音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

交響詩「春の詩」

2024-03-11 21:03:00 | ロマン派
ドルチェ楽器のアカデミー発表会でした。
1年ぶりの発表会は、お久しぶりの仲間とも会える機会です。

何人か「こんにちは」と声を掛け合いました。しかし、私だけ日程が取れず当日合わせ1時間だったので、他の人の演奏をまったく聞けませんでした。
残念。

私はよいピアニストに恵まれて気持ちよくブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」を演奏させて頂きました。

終わったら神戸エスカルのメンバーが、差し入れを持ってきてくれました。
「どうして?!」訳け合って誰にも言ってないのに。

「Fさんに聞いたから。」
Fさんもメンバーでした。ニコニコ笑ってFさんもいました。
ありがとうございます。
感謝です。

ジャン シベリウス(1865-1957年)
フィンランド大公国ハメ州ハメーンリンナ生まれ、フィンランドウーシマー州ヤルヴェンパー没

1895年頃のシベリウス

1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれます。父クリスチャンは医師でしたが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をしました。

1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』。
1885年、ヘルシンキ音楽院

ヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)
で作曲などを学び始めます。
1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏などに直接触れます。

さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事しました。

1891年に『クレルヴォ交響曲』作品7を手がけます。翌年春に初演。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲です。初演は好評をもって受け入れられましたが、その後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはありませんでした。

1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。

1888年アイノ
「オーケストラのための即興曲ニ長調」として作曲された曲は
1894 年 7 月 21 日、大衆教育協会 (Kansanvalistusseura )
1874年創設されたフィンランド最古の大人に対する教育団体
が主催したヴァーサの野外フェスティバルで初演されました。

短く、抒情的で、繊細に楽譜が書かれたシベリウスの作品は野外コンサートには不向きで、聴衆はプログラムに含まれていた別の作品、アルマス・ヤルネフェルト(シベリウスの義理の弟で友人)(1869-1958年)

による『コースホルム』ほど熱狂的には受け入れられませんでした。

そのためすぐに、シベリウスは改訂のために「即興曲」を取り下げました。

1895年、彼はそれをヘ長調に改作し、その(未発表の)バージョンに「春の悲しみ」という副題を付けて、作品を「春の歌 Spring Song (Vårsång )」と改題しました。

この版は未出版のままとなりました。その後、1902年の出版前の改訂で最終版としています。

楽曲はシベリウス作品には珍しい楽観性を有しています。
曲の終わりにベル(グロッケン)が目立った使われ方をすることが知られています。

テンポ記号は、Tempo moderato e sostenuto 。

アイノとの結婚生活がシベリウスに心の安定をもたらしていたのだろうと思います。




偽バロック作品として出版

2024-03-10 23:13:00 | ロマン派
今津公民館で西宮ギター練習会でした。
川原久美子さんと久米でジュリアーニの協奏的大二重奏曲op85の第3楽章と第4楽章を演奏しました。

明日ギターコンクールアンサンブル部門を受けられるという高橋通康さん

の演奏や、ポンセ組曲全曲を演奏されるツワモノも!


3ラウンドで川原さんと「オヴリヴィオン」を急遽吹きました。

打上げは失礼して、帰りました。
次男がいるからね。

6月30日夙川公民館でコンサートになりました。
カルメンとジュリアーニを演奏することになりました。

重い!超絶技巧!
頑張らなくちゃ!
3月10日(日)ドルチェ楽器梅田店で発表会に出ます。無料ですが、整理券あります。
入られる方は窓口で久米と言われると入れます。先着5名まで
出演は15:10くらいになると思います。

こちらはブリジアルディの
「ローエングリン幻想曲」を吹きます。

マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1948年)メキシコ サカテカス州フレスニージョ生まれ、メキシコ メキシコシティ没

は、メキシコの作曲家・音楽教師、ピアニスト。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じた。

生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。地方の聖堂で教育を受けつつ、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。
1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。
ピアニストとしては、ドビュッシーなどの作品の紹介に努めました。

メキシコ革命の混乱
1910-1917年ディアス独裁政権に対し民主化を求める革命でした。
を避けて1915年から1917年までキューバに滞在し、この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

クレモンティーヌ モレールと結構
1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカス

1865-1935年パリ生没ユダヤ人作曲家
に作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビア
1893−1987年スペイン「現代クラッシックギター奏法の父」と呼ばれています。
と親交を結びます。
短期間でしたがナディア・ブーランジェにも師事しています。1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみます。1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により亡くなりました。

メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセは今日、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者としてよく知られています。

他にも新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

初期のピアノ協奏曲は、シューマンを思わせる叙情性と情熱的な表現によって、ロマン派音楽の伝統で作曲されています。この他にも、ロマン派から印象派までの影響を受けたマズルカなどの舞曲、演奏会用練習曲、変奏曲やフーガなどのピアノ曲を多数残しています。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、
『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されています。
フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

組曲イ短調 ギター
大ギタリストのアンドレス・セゴビアの依頼で作曲した一連のバロック音楽の様式を模した作品群の一つです。

これらの作品の発表時にポンセとセゴビアは共謀して「バロック・リュートの大家シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス

シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1687- 1750年)ドイツ後期バロック時代の作曲家、リュート奏者
の作品」であると偽リました。
この「いたずら」にまんまと騙されて、しばらくの間「ヴァイス作曲」として紹介されていました。

実際には、バロックの作品にしては、転調や、半音階が用いられていて、何よりセゴビアがロマン派の演奏スタイルで有名な奏者だったため、どこまで本気で偽ろうとしていたかは疑問です。

組曲イ短調
「プレリュード」 
「アルマンド」 
「サラバンド」 
「ジグ」

セゴビアの演奏で組曲イ短調から「ジグ」



黄金の間

2024-03-09 20:58:00 | ロマン派
実家の黄梅も満開です。

垣根の間から覗いています。

先週の日曜に撮りました。
速達で次男の訂正診断書が届き、無事会社に届け、後は地元かかりつけ医に紹介書を持って行き、リハビリ。 
これが痛いらしいです。

学生だった頃の夏休み以来、ずっと家にいる息子との生活が始まりました。
あまり、変わりないですが。
家に誰かいる気配がするのは悪くないです。

パリのフランス銀行。
ナポレオン・ボナパルトが第一執政だった時代に設立したフランス銀行が置かれている建物は、他の旧貴族館同様に歴史は長く、ルイ13世に時世の17世紀にさかのぼります。

国王ルイ13世の国務卿を務めていたラ・ヴリリエール侯爵は、
ルイ13世の国務卿だった
ルイ・フェリポー・ド・ラ・ヴリリエール(1599-1681)
は、1653年にフランソワ・マンサールに広大な豪奢な館の建築を依頼します。


彼が依頼主ラ・ヴリリエール侯爵のために実現した館は、豪勢極まりないもので、中でも40mもの長いギャラリーは賞賛の的でした。

イタリアとフランスの絵画を多数コレクションしていたラ・ヴリリエール侯爵は、ギャラリーの両サイドに名画を飾りました。

侯爵が所有していた絵画は250点。その数点は現在、ルーヴル美術館所蔵になっています。

その館をトゥールーズ伯爵
トゥールーズ伯爵(1678-1737)
が購入したのは1713年です。
彼はルイ14世と愛妾モンテスパンの間に生まれた認知された息子で、5歳の時にすでにフランス提督の称号を持っています。

ラ・ヴリリエール侯爵の館を買ったトゥールーズ伯爵は、当時の最高の建築家ロベール・ド・コットに改築を命じロココ風にします。その時ギャラリーの羽目板に金箔が施され、金色に輝くようになり、「黄金のギャラリー」あるいは「黄金の間」と呼ばれるようになります。








けれども革命の際に荒らされ、絵画も家具もすべて没収され、国立印刷局になった時期もありました。
そこへナポレオン・ボナパルトが1800年にフランス銀行を創設し、1811年から旧トゥールーズ伯爵邸にフランス銀行本部を置くことになりました。


1852年1月29日、「黄金の間」で開催されたフランス銀行の総会
「黄金の間」はその後数回修復されましたが、貴族館だった面影は一部残っています。このギャラリーでは現在ではコンサートやソワレが開催されています。

「アヴェ・マリア」は
シャルル・グノー(1818 - 1893年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン=クルー没

が1859年ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集 第1巻》の「前奏曲 第1番 ハ長調 BWV 846」を伴奏に、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞に用いて完成させた声楽曲です。

フランス銀行の黄金の間でヤン アントニオのダンスを伴った演奏で
「アヴェ・マリア」





ジプシー男爵お宝を見つけてにっこり

2024-03-08 21:21:00 | ロマン派
次男退院しました。
ご心配頂いてありがとうございました。

これから通院リハビリ、仕事は約3ヶ月休職になりました。
昨日は荷物だけを持ち帰って、今朝は本人も。

面会はここでのデイルーム
約束の

お寿司。

途中で

タッチパネルがフリーズしました。
珍しいので撮りました。

店員さんに言ったら、席替えしてくれました。
帰って職場に診断書を出して帰ってきて、書類を見たら、
次男「間違ってる!」
見たら右膝蓋骨骨折。
「左膝蓋骨やって!」
病院に電話して、職場に電話してもう一度やり直し。
誰でも間違いはあるけれど、今日ありえないことが2つ。今なら宝くじも当たるかも…買わないけど。

「宝のワルツ」は
ヨハン・シュトラウス2世(1825- 1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン没


が書いた
オペレッタ『ジプシー男爵』に登場する3拍子のメロディーを集めて構成されたワルツです。

1885年11月22日、シュトラウス日曜コンサートにおいて、ヨハン2世自身の指揮で初演されました。

この曲は、オペレッタ『ジプシー男爵』の中で「宝物」を見つけたときに流れるメロディーに由来しています。

芝居を好んだという当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世

は、この『ジプシー男爵』を大いに気に入り、劇場の皇帝席にシュトラウスを呼び寄せました。
シュトラウスは非常に興奮しながら、その時のことを友人グスタフ・レヴィに語りました。

「皇帝は大満足の様子であった。そして仰せられた。
『シュトラウス君、君のオペラをとても余は気に入ったよ。とてもすばらしい。』皇帝は仰せられたのだ。「オペラ」だって!」

当時はウィーン歌劇場ではオペレッタは上演しないなど、厳格な線引がオペラとの間にあり、シュトラウスはオペラを書きたいと思っていたので、皇帝の言葉に感激したのでした。

ハンガリー人の作家ヨーカイ・モール(1825-1904年)

の短編小説『シャーッフィ』(Sáffi)を基に、ハンガリー人ジャーナリストのイグナーツ・シュニッツァー(ドイツ語版)が書き上げた台本には、ハンガリー情緒がふんだんに盛り込まれています。

この作品は2年の歳月をかけて作曲されています。

初演は大成功を収め、以後ハンガリーを題材にしたオペレッタが数多く作曲され、人気を博していくことになります。
「序曲」や第3幕で演奏される「凱旋の入場行進曲」、そして劇中で使われるワルツを用いて作曲された『宝のワルツ』などは、単独でも演奏されています。

オペレッタ「ジプシー男爵」

フランス版のポスター

第一幕
舞台はハンガリーの寒村、テメーゼ・バナード。

ハンガリーを統治していたトルコ最後の総督は、1717年のベオグラードの戦いでオーストリア軍に追われ逃亡した際、莫大な軍用金をこの地方に埋め、生まれたばかりの娘をジプシーの女占い師ツィプラに託しました。
ザッフィと名付けられたこの女の子は、ツィプラによって育てられました。

1886年のソドラ劇場でのサフィ役のアンナ・ノーリー。

一方、トルコ人と気脈を通じていたという嫌疑をうけて亡命した大地主バリンカイ。

その後この土地に勢力をふるうようになった豚使いジュパンは、亡命中に死んだバリンカイには嗣子がないと言いふらして、遺産や土地を自分のものにしようと企んでいます。

ところがバリンカイの遺児シャンドール・バリンカイ

1901年、ヴァーサ劇場でバリンカイを演じるビルガー・シュッカー
は今は成人となって、皇帝の特赦により父の遺産を正式に相続することとなり、ハンガリーにやってきます。皇帝特使カルネロは父親の遺産を正式に彼に譲渡するために一緒にやってきました。

ジュパンは自分の娘アルゼナとバリンカイを結婚させようとしますが、アルゼナはそれを避けるため、「男爵の位を持っている人とでなければ結婚しない」と公言します。

人々が引き上げた後に残されたバリンカイに、ザッフィの歌声が聞こえてきます。(合唱≪ジプシーの歌≫)

ツィプラはジプシーたちに、新しく地主となったバリンカイを自分たちの領主だといって紹介し、バリンカイは自分を「ジプシーの男爵」だと名乗ります。そして、ザッフイはバリンカイ家の花嫁だといいます。

第二幕
舞台はバリンカイの屋敷近くのジプシー部落。

ツィプラは「私は昼も夜もご主人様の財宝を見張っていた」と静かに語ります。
バリンカイが「君こそ私の愛する妻」と喜びを歌うと、ザッフィも「なんという幸せ」と応え、情熱的な2重唱となります。(デュエット≪愛の歌≫)

ツィプラは、夢の中でバリンカイの父親が宝の隠し場所を教えてくれたといいます。
半信半疑のバリンカイが、ためしにその場所の石を叩くと、うつろな音がするところがあり、そこから貨幣や宝石が出て来て、3人は喜びのワルツを歌います。(「おやおや、彼は笑っている」、≪宝のワルツ≫)

「誰が保証人になって結婚したか」と詰問されたザッフィは「うそ鳥が牧師の代りをつとめ、頭上を飛ぶ2羽のこうのとりが証人である」と答えて、人々を呆れさせます。(≪愛の歌≫「結婚の証人は」)

そこへ1隊の軽騎兵を率いてホモナイ伯爵

1901年、ヴァーサ劇場でホモナイ伯爵を演じたエルンスト・スヴェデリウス。
が登場します。この司令官はバリンカイの旧友です。
スペインの戦争に従軍する兵士を募集するために来ました。

ホモナイ伯爵は勇ましく祖国愛に満ちた歌を歌う。(アリア≪徴兵の歌≫)徴兵の酒を飲んだ者は募兵に応募しましたと認められます。

酒好きのジュパンとオットカールはうっかりそれを飲み干してしまい、たちまち軍帽をかぶせられてしまいます。(合唱:「ウィーンへ!」)

ジュパン家の人々がザッフィを侮辱するので、ツィプラは、ザッフィの出自を明かし、しかもオーストリア皇帝の血統を受けていることを説明します。

バリンカイは、身分の違いから、彼女を妻にすることができなくなったと感じ、父の遺産全てを国家に奉納して従軍します。

スペインに遠征したオーストリアの軍隊が続々と凱旋してきます。ジュパンは、意気揚々として先頭に立ち、戦利品を携えて自分の見当違いな勇敢な戦い振りを述べ立てます。(アリア≪ターヨ海岸の歌≫)

軍隊の主戦部隊が到着。ホモナイ伯爵、バリンカイを先頭に威風堂々の行進が繰り広げられます。

ホモナイ伯爵はバリンカイの功績をたたえ、彼が国家に寄付した財産を改めて返却し、彼を貴族に列して、ザッフィとの結婚を許します。
その時、従者を従えたザッフィが現れ、2人は相抱き、めでたく結ばれます。
1900/1910 年頃のオペレッタ「ジプシー男爵」の一場面
バリンカイが「男が一度決意したら、不可能なことはない」と歌うと、群衆の歓喜の大合唱が、ウィーンの澄みきった青空に響きわたります。





日本フルート協会

2024-03-07 20:58:00 | 音楽
月曜日は、渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルレッスンでした。

新譜登場。
「アルルの女」第2組曲。
フルート6、アルト2、バス2の市販譜面を使いました。

神戸エスカルの竹内さんが来て1st吹いてくれました。

なかなかおもしろい編曲ですが、メヌエットだけは榎田先生「ちょっと伴奏厚すぎるんだよ。」と気に入らなかった様子で吹きませんでした。
確かにフルートとハープだけなので、フルフルートオケで吹くのは無理があるかも。
他は良かったので、第一組曲も探すことになりました。

「食べてきていいよ。」と夫に言われていたので、4人が飲みに行くというのでついていきました。


出汁のきいた、ふわふわたまご

あんかけ豆腐

いぶりがっことカマンベールチーズ

締めの焼きおにぎり茶漬け

なかなか美味しいお店でした。
竹内さんに、フルート協会の志賀高原サマースクールお勧めされました。
コンヴェンションや、フェスティバルにはよくいきましたが、サマースクールはまだ行ったことありません。
なんだか楽しそうです。

一般社団法人「日本フルート協会」は1966年に設立されたフルート愛好家の団体です。
初代会長は吉田雅夫さんです。
プロもアマチュアも交流。
フルートコンヴェンション(講習、コンサート、ワークショップ、コンクールなど)
フルートフェスティバル
志賀高原サマースクール
などを行なっています。

入会金1000円
年会費6000円で年4回会報が送られてきます。
各イベントでは日本の有名なフルーティストや教授が手弁当で手伝っておられて、びっくりします。

国内外からコンクール参加も多く、パユ様もコンヴェンションのコンクール優勝者です。

コンヴェンションでの海外からのゲストには、人気のフルーティストが並びます。

これは、昨年の第21回日本フルートコンヴェンションのプロモーション動画です。
ちょうど「アルルの女」の「ファランドール」
指揮ブノワ フロマンジュ





暁の星

2024-03-06 20:38:00 | バロック
今日は子育てサロンの卒会記念回。
スタッフで朝からうちに集まって、記念のコルクボードで作るフォトボードの製作をしました。

今回は布のハートと星のオブジェを貼り付けて作ります。
裏側に両面テープをつけてあるので、お母さんたちに好きなところに貼ってもらってオリジナルのフォトボードを作ってもらいます。

当日、子どもたちの写真を撮ってクリップに挟んで仕上げます。

殿ニ校区子育てサロン ぽっぽくらぶ
3月12日(火)10:00〜会館との2
参加申込不要、無料。

ミヒャエル・プレトリウス(1571- 1621年)神聖ローマ帝国チューリンゲン地方クロイツブルク生まれ、神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク ヴォルフェンビュッテル侯領ヴォルフェンビュッテル没

作曲家・オルガニスト・音楽理論家。当時の最も多作で最も多彩な作曲家の1人です。
プロテスタントの賛美歌の発展においてとりわけ重要で、プレトリウス一族の最も有名な音楽家です。

トルガウやフランクフルト・アン・デア・オーダー、ツェルプストなどで学びます。

ルターの弟子だった牧師の息子として、彼は 1585 年にフランクフルト・アン・デア・オーデルのマリエン教会のオルガニストになりました。

1595 年からはハルバーシュタット司教にオルガニストとして仕え、そこで多くの有名なオルガニストに新しい楽器をデモンストレーションしました。

彼の後援者がブラウンシュヴァイク=リューネブルク公になったとき、彼はヴォルフェンビュッテルに同行し、 1603年に楽長に 就任しました。
フリードリヒ・ウルリヒ(1591 - 1634年)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公
この職に就くためにドイツ中を頻繁に旅行する必要があり、そのおかげで彼は音楽演奏の指揮者、オルガンのコンサルタント、そしてオルガンのコンサルタントとして広く名声を得ることができました。

フランクフルトのマリア教会オルガニストを務めた後、1604年からヴォルフェンビュッテル宮廷にてオルガニスト兼宮廷楽長に就任します。

1613年から1616年まで、ドレスデンのザクセン宮廷に仕え、ヴェネツィア楽派(二つの聖歌隊と2台のオルガンを用いた二重合唱(複合唱 cori spezzati)の技法の開発)の複合唱様式(空間的に離れた位置にある複数の合唱隊が、交互に歌い継ぐという方法)による最新のイタリア音楽を演奏しました。

ジョヴァンニ・ガブリエーリのようなヴェネツィア楽派の作品を熟知していたおかげで、プレトリウスはその後教会コンチェルト様式を発展させることができました。

プレトリウスはルーテル教会の作曲家であり、驚くべき産業を築き上げました。
彼の作品の中心となっているのは、1,244 のコラール設定を収録した 9 巻の 『Musae Sioniae』


ですが、他にも多数の作品を出版しており、小さな楽曲から楽器のサポートを伴う大規模な多合唱の変奏曲まで、考えられるあらゆるスケールの作品が含まれています。

彼はまた、他の多くの典礼音楽や 312 の舞曲セット (テルプシコール) も書きました。彼の 3 巻の論文 『Syntagma Musicum』 (1619 年)
音楽大全

は、彼が旅行中に見聞きしたものに基づいた、ドイツの音楽、楽器、演奏に関する情報をまとめた貴重な総集編です。

プレトリウスは、とても多作な作曲家であり、ザムエル・シャイトやハインリヒ・シュッツ、同時代のイタリア音楽の影響を示しています。

プレトリウスの作品は、1000曲以上のコラールと賛美歌の編曲を含む9巻の曲集『シオンの音楽』(Musae Sioniae, 1605年 - 1610年)

などがあります。

そのほかは、ほとんどがルター派教会のための作品です。舞曲集『テルプシコレー』 (Terpsichore) は、プレトリウスの現存する唯一の世俗音楽集です。

3巻の論文集『音楽大全』(シンタグマ・ムジクム、Syntagma musicum, 1614年 - 1620年)

楽器が描かれていて現代の古楽器再現ブームの助けになっています
は、同時代の演奏習慣や楽器について詳細な説明と図解がなされ、音楽学・形態学研究や古楽演奏の分野にとって重要な文献となっています。

「暁の星のいと美しきかな」






空色の花が言った

2024-03-05 20:59:00 | ロマン派
車検でトヨペット伏見店に行きました。
アクアに乗換えて3年目。あまり状態の悪い所はありませんでしたが、バッテリー交換でした。
あまり乗らないのがかえって良くなかったそう。



同じ年式の空色のアクア。
代車で乗って帰りました。
明日、10:00にあがって来るのですが、こちらの方に用があって、夕方取りに行きます。

担当のお兄さんは独身からのお付き合い、結婚して子どもができて「おめでとうございます、」なんて言っていたのが、もう今年は幼稚園。
もう弟も生まれたそうです。
うちからちょっと遠いけれど、店を代えられません。

クリスチャン・ルイス・ハインリヒ・ケーラー(1820 - 1886年)は、ドイツの作曲家、指揮者、ピアノ教師。

ケーラーはブラウンシュヴァイクで生まれました。彼はウィーンでカール・マリア・フォン・ボックレット、シモン・ゼクター、イグナーツ・フォン・ザイフリートにピアノを学びました。指揮者として、彼はマリエンブルクとエルビングで働きました。その後、 1847年にケーニヒスベルクに定住し、その後はピアノの指導と音楽の執筆に専念しました。彼の生徒には アドルフ イェンセンとヘルマン ゲッツがいました。

彼は 1849 年から 1886 年までハルトゥングシェ・ツァイトゥングの批評家であり、 1844 年から 1886 年までは『Signale für die musikalische Welt』に寄稿しました。
彼の著作はリストやワーグナーによく知られていました。彼はまた、リストが関与していたアルゲマイナー・ドイツ楽友協会の設立を提案しました。

ケーラーは 3 つのオペラと 1 つのバレエを作曲し、音楽理論に関する本を執筆しました。彼はピアノのための教育作品も書きました。

彼はケーニヒスベルクで亡くなりました。

ケーラーの大きな功績は子どもへの教育でした。

1873年月刊誌ペータース ホフマイスタに掲載された「子どものお友だち」 p.318
のピアノ曲集はドイツてよく知られた民謡やオペラの曲から音楽を子どもがピアノが学べるようになっています。

ピアノ曲集「子どものお友だち」

1.「空色の小さな花がいった。私にやさしく、私を忘れないで」Op.243-1
2.「バラよ、咲いておくれ朝になったら、お前を摘みとろう」Op.243-2
3.「がちょうが、どろぼうに盗まれた」Op.243-3
4.「低地地方こそ、美しきところ」Op.243-4
5.「踊るウィーン婦人」Op.243-5
6.「ABCD、お前に会うときこそ」Op.243-6
7.「シューベルトのワルツ」Op.243-7
8.「魔女小屋の小さな魔女」Op.243-8
9.「子どもが遊び、歌っている」Op.243-9
10.「チロルの歌」Op.243-10
11.「白鳥のいる池で」Op.243-11
12.「プレチオーザの踊り」Op.243-12
13.「人生は楽しく」Op.243-13
14.「奇妙なお話」Op.243-14
15.「鴨のいる池のほとりで」Op.243-15
16.「そりの遠乗り」Op.243-16
17.「少女」Op.243-17
18.「バラの茂みに子どもは眠る」Op.243-18
19.「花嫁のために冠を」Op.243-19
20.「家をあとに旅立つわれ」Op.243-20
21.「おんどりのワルツ」Op.243-21
22.「〈ドン・ジョヴァンニ〉のセレナード」Op.243-22
23.「小さな花束」Op.243-23
24.「もみの木」Op.243-24
25.「5月よ、楽しい5月よ」Op.243-25
26.「人魚」Op.243-26
27.「牧童は笛を吹き、歌を歌う」Op.243-27
28.「信頼と誠実とを永遠に」Op.243-28
29.「涼しい谷間で水車が廻る」Op.243-29
30.「〈ノルマ〉のアリア」Op.243-30
31.「こがね虫がとんでいる」Op.243-31
32.「アルマ川の雪がとけたら」Op.243-32
33.「〈フィガロの結婚〉より」Op.243-33
34.「君は30歳そこそこだろう」Op.243-34
35.「散歩する兄と妹」Op.243-35
36.「おやすみなさい」Op.243-36
37.「昔、昔有るところに1人の男がいました・・・・・・さあ、話をはじめますよ」Op.243-37
38.「波を越えて進む船、フリードン」Op.243-38
39.「漁船に乗って」Op.243-39
40.「私は鳥刺し」Op.243-40
41.「〈ドン・ジョヴァンニ〉のメヌエット」Op.243-41

空色の車に因んで
1.「空色の小さな花がいった。私にやさしく、私を忘れないで」Op.243-1



大美食協奏曲

2024-03-04 20:52:00 | 現代
実家の梅が咲きました。
これが満開かな?
なんだかいつも寂しい気がする梅です。

土曜日は長男が栗東からやって来て、夫と次男の病院にお見舞い。

一回2人までなので、洗濯した着替えを持って行ってもらいました。

鯖寿司やジャコを持って行ったらしいです。
しっかりお昼食べた後に食べれるのかな?と思っていたら食べたらしいです。

夕方実家で夕食を食べました。
栗東で近江牛…諸事情により純正品ではないですが…主に経済問題…で、すき焼き。

「早く帰りたくなるように、次男に写真送ったら。」と、夫が言うので送りました。
「かえってきたら、お肉アップグレードしてやる。」と夫の言葉を添えて…。
すると「お肉はいい、お寿司がいい。」

いいでしょう。治ったらね。
いつものように回転寿司だけど。
我が家の大美食大会はこんなものです。


日曜日はいちご大福と、抹茶外郎(ういろう)を夫と私、次男で食べました。
3月3日なので夕飯にはちらし寿司とひなあられが出たそうです。

サー・マルコム・アーノルド (1921-2006)イングランド ノーザンパーク生まれ、イングランド ノーフォーク没

「食べる人、ウェイター、食べ物、そして大規模オーケストラのための大美食協奏曲」作品 76

この曲は、1961年ホフヌングのフェスティバルのために書かれました。
アーノルドはそのような機会のためにいくつかの作品を作曲しましたが、それは多くの場合非常に楽しいものでした。

プロローグ 牡蠣
Prologue. Maestoso - Oysters. Moderato - Vivace
ファンファーレで、進行を開始します。小さな行進に合わせてウェイターとイーター(客)が入場します。

牡蠣が提供され、音楽は「英雄的な警笛の声」とともに海の景色に変わります。最高潮に達した後、ウェイターが牡蠣の殻をカスタネットとして使い、スペイン風の短いダンスを踊ります。

II.スープ Soup (Brown Windsor). Maestoso - Allegro vivace
「スープ (ブラウン ウィンザー)」はファンファーレの静かな​​再演奏で始まり、その後分厚いワルツに変わります。

III. ローストビーフ
Roast Beef. Nobilmente
アドリブで繰り返されるエルガリアン風(エルガーの信奉者)のある行進曲に基づいて作られています。

Ⅳ「チーズ」 Cheese. Maestoso
ファンファーレで始まる短い楽章です。ウェイターがチーズを開けると爆発します。

Ⅴ「ピーチ メルバ」
Peach Melba. Moderato e molto espressivo
言葉のないボーカリストは、ハープの伴奏に合わせてグノーの「アヴェ・マリア」を歌い、 「クラヴィーア曲集」第 1 巻からバッハの最初の前奏曲を演奏します。ソロのビブラフォンが天上の品質をもたらすために投入されます。

Ⅵ最終楽章「コーヒー、ブランデー、エピローグ」 Coffee, Brandy, Epilogue. Allegro moderato
オーボエのソロによるエキゾチックなダンスから始まります。
ブランデーは「巨大なバルーングラス」で提供されます。イーターは休暇を取ります。すべてがうまくいっているように見えますが、完全にそうではありません。
ウェイターはチップを探しましたが、何もないことに気づき、テーブルを蹴って立ち去ったからです。








ファンダンゴと呼ばれる踊り

2024-03-03 21:00:00 | 古典
次男と食べました。

「食事はどう?」と聞いたら
「結構うまい。」

と聴いて、デイルームに貼ってあった献立表を映しました。
面会15分、一回2人まで。

「リハビリめっちゃ痛いわ。」
「そうか。大変やな。」
洗濯物を持って帰りました。

ファンダンゴ(Fandango)はスペイン起源のダンス、またはそれとともに歌われる歌あるいは音楽。特にフラメンコで男女ペアで踊るダンスが有名です。

元来はギターと手拍子またはカスタネットで伴奏する活気あふれるダンスで、英語などではその様子から派生した「馬鹿騒ぎ」の意味でも使われます。元は6/8拍子で、その後3/8拍子、3/4拍子にもなりました。

ポルトガル起源とも言われ、18世紀始めのスペインの記録にも思えます。18世紀末にはスペインのみならず全ヨーロッパで知られ、バレエやオペラにも取り上げられました。

クラシック音楽でも、モーツァルトの『フィガロの結婚』を始め、多数の作品に残っています。

現在はスペイン、ポルトガルのほか、かつてスペインの植民地だったフィリピンなどでもダンスとして残っています。
また、メキシコ南部のベラクルス州では、 人々が集いダンスを踊り楽器を奏で歌を歌う、コミュニティ全体で祝うパーティのことを「ファンダンゴ」と呼び、 人々はベラクルス州伝統の音楽であるソン・ハローチョの演奏に合わせ、サパテアドを踊ります。

毎年初夏、ベテランズ・デーの頃、アメリカ合衆国のサンディエゴとメキシコのティフアナの間の国境の金網越しに、両国のあらゆる音楽を交換し合うFandango at the Wall(スペイン語: Fandango Fronterizo)が2008年以来開かれています。
この場合、ファンダンゴは「楽しい集まり」のような意味で使われています。

ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccherini, 1743- 1805年)は、トスカーナ公国・ルッカ生まれ、スペイン王国マドリード没

は作曲家、チェロ奏者です。

当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれます。
父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者でした。彼や、ルッカ大聖堂楽長のドメニコ・フランチェスコ・ヴァンヌッチらからチェロを学び、13歳でデビューを果たしました。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得ます。

父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行います。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエル「宗教音楽演奏会」で成功を収めるなど、名声を極めます。

1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子


付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送りました。

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)

1785年ドン・ルイス皇子の死去後は作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたらしいです。

晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去りました。

ギター五重奏曲第4番ニ長調 G.448は、アマチュアのギタリストであり、1796年からボッケリーニのパトロンであったブナバント侯フランシスコ・ボルハ・デ・リケル・イ・デ・ロス (Francisco Borja de Riquer y de Ros) のために作曲されたものです。

これらの作品のほとんどはボッケリーニ自身が作曲した室内楽曲の編曲であり、この第4番も第1楽章と第2楽章が弦楽五重奏曲ニ長調Op.10-6 G.270の第1・第2楽章の、第3楽章と第4楽章が小弦楽五重奏曲ニ長調Op.40-2(50-2) G.341の第1・第2楽章の編曲となっています。

ボッケリーニはドン・ルイス王子の招きにより1749年からスペイン宮廷に仕えて以来、終生マドリードに住んでいました。この作品の第4楽章「ファンダンゴ」はボッケリーニがスペイン音楽の語法を作品に自らの楽曲に取り入れた一例といえます。

ボッケリーニが作曲したギター五重奏曲のなかで、もっとも人気のあるもののひとつになっています。

特に第3楽章と第4楽章は『序奏とファンダンゴ』の題で、ギター・アンサンブルやピアノとギターの二重奏など様々な編曲でクラシックギター奏者に親しまれています。

第1楽章 Pastorale
第2楽章 Allegro maestoso
第3楽章 Grave assai
第4楽章 Fandango

茶団子、チャダンゴ、ダンゴ、ファンダンゴ…バンザーイ🤣



世界遺産「雲中供養菩薩」の演奏

2024-03-02 21:00:00 | 日本
平等院に行ってきました。
牧野から1時間ほど電車に乗れば、着くのですが、なかなか行けません。
小学校の写生会で行った覚えもあるところです。

10円玉の建物は平等院鳳凰堂のこのアングルです。

年末にGさん、Mさんに伏見稲荷に誘われたのだけれど、骨折していたため参加できずお断りしたのに、また、懲りずに誘ってくれたのでした。

その間にコロナにかかり、次男が骨折したので「ついでに八幡で厄落としもしたら良いよ。」と、誘ってくれたのでした。

曇っていましたが、宇治橋から見た宇治川。

中は写せませんが、池の向こうの2階の丸窓から阿弥陀如来坐像さまのお顔が見えるようになっています。
1053年藤原頼通によって建てられました。


中には阿弥陀如来坐像を中心に頭上に絢爛豪華な美しい天蓋と壁には52躯の雲中供養菩薩像がいらっしゃいます。
これも写せませんがクリアファイル買って帰りました。

これは黒くて地味ですが、当初は豪華な色がついていました。
すべて檜で彫られているそうです。

柱にも極彩色の柄が描かれているそうです。
なぜこの柄を買ったかというと、菩薩様の1人が笛を吹かれているからです。

もう一枚はやっぱり

雲中供養菩薩像は人が亡くなる時、天上から楽器を演奏しながら菩薩たちがやってきて天上世界に迎え入れられる。という信仰に基づいて作られています。

当時の楽器の姿が見られます。

箏(そう こと)


曲頸(きょっけい)琵琶

腰鼓(ようこ)


揩鼓(かいこ、すりつづみ)
 
この楽器は、皮をこすって音をだしますが、現代中国にももう失われて、正倉院に一つ残されているだけだそうです。

鼓、

排簫


簫、鈴、

鉦鼓(しょうこ)

桴(バツ)、
鐃鈸

編鉦、
箜篌(クゴ)、



拍板

、笙、鼗、楽太鼓。

『信西古楽図』(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵) 図の右上の楽器は写真で紹介された腰鼓、その下には揩鼓が描かれています。

日本に伝えられて平等院鳳凰堂に響くことになるのは、下の地図の赤丸のあたりにある涼州*(りょうしゅう)という所の「西涼楽(せいりょうがく)」、それにさらに西方の音楽が融合した「胡部楽(こぶがく)」とよばれる音楽なのだそうです。

*現在の中国甘粛省武威市


敦煌第220窟壁画


敦煌の壁画に同じような楽器が描かれています。

シルクロードが日本まで繋がっていたことを彷彿とする世界遺産です。

「越天楽」は唐楽と言われる
雅楽の曲の中では最も有名な曲です。舞はかつて存在したが廃絶し、曲のみ伝わっています。

楽器は正式には龍笛、篳篥、笙、箏、琵琶、鞨鼓、鉦鼓、楽太鼓の8種類で合奏されます。

唐楽の曲で古くは曲名を「林越天」また「林鐘州」とも称しました。

『楽家録』では中国前漢の皇帝文帝
の作曲、「一説」に高祖劉邦の軍師張良

の作であると伝えられています。(巻之二十八・楽曲訓法、巻之三十一・本邦楽説)

しかし日本で作られた曲ともいわれ、実際のところその由来については定かではありません。
本来は盤渉調の曲だったといわれていますが、『和名類聚抄』では平調の曲としています。

『扶桑略記』康保3年(966年)10月7日の条には、宮中で公卿たちが退出するとき「越殿楽」が奏されたとあり、また古くは法会の際に、盤渉調の曲として用いられていました。

『扶桑略記』
平調の『越天楽』に、

「春の弥生の曙に 四方(よも)の山辺を見渡せば 花盛りかも白雲の かからぬ峰こそ無かりけれ」慈円(1155-1225年)

の歌詞をつけて唄うのが『越天楽今様』(えてんらくいまよう)です。

鳳凰堂の雲中供養菩薩が持つすべての楽器があるわけではないですが、雅楽の「越天楽」が966年には日本で演奏されていたことから

このような音楽を菩薩が演奏すると考えられていたかもしれないと想像するのもそう遠くないと思うのです。