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まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

日本の路地を旅する

2012年08月28日 | ブログ

日本の路地を旅する・・・・こう書くと、先日亡くなった地井武男さんとか、あるいは舞の海、阿藤快などが出てくる散歩もの、途中下車もののイメージがついてくる。

ただ、ここでいう「路地」というのは、決して路地裏散歩ものではなく、ある種特別な意味を持つ言葉として紹介される。

『日本の路地を旅する』(上原善広著、文春文庫版)。

9784167801960_3ここでいう「路地」というのは、いわゆる被差別のことである。作家の故・中上健次が自らの作品の中で「路地」という表現をしたところから取ったもので、この「路地」を旅するというのは、中上健次へのオマージュの意味合いもあってのことである。

著者は大阪の「更池」というところで生まれ育ったとある。それは大阪のどこかということがまず疑問にあったのだが、だいたいこの辺りというのは特定できる。著者は自らが被差別の出身ということを前提に置いて、日本の各地にある「路地」の今の姿をいろいろと見て回り、その土地の人たちの話を聴いたということで、そのまとめがこの一冊である。

「路地」というか、このところ被差別や同和問題について書かれたものといえば、一方は現在でも続く差別への批判を感情的に、あるいはネチネチと書いたもの、また一方では「利権」という視点から書かれたもので、それこそ地区の住民全てがヤクザであるがごとく描いたものである。どちらにしても、大多数の読者をして被差別、同和問題に対する理解を損ねるばかりか、毛嫌いする、差別を助長するようなものがほとんどと言っていいだろう。

それがこの一冊はそういう感情を抑え(これはあえて抑えているのだろう)、「路地」の成り立ちや歴史について、自ら歩いて調べたことと、文献などで伝わっていることをうまく織り交ぜている。一つのテーマ、こだわりを持った紀行文という読み方もできるし、差別問題の現在のナマの姿を客観的に描き出しているという読み方もできる。「路地」も時代の流れにともなって少しずつ変わりつつあるのも確かで、現在の姿はこういうものかと読み取ることができる。自らの生い立ちや肉親との関わりを小説風に描いた章もあるが、そう難しく構えることもなく読み進めることができる。

被差別の問題はその人の出生地に関することであるが、これに対して著者が投げかけた一節がこちら。

「生まれた環境は選べないのだから、それを嘆くよりも、これからどう生きていくのかが最も重要なことになるのではないだろうか。自らの不幸の原因を差別や貧困、障害、家庭事情に求めることもできるだろう。しかし自分がどのような知識を得るのか、そして誰に出会い、選択し決断していくのか。人それぞれに違うもので、そこに生い立ちが関係していたとしても、選択は自分にある」

これは被差別の問題にとどまらず、さまざまなことに言えるのかもしれない。差別されているからと自らの可能性を否定したり、あるいは「できないことの言い訳」にするのもどうだろうか。厳しい表現ではあるが、これから「差別のない社会を」ということで取り組むうえでは、一人一人の気の持ちようもかなり影響してくるということだろう。

本書は「路地」がその街に誕生した経緯についても触れており、それも歴史の一面とも言えるだろう。江戸時代の各地の藩主が産業発展のことも狙って、特殊な技能を持つ一団を無理やり城下町に住まわせたことから、いつしかそこが「路地」ということで差別対象になったり、藩と藩との間に住まわせることで国境を行きかう人々に対するスパイの役割を担ったり。決して教科書では触れない側面についても、歴史の事実として紹介されている。本書では「更池」以外は名前は伏せられているが、「ああ、あそこのことだな」と特定できる人たちが結構いるかもしれない。

うーん、これは学生や新社会人が、仕事をするうえで避けて通れない問題として本書を読んで感想を述べ合うとか、自分ならどう生かしていくかということを討議する、というような使い方が似合っているかもしれない。次年度の新社員研修で使ってみようかしら・・・・。

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