近江八幡の豊年橋の横に大きな看板が立つ「元祖」水郷めぐりの乗り場に着く。10時の出発には少し早いなと思いつつ9時半頃に着いたのだが、係りの人から人数と名前を訊かれる。準備ができたら名前を呼ぶとのことで、しばらく待つ。茅葺き屋根の建物の軒先が待合室で、壁には多くの有名人の写真が飾られている。「元祖」だからか、結構古い写真もあり、鬼籍に入られた有名人が写っていたり。最近のもので目を引いたのは、元大関琴欧洲の鳴戸親方。「鳴戸」と書かれた色紙もある。
この時間待ち合いには、事前予約の貸切客は一組いたが、乗り合い船を利用するのは先に来ていた夫婦客。3人で行くのかなと思うと、両親と娘さんの3人が来てこれで6人。時刻は9時40分だが、船は6~8人が定員のため、これで一艘仕立てて出ることになった。揺れる小舟に乗り込む。その後でもう一人男性客が追加となり、合計7人で出発。定時の10時より20分早いが、小舟での運航ならその辺りは状況に対応して出すのだろう。
船頭はベテランらしいMさん(ちなみに、名字は私と同じ)。幾艘も堀に並ぶ中、まずは棹でそれらを抜け、落ち着いたところで櫓に持ち変える。船の時速は約4キロ。「日本で一番遅い乗り物ですが、せめて船の上ではのんびりお過ごしください」とやる。さらに「普通なら70~80分のコースですが、私も一人で漕ぐんで、途中疲れてもう少しかかるかもしれませんよ~」と。近江八幡にいくつかある水郷めぐりの船にあって、「元祖」は手漕ぎが売りである。ただ漕ぐほうは、一時間半も漕ぎながら案内もしなければならず、大変な商売だ。これから西の湖地区を周回して豊年橋に戻るコース。
橋の下に水位計があり、ここでマイナス10cmほど。ただ、このところ雨が少ないこともあり、この先つながる琵琶湖はマイナス30cm以上だという。こうした水郷めぐり、3年前に福岡の柳川で船に乗ったことがある。この時も水位が低く、時折船底をガリガリ言わせるほどだった。この日の近江八幡はそこまでなかったが、最近の水の町はそんなものか。ただ一方では今年も茨城で起こったように、河川の氾濫や土石流で甚大な被害を招く災害も増えている。
コスモスも咲く堀を抜け、北之庄沢に出る。ここも西の湖の一角である。と、Mさんは船を止め、「おーい」と何かを呼び、手から何かを投げる。するとスーッと一羽の鳥が水面に下り、一瞬にして飛び立つ。トンビだ。投げたのはエサのパンの耳。トンビも、こうやって船頭がエサをやるのを待っている風情だ。
船は再び狭い水路に入る。左側にはヨシが生い茂る中州が広がる。その前にある緑の草は蒲。「蒲といってもガマの油売りではなくて、因幡の白兎に出てくる蒲ですね・・・と言っても最近のお客さんはわかりますかね?」とMさん。大国主命が白兎を助けるのに、蒲の穂の上で寝るというのがあり、そうすると再び毛が生えてきたということ。蒲の穂の中にタンポポの羽のような種があり、そこから来ているのかもしれない。蒲もかつては羽毛のように取引されたそうである。滋賀のこの辺りを蒲生野とも呼ぶが、琵琶湖に群生する蒲から取られた地名だろう。
時折見える木は川柳(かわやなぎ)。この中を静かに進むのもよいものだ。
再び広い湖面に出る。左手から何艘かのこちらと同じような小舟が来る。別の業者の船だが、あちらも手漕ぎである。団体客が分乗しているようで、賑やかな話し声がこちらまで聞こえてくる。それだけ静かということ。この日は雲一つない晴天で、風もほとんどない。水面も実に穏やかである。
南には前週訪れた繖山、その手前に安土城跡が見える。信長の時代は城の下まで湖だったという。それが後に干拓により中州が広がり、今はヨシが生い茂ったり、その外側は畑としても活用されている。ここまでは良いとしても、昭和の高度成長期にはさらに土木開発を行おうという動きがあった。前の記事で触れた司馬遼太郎の『街道をゆく』の中で厳しく批判していたのはこの辺りのことである。
時折ペットボトルが浮かぶのを見る。これはゴミとして捨てられているものではなく、ウナギの稚魚を取る仕掛け。琵琶湖でウナギが獲れるのだろうか?鮎や鯉、鮒やモロゴに代表されるようにいろいろな生物がいて、鮒寿司や甘露煮は琵琶湖土産にもなっているが、ウナギとはねえ。ただMさんの言うには、昔は海とつながっていて川を遡上していたという。今でこそ環境への取り組みで琵琶湖の水も一時に比べればきれいになってはいるが、天ヶ瀬のように下流にダムが造られたために、魚が遡上するということはなくなった。そこで外から買った稚魚を放流しているそうだが・・・。
近江兄弟社高校のグラウンドを過ぎると人工の水路が伸びる。岸には桜が植えられていて、その季節も見所だという。
エリアによっては電柱やコンクリート建造物が見えないところもある。こうしたところは時代劇のロケに適していて、多くの作品で使われている(木造に見える橋もあるが、実はコンクリート製でそれっぽく見せている。木の橋脚は単なる飾りだとか)。
いろいろ景色が移り変わる中で、やはりヨシである。水の浄化作用もあるし、水鳥や魚の住処である。この時もカルガモの他、カイツムリも見られた。カイツムリの古名を鳰(にお)と呼び、歌枕などではそこから琵琶湖を指して「鳰の海」と呼ぶこともある。そういえばそんな名前の力士がいるなあと思い検索すると、北の湖部屋でその名も「鳰の湖」という力士。大津出身とあり、師匠の一字も入っているからいい四股名だと思う。滋賀県出身で横綱大関が過去にいたかは知らないが、蔵間とか三杉里とかいたなあと思い出す。
またヨシは屋根や簾の材料としても古くから使われているが、最近は屋根を葺くことも滅多にないし、簾のヨシも安価な中国産が幅を利かせている。ヨシを粉末にしてうどんの中に練り込んだりとか工夫はあるものの、今の時代そんなに活用されていないのが実態。またヨシの群生も春先にはヨシ焼きと言って、焼いて次の芽が出て育ちやすくしなければならないという。Mさんはある地主のヨシを指して、ここは春先の天候不順でヨシに多くの湿気が残り、火が回らずヨシ焼きができなかったと話す。そうなると次の芽の生育にも影響するということで、ヨシの群生を維持するのも難しいものだと思う。
そろそろ戻ってくる。結局70~80分の予定が、90分の水郷めぐりとなった。その分ゆっくり景色を見ることもできたし良かった。
船が戻ると来た時とは様相が変わっていた。観光バスが横付けされ、団体客が何艘にも分かれてこれから出るところ。船内を見るとコンロがあり、肉や野菜が盛られた皿がある。貸し切り船ではこうして別料金で食事しながら水郷をめぐることができる。なるほど、これでは個人客の乗るところはない。ふらっとやって来ていつでも乗れるというものではなさそうだ。船は3人以上だと貸し切りが可能なので、一人旅やカップルで・・・となると、同じような人を見つけて即席の団体さんになる必要がある。
途中でMさんが言っていたが、手漕ぎ舟で回るのは、昔物資や人を運んでいた田舟の風情を楽しむとともに、環境への関心を持ってほしいということから。もちろん90分の中で琵琶湖や水郷の全てがわかったわけではないが、これも自然の一面ということで様々な勉強になった。
さて、西国めぐりの前置きがすっかり長くなった。これから長命寺に向かう。せっかくなので歩くことに・・・。
この時間待ち合いには、事前予約の貸切客は一組いたが、乗り合い船を利用するのは先に来ていた夫婦客。3人で行くのかなと思うと、両親と娘さんの3人が来てこれで6人。時刻は9時40分だが、船は6~8人が定員のため、これで一艘仕立てて出ることになった。揺れる小舟に乗り込む。その後でもう一人男性客が追加となり、合計7人で出発。定時の10時より20分早いが、小舟での運航ならその辺りは状況に対応して出すのだろう。
船頭はベテランらしいMさん(ちなみに、名字は私と同じ)。幾艘も堀に並ぶ中、まずは棹でそれらを抜け、落ち着いたところで櫓に持ち変える。船の時速は約4キロ。「日本で一番遅い乗り物ですが、せめて船の上ではのんびりお過ごしください」とやる。さらに「普通なら70~80分のコースですが、私も一人で漕ぐんで、途中疲れてもう少しかかるかもしれませんよ~」と。近江八幡にいくつかある水郷めぐりの船にあって、「元祖」は手漕ぎが売りである。ただ漕ぐほうは、一時間半も漕ぎながら案内もしなければならず、大変な商売だ。これから西の湖地区を周回して豊年橋に戻るコース。
橋の下に水位計があり、ここでマイナス10cmほど。ただ、このところ雨が少ないこともあり、この先つながる琵琶湖はマイナス30cm以上だという。こうした水郷めぐり、3年前に福岡の柳川で船に乗ったことがある。この時も水位が低く、時折船底をガリガリ言わせるほどだった。この日の近江八幡はそこまでなかったが、最近の水の町はそんなものか。ただ一方では今年も茨城で起こったように、河川の氾濫や土石流で甚大な被害を招く災害も増えている。
コスモスも咲く堀を抜け、北之庄沢に出る。ここも西の湖の一角である。と、Mさんは船を止め、「おーい」と何かを呼び、手から何かを投げる。するとスーッと一羽の鳥が水面に下り、一瞬にして飛び立つ。トンビだ。投げたのはエサのパンの耳。トンビも、こうやって船頭がエサをやるのを待っている風情だ。
船は再び狭い水路に入る。左側にはヨシが生い茂る中州が広がる。その前にある緑の草は蒲。「蒲といってもガマの油売りではなくて、因幡の白兎に出てくる蒲ですね・・・と言っても最近のお客さんはわかりますかね?」とMさん。大国主命が白兎を助けるのに、蒲の穂の上で寝るというのがあり、そうすると再び毛が生えてきたということ。蒲の穂の中にタンポポの羽のような種があり、そこから来ているのかもしれない。蒲もかつては羽毛のように取引されたそうである。滋賀のこの辺りを蒲生野とも呼ぶが、琵琶湖に群生する蒲から取られた地名だろう。
時折見える木は川柳(かわやなぎ)。この中を静かに進むのもよいものだ。
再び広い湖面に出る。左手から何艘かのこちらと同じような小舟が来る。別の業者の船だが、あちらも手漕ぎである。団体客が分乗しているようで、賑やかな話し声がこちらまで聞こえてくる。それだけ静かということ。この日は雲一つない晴天で、風もほとんどない。水面も実に穏やかである。
南には前週訪れた繖山、その手前に安土城跡が見える。信長の時代は城の下まで湖だったという。それが後に干拓により中州が広がり、今はヨシが生い茂ったり、その外側は畑としても活用されている。ここまでは良いとしても、昭和の高度成長期にはさらに土木開発を行おうという動きがあった。前の記事で触れた司馬遼太郎の『街道をゆく』の中で厳しく批判していたのはこの辺りのことである。
時折ペットボトルが浮かぶのを見る。これはゴミとして捨てられているものではなく、ウナギの稚魚を取る仕掛け。琵琶湖でウナギが獲れるのだろうか?鮎や鯉、鮒やモロゴに代表されるようにいろいろな生物がいて、鮒寿司や甘露煮は琵琶湖土産にもなっているが、ウナギとはねえ。ただMさんの言うには、昔は海とつながっていて川を遡上していたという。今でこそ環境への取り組みで琵琶湖の水も一時に比べればきれいになってはいるが、天ヶ瀬のように下流にダムが造られたために、魚が遡上するということはなくなった。そこで外から買った稚魚を放流しているそうだが・・・。
近江兄弟社高校のグラウンドを過ぎると人工の水路が伸びる。岸には桜が植えられていて、その季節も見所だという。
エリアによっては電柱やコンクリート建造物が見えないところもある。こうしたところは時代劇のロケに適していて、多くの作品で使われている(木造に見える橋もあるが、実はコンクリート製でそれっぽく見せている。木の橋脚は単なる飾りだとか)。
いろいろ景色が移り変わる中で、やはりヨシである。水の浄化作用もあるし、水鳥や魚の住処である。この時もカルガモの他、カイツムリも見られた。カイツムリの古名を鳰(にお)と呼び、歌枕などではそこから琵琶湖を指して「鳰の海」と呼ぶこともある。そういえばそんな名前の力士がいるなあと思い検索すると、北の湖部屋でその名も「鳰の湖」という力士。大津出身とあり、師匠の一字も入っているからいい四股名だと思う。滋賀県出身で横綱大関が過去にいたかは知らないが、蔵間とか三杉里とかいたなあと思い出す。
またヨシは屋根や簾の材料としても古くから使われているが、最近は屋根を葺くことも滅多にないし、簾のヨシも安価な中国産が幅を利かせている。ヨシを粉末にしてうどんの中に練り込んだりとか工夫はあるものの、今の時代そんなに活用されていないのが実態。またヨシの群生も春先にはヨシ焼きと言って、焼いて次の芽が出て育ちやすくしなければならないという。Mさんはある地主のヨシを指して、ここは春先の天候不順でヨシに多くの湿気が残り、火が回らずヨシ焼きができなかったと話す。そうなると次の芽の生育にも影響するということで、ヨシの群生を維持するのも難しいものだと思う。
そろそろ戻ってくる。結局70~80分の予定が、90分の水郷めぐりとなった。その分ゆっくり景色を見ることもできたし良かった。
船が戻ると来た時とは様相が変わっていた。観光バスが横付けされ、団体客が何艘にも分かれてこれから出るところ。船内を見るとコンロがあり、肉や野菜が盛られた皿がある。貸し切り船ではこうして別料金で食事しながら水郷をめぐることができる。なるほど、これでは個人客の乗るところはない。ふらっとやって来ていつでも乗れるというものではなさそうだ。船は3人以上だと貸し切りが可能なので、一人旅やカップルで・・・となると、同じような人を見つけて即席の団体さんになる必要がある。
途中でMさんが言っていたが、手漕ぎ舟で回るのは、昔物資や人を運んでいた田舟の風情を楽しむとともに、環境への関心を持ってほしいということから。もちろん90分の中で琵琶湖や水郷の全てがわかったわけではないが、これも自然の一面ということで様々な勉強になった。
さて、西国めぐりの前置きがすっかり長くなった。これから長命寺に向かう。せっかくなので歩くことに・・・。