第7回聴覚障がい者のための塩の道紀行 2007/10/21
今回は、新潟県側を歩くことになった。
歩き始め地点が遠くなったため、白馬村役場前集合は8時と早かった。
白馬村村長がご挨拶をした。
マイクロバスで明星山麓に向かう。
出発前の風景。
明星山
標高1188m、岩はヒスイ。
明星山はロッククライミングのメッカで、この日も三人がトライしていた。
ケアしている人に教えられて肉眼でかすかに見えたが、写真には写らない。
明星山は太古にはニューギニアから分かれたと言われる。
ヒスイは翡翠と書き、また翡翠はカワセミとも読む、それは磨くと川蝉の羽の色になるからと言われる。
明星山の翡翠は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡などでも発掘されている、と言う。
ヒスイのモニュメントと田中欣一さん
高浪の池[周囲1kmの静かな湖]
高浪の池の神社
ここから、山道に入る。
ナメコ
生きているナメコを見るのは初めて。
一昨日雨が降り、道はかなりぬかるんでいた。
最近は人も通らない・下草刈りも行われないため、古道かどうかわからない箇所もあった。
大峰峠の地蔵
昔は、道端にたくさんの地蔵や庚申塚があり、人々の安全を祈った。
立てられた所は行き倒れがあったところが多いという。
今日、人が交通事故で亡くなって立てられるのは地蔵が多いと言う。
ここで、昼食となった。
長野のろう者・難聴者と一緒になった。
ガイド風景
左は要約筆記、右は手話通訳、真ん中は田中さん=今年から携帯マイクとなった。
手話サークルの吉沢さんが草花を紹介してくれた。
[黒モジ、黒花フキおろし=四角い茎の草、紫式部、木通・通草=あけび、などなど]
長命水
弘法大師が開いたとされる。
ここまでは最後尾で歩いたので、
ここから、田中先生と話しながら先頭で歩いた。
田中さんは、
「人類にとってここ百年だけが乗り物の時代で後はずっと歩きの時代だった」
「歩かなくなった民族は衰退する」
「1950年代から山村の崩壊・道の崩壊が始まった」
「廃村・廃校を日本列島に赤で記すと真っ赤になる」
という。
私は、神仏混交・多神教の日本と世界の多数派である一神教について話した。
田中先生のモチーフは良寛上人=土着信仰と言う。
80歳を超えてなお全国を歩いている田中欣一さんである。
今回、歩いた時間距離は短かった。急勾配もあり、また足場が悪かった。
だいぶ肌寒かった。
ウォーキングシューズだったが、トレッキング・長靴の方が良かった。
田中先生は長靴を持参していた。
夕飯風景
この夜は、聞者は私一人、後はろう者で夫婦二組と男性三人だった。
始めはゆっくり話してくれていたが、飲むほどに早口となり後半は大変であった。
明日は早起きでないので遅くまで話した。
アルペン山荘と桜井さんご夫婦[写真を取り忘れた、これは、2006年6月のもの]
昨年までは、里山塾が主催であったが、
今年は、手話サークル・要約筆記サークル・里山塾の共催となったそうだ。
“塩の道紀行”参加者と分かれる時の決まり文句は、
「来年も元気でお会いしたいですね」。
今回は、新潟県側を歩くことになった。
歩き始め地点が遠くなったため、白馬村役場前集合は8時と早かった。
白馬村村長がご挨拶をした。
マイクロバスで明星山麓に向かう。
出発前の風景。
明星山
標高1188m、岩はヒスイ。
明星山はロッククライミングのメッカで、この日も三人がトライしていた。
ケアしている人に教えられて肉眼でかすかに見えたが、写真には写らない。
明星山は太古にはニューギニアから分かれたと言われる。
ヒスイは翡翠と書き、また翡翠はカワセミとも読む、それは磨くと川蝉の羽の色になるからと言われる。
明星山の翡翠は、三内丸山遺跡、吉野ヶ里遺跡などでも発掘されている、と言う。
ヒスイのモニュメントと田中欣一さん
高浪の池[周囲1kmの静かな湖]
高浪の池の神社
ここから、山道に入る。
ナメコ
生きているナメコを見るのは初めて。
一昨日雨が降り、道はかなりぬかるんでいた。
最近は人も通らない・下草刈りも行われないため、古道かどうかわからない箇所もあった。
大峰峠の地蔵
昔は、道端にたくさんの地蔵や庚申塚があり、人々の安全を祈った。
立てられた所は行き倒れがあったところが多いという。
今日、人が交通事故で亡くなって立てられるのは地蔵が多いと言う。
ここで、昼食となった。
長野のろう者・難聴者と一緒になった。
ガイド風景
左は要約筆記、右は手話通訳、真ん中は田中さん=今年から携帯マイクとなった。
手話サークルの吉沢さんが草花を紹介してくれた。
[黒モジ、黒花フキおろし=四角い茎の草、紫式部、木通・通草=あけび、などなど]
長命水
弘法大師が開いたとされる。
ここまでは最後尾で歩いたので、
ここから、田中先生と話しながら先頭で歩いた。
田中さんは、
「人類にとってここ百年だけが乗り物の時代で後はずっと歩きの時代だった」
「歩かなくなった民族は衰退する」
「1950年代から山村の崩壊・道の崩壊が始まった」
「廃村・廃校を日本列島に赤で記すと真っ赤になる」
という。
私は、神仏混交・多神教の日本と世界の多数派である一神教について話した。
田中先生のモチーフは良寛上人=土着信仰と言う。
80歳を超えてなお全国を歩いている田中欣一さんである。
今回、歩いた時間距離は短かった。急勾配もあり、また足場が悪かった。
だいぶ肌寒かった。
ウォーキングシューズだったが、トレッキング・長靴の方が良かった。
田中先生は長靴を持参していた。
夕飯風景
この夜は、聞者は私一人、後はろう者で夫婦二組と男性三人だった。
始めはゆっくり話してくれていたが、飲むほどに早口となり後半は大変であった。
明日は早起きでないので遅くまで話した。
アルペン山荘と桜井さんご夫婦[写真を取り忘れた、これは、2006年6月のもの]
昨年までは、里山塾が主催であったが、
今年は、手話サークル・要約筆記サークル・里山塾の共催となったそうだ。
“塩の道紀行”参加者と分かれる時の決まり文句は、
「来年も元気でお会いしたいですね」。