九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでいったん田主丸に向かった後、本題の太宰府に向かう。久留米から鳥栖行きに乗り、そこから博多行きに乗り継ぐ。車内のドア脇に週刊誌の中吊り広告があるな・・とよく見ると、「佐賀空港」とある。空港の利便性をPRすべく、インパクトのある広告にしたものだという。
二日市に到着。JRとしては太宰府への最寄り駅であり、二日市温泉への玄関口である。一時は、こちらでの宿泊も考えた。駅のコインロッカーに荷物を預ける。この後は新幹線に乗るので、またこちらに戻ることになる。
西鉄の二日市に向かうが、バスもあるが徒歩でもそれほど離れていない。ちょうどJRと西鉄を結ぶグリーンベルトも伸びていて、それに沿って歩く。10分ほどで西鉄の二日市に到着した。
太宰府天満宮や九州国立博物館に行くのなら太宰府線に乗って太宰府に向かえばよいのだが、目指す観世音寺、そしてその前に大宰府跡や、「令和」ゆかりの坂本八幡宮にも行ってみたい。それなら、太宰府線に乗るより、天神大牟田線で1駅、都府楼前からアプローチしたほうがよさそうだ。
都府楼前で下車。「令和の里」という副駅名がつけられている。駅前には「令和」の記念碑も建てられている。元々、福岡のベッドタウンとして駅周辺にも住宅やマンションも建ち並んでいたところに、坂本八幡宮最寄りの駅ということで新たに「令和」の箔がついた形だ。
道案内に従って歩く。大宰府跡に近いことからか、近くの中学校の門もそれらしい姿である。改めて、歴史の町としてのPRをしているかのようである。
大宰府跡に到着。今は地元の人たちの憩いの場になっており、あちこちで家族連れが楽しんでいる。南大門からそのままメイン道路を進み、大宰府跡の石碑を見る。時代が少しずつ違うが、明治から大正にかけて順次建立されたものである。
平成から令和・・。この改元の前後、私は九州で過ごしていた。日付が変わるのを迎えるのは五島列島の福江島で、平成最後の日の入りと、令和最初の日の出を見ようというツアーに参加した。その前段で福岡入りし、夜まで自由行動だったので、太宰府エリアを訪ねた。その時は観光客でごった返していた。「令和」ゆかりの地となった坂本八幡宮も参拝客の行列ができていた。私も、菅官房長官(当時)の改元発表のように「令和」と書かれた額を掲げて写真を撮ってもらったものだ。
その坂本八幡宮だが、さすがに令和5年ともなれば当時のブームも落ち着いているようだ。「令和」の元となった万葉集の一文の「初春令月 気淑風和」。ある歌会の様子を表したものだが、その舞台が当時の大宰帥である大伴旅人の邸宅で、その場所が現在の坂本八幡宮の地と推測されることから、改元発表以降、大勢の人が訪ねるところとなった。私もその一人である。
テントにはその時と同じように記念撮影用の「令和」の額が置かれている。また、回っている札所以外の朱印にはそれほどこだわっていないのだが、せっかく訪ねたのだからと書き置きの坂本八幡宮の朱印をいただく。真ん中には「初春令月 気淑風和」の文字が入る。これも九州西国霊場めぐりの一つに加えることにする。
よく考えると、これまで日本に数多くの元号がある中で、その典拠が国内にあり、そしてその場所もある程度特定できるところというのも他にはないのではないか。現時点で、「令和」の次の元号がどうなるのかというのはまったくイメージできないが(その時には、ひょっとしたら元号そのものの存続の是非が問われているかもしれない)、「令和」の経緯からすれば、日本の古典に典拠を求めるのかなと思う。そうなれば、何十年か先にはまた別のところが賑わうことになるのかな・・。
大宰府展示館に向かう。「令和」の元となった大友旅人邸宅での梅花の宴を再現した人形や、大宰府政庁の模型が並ぶ。またここもかつての大宰府跡の一部として、発掘された姿や出土品なども展示されている。これだけ見れば立派な規模だし、大陸との玄関口として重要な拠点であったところだが、平城京、平安京の人から見れば「左遷」のイメージがどうしてもついて回るようである。
目指す観世音寺は大宰府政庁に隣接する位置に建っている。もう少し歩き、いよいよ、九州西国霊場の結願である・・・。