4月28日(日) スエズ運河航行
楽しみにしていた、スエズ運河の航行です。
前回のピースボートでは、スエズ運河の紅海側入り口サファガからオーバーランドツアーに参加しました。
ルクソールやギザのピラミッドなどを観光し、バスでスエズ運河の脇を通って、ポートサイドで船に合流したのでした。
私はぜひスエズ運河を通りたいと思っていたのです。
全長193.30、km深さ24m、幅205mのこの運河は、中東の平和と戦争を見つめてきました。
早朝朝4時頃、スエズの運河入り口付近で待機していた船のエンジンが始動し始めました。
当たりは、真っ暗ですが、満月の明かりと、スエズの町(サファガ)の灯が灯っていました。
5時ちょっと前白みかけた中、船が動き始めました。三番目の出発で、丸一日スエズの航行を明るい時間にたっぷり堪能しました。
諸所に見張り・監視塔などがあり職員が警備し、手を振ってくれます。
スエズ運河の両側ともエジプト国内なのですが、進行方向左側は、木々が茂り、農地や家々があるのですが、
右側は、ほとんど緑の無い荒涼とした砂丘の風景が不思議でした。植林も行っているようです。
スエズ運河は、巾は300メートルほどのところもあり、広い中海もあり、途中何カ所かで船が交差することも出来るそうです。
200メートル毎にスエズからポートサイトまでの距離が記された標識が設置されています。
この巨大な橋は、エル・フェルダン鉄道橋と言い、世界最長の旋回橋だそうです。
暑い中、クルーはキャビンの窓を掃除していました。【以下なぜか、カメラの設定がモノクロになってしまいました。】
遭難した船 排水官
スエズに架かる唯一の橋で、日本の援助で出来たそうで、エジプト・日本友好の橋と言うそうです。
ここはもう地中海側の入り口・ポートサイドです。
船を桟橋に着けるタグボートです。
桟橋です。
当初、ポートサイドには深夜22時頃入港の予定でしたが、早まり、午後3時前に入港し、4時には下船が可能となりました。
入港予定が深夜なので、私は翌日はアレキサンドリアへのツアーに申し込み、ポートサイドの町の地図や情報は準備しませんでした。
レセプションからはポートサイドの地図の提供も無く、ピースボート事務局も「リフレッシュディ」のため閉鎖されていて、
“地球の歩き方”の本の貸し出しもコピーサービスもありませんでした。
事情が変わったのですから、地図を準備するとか、本の貸し出し=コピーサービスをするべきだと私は抗議したのですが、
「自己責任」の一言で終わりでした。
港の出口を出たところがポートサイドの中心地なので、その周辺だけを散歩するのであれば地図は不要でした。
でも、詳しい地図があれば、もっと自由に安心してポートサイドの町歩きを楽しめたはずです。
私は、ピースボート・ジャパングレースは決められた以外の臨機応変のサービスが出来ないのだなとつくづく思いました。
ポートサイドの町は、特別な特色・観光スポットはありませんでした。
約1時間ほど歩いていくつかのモスクと教会を見、その後港周辺のお土産屋をぶらぶらと覗きました。
地図が無いので、撮った建物の名前はわかりません。
ポートサイドの街
乗り合いバス 木の下の白い部分は、夜間車の光りが当たると木とわかりやすいそうです。
右の窓が私のキャビン
スエズ運河は雄大でした。
フランス人レセップスによって開発されたスエズ運河は、1869年開通しました。
完成当時は、巨額の建設費と利用船舶の少なさで経営が難しかったそうです。
1875年、対外債務返済のためにエジプトはスエズ運河会社の株式を手放すざるを得ませんでした。
ここでも、悪名高いイギリスが登場します。
イギリスはどさくさに紛れて株を取得し筆頭株主となり、以後権益を守るためと称して軍隊を駐留させました。
第二次世界大戦後も、イギリスはこの地に居座り続けました。
その後も、スエズ運河は様々な危機と困難を迎えました。
シナイ半島の向こうには、イスラエルがあり、今日なお緊張が続いていますし、
エジプト、アラブの春はムバラク独裁政権を倒しましたが、私達が船旅を楽しんでいる間に、軍事クーデターが勃発しました。
スエズ運河は雄大で穏やかでしたが、今なお平和で安全とは言えない苦しみを抱えているのでした。
私は、カメラの扱いを失敗し、モノクロとなってしましました。
4月29日(月) アレキサンドリア
ポートサイド二日目です。
アレキサンドリアは、マケドニアの英雄アレクサンドロスのよって紀元前330年頃築かれました。
その後7世紀にわたり世界最大の図書館を擁する古代世界の学術の中心として栄えました。
古代ローマのカエサルもこの地を訪れました。クレレオパトラとアントニウスは、ローマのオクタヴィアヌス
(カエサルの後を継いだローマ初代皇帝アウグストゥス)に破れ、後衰退していきました。
この地で2000年も前に一大歴史スペクタクルが繰り広げられた地にいると思う興奮しました。
ポートサイドから、カイロやアレキサンドリアへは、バスで片道3~3.5時間かかります。
私は、アレキサンドリアを訪れるツアーを無条件で選びました。
出発は早朝6時頃です。朝食を船内で取れる時間は無いのでバスの中で簡単なパンとバナナとジュースの弁当でした。
早朝のポートサイド港
問題は、便通です。最近の私は、朝食前に排便があるようになったので助かります。
途中トイレ休憩はありませんでした。10時頃、アレキサンドリアに着き、アレキサンドリア国立博物館を見学しました。
思っていた以上に小さく、非常に有名な物も特にありませんでした。 [中は撮影出来ません]
私たち以外の見学者はほとんど無く、見学時館は45分ほどでしたがそれで十分でした。
その後、ポンペイの柱の遺跡を見ました。
一本の柱がきれいに残っているのですが、後は痛んでいて、当時の様子はうかがい知ることは出来ません。
遺跡近くで子どもがたこを揚げていました。
その後、イスラーム時代に作られた、カーイトゥベーイの要塞を見学しました。
以上で、アレキサンドリアでの観光は終わり、1時半頃、エジプト料理のランチでした。
アレキサンドリア市内の道路は、車で身動きできないほどの混雑で、大変な渋滞の中、バスで市内を観光しました。
それでもたいした遅れも無く帰路につきました。
ところが約2時間ほど走って、突然、トラベル・ポリス(=TPと略、観光警察)が、バスを止め、ガソリンスタンドへ誘導しました。
給油が終わってもバスは出発しません。「暫く時間調整」すると説明がありました。
そのすぐ後、「この先でデモが行われているため、TPの指示でこの場で待機します。」と添乗員から告げられました。
エジプトのツアーでは、このTPが最高の権限を持っています。
観光客の安全と効率良いツアーをするために、何十台ものバスを連ねるコンボイで移動したりします。
コンボイの先端と後尾は、武装したTPが護送し、先々の交差点では、TPが交通遮断をしてコンボイを優先通行させます。
私達のツアーはバス2台でしたので、コンボイではありませんでしたが、この待機は、約3時間ほど続きました。
いつ交通規制が解除されるかわからないので、有料トイレ(50米セント)を利用しました。
暫くして、ツアー客の間に疲れが出始め、また涼しくなってきたので、ピースボートが客に暖かい茶を提供しました。
ちょうど良いタイミングでした。同時に私たちは、待機時間が短くないことを悟ったのでした。
これが個人で行動していたら大変な事態です。帰船リミットの時間に間に合わないからです。
でも、私達はツアーで船を離れているのですから、船が出航することはあり得ない安心感がありました。
ローカルなデモですから、暴動的デモで無いことも想像できました。
私達は少し余裕をを持って、喫茶店のテーブルに着き現地のエジプト人と身振り手振りと簡単な英語で交流したのでした。
そのうち、オレンジ色の大きなお日様が地平線に消え、当たりは少しずつ暗くなってきました。
TPの人もすっかり打ち解け、記念撮影までしました。
待機して3時間が過ぎ、すっかり暗くなり始めた8時頃、ガイドのマンスールさんが、「神の思し召しで解除されました」と告げた時、
居合わせたエジプト人は拍手をし、私たちに握手をしたのでした。
明るい時は、そこから港までは1時間ちょっとらしいのですが、渋滞と街灯が少なく暗いため港まで2時間以上かかりました。
バスの中で、マンスールさんは、公共の土地を民間に売ることを決定した地元政府に対し、
市民が売却しないで公共の施設を作るべきだと要求するデモだ、と伝えてくれました。
私は、アラブの春は確実な歩みをしているのだなと思いました。
30分ほど走ったとき、消されてたバスの電気が付けられ、近くのお菓子屋さんから「差し入れ」がありました、と伝えられました。
詳しい事情の説明はありませんでしたが、長時間足止めされた私たちに近くのお菓子屋さんが同情してのことだと言います。
蜂蜜漬けされたカステラを、マンスールさんがナイフで小分けしてくれました。
おなかがすいていたので、すごく甘くおいしかったです。
添乗員の羽鳥さんは、「夕食の提供を考えたが、衛生面などの事情を考えると方法がありませんでした」と伝えました。
ポートサイドの町は、10時近くなのに多くの人々が出歩いていました。
日中は暑いので、夕食後家族連れで散歩したり、喫茶店でおしゃべりを楽しんでいるのでしょうか。
港では、船のスタッフやレストランは私たちの帰りを待っていてくれ私達は、本日の夕食カレーライスをいただきました。
レストランの従業員たちは残業にもかかわらず、笑顔で私たちを迎えてくれました。
この思いがけない出来事を私は、2000年以上昔、カエサルやアウグストゥスやアレクサンドロス達がこの地にいたのかと想像し、
このような経験は、望んで出来る物では無いし、などとこの出来事を私は不謹慎ながら少し楽しんでいました。
危険な事態にならなかったから言えることではありまし、私はとても素敵な人を知ったからでもあります。
私たちのバスの添乗員は、GETのコーディネーターの羽鳥さんという若い女性ですが、今日は添乗員を務めていました。
彼女は、実に沈着冷静でした。
ピースボートスタッフは一般的にマニュアル通りのことは出来るのですが、変則事態や危機が起きると臨機応変の対応がとても下手です。
彼女には全く変わった様子はなく、声や話す調子の変化も無く、とても落ち着いて穏やかな口調でした。
余計なことを言わないで必要な情報を的確に私たちに伝えてくれました。若いのにとても優れた力の持ち主です。
彼女の冷静さが、私たち乗客の動揺を小さなものにし、落ち着きを与えたことは疑いがありません。
後日、彼女とたまたま話す機会があり、私がこのことに触れると、
すごいストレスで、無事帰船したときは、どっと疲れが出て、皆さんに十分な挨拶が出来なかったと言っていました。
とまれ、私には、“エジプトの今日”を感じた一日でした。 【続く】
楽しみにしていた、スエズ運河の航行です。
前回のピースボートでは、スエズ運河の紅海側入り口サファガからオーバーランドツアーに参加しました。
ルクソールやギザのピラミッドなどを観光し、バスでスエズ運河の脇を通って、ポートサイドで船に合流したのでした。
私はぜひスエズ運河を通りたいと思っていたのです。
全長193.30、km深さ24m、幅205mのこの運河は、中東の平和と戦争を見つめてきました。
早朝朝4時頃、スエズの運河入り口付近で待機していた船のエンジンが始動し始めました。
当たりは、真っ暗ですが、満月の明かりと、スエズの町(サファガ)の灯が灯っていました。
5時ちょっと前白みかけた中、船が動き始めました。三番目の出発で、丸一日スエズの航行を明るい時間にたっぷり堪能しました。
諸所に見張り・監視塔などがあり職員が警備し、手を振ってくれます。
スエズ運河の両側ともエジプト国内なのですが、進行方向左側は、木々が茂り、農地や家々があるのですが、
右側は、ほとんど緑の無い荒涼とした砂丘の風景が不思議でした。植林も行っているようです。
スエズ運河は、巾は300メートルほどのところもあり、広い中海もあり、途中何カ所かで船が交差することも出来るそうです。
200メートル毎にスエズからポートサイトまでの距離が記された標識が設置されています。
この巨大な橋は、エル・フェルダン鉄道橋と言い、世界最長の旋回橋だそうです。
暑い中、クルーはキャビンの窓を掃除していました。【以下なぜか、カメラの設定がモノクロになってしまいました。】
遭難した船 排水官
スエズに架かる唯一の橋で、日本の援助で出来たそうで、エジプト・日本友好の橋と言うそうです。
ここはもう地中海側の入り口・ポートサイドです。
船を桟橋に着けるタグボートです。
桟橋です。
当初、ポートサイドには深夜22時頃入港の予定でしたが、早まり、午後3時前に入港し、4時には下船が可能となりました。
入港予定が深夜なので、私は翌日はアレキサンドリアへのツアーに申し込み、ポートサイドの町の地図や情報は準備しませんでした。
レセプションからはポートサイドの地図の提供も無く、ピースボート事務局も「リフレッシュディ」のため閉鎖されていて、
“地球の歩き方”の本の貸し出しもコピーサービスもありませんでした。
事情が変わったのですから、地図を準備するとか、本の貸し出し=コピーサービスをするべきだと私は抗議したのですが、
「自己責任」の一言で終わりでした。
港の出口を出たところがポートサイドの中心地なので、その周辺だけを散歩するのであれば地図は不要でした。
でも、詳しい地図があれば、もっと自由に安心してポートサイドの町歩きを楽しめたはずです。
私は、ピースボート・ジャパングレースは決められた以外の臨機応変のサービスが出来ないのだなとつくづく思いました。
ポートサイドの町は、特別な特色・観光スポットはありませんでした。
約1時間ほど歩いていくつかのモスクと教会を見、その後港周辺のお土産屋をぶらぶらと覗きました。
地図が無いので、撮った建物の名前はわかりません。
ポートサイドの街
乗り合いバス 木の下の白い部分は、夜間車の光りが当たると木とわかりやすいそうです。
右の窓が私のキャビン
スエズ運河は雄大でした。
フランス人レセップスによって開発されたスエズ運河は、1869年開通しました。
完成当時は、巨額の建設費と利用船舶の少なさで経営が難しかったそうです。
1875年、対外債務返済のためにエジプトはスエズ運河会社の株式を手放すざるを得ませんでした。
ここでも、悪名高いイギリスが登場します。
イギリスはどさくさに紛れて株を取得し筆頭株主となり、以後権益を守るためと称して軍隊を駐留させました。
第二次世界大戦後も、イギリスはこの地に居座り続けました。
その後も、スエズ運河は様々な危機と困難を迎えました。
シナイ半島の向こうには、イスラエルがあり、今日なお緊張が続いていますし、
エジプト、アラブの春はムバラク独裁政権を倒しましたが、私達が船旅を楽しんでいる間に、軍事クーデターが勃発しました。
スエズ運河は雄大で穏やかでしたが、今なお平和で安全とは言えない苦しみを抱えているのでした。
私は、カメラの扱いを失敗し、モノクロとなってしましました。
4月29日(月) アレキサンドリア
ポートサイド二日目です。
アレキサンドリアは、マケドニアの英雄アレクサンドロスのよって紀元前330年頃築かれました。
その後7世紀にわたり世界最大の図書館を擁する古代世界の学術の中心として栄えました。
古代ローマのカエサルもこの地を訪れました。クレレオパトラとアントニウスは、ローマのオクタヴィアヌス
(カエサルの後を継いだローマ初代皇帝アウグストゥス)に破れ、後衰退していきました。
この地で2000年も前に一大歴史スペクタクルが繰り広げられた地にいると思う興奮しました。
ポートサイドから、カイロやアレキサンドリアへは、バスで片道3~3.5時間かかります。
私は、アレキサンドリアを訪れるツアーを無条件で選びました。
出発は早朝6時頃です。朝食を船内で取れる時間は無いのでバスの中で簡単なパンとバナナとジュースの弁当でした。
早朝のポートサイド港
問題は、便通です。最近の私は、朝食前に排便があるようになったので助かります。
途中トイレ休憩はありませんでした。10時頃、アレキサンドリアに着き、アレキサンドリア国立博物館を見学しました。
思っていた以上に小さく、非常に有名な物も特にありませんでした。 [中は撮影出来ません]
私たち以外の見学者はほとんど無く、見学時館は45分ほどでしたがそれで十分でした。
その後、ポンペイの柱の遺跡を見ました。
一本の柱がきれいに残っているのですが、後は痛んでいて、当時の様子はうかがい知ることは出来ません。
遺跡近くで子どもがたこを揚げていました。
その後、イスラーム時代に作られた、カーイトゥベーイの要塞を見学しました。
以上で、アレキサンドリアでの観光は終わり、1時半頃、エジプト料理のランチでした。
アレキサンドリア市内の道路は、車で身動きできないほどの混雑で、大変な渋滞の中、バスで市内を観光しました。
それでもたいした遅れも無く帰路につきました。
ところが約2時間ほど走って、突然、トラベル・ポリス(=TPと略、観光警察)が、バスを止め、ガソリンスタンドへ誘導しました。
給油が終わってもバスは出発しません。「暫く時間調整」すると説明がありました。
そのすぐ後、「この先でデモが行われているため、TPの指示でこの場で待機します。」と添乗員から告げられました。
エジプトのツアーでは、このTPが最高の権限を持っています。
観光客の安全と効率良いツアーをするために、何十台ものバスを連ねるコンボイで移動したりします。
コンボイの先端と後尾は、武装したTPが護送し、先々の交差点では、TPが交通遮断をしてコンボイを優先通行させます。
私達のツアーはバス2台でしたので、コンボイではありませんでしたが、この待機は、約3時間ほど続きました。
いつ交通規制が解除されるかわからないので、有料トイレ(50米セント)を利用しました。
暫くして、ツアー客の間に疲れが出始め、また涼しくなってきたので、ピースボートが客に暖かい茶を提供しました。
ちょうど良いタイミングでした。同時に私たちは、待機時間が短くないことを悟ったのでした。
これが個人で行動していたら大変な事態です。帰船リミットの時間に間に合わないからです。
でも、私達はツアーで船を離れているのですから、船が出航することはあり得ない安心感がありました。
ローカルなデモですから、暴動的デモで無いことも想像できました。
私達は少し余裕をを持って、喫茶店のテーブルに着き現地のエジプト人と身振り手振りと簡単な英語で交流したのでした。
そのうち、オレンジ色の大きなお日様が地平線に消え、当たりは少しずつ暗くなってきました。
TPの人もすっかり打ち解け、記念撮影までしました。
待機して3時間が過ぎ、すっかり暗くなり始めた8時頃、ガイドのマンスールさんが、「神の思し召しで解除されました」と告げた時、
居合わせたエジプト人は拍手をし、私たちに握手をしたのでした。
明るい時は、そこから港までは1時間ちょっとらしいのですが、渋滞と街灯が少なく暗いため港まで2時間以上かかりました。
バスの中で、マンスールさんは、公共の土地を民間に売ることを決定した地元政府に対し、
市民が売却しないで公共の施設を作るべきだと要求するデモだ、と伝えてくれました。
私は、アラブの春は確実な歩みをしているのだなと思いました。
30分ほど走ったとき、消されてたバスの電気が付けられ、近くのお菓子屋さんから「差し入れ」がありました、と伝えられました。
詳しい事情の説明はありませんでしたが、長時間足止めされた私たちに近くのお菓子屋さんが同情してのことだと言います。
蜂蜜漬けされたカステラを、マンスールさんがナイフで小分けしてくれました。
おなかがすいていたので、すごく甘くおいしかったです。
添乗員の羽鳥さんは、「夕食の提供を考えたが、衛生面などの事情を考えると方法がありませんでした」と伝えました。
ポートサイドの町は、10時近くなのに多くの人々が出歩いていました。
日中は暑いので、夕食後家族連れで散歩したり、喫茶店でおしゃべりを楽しんでいるのでしょうか。
港では、船のスタッフやレストランは私たちの帰りを待っていてくれ私達は、本日の夕食カレーライスをいただきました。
レストランの従業員たちは残業にもかかわらず、笑顔で私たちを迎えてくれました。
この思いがけない出来事を私は、2000年以上昔、カエサルやアウグストゥスやアレクサンドロス達がこの地にいたのかと想像し、
このような経験は、望んで出来る物では無いし、などとこの出来事を私は不謹慎ながら少し楽しんでいました。
危険な事態にならなかったから言えることではありまし、私はとても素敵な人を知ったからでもあります。
私たちのバスの添乗員は、GETのコーディネーターの羽鳥さんという若い女性ですが、今日は添乗員を務めていました。
彼女は、実に沈着冷静でした。
ピースボートスタッフは一般的にマニュアル通りのことは出来るのですが、変則事態や危機が起きると臨機応変の対応がとても下手です。
彼女には全く変わった様子はなく、声や話す調子の変化も無く、とても落ち着いて穏やかな口調でした。
余計なことを言わないで必要な情報を的確に私たちに伝えてくれました。若いのにとても優れた力の持ち主です。
彼女の冷静さが、私たち乗客の動揺を小さなものにし、落ち着きを与えたことは疑いがありません。
後日、彼女とたまたま話す機会があり、私がこのことに触れると、
すごいストレスで、無事帰船したときは、どっと疲れが出て、皆さんに十分な挨拶が出来なかったと言っていました。
とまれ、私には、“エジプトの今日”を感じた一日でした。 【続く】