21:01:00 | 近代
日曜日の演奏の後にいただいた差し入れのさくらせんべい。

素敵なパッケージに入っていました。
また、寒くなっていますが、ちらほらある種の桜が咲いてきれいです。

寒桜ですが…。
待ち遠しい!
そして日曜日ドルチェ楽器で見かけたクラリネット。

ヘインズの金属管です。珍し過ぎて初めて見ました。美しい!
もちろん吹けませんが…。

バルトーク・ベーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ(1881-1945年)は、ハンガリー王国、バーンシャーグ地方ナジセントミクローシュに生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

クラシック音楽の作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。

『2つの映像』作品10、Sz.46は、1910年に作曲した管弦楽曲です。

原語曲名:Két kép(ハンガリー語) Zwei Bilder(ドイツ語) Two Pictures(英語)

スコアのバルトーク自身の書き込みによれば、1910年8月に完成。
初演は1913年2月25日、ブダペストにて、イシュトヴァーン・ケルナーの指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団によります。

7歳の時に父が病気(アジソン病だったと言われている)のため32歳で急死、ピアノ教師として一家を支えることとなった母パウラ ヴォイトの仕事の都合でナージセレーシュ(現在のウクライナ、ヴィノフラージウ)に転居、その後各地を転々とします。

9歳前後から習作的なピアノ曲も書き始め、10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏みます。

パウラは子を天才少年ピアニストとして売り出す気はなく、まずは普通に教育を受けることになります。

1893年に音楽活動の活発だったポジョニ(現在のスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ)に母と赴いた際、作曲家エルケル・ラスローに指導してもらう機会を得ます。

翌年、母がポジョニに仕事を得たため同地へ引っ越し、当地のギムナジウムに入学。エルンスト・フォン・ドホナーニ

ドホナーニ(1877:-1960年)
と知り合い友人となります。

学内でもピアニストやオルガニストとして活動し、ヨハネス・ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだというドホナーニの薦めに従い、翌年ブダペスト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学。

作曲をハンス・ケスラー、ピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受けます。ここではワグネリアンの学長からリヒャルト・ワーグナーの洗礼を受けますが、既にブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想しています。

1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはこう語りき』に強烈な衝撃を受け、交響詩『コシュート』を作曲。

ハンガリーの革命の英雄コシュート ラヨシュ(1802-1894年)1848年3月ハプスブルクからのハンガリー独立を勝ち取るも1849年5月にはブダペスト陥落亡命します。

ハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペストの世論を騒がせました。

1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めてトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡に触れます。

1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位でした(優勝者はヴィルヘルム・バックハウス)。

自分の人生をピアニストとして描いていたため、優勝を果たせずかなり落胆しようですが、それ以上に作曲部門での結果の方がショックでした。
また民謡について科学的アプローチを始めていたコダーイ・ゾルターンと出会い多大な影響を受けます。

左バルトーク 右コダーイ
1906年からコダーイやその他の研究者達と共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始めます。

1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専ら当時のハンガリー国内で民族音楽を採集していました。

1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となります。

ブダペスト音楽院(現リスト フィレンツェ音楽院)
ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行います

この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものですが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエル

に贈った
『 ヴァイオリン協奏曲第1番』(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れています。
1908年の『弦楽四重奏曲第1番』にも民謡風要素が含まれています。ピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第に浸透し始めます。

1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler Márta)

と結婚。
翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれます。

この年、フレデリック・ディーリアス(1862-1934年)
1912年ディーリアスの肖像画イェルカ

と知り合い、彼の作品の影響も受けます。

そんな時作曲したのが『2つの映像』作品10、Sz.46、管弦楽曲です。

マジャール(ハンガリー)民謡

マジャール人達
の収集活動の中で民謡の特徴を分析し、自らの作品に生かしていく道を歩み始めていましたが、同時に教会旋法や全音音階などを使用して新しい響きを打ち出したドビュッシーの作品にも強く影響されています。
ドビュッシー(1862-1918年)

この作品は、そのドビュッシーに対する共感とドビュッシーの影響をも自分の語法の中に消化していこうという意識が前面に押し出された作品です。

第1曲 花ざかり
ハンガリー語のタイトル“Virágzás”は厳密には「花」という意味です。

第2曲 村の踊り



ベートーヴェンの年金事情

2024-03-14 21:02:00 | 古典
水曜は次男の検診でした。
レントゲン撮って、順調に回復してるかどうか?
8:00に出たら、20分で着いて…早くつきすぎました。
前回混んでて40分かかったので、早めに行ったら20分で着きました。
レントゲンもサクサク進んで早く終わるか?
9:30診察。
早い!
しかし、「膝蓋骨を押さえているはずの杭(くい)が外れかかっている。」
ので、「これ以上外れたら、取らないといけない」らしい。

取るってまさか「再手術?」
「はい、そうですね。」
「状態見ながらリハビリやってもらって、それから手術するかどうか判断します。」
「それまで頻繁に、1週間に一度位見せてくださいね。」
一度診察室から出され、しばらくしたらまた呼ばれ
「リハビリは90度までにしておくように伝えてださい。超音波あてましょうか?」
「膝蓋骨でそれほど早く治るという報告はないんですが、ここは骨ができやすいところなんで、でもやってみるのもいいかな?どうされますか?」
することにしました。
そして小さな声で
「すみません。」

あれれ!?やっぱり失敗?
レンタル料金3か月5万円…労災申し込み中とサイン書いて放免。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

は、生活苦から逃れようとして、ついに誘いのあったカッセル宮廷(ナポレオンの侵攻により1806-1813年の間ウェストファリア王国)
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエのヘルクレス
への異動を考え始めます。

ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)


が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート現3000万円位?)の年金で誘いをかけてきたからです。

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職を思い止まらせたのは、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー公の3人です。

取りまとめ役はルドルフ大公でした。彼らが拠出した年金総額は3者合計で4000フローリン(5000万円)。

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンでした。

1781-1831年神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出されました。ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲は
『ピアノ・ソナタ第26番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、
『ピアノ三重奏曲第7番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『
ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)などです。
ルドルフ大公は1500フローリンの年金を払っていました。

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンでした。

ヨーゼフ・フランツ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ(1772 - 1816年)は、オーストリアのボヘミア系貴族、軍人、芸術愛好家。階級は陸軍少将。侯爵、ザーガン公爵、ラウドニッツ公爵。

彼が契約書にサインしていた額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。

ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲は
ベートーヴェン初期の
6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲
『第三番』(「英雄」、Op55)、
『第五番』(「運命」、Op67)、
『第六番』(「田園」、Op68)、
中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、
『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などがあります。

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していました。

ウィーニッツ・アンド・テッタウ第5王子 フェルディナンド・キンスキー王子(1781-1812年)は、ウィーニッツ・テッタウ(ウィーン ハプスブルク君主国)の第5王子キンスキー王子。

エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はキンスキー公に献呈されています。

ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めます。

ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いができなくなりました。

同じ年、キンスキー公がプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減します。

そこでベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」で訴え、有利な判決を受けました。

3人との契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、

そして仕事や芸術振興の目的で一定期間ウィーンを離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていました。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、当時当たり前だった教会音楽への貢献を求めることがありませんでした。

彼ら自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族でした。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもありました。なので経済的・社会的上下関係としてはパトロンでしたが、芸術分野では師弟関係にありました。

ロブコヴィッツ大公に献呈された
『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)
は、1809年に作曲された弦楽四重奏曲です。

第1楽章の随所に現れるピッツィカートの動機から、「ハープ」という愛称を持っています。

大作を書いた後は、作品の規模は縮小し、代わりにロマン的な情緒やのびのびとした感情をたたえる作風へと変化しました。
のびのびと書かれたこの曲はパトロンたちがベートーヴェンに与えた比較的自由な関係によるものだと思われます。


聖ロレンツォの休日

2024-03-13 21:20:00 | バロック
第2火曜日10:00〜は、3月の子育てサロンでした。
あいにくの雨。
「今日は、来ないかもしれんね。」と言っていたら来てくれました。

スタッフで手分けして、
来たらいきなり写真撮影。
お名前を呼んで、ぽっぽくらぶの歌をみんなで歌って、「ららら、ぞうきん」を一緒にやって、製作。

お母さんたちが、作ってる間に写真を現像。




できました〜!
クリップに写真を挟んでできあがり!
幼稚園や、保育園に行っても元気で育ってくださいね。

子どもたちはやっぱり希望と元気をくれますね。

アントニオ・ヴィヴァルディ(1678- 1741年)ヴェネツィア共和国ヴェネツィア生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

「聖ロレンツォの祝日のために」という名前は3曲につけられています。

ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 RV.286

Holograph manuscript, n.d.(ca.1701-41)

2つのヴァイオリンと2本のリコーダー、2本のオーボエ、2本のホルンのための協奏曲 ヘ長調 RV.556

Holograph manuscript, n.d.(ca.1701-41)

ヴァイオリンと2本のオーボエ、2本のホルンのための協奏曲 ニ長調 RV.562

筆耕人 Johann Georg Pisendel (1687-1755)
出版社情報 Manuscript, n.d.(ca.1716-17).

聖ロレンツォは225年、スペインのウエスカで生まれました。
 
カルロ クリヴェッリ画 サン・ロレンツォ(225-258年)ローマ帝国ヒスパニア生まれ、ローマ帝国ローマ

当時スペインは、キリスト教がまだ禁じられていたウァレリアヌス帝

在位253年11月頃〜260年
の治世でした。

ロウレンティウス(ロレンツォ)は勉学の後、ローマ七助祭の首席に挙げられ、ローマ教皇シクストゥス2世

第24代ローマ教皇シクストゥス2世
の執事として、教会の財産管理と、貧しい人々への施しを担当していました。

258年、皇帝により、教皇とラウレンティウス以外の執事が逮捕されました。教皇はラウレンティウスに、教会の財産を処分して貧しい人々に施すことを命じ、近いうちにラウレンティウスも逮捕されるであろうと言われました。

8月6日に教皇は斬首の刑に処せられ、ラウレンティウスも逮捕されました。
皇帝に教会の財産を渡すように命じられましたが、困窮している人々や体の不自由な人々を連れて行き「彼らこそ教会の財産である。」と主張して渡しませんでした。

8月10日、ラウレンティウスは生きながら熱した鉄格子の上で火あぶりにされました。

殉教の際、兵士に向かって「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい。」と言いました。
その殉教の様子に感銘した多くの人々が、改宗したとも言われています。

ラウレンティウスの墓の上に「サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」 

1890年から1900年頃の大聖堂
現在の大聖堂
が建立されています。

ローマ・カトリック教会では「聖ラウレンチオ助祭殉教者」と呼ばれています。

火傷・火災・熱病から守ってくれる保護者であり、また、菓子製造人、料理人、栄養士、メイド、宿の管理人、肉屋、ワイン・ビール醸造者、図書館員、兵器製造者、ガラス工、ステンドグラス製造者、コメディアン、学生などの守護聖人です。
ルネサンス、メディチ家の守護聖人です。


メディチ家がフィレンツェに建てたサン・ロレンツォ教会
聖ロレンツォの休日とは、殉教日の8月10日。
作曲の経緯はわかりませんが、広く愛され、信仰された聖人のために多くの祝祭や、典礼が行われ、売れっ子のヴィヴァルディのもとへも、作曲の依頼があったのだと思われます。

2つのヴァイオリンと2本のリコーダー、2本のオーボエ、2本のホルンのための協奏曲 ヘ長調 RV.556



変容・断章

2024-03-12 21:00:00 | 現代
日曜日コンサートの後、西宮今津でお通夜でした。

作曲家の池上敏先生。
74歳でした。

甘党で金重さんの作るケーキがお気に入りで、何年か前に「いつもの処」に出入りされ、新年会のビンゴゲームに参加。

「当たった人に曲を書く。」と言い出され、リコーダーやリュートなど、メンバーそれぞれに曲を書いてくださることになったそうです。

金重さんはフルート四重奏をリクエスト。

そこへ私が呼ばれて一緒にカルテットをやっていると聞かれて、気さくにメッセージ下さり、早速pdfで楽譜を贈ってくださったのでした。

フルートカルテットの第2楽章
「Alla sichiliana」
モーツァルトのフルートカルテットに触発されたと言っておられました。
第1楽章と第3楽章の構想も詳しくメッセンジャーで語っておられたのですが…未完となりました。

気さくな方で、コンサートに呼んでくださったり、うちのグランドハープは池上先生が神奈川のお友だちとの仲人をしてくださってここにお嫁に来たものです。

昨夜はコンサートの名残りと、お通夜でみなさんとあったことでドーパミンが出ていたみたいで、夜遅くまで動いていたのですが、今朝になって、なんだかこたえてきました。

暗い話でごめんなさい。

池上先生の「冥と舞」1981年コンクールの課題曲で今だによく演奏されています。この曲で知られている方も多いかと思います。

池上敏「変容・断章」雅楽を取り入れた和の幽玄を感じる曲。
1994年吹奏楽コンクールの課題曲として作曲されました。