先の熊野本宮詣での記事。遅ればせながらの書き出しとなります・・・・。
24日は朝5時に自宅を出発。阪神高速~阪和道~南阪奈道をたどる。日曜の朝のこととて各道路は空いており、順調な走りを見せる。
大和高田から国道24号線を南下する。そろそろ、東の方、大和の山々の稜線が明るくなる頃である。こういう光景を見ると、万葉集の柿本人麻呂の「東の野に陽炎の立つ見えて・・・」の一首を思い浮かべる。阿騎野(宇陀市)で詠まれた歌というのがわかっているだけに、いずれ、彼の地でこの歌と同じ現象を見てみたいと思うのである。
さて、私が走っているのは熊野への道のうち、奈良県最大の村・十津川を通るルート。直線距離では最も近いと思われる。しかし、大和の山の中を抜けていくということで厳しい山越えのルートではある。奈良県というのも結構広いもので、五條あたりに来れば相当南側に来たと思いきや、実はこの辺りが奈良県の真ん中あたりだというのだから驚くばかり。県の南半分は本当に山のまた山の中ということになる・・・。
五條からは国道168号線を南下。6年前にこのルートを路線バスに乗って十津川まで行ったことがあるが、それ以来初めて足を踏み入れることになる。もう、急カーブの連続である。ただその中で時折姿を見える高架橋。実はこれは旧国鉄阪本線の建設跡という。その昔は「五新線」といって、五條と新宮の間を結ぶ計画だったそうだが、その前段で大塔村の阪本まで開通しようと工事が始まったものの、建設は途中で打ち切り。現在はその高架橋をローカルバスが細々と走るのみという。それでも「専用道路」という位置づけのようだ。
出発してそろそろ3時間というところで十津川村に入る。ここで一時休憩。
ここで見物するのは「谷瀬の吊り橋」。長さ297m、高さ54mというこの吊橋。「日本一」という称号が与えられている。
前回来た時は路線バスのトイレ休憩の間に橋のたもとから見物しただけだったが、今日は時間を自由に使えるドライブである。これを往復するのもよいかなと・・・・。
・・・と思って橋に乗り出したわけだが、ここで言うのも何だが私には「高所恐怖症」の気がある。橋に足をかけてふと視線をやると遥か下に見える河原。朝の風もあり、おまけに足を踏み込むと、敷かれた板のもう片方がちょいと浮くというもんである・・・・。
「谷瀬の吊橋を渡りました!」ということならもう少しカッコイイ記事になるのだろうが、全長297mのところ、わずか3mで渡るのを断念・・・。いやこれは、「もしこれを渡りきったら好きなものを何でも与えるぞ」と言われても「ごめんなさい」と言って辞退してしまうくらい。いくら生活のためとはいえ、これを普通に渡っていく地元の人たち(観光客もかな)には敬意を表するというくらいのものである。
結構ヒヤリとした後、国道を南下。9時前に十津川村の役場前に到着。ここが十津川の行政の中心部となる。
まずは休憩をというところだが、国道沿いの小ぶりな道の駅には地元の人たちによる朝市が開かれ、その脇では足湯が温かそうな湯気を発していた。これはいいということで、早速足湯の「一番風呂」を体感。天気は良いとはいえ結構冷え込む山の中。結構癒されるものを感じる。ドライブの休憩にはもってこいのスポットかな。
さて十津川に来たのだからと、以前にも入った歴史民俗資料館に入る。2階建ての資料館では、まず1階で世界遺産に関する展示を見る。熊野古道の風情と修験道の伝統を今に残す各地のルートが世界遺産として登録されており、ここ十津川にも参道の跡が残されている。
一方の2階では、十津川の歴史の展示。南北朝時代や明治維新の折には「天皇親政」側の立場として十津川の郷士が登場する。そんなところから「十津川=勤皇」というイメージが私の中で出来上がってくるのだが、これは地元の人たちも認めるところではないかな・・・。
もう一つ触れられていたのが明治22年の大水害。この水害によって村は壊滅状態となり、財産を失った人たちが新天地を求めて北海道に集団移住した。これが現在のJR札沼線の終点・新十津川駅のある「新十津川村」である。私は「新十津川」にある資料館に入る機会があったのだが、その中でも「母村」への懐旧の思いというのが語られており、「災害で生活基盤を失う」ことの悲惨さが語られていたと思う。後はこの歴史をいかに後世に伝えるか、ということだろう。
さて十津川での一時を終え、クルマをさらに南下させることにする・・・。(続く)