円覚寺を拝観した後、どうしようかなとちらっと迷ったけれど、やっぱり
梅を観賞しようと東慶寺まで足を延ばした。迷うも何もないほどすぐ近くなのにね。
山門を見上げ、横の白梅を眺めるとああ来てよかったと。
境内にある東慶寺の梅の枝があまりに奇怪なので、ちと気持ち悪いななんて
罰当たりな感想を抱いているうちに、ずっと以前Eテレ美の壺「梅鑑賞の方法」があったよなと思い出してきた。
うっすら覚えていたのよ。
検索してみると行き当たった。抜粋とあって、そのまた抜粋。お借りしました。
一の壺 : 咲きはじめに見ごろあり
桜は満開を鑑賞するが、梅は違う。
梅の花の一輪一輪を楽しむためには、ちらほら咲いたようなときに鑑賞していただきたい。
可憐のなかにも力強さを秘めた咲きはじめの花、それこそが、梅の真骨頂。
二の壺 : 枝ぶりが作る老成の美
室町時代の絵師・狩野永徳の「四季花鳥図襖」の春の場面の主人公は梅の老木です。
のたうつようにくねる、太い幹。ピンと伸びる枝は何度も「く」の字に折れ曲がり、
複雑なシルエットを生み出しています。
老木の威厳ある姿は花のかれんさと相まって尊ばれてきました。
太い枝がまばらにある。肌がごつごつしている。幹や枝が斜めになっている。
そういう老木の姿は古来「疎痩横斜(そそうおうしゃ)」という言葉で表され、尊ばれてきた。
長寿への憧れを梅に託してきたということじゃないですかね。
三の壺 : 歩いて愛でる色模様(梅林鑑賞のことなので省略です)
(山門横の白梅)
この日の東慶寺の梅はまさに「一の壺」「二の壺」そのものだわ、
とは帰ってきてからの復習で知った知識。
そうか、あの枝ぶりは「老成の美」と捉えねばいけないのよね。はい。
でもでも横須賀線ホームから見た家の紅梅にほっとしたのも、ほんと。
なんて罰当たりな感想を抱くも、帰ってからEテレ美の壺「梅鑑賞の方法」復習すれば、のたうつようにくねる太い幹と何度も「く」の字に折れ曲がるもピンと伸びる枝のシルエット。老木の威厳さと花のかれんさ。
「そうか、あの枝ぶりは「老成の美」と捉えねばいけないのよね」
「でもでも横須賀線ホームから見た家の紅梅にほっとしたのも、ほんと」
姫の心象表現は、清々しく リアル過ぎて絶句。すげぇっちゃ。
第139段:家にありたき木は、松・桜。梅は、白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめできも、皆をかし。藤原定家は、一重梅を、軒近く植えられたりける。
第152段:腰屈まり眉白い上人の内裏への参上に対する某大臣の尊敬の念を見て、資朝卿〔すけともきょう〕後日、痩せ衰えた犬を従者にひかせ、「この犬は尊く見える」と大臣邸へ参らせた。
第154段:ノーコメント。
139段だけが辛うじて理解できます。