大阪城天守閣
大阪城内堀
石垣の巨石
1月17日 大阪の旅も最終日になってしまいました。今日は、半日大阪城です。
森ノ宮駅のコインロッカーに荷物を預けて出発。改札を出ると、
ピースおおさか(大阪国際平和センター)があります。入りませんでした。 一番櫓
一番櫓 蓮如上人袈裟懸けの松
桜門
桜門、入口から 巨石、108トン、36畳(60㎡)、桜門を入ったところ
ミライザ大阪城、このけったいなネーミングの建物はかつて旧第四師団司令部庁舎で、もと大阪市立博物館だった
とか、今はレストランなどが入っているそうです。
残念石 金明水井戸屋形
天守閣入口、600円 以下数点、天守閣からの景色
屋形船 大阪城ホール
アベノハルカス
大阪迎賓館 日経新聞旧社屋(旧大阪砲兵工廠化学分析場)
六番櫓 修道館
天守閣内3階は撮影禁止です。
金蔵 天守閣裏に無縁仏回向供養塔と神社がひっそりあります。
青屋門 極楽橋
狛犬 高橋口枡形巨石
豊国神社 秀吉像
秀吉庭 大手門
刻印石切り場の写真は撮ったと思ったのですがありませんでした。敷地は、広いです。行き止まりの場所や見所の
説明版がないなど案内が不親切でした。見落としたところがいくつかありました。
新大阪発東京行きの新幹線は多数あるので、時間を気にしないで済む自由席が良いです。車内はかなり混んでい
ました。今回は、短い期間でしたので大阪のほんの一部しか散策できませんでしたが、天候にも恵まれ楽しみまし
た。大阪の雰囲気を少しは味わえた思います。宿も、メトロの四つの駅の真ん中あたりにあり、便利で良かったで
す。でも、近くに、スーパーはありませんでした。
次回は、少し郊外にも足を延ばしたいと思いました。
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大阪の寺街はとてもユニークでした。寺町と表現すると番地名のような気がしたので、寺街としました。
日経電子版引用
この一帯は、圧倒的に浄土宗の寺が多く、この地図の上部欄外は日蓮宗の寺が多かったです。湖北地方や全国的には浄
土真宗の寺が多いのですが、私が歩いたところでは真言宗、禅宗系の寺もありましたが少なかったです。
大阪府にある寺院数は3289、京都府(3026)や奈良県(1785)を上回り、愛知県(4598)に次いで全国2位だそうです。寺院の
密度でみると1平方キロメートルあたり1.73と、一番だそうです。
現在の大阪の街は、石山本願寺の寺内町から発展した宗教都市ともいわれます。
応仁の乱以降、荘園制の崩壊に伴い、武家の台頭と同時に時代の転換点の中で社会的、経済的に進んだ畿内、東海、北陸
地方で一向宗・浄土真宗徒が一大勢力となり、守護大名の領国支配と対立し、一向一揆が起こりました。特に、90余年に
わたって加賀一国を支配した一揆は戦国大名を大震撼させました。戦国大名にとっては、一向一揆は最大の難題でした。
織田信長は大阪城本丸の地にあった石山本願寺と11年間にわたる石山合戦をしました。本願寺は破れ、石山本願寺は廃
絶しました。その後、豊臣秀吉の時代になって、交通の要衝であり、四面河川に囲まれた要害の地に彼は大阪城を築くこ
とにしました。南側の守りが手薄だったので、城下に点在していた浄土真宗以外の仏教寺院を大坂城の南側および天満
の北縁に移転させ、寺町群を作ったといわれます。
一向宗と浄土真宗の言葉については諸説あるようですが、一般的にはほとんど同義で問題ないようです。時代によって
呼び方が異なる、で構わないようです。私は、昔は一向宗、現代は浄土真宗と使っています。
戦国大名と一向宗・比叡山などの宗教勢力との衝突の評価、そして宗教勢力は決して農民だけでなく武士階級も含まれ
ますが、なぜ民衆に支持され、一大勢力となったのかなどは、私の手には負えません。そして、織田信長が比叡山延暦寺
焼き討ちや一向宗などの宗教勢力排除の大戦闘をしたのは、宗教排除の近世的合理主義の歴史的進歩だったとは私は
単純には思えません。また、三河一向宗に手を焼いた徳川家康は、彼らとは大戦争はしなかったそうですが、これは二人
の思想的違いというより、畿内と三河の地政的事情があるだろうな程度しかわかりません。
湖北地方の農村集落には浄土真宗の大きな寺がまるで鎮守のように鎮座していました。大阪の街を歩いていて、絶えず
浮かんだ疑問でしたが、私は、この問題を深く掘り下げる気はあまりありません…。
いずれにしても、楽しい旅でした。もう少しのんびり旅をしましょうと、いつも思うことですが…。【大阪の旅終わり】