6月19日の中日新聞の夕刊「紙つぶて」というコラムに愛知淑徳大学長の島田修三さんが「昔の父親」というタイトルでコラムを書かれていました。
六月第三曜日は父の日、私も成人した子どもたちからプレゼントをもらった。とりあえず父親の存在を忘れないでいてくれるらしい。今の若い父親は母親のような近距離で濃密に子どもに接している節があるが、世代のせいか、私などは照れくさい。忘れられない程度に距離を置くのが性に合っているようだ。
今は亡き人気作家、池波正太郎に、少年時代に生き分かれになった父親のことを書いた随筆がある。
大正十二年一月の雪の日、池波は浅草聖天町の自宅で生まれた。綿糸問屋番頭の父親はたまたま家にいて朝から酒を飲んでいた。酒が切れたので臨月の妻に近所で買ってくるよう頼んだら、酒屋で産気づき、あわてて家に帰った。
助産婦が駆けつけて、無事に最初の男の子が生まれた。池波である。
「男のお子さんですよ。顔を見てあげてください」と彼女は二階の父親を大声で呼んだ。すると父親は「今日は寒いから、明日、見ます」と答えたというのである。
助産婦は大いに憤慨した。
しかし、父のこういうところが好きだ、と池波は懐かしさをこめて書いている。私もこの話は好きだ。とんでもない父親だが、いかにも昔の男の不器用な照れや偏屈なプライドが妙にユーモラスでもある。照れて肩肘を張った男が、バカだなあ、俺は、と独りつぶやく声が聞こえてくるようではないか。
以上です。
あほらし、日本の男は子どもですね!幼稚そのものです。自分の立場だけでものを考えていて、相手の大変さを思いもしない。
奥様が死ぬ思いでお子様を生んだのに、「よくやった」と、感謝するよりも自分の照れや偏屈なプライドを優先させている。
池波さんも、この大学長も、父親の不器用な照れと偏屈なプライドに共感している。
これだから、日本の男は駄目だ!(苦笑)
言葉を発しなければ、思いは相手に伝わらない、言わなくても分かるなんて傲慢だと思います。
目覚めた時には晴れていた 朝倉理恵
六月第三曜日は父の日、私も成人した子どもたちからプレゼントをもらった。とりあえず父親の存在を忘れないでいてくれるらしい。今の若い父親は母親のような近距離で濃密に子どもに接している節があるが、世代のせいか、私などは照れくさい。忘れられない程度に距離を置くのが性に合っているようだ。
今は亡き人気作家、池波正太郎に、少年時代に生き分かれになった父親のことを書いた随筆がある。
大正十二年一月の雪の日、池波は浅草聖天町の自宅で生まれた。綿糸問屋番頭の父親はたまたま家にいて朝から酒を飲んでいた。酒が切れたので臨月の妻に近所で買ってくるよう頼んだら、酒屋で産気づき、あわてて家に帰った。
助産婦が駆けつけて、無事に最初の男の子が生まれた。池波である。
「男のお子さんですよ。顔を見てあげてください」と彼女は二階の父親を大声で呼んだ。すると父親は「今日は寒いから、明日、見ます」と答えたというのである。
助産婦は大いに憤慨した。
しかし、父のこういうところが好きだ、と池波は懐かしさをこめて書いている。私もこの話は好きだ。とんでもない父親だが、いかにも昔の男の不器用な照れや偏屈なプライドが妙にユーモラスでもある。照れて肩肘を張った男が、バカだなあ、俺は、と独りつぶやく声が聞こえてくるようではないか。
以上です。
あほらし、日本の男は子どもですね!幼稚そのものです。自分の立場だけでものを考えていて、相手の大変さを思いもしない。
奥様が死ぬ思いでお子様を生んだのに、「よくやった」と、感謝するよりも自分の照れや偏屈なプライドを優先させている。
池波さんも、この大学長も、父親の不器用な照れと偏屈なプライドに共感している。
これだから、日本の男は駄目だ!(苦笑)
言葉を発しなければ、思いは相手に伝わらない、言わなくても分かるなんて傲慢だと思います。
目覚めた時には晴れていた 朝倉理恵