おはようございます。
先日、葉山の神奈川県立近代美術館で開催されている、没後90年/萬鐵五郎展をみてきた。帰宅してから、録画しておいたNHKの”日曜美術館/最先端を走った鉄人、萬鐵五郎の格闘”をみたら、なるほどとガッテンしたことが多かった。
ということで、テレビの映像を借用しながら、展覧会を振り返ってみたい。
萬鐵五郎(1885-1927)は、岩手県の土沢(花巻市)に生まれ、上京し、早稲田中学に学び、白馬会で素描を学んだ。21歳のとき、臨済宗円覚寺派の宗活禅師に従って、アメリカ西海岸のバークレーに渡る。対岸のサンフランシスコの美術学校で修業するつもりだったが、サンフランシスコ地震のため、生活が困窮し、数か月で帰国する。結局、東京美術学校に受験し、首席で入学することになる。先生はあの黒田清輝。はじめは”優等生”で、優美な”婦人像”を描いたりしていた。まず、その絵からどうぞ。
婦人像(1910)

黒田先生の名作、”湖畔”と並べてみると、雰囲気がそっくり。先生にも高評価されたでしょうね(笑)。

その頃、パリでは後期印象派の時代に入っていて、このような絵は古くさいとされ、萬も次第に、フォーヴィスムの影響を受けるようになる。卒業制作の”裸体美人(1912)”は、この影響を受けた作品で、顔はマチス風、野草はゴッホ風になびく。

当時、日本に紹介されていた、ゴッホの”道路工夫たち”

マチスの”アルジェリアの女”

先生の名作と並べてみると、”裸体美人”には優美さのかけらもないし、エロチズムも感じられない。先生の逆鱗にふれて(ぼくの想像)、一番で入学したものの、19人中16番で卒業する。萬としては、優美さよりも女性の原始的な力強さを表現したかったようだ。ぼくは”芸術家”ではない、と言っていた。

その頃の作品。太陽の麦畑(1912)。

仁丹とガス灯(1912)

ガス灯(1913)

そして、自画像。
雲のある自画像(1912-13)

赤い目の自画像(1913)

そして、故郷の岩手県土沢に帰り、作画だけに全精力をつぎこむ。はじめ写実的な自画像も次第にデフォルメ化し、究極のキュビスムに。
自画像(1915)

この絵も、ピカソの”アビニオンの娘たち”の右端の女によく似ている。


故郷のお神楽の面にも類似性がある。

もたれ立つ人(1917) 日本の近代絵画のなかで、キュビスムの最も早い作例の一つと評価されている。

この時代、風景画も描いているが、故郷のこの赤土と緑がベースの色彩となっている。

筆立てのある静物

10年前の没後80年の展覧会を茅ヶ崎市美術館でみているが、そのときの展示も、東京美術学校の卒業制作”裸体美人”で提示されたフォーヴィスムの時期、つづいて、郷里の岩手県土沢の”もたれて立つ人”に代表されるキュビスムの時期、そして病気療養のため茅ヶ崎に転居した大正8年(1919)以降の、伝統的な南画に傾倒した時期の3期に分けられていた。
では、ここで、一旦、休憩ということで、茅ヶ崎時代は次回にしたいと思います。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!