まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16番「三千院」~近畿三十六不動めぐり・20(札所めぐりのおっさんが一人)

2018年08月30日 | 近畿三十六不動
今年の夏はまだまだ長そうだ。猛暑のお盆が過ぎていったん朝夕を中心に涼しい日もあったが、また猛暑がぶり返したり、そこへ台風20号が関西を通過して行ったり、厳しい天候が続く。予報では9月に入ってもまだ高温が続くと言われているが、果たしてどうなるだろうか。

そんな中、話は8月19日まで戻る。先般の四国八十八所めぐりに続いて、今度は近畿三十六不動めぐりのほうも進めておく。こちらは36ヶ所中19ヶ所を終えたところで、ぼちぼちと楽しんでいるところである。

今回訪ねるのは三千院。デューク・エイセスの「京都~大原~三千院~」の唄にも出るスポットである。唄の中では恋に疲れた女性が一人で訪ねるところとして歌われていて、この唄が三千院を有名にしたのかもしれないが、札所めぐりのおっさんが一人で訪ねても一向に構わないはずである。とは言うものの、三千院は子どもの頃に家族で来たかもしれないが覚えておらず、実質初めて訪ねるところと言ってもいいだろう。

大原へのアクセスはいくつか方法があるが、今回は京阪電車で向かう。淀屋橋から特急に乗車し(発車間際だったのでプレミアムカーではなく一般車両だったが)、 終点の出町柳まで乗る。駅前から京都バスに乗り、高野川を遡る形で洛外の大原を目指す。緑が濃くなってくるのがわかる。

大原はかつて貴人や修行者の隠棲の地だったが、この寺が三千院という呼び名になったのは意外なことに明治以降のことだという。元々は、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷の梨の木の傍らにお堂を構えて「円融房」としたのが始まりとされている。その後平安後期から歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入る天台宗の門跡寺院となり、場所も比叡山の中から坂本や洛中を転々とした後に洛西の船岡山の麓に落ち着いたのだが、応仁の乱で寺が焼かれたこともあり、政所は大原に移った。その後、江戸時代に再び御所周辺に敷地を与えられたが、明治維新にともない、門跡だった法親王が還俗して梨本宮家を起こした。その際に寺院内の仏像や仏具が大原に送られた。

一方、大原には平安末期から極楽院という阿弥陀堂があった。明治になって門跡寺院が大原に移った際に取り込まれる形になり、合わせて「三千院」ということになった。「三千院」という名前は、天台宗の「一念三千」の教えから取ったとされている。この時に極楽院は往生極楽院と改められた。

出町柳から30分ほどで大原のバスターミナルに到着。構内に入ると一度後退して駐車レーンに入れてから降車となる。ここ大原は京都郊外でも有名な観光スポットであり、インバウンドの観光客も多く訪れている。この先、三千院まで呂川に沿って歩くが、すれ違う人たちの言葉を聞いていると大陸の言葉ばかりが飛び交っている感じで、海外の観光地にでも来たのかと一瞬錯覚してしまいそうだ。

この日はたまたま涼しい日で、大原あたりだと30度を下回る気温だった。呂川の緑と小路沿いの店の風情(なぜかしば漬が多い)を楽しみながら、バスターミナルから10分ほどで三千院に着く。まず出迎えるのは御殿門で、穴太積の石垣を両側に備えた、城門を思わせる構えである。

御殿門をくぐると左手に拝観受付があり、700円を支払う。三千院のスマホアプリの案内があり、境内の案内が見られる他に、境内の7ヶ所に置かれたチェックポイントでスマホをかざすとスタンプがつくという。これを7つ集めて受付に出すと一品進呈されるというのでダウンロードしてみる。チェックポイントも宝探しではなく、素直に境内を回れば自然に集められるもののようだ。

まずは中書院から客殿に向かう。室内は撮影禁止だが、聚碧園という池泉鑑賞の庭園を見ることができる。江戸時代に修築されたとあるから、本坊がここに置かれていた当時からのものだろう。縁側に赤い毛氈が敷かれており、そこで抹茶を一服というのがよく似合う。

そして宸殿。「三千院」の扁額が掛けられており、ここが三千院の本堂と言ってもいいのだろう。最澄の作と伝わる秘仏の薬師如来が祀られている。毎年5月30日、御懺法講(せんぼうこう)という歴代天皇の回向としての法要が行われるそうで、ここでスマホをチェックポイントにかざすとその様子の動画を見ることができる。雅楽と声明が合わさった様子は天台宗ならではのもので、一般の葬儀で耳にする読経とは違った厳かさを感じる。

宸殿から再び外に出る。今度は杉木立と苔に囲まれた有清園という庭園に出る。先ほどの華やかさとは異なり、いわゆる「侘び」の雰囲気を感じる。拝観客もこちらのほうに大原らしさ、ひいては京都らしさを感じている様子だ。

その中にひっそりと建つのが往生極楽院である。扉が開け放たれており、中には国宝の阿弥陀三尊像が祀られている。この阿弥陀堂を中心とした一角が極楽浄土を表現しているかのようである。

その苔に溶け込むようにしてあるのがわらべ地蔵。三千院の中でも最も人気があるスポットと言ってもいいだろう。拝観客の多くがカメラを向けていたのがこのわらべ地蔵である。苔の中にちょこんとある感じである。意外なことに平成になってから彫刻家の杉村孝さんの作品として置かれたものだというが、そう言われればにこやかな表情が「現代風」に見える。

その奥の弁財天像を見た後で、金色不動堂に着く。前置きが長くなったが、今回三千院を訪ねたのは近畿三十六不動ということで、この建物が目的地である。智証大師円珍の作とされる金色不動明王が祀られていて、毎年4月~5月の不動祭りの時だけ公開される。その頃といえば大型連休、新緑の時季とも重なり三千院も混雑することだろう。外陣に腰掛けがあり、そこで経本を広げてお勤めとする。そうする間に次々と拝観客が入ってくる。

不動堂の中に納経所があり、ここでバインダー式の朱印をいただく。ちなみに近畿三十六不動の16番だが、1979年にこの不動霊場が発足した当初は、岩倉の実相院が16番を名乗っていたそうである。どういう経緯があったかはわからないが、2009年4月に札所が変更になったとある。なおこの時、21番が当初は東福寺の同聚院だったのが宝塚の中山寺に変更されている。札所の順番を見て、京都近辺に番号が並んでいたのがいきなり宝塚に飛んでまた京都に戻ったのが不自然に思っていたのだが(20番が東山の智積院で、22番が鳥羽・竹田の北向不動院)、そうした「札所変更」というのがあったとある。それならば実相院と同聚院にも行くべきかどうか。

境内の最も奥に位置するのが観音堂。ここには聖観音像が祀られている。また観音堂の横にはこちらで回向した、ご縁のある人たちが奉納した小さな観音像がずらりと並ぶ。

ここで折り返しとなり、最後に訪ねたのは円融蔵。重要文化財の宝物殿で、宸殿に祀られていた仏像や客殿の襖絵が展示されているほか、さらには往生極楽院の「舟底天井」の天井画を原寸大に復元したスペースもある。今は木造の歴史の古さを感じさせる阿弥陀堂だが、当時は極楽浄土の世界観を彩色豊かに前面に出していたことがうかがえる。

これで境内を一周した形で受付に戻る。スマホのスタンプラリーでいただいたのはわらべ地蔵の写真があしらわれたミニクリアファイル。

さて、三千院という有名な観光スポットと言える寺院を訪ねたわけだが、信仰としては薬師如来あり、阿弥陀三尊あり、地蔵(わらべ地蔵)あり、金色不動明王あり、聖観音ありと、メジャーどころの仏様は揃っている感じである。一方で、門跡寺院というのはそういうものなのか、庭園は立派だったが、本堂でご本尊を拝んだ・・という実感があまりなかったようにも思う。参詣の順路が決められていてそれを回るうちに入口に戻ったという感じで、先日回った四国八十八所の札所のような庶民信仰の対象とはまた違った寺の姿である。

さて、次に訪ねるところを決めなければならない。例によってくじ引きでまず出した候補は・・

1.神戸北(無動寺)

2.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)

3.河内長野(明王寺)

4.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

5.吉野(如意輪寺)

6.湖西(葛川明王院)

その中でサイコロが出したのは「5」。京都から一転、吉野である。この不動めぐり、なかなか京都市街には入らせてもらえない。いよいよ、終盤になったところで立て続けに訪ねることになりそうだ。それはそうと、吉野に行くならやはり「アレ」に乗って行きたい。早速帰りがけに予約することにしようか。

この日は三千院を後にして、門前の土産物店でゆばそばの昼食としば漬けの買い物。購入した老舗「土井志ば漬本舗」のホームページによれば、このしば漬けというのは、今から800年以上前の大原が発祥なのだという。高倉天皇の皇后で安徳天皇の母だった建礼門院は壇ノ浦で海に身を投げたが源氏方に助けられて都に送られ、剃髪して大原の寂光院で余生を過ごした。大原の人たちは、少しでも都の日々を思い出してもらおうと、保存食として紫蘇の葉で漬け込んだ野菜の漬物を献上した。紫は最も高貴な色とされており、建礼門院もこれを喜び、「紫葉(むらさきは)漬」と名付けた。それが紫葉(しば)漬のルーツだという(諸説あるようだが)。

再び大原からバスに乗り込み、出町柳に戻る。帰りはきっちりと京阪特急のプレミアムカーに乗車。車窓のお供はプレミアムモルツ・・・ではなくスーパードライだったが・・・・。
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