まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

滋賀6番「宝厳寺」~神仏霊場巡拝の道・42(荒波の琵琶湖を渡る)

2023年01月11日 | 神仏霊場巡拝の道

大津から長浜に来て、竹生島に渡る。竹生島にある宝厳寺は西国三十三所めぐりで訪ねたこともあるが、神仏霊場めぐりの札所でもある。いずれにしても、船でなければ訪ねることができないというのはある意味難所である。特に冬の時季は観光船の便数も限られている。広島からだと訪ねるまで結構大変なので、この年末年始、当初の目的地が京都だったこともあり、もう少し足を延ばしてみようということで指名した。

長浜12時50分発の便に乗る。大津で初日の出クルーズに乗ったこともあり、長浜発はこの時間となった。ここでも旅行会社の旗を持った添乗員が案内する団体に出会う。ひょっとしたら琵琶湖初日の出クルーズにもいたかもしれない。話の内容から、西国三十三所めぐりというよりは正月の滋賀であちこちお参りしようということで、さらに三井寺の除夜の鐘にもいたのでは?と推察してしまう。これでもし大津から長浜に来るまでに多賀大社にも参詣していようものなら、元日の滋賀のスポットを満喫するツアーである。

竹生島に向かうのは高速船タイプの「リオグランデ」。琵琶湖汽船もさまざまなタイプの船舶を用意している。竹生島まで30分ほどということもあり、2階のベンチ席に陣取る。まずは穏やかな長浜港を出航する。

そして湖の風を受けて・・・となれば旅の風情も高まるものだが、元日である。雨や雪は降っていないが、高速船ということで向かい風を受ける。そして波も高い。さすがに波しぶきが入ることはないが、結構揺れる。途中、1階のデッキにも下りてみるがどこかにつかまっていないと転倒しそうだ。

その中、前方に竹生島の姿が見えて来た。ここまで来れば一安心である。少しずつ船着き場を含めた宝厳寺、竹生島神社の姿も大きくなる。

船着き場に着く。14時40分発の折り返しまで1時間20分、島での滞在となる。やはり冬というためか、以前に訪ねた時よりも上陸客の姿は少ないように思う。

島の上陸料を納め、まずは宝厳寺への参詣ということで長い石段を上る。165段の石段は「祈りの階段」と呼ばれているが、その段数の割に勾配が急なので、一歩一歩がきつい。

そして境内に入る。行列ができているわけではないが、滞在時間が限られていることもあり先に朱印をいただく。ここでも、西国三十三所の重ね印と、神仏霊場めぐりの朱印である。なお、西国三十三所の朱印はこの下にある観音堂「大悲殿」であるが、神仏霊場めぐりの朱印は本堂の本尊である「弁才天」と記される。

宝厳寺は聖武天皇の勅願により行基が開いたとされるが、聖武天皇の夢枕に天照大神が現れ、琵琶湖に浮かぶ小島は弁才天の聖地で、ここに寺院を建立すると国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるだろうとのお告げがあったという。後に伝教大師、弘法大師も訪ね、豊臣秀吉の保護も受けた。

竹生島の弁才天は江ノ島、宮島と並び日本三大弁才天の一つとされる(組み合わせは諸説あるが)。ともかくここでお勤めとする。

多宝塔を経て、観音堂に下りる。これまで訪ねた時は観音堂、そして玄関の唐門は大規模な修復作業中だったが、6年をかけた作業を経て2020年4月に完成したとのことで、鮮やかな姿を見せている。この姿を見るのは初めてだ。檜皮葺の屋根の葺き替え、内部の漆の塗り替えが行われ、別の寺に来たかのようである。こちらの観音堂でもう一度お勤めとする。

舟廊下を伝って竹生島神社に出る。宝厳寺、竹生島神社と今はそれぞれ別の寺社の扱いだが、明治以前はモロに神仏習合の世界だった。竹生島神社の祭神である市杵島姫命(宗像三女神の一つ)と弁才天とは同一視されていた。訪れる人も、迎える寺社側も、そこまで厳密に区切っているわけではない。

こちらでは龍神拝所から、湖に突き出た鳥居に向けてのかわらけ投げが名物である。かわらけが鳥居の間をくぐると龍神が願いを叶えてくれるというので、挑戦するツアー客の姿も見られた。そのうちの一投が見事鳥居の間を抜け、拍手も起こる。新年早々、いいことがありそうだ。

おっと、ここで神仏霊場めぐりの次のスポットを選ぶくじ引き&あみだくじである。今回出たところには、中1日おいて1月3日、広島に戻る前に訪ねることにする。

くじ引きで出たのは・・

・帯解寺(奈良5番)

・松尾寺(京都52番)

・熊野本宮大社(和歌山4番)

・西宮神社(兵庫2番)

・闘鶏神社(和歌山5番)

・仁和寺(京都12番)

京都は京都でも、松尾寺は舞鶴にある西国三十三所第29番の札所で、もし行くとなればそれだけで1日がかり、天橋立とセットでレンタカーも使うことになるだろう。大阪から広島へは安く上げるべく高速バスで戻る予定にしていたが、松尾寺まで行ったのでは間に合わない。夜の新幹線利用となるか。そして、ここで熊野本宮が出るか・・。熊野三山はそれだけで1泊2日かけて回ることになるだろうから、今回では無理である。

その中であみだくじで出たのは・・・3枠に入った帯解寺。ここなら奈良ということで無理なく行けそうだ。思わずほっとする。

これで観光船乗り場に向かう。先に長浜から一隻の高速船がやって来るが、こちらは「貸切」の表示がある。正月に琵琶湖周辺の初詣スポットを回るツアーだろう。

その後に、往路に乗船した「リオグランデ」がやって来る。何だかマンションの名前のようだが、元々はスペイン語で「大きな川」という意味だそうだ。見る人が見れば、琵琶湖は湖ではなく「大きな川」になるのかな・・。まあ、かつて瀬戸内海を見て「日本にも大きな川があるんですね」とのたまった中国の要人もいたので、そういう見方もわからないでもない。その一方で、琵琶湖を湖と思っていたら海に漕ぎ出すようで、冬の比良おろしで水難事故に遭った人もいた。だから「湖」といっても「海」と同じようなものだ・・という向きもある。それが琵琶湖の面白さの一つと言えるだろう。

先ほどはデッキで大いに揺れたので、暖かい客室に入る。逆に最前列の席に陣取る。こちらはこちらでまた波立てて進むのだが、この先は戻るだけだし、外にいるよりはホッとできる。

長浜港に無事に到着し、そのまま駅に向かって新快速に乗る。前の記事にも書いたが、せっかく宝厳寺を訪ねたのに、JR西日本の「駅からはじまる西国三十三所」のデジタルスタンプを改札口で取得するのを忘れてしまった。これは長浜八幡宮を脇からお参りしたことの罰当たりとして受け止め、いずれ取得しなおすことにする。

新快速でそのまま走り抜け、大阪に到着。元日の夜は意外なところでの宿泊となった・・・。

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滋賀5番「長浜八幡宮」~神仏霊場巡拝の道・41(元日初詣、脇からお参りさせてもらう・・)

2023年01月10日 | 神仏霊場巡拝の道

2022年~2023年の年末年始の神仏霊場めぐりは、京都に続いて滋賀に入り、今回あみだくじではなく「指名」で目的地とした竹生島の宝厳寺を目指す。

大晦日の夜に三井寺参詣、琵琶湖初日の出クルーズで泊まった大津から、竹生島行きの観光船が出る長浜に移動する。竹生島まで行った後、そのまま大阪に移動するので、青春18きっぷの1回分を使用する。

長浜に到着。時刻は11時10分すぎで、長浜港から乗船予定の観光船の出航は12時50分。駅から少し歩くが、1時間半あまりの時間がある。それならば・・ということで、長浜市内にあるもう1ヶ所の神仏霊場の札所である長浜八幡宮に行くことにする。各種案内では駅から徒歩20分とある。

長浜といえば羽柴秀吉が築いた長浜城、そして楽市楽座を取り入れた町づくりで知られている。また、江戸時代からは北国街道の宿場町でもあった。長浜八幡宮はその先にあるので、ともかく歩くことにする。

元日ということで、商店街でも黒壁スクエアのように観光客向けに開けている店があるかと思えば、正月休みで閉まる店もある。そこはそれぞれの店の方針もあるだろうし、別にどうということもないが、普段の賑わいを感じるならば年末年始は避けて、それ以外の日に訪ねるのがよいようだ。

長浜の中心にある寺社で知られているのが長浜別院大通寺で、以前にも参詣したが、浄土真宗の寺院はこの手の札所めぐりには参加していないので、ともかく素通りする。

そのままかつての城下町の風情を残す通りを抜けると、長浜八幡宮の鳥居が見える。食べ物の屋台も並び、また境内には次々とクルマが入って来る。案内では駅から徒歩20分とあったが、商店街をそのまま素通りしたためか、そこまで時間はかからなかった。

長浜八幡宮が開かれたのは平安時代後期で、後三条天皇の勅願により、源義家が石清水八幡宮を勧請したものという。その後兵火により衰退したが、戦国時代に羽柴秀吉が長浜城を築き、城下町を整備したことにともない復興された。これ以降行われるようになったのが長浜曳山祭で、京都の祇園祭、高山の高山祭と並ぶ「日本三大山車祭」の一つである。城下町エリアの一角に、曳山を展示した博物館があり、以前に訪ねたこともある。

ちょうど元日の昼ということで、初詣客の長い列ができている。その行列は拝殿から正面の鳥居を抜け、外の道路へ、さらに歩道を伸びてぐるり回る形で再び境内に続いている。竹生島への観光船までの待ち時間を利用して八幡宮にお参り・・としたかったが、この行列を見る限り、拝殿にたどり着くにはどれだけの時間がかかることだろうか・・。かといって、竹生島に行った後に長浜八幡宮に来るのも時間的にしんどそうだ。

ただ、せっかく長浜の札所を「指名」してやって来たからには長浜八幡宮もお参りしておきたい。そこで・・(他にもそうしている人が何人もいたが)行列には並ばず、拝殿の脇から賽銭箱に賽銭を入れて、そこで拝むことにした。それでいいのかという声も聞こえてきそうだが、神社の場合は般若心経のお勤めもしないので短時間で済む。

おみくじも長い列ができているが、朱印は幸い待つ人もおらず、すぐに直書きの対応をしていただいた。

これで八幡宮を後にして、商店街を抜けて駅に戻る。そして駅の反対側にある長浜港に向かう。途中、旧長浜駅舎のある長浜鉄道スクエアの横を過ぎるが、あいにく年末年始の休館中である。また、向かいの慶雲館は長浜盆梅展のメイン会場であるが、こちらはまだ期間前である。

そして長浜港に到着。この後、観光船にて竹生島まで往復し、戻ってそのまま長浜から新快速に乗ったのだが、往復ともにJR西日本の「駅からはじまる西国三十三所」のデジタルスタンプを長浜駅で取るのをすっかり忘れていた。一番遠い宝厳寺のデジタルスタンプは長浜、彦根、近江今津で取るのだが、それを忘れるとは、ひょっとしたら先ほど、長浜八幡宮で初詣の長い行列に並ばず、脇からちょこっとお参りしたからかな?と後になって思うのであった・・・(まあ、滋賀の札所はまだ多く残っており、彦根なら多賀大社もあるからデジタルスタンプの機会はあるだろうが)。

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滋賀15番「園城寺(三井寺)」~神仏霊場巡拝の道・40(琵琶湖初日の出クルーズ)

2023年01月09日 | 神仏霊場巡拝の道

2023年は大津、三井寺の除夜の鐘で迎え、宿泊の東横インに戻る。そして4時間あまり眠った後、再び外出する。今度向かったのは大津湊である。

琵琶湖の初日の出クルーズ。年始をどのように迎えるか考える中で、船の上から初日の出を見るというのに引かれて予約した。これにより宿泊は大津、そして現地に来て三井寺の除夜の鐘が撞けるのを見つけて先ほど訪ねたばかりである。

朝6時15分、窓口にて予約の旨を告げて乗船券と引き換える。ちなみにこの便は満員御礼という。乗船時刻が近づくと行列ができ、ツアーでの団体客の姿も見られる。大津プリンスホテルに宿泊したようだが、あのホテルなら部屋からでも初日の出が観られるのではないかと思う。

6時35分に乗船開始となり、就航する「ビアンカ」に向かう。この船舶に乗るのは初めて。通常は日中のクルーズ船として、ゆったりした船内で食事でも楽しみながら景色を楽しむことができる。船内で暖かく過ごすこともできるが、日の出を見るなら外のデッキだろう。最上階のオープンデッキに上がるが、こちらも多くの人で賑わう。

6時45分、東の方角が少し明るくなる中出航する。乗船時間は1時間、大津の日の出時間は7時04分という。大津の中心部を少しずつ離れ、左手には比叡山、遠くには雪をかぶった比良山を見ることができる。しばらく風を我慢してビアンカが進むのに身を任せる。どのあたりまで進むのかな。

やがて船が減速し、そのまま停泊したようである。「近江富士」と呼ばれる三上山はまだ左手のほうで、正面の山の向こうが明るくなっている。ちょうど雲が切れており、初日の出は拝めそうだが山の向こう側なのでなかなか出そうで出ない。デッキの人たちも今か今かと待っている。

7時04分から数分経ったところで、ようやく太陽が頭をのぞかせた。周りからも歓声が起こる。そして初日の出をバックに記念撮影する光景もあちこちで見られる。これでよい1年のスタートが切れそうである。

もうしばらく停泊した後で、大津港に向けて引き返す。

船内では豚汁が振舞われており、先ほど風に当たった体を温める。

1時間のクルーズを終えて帰港。

さて、時刻は8時前。大晦日の夕方から3回目となる三井寺に向かうことにする。除夜の鐘は撞いたが、神仏霊場の朱印をまだいただけておらず、金堂だけでもお参りすることにする。大晦日の時は無料で境内に入れたが、元日の朝からは通常拝観となり、拝観料を納める。

8時間前は大勢の参詣客で賑わっていた境内だが、それがうそのように静まり返かえっている。鐘楼も扉が閉められ、境内もすっかり片付けられている。靴を脱いで金堂に上がり、今度は落ち着いてのお勤めとする。

金堂内をぐるりと回り、祀られている諸仏を拝観。その中のコーナーに特別に祀られているのが文殊菩薩像。2023年の干支である卯の守り仏だという。元日から2月3日までの限定公開である。この像だけは元日になってからこそ拝観できたわけで、三井寺に都合3回来たことも無駄ではなかった。

これで納経所にたどり着く。文殊菩薩の限定朱印もあるが、ここは神仏霊場として本尊の弥勒菩薩の朱印をいただく。

東横インに戻る。まだ無料朝食の時間だが、先ほどクルーズに出る前に腹こしらえをしたのでまあいいかと。その分、もう少しだけ部屋でゆっくりとする。

さてこの後だが、滋賀県の札所めぐりを続ける。今回、あみだくじではなく京都の次の目的地と決めておいたのは竹生島である。あそこは長浜、または近江今津から観光船で行かなければアクセスできず、ある意味難所である。広島からも遠いし、この機会に訪ねることにした。

大津駅に出て、まずやって来た快速の野洲行きに乗車。そして野洲から新快速に乗り継ぐ。竹生島へは長浜からアクセスすることにした・・・。

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滋賀15番「園城寺(三井寺)」~神仏霊場巡拝の道・40(三井寺で除夜の鐘を撞いて新年を迎える)

2023年01月08日 | 神仏霊場巡拝の道

三井寺での除夜の鐘を撞くことができるというので、22時前、宿泊の東横インを出発する。フロントは24時間対応している。

夕方は買い物客もそれなりにいた商店街も人の姿がなく、そのまま歩いていく。観音堂側の入口に着き、周りも暗い中、石段を上がる。

境内に入ると観音堂の灯りがついていて、人の姿もちらほら見える。こちらはここまでずっと開いていたのかな。観音堂に入り、冥加料として1000円を納めると、番号札を渡される。除夜の鐘は番号順に撞くそうで、ポスターにあった集合時間の22時半より前に来たが、番号は90番台だった。もっと早くから受付が始まったのかもしれないし、あるいは団体など、早い番号枠があったのかもしれない。別に構わないが。

鐘楼に向けて観音堂を出発するのは23時半という。近所の人などは一度家に帰ったか、クルマの中で待機だろう。ホテルに戻るには中途半端だなと思っていると、内陣を開放しているという。椅子が置かれ、ストーブも焚かれていて足元を温めることができた。

時間が経つにつれて人の数も増えてきた。やがて、山伏姿の僧たちが現れて、内陣にずらり並んでいた灯籠の蝋燭に火を灯す。除夜の鐘を撞く参詣者はこの灯籠を手にして境内を下り、鐘楼まで歩くという。観音堂の前のいたるところに灯籠の明かりが浮かび上がる。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」が除夜の鐘として鳴らされるのは、琵琶湖に伝わる龍神伝説によるという。除夜の鐘は108回というのはよく言われるが、三井寺の除夜の鐘は108回にとどまらず、できるだけ多くの人が撞くことで龍神が喜び、その分多くの幸運を授けると言われている。

そして、「除夜の鐘」の提灯をかかげた僧侶、山伏が先導し、参詣者はその後に片手に灯籠、片手にロープを持って進む。龍神が境内を練り歩く様を現わしているという。歩きながら、先頭で拡声器を手にした僧侶が「六根清浄」と発すると、参詣者は「懴悔、懴悔」と合わせる。宗谷って一年の厄を払うのである。

金堂が近づくにつれ、「六根清浄、懴悔懴悔」とは対照的に、ジャズのトランペットの音が前方から聞こえてくる。年越しのコンサートでもやっているようだ。16時前には人の姿がほとんどなかった一帯が、年越しを前に大いに賑わっている。その中を灯籠を手に進むのも、年越し行事に参加している実感が増す。「吉田類の酒場放浪記」には申し訳ないが、今回は三井寺にて新たな年を迎えます・・。

そのまま靴を脱いで金堂に上がる。外廊下をぐるり一周して、入口で灯籠は回収。そして阿闍梨による加持をいただいて、正面本尊の弥勒菩薩に手を合わせる。次々に参詣者が来るので、ここでお勤めをして・・とはいかず、そのまま金堂を出る。来る前は、「この時に朱印がいただけるかな」とも思ったが、金堂内、そして外のテントでもその様子はなかった。これは夜が明け、初日の出クルーズの乗船後に改めてお参りするとしよう・・。

金堂から外に出てしばらくすると「除夜の鐘!」の掛け声が響いた。それに続いて鐘の音が響く。この瞬間が午前0時、2023年の幕開けである。こういうスポットだから、NHKの「ゆく年くる年」にも何度も登場しているそうである。

以後は番号札の10番区切りで呼ばれる。呼ばれた後は鐘楼を一回りして順番を待つ。私の90番台で呼ばれるまで15分くらい経ったかな。鐘を撞く様子を見ると、撞木に2本の紐がつながっていて、一方を寺の方が持っている。老若男女いろんな人が鐘を撞くが、寺の方が相手に合わせてアシストしてくれるので、それぞれいい音を響かせる。ちなみに私の時は心持ち思いっきり撞いてくれたかな・・・。

さまざまな思いを込めての除夜の鐘となった。

番号札と引き換えに御守りなどの縁起物をいただく。

これでホテルに戻るが、その途中にもう1ヶ所神社があったので立ち寄る。三尾神社といい、かつては三井寺とともに神仏習合だったのが分離された神社のようである。

普段ならそのまま通り過ぎるところだが、何でもここは境内のいたるところに2023年の干支である卯(ウサギ)があちこちに祀られている。祭神である伊弉諾尊(イザナギノミコト)がこの地の地主神として現れたのが卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻に卯の方角からということで、ウサギの神社として信仰されているそうだ。卯年の今年は特に賑わうスポットとなることだろう・・。

何やかんやでホテルに戻ったのは1時前。この後は6時45分出航の琵琶湖初日の出クルーズということで、そこそこにベッドに入るのであった・・・。

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滋賀15番「園城寺(三井寺)」~神仏霊場巡拝の道・40(年越しの前にお参りしたが・・)

2023年01月07日 | 神仏霊場巡拝の道

大晦日、混雑の伏見稲荷大社の参拝を終え、稲荷駅からJR奈良線で京都駅に出る。コインロッカーから荷物を取り出し、米原方面の列車に乗り、そして下車したのは大津である。ここまで触れていなかったが、大晦日の宿泊は大津ということにした。京都や大阪での宿泊も考えたのだが、決め手となったのは元日の記事にも載せた琵琶湖クルーズからの初日の出である。

当初、この年末年始は広島からいったん九州に渡り、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりをした後に大阪行きのフェリーに乗船し、大阪湾を行く船上から初日の出を見ようと思っていた。それが、大学の同窓生との忘年会が入ったため直接関西に出たのだが、その中で見つけた湖の上から初日の出というのも貴重な体験になりそうだ。そして元日は初日の出の後、滋賀県内のある札所に向かう予定である。これはあみだくじには関係なく、どうせならなかなか行きにくいところを目的地として決めたことである。

初日の出クルーズの大津港の出航が6時45分となると、おのずと大津駅近辺での宿泊となる。当初は大津でも他のホテルを手配したのだが、客室でBS放送が映らないことが判明した。大晦日の夜といえばBSで「あの番組」を見ながら年越しの乾杯・・と思っていたため、別に探すことにした。

そこで空いていたのが東横インである。JR大津駅と京阪のびわ湖浜大津駅の中間にあり、JRからだと少し歩くのだが、ちょうど真ん前の道路上を京阪大津線の列車が走っているところである(さすがに部屋からは電車の走行は見られないが)。

時刻は15時すぎ。東横インの会員ではないのでチェックインは16時からだが、荷物だけ先に預かってもらい、ここまで来たからには園城寺(以下、通称の三井寺で統一)を目指すことにする。ホテル近くの商店街を抜けると徒歩10分くらいで観音堂のあるエリアには着くようだ。今回、三井寺まで参詣することになるとは思わなかった。なお、これで神仏霊場めぐりも滋賀県の札所に初めて訪ねることになる。残りは兵庫県・・・。

ホテルからすぐのところにある商店街には「除夜の鐘」のポスターが貼られている。近江八景の一つでもある「三井の晩鐘」を除夜の鐘として撞くことができるという。冥加料は1000円で、22時半に観音堂に集合とある。これもせっかくの機会で、行ってもいいかなと思う。

商店街を抜け、初詣の仕度中の長等神社を過ぎる。神社のすぐ横手が三井寺の観音堂側の入口である。

通常ならここで入山料を納めるのだが、窓口は閉まっている。ただし階段が開放されているようで、上ろうとすると「本日の受付は終了しました」の看板も横向きに出ている。時刻はまだ16時前、通常なら拝観時間内のはずだが、これはこのまま入ってよいものかどうか。ただ、上から下りてくる参詣者らしき人もいるし、ともかく階段を上ることにする。

境内には他にも参詣者が何人かいて、特に拝観お断りで追い出される様子もなく、そのままお参りとする。神仏霊場めぐりの本尊は金堂に祀られている弥勒菩薩であるが、こちら観音堂は西国三十三所の札所で、まずは西国三十三所の4巡目としてお勤めとする。先ほど大津駅で下車した時、JRの「駅からはじまる西国三十三所」のデジタルスタンプも取っている。

観音堂でのお勤めを終え、すぐ上の広場から大津市街、琵琶湖の景色を眺める。

坂道を下って金堂のあるエリアに向かう。参道の脇には提灯や灯籠が並ぶが、こちらはほとんど人の気配がない。途中の不動堂などの扉が閉まっているのが気になる。

正面に金堂が見えてきた。そして近づくと上り口に木の棒が渡してあって、入口の扉には「拝観準備中」の札があった。あらあら。これは大晦日ということで、早々と寺の扉を閉じたということかな。納経所は金堂の中にあったはずで、これではどうしようもない。西国三十三所めぐりの対応もあって、観音堂だけはちゃんと定刻まで開放していたといえるが、観音堂では金堂の朱印は扱っていない。

ただ、除夜の鐘をこちらの鐘楼で撞くのであれば、夜には境内、そして金堂も開いていることだろう。ひょっとしたら、金堂の朱印は除夜の鐘の時にいただけるかもしれない。これはぜひ、除夜の鐘に参加するべく、もう一度夜に出直すことにしよう。迎春準備を迎える三井寺であった・。

東横インに戻り、今度は無事にチェックイン。通常期なら夕方を待って大津の町で一献・・・というところだが、大晦日とあってグルメサイトなど見ても軒並み休みである。大津駅前のチェーン居酒屋は年中無休で開いているようだが、まあ、今回はいいかなと。その分、ホテル近くの商店街にあったスーパー(平和堂フレンドマート)を含めて途中でいろいろなものを仕入れており、これらを部屋でゆっくりといただくことにする。

まずは、滋賀に来たら鮒寿司である。駅構内の観光案内所にて、琵琶湖のニゴロブナを使ったという鮒寿司を仕入れていた。そして大津の地酒「浅茅生(あさぢを)」。鮒寿司は好き嫌いが分かれる食べ物の一つだと思うが、私は好物である。

もっとも、鮒寿司については、三井寺からの帰りに立ち寄ったスーパーでも魚コーナーに普通に置いてあり、鮒の種類はわからないが製造者は地元の魚屋とあった。値段は半額以下で手軽に味わえる。これはその後年末年始旅を続け、この記事を書いている現在も自宅の冷蔵庫の中だ。ある程度日持ちのするものなので、折を見ていただくことにしよう。

後は、京都で駅弁を買っていた。富山の「ますのすし」に加えて、メインとしたのは「京都料亭菜膳」。製造元は大阪の業者である水了軒だが、京都のおばんざいをさまざまに詰めた駅弁で、目で楽しめ、気分だけでも京都の料亭での一献ということにしよう。

煮物(京都でいう「炊いたん」)としては里芋、椎茸、人参などが並び、高野豆腐に出し巻き玉子、金平人参なども名を連ねる。さらには煮豆に湯葉、大根の膾。ご飯の上にはちりめん山椒。肉や煮魚、焼き魚、揚げ物などが濃い目のおかずが入っていない分、物足りない人には物足りないだろうが、たまにはこういうのもいいだろう。1080円と、最近の駅弁としては価格面でも良心的に見えた。最近では駅弁も平気で1200円、1500円はかかるだけに・・。

大晦日、何やかんやで飲みながらテレビもいろいろ見るうち、時間も結構経った。年越しそばは日清のどん兵衛で済ませ、いつしかテレビはお目当ての「吉田類の酒場放浪記」へ。そう、「あの番組」である。BS-TBSの年末特番で(だから、あるホテルでBS放送が映らないとわかって、東横インに変更した)、紅白よりも、他のバラエティ番組よりもこちらを楽しみにしていた。今回は西国街道を行くそうで、姫路に始まり、岡山県内、そして岩国へと向かうとある。地元広島にも近いところ。

場面はちょうど倉敷で、美観地区や酒蔵をまわった後に訪ねたのは「炉ばた焼 佑明次(ゆめじ)」。倉敷ということもあり、これは一度行ってみたいと思わせる。値段はそれなりするだろうが・・。

・・・泊まる前までは、このまま番組を見続けて午前0時の新年の時にはテレビ画面越しで吉田類さんとの乾杯を楽しみにしていた。しかし、現地に来て「三井の晩鐘での除夜の鐘」のお誘いのほうが勝った。22時前という早い時間で名残惜しいが、再び防寒に身を固めて、夜の三井寺に向かうのであった・・・。

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京都43番「伏見稲荷大社」~神仏霊場巡拝の道・39(戻って来たインバウンドとともに一ノ峯へ)

2023年01月06日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐりは大晦日、東寺~今熊野観音寺~泉涌寺を経て伏見稲荷大社にやって来た。東寺と伏見稲荷大社を1日で回るとは、ちょっとした京の冬の旅の趣である。

JRの稲荷駅を出るとすぐ正面に伏見稲荷の大鳥居が出迎える。大晦日であるが境内は早くも初詣モードのようで、大勢の参拝客が行き交っている。先ほどまでの札所とは大違いだ。

着物姿も人もあちこちで記念撮影している。そして、行き交う人たちの言葉といえば・・・中国語に韓国語、そしてベトナムかタイか、東南アジア系の言葉である。さらに西洋の人たちも数多い(西洋の人となると、アメリカなのかイギリスなのか、欧州のどこかなのか全然区別がつかない)。

伏見稲荷大社は京都の中でも外国人観光客が特に多いところ。特に朱塗りの千本鳥居が「クール」として人気で、旅行サイトでも日本で訪れたいスポットとして何年も連続して一位を獲得しているとか。コロナ禍となり外国人の入国が制限されると静かになっただが、このところ入国制限も緩和され、また外国人観光客の数も増えているそうだ。この先境内を回る中、日本人より外国人のほうが多いのでは?とすら感じたものだ(実際にはそんなことはなく日本人のほうが多いのだろうが、中国人や韓国人、東南アジア系というのは所かまわず大声でしゃべる習性があるので、余計に数が多く感じられるのだ)。

この日は大晦日だが、正月3ヶ日には例年250万人以上の初詣客がお参りするところ。コロナ禍の中では多少少ないのだろうが、インバウンドが戻ったところで正月はどれだけ混雑したことだろうか。

「朱印」の幟が並んでいたので、順序が逆だが先に朱印をいただくことにする。年末年始に臨時で設けられた場所のようだ。最初は「今は紙の書き置きのみで・・」と言われたが、神仏霊場の納経帳であることで手書きができないのかと詰め寄る。すると手書きの対応となった。別にクレーマーではなく、いや、朱印帳そのものも売ってますがな。そしてここの朱印帳を購入した人には「一緒に朱印させてもらいますね」という対応してたがな・・。

楼門をくぐり、拝殿の外からの参拝である。正月に向けてのお供え物がこれでもかと奉納されている。

大晦日ということで行列ができるわけではなく、お参りじたいはスムーズである。

伏見稲荷大社に参拝するのは何回目だろうか。広島に来る前の大阪勤務時代、会社の行事だから「公式参拝」といっていいだろう。年3回、それを10年あまり続けて参詣していた。年3回というのは年始、そして上半期はじめの4月、下半期はじめの10月である。

参拝にあたっては、まず安全祈願として寝屋川の成田山不動尊大阪別院(京阪電車の車両の端にも「成田山」の御札が掲げられている)に向かい、朝7時半からの護摩供を受ける。そして京阪電車で伏見稲荷まで移動して、伏見稲荷大社にて商売繁盛祈願。さらに、稲荷山の山頂・一ノ峯まで上り、末廣大神へのお参りというものだ。職場のトップ、そして管理職を中心にだいたい10数名の御一行なのだが、私はその先達・・じゃなくて仕事の一環として、成田山、伏見稲荷の祈祷の申し込み、当日のエスコートを行っていた。年3回の中でもっとも混雑するのはやはり年始の時で、正月3ヶ日ではなく成人の日絡みの連休の土曜日に行くのが通例だったが、特に伏見稲荷大社は会社関係を含めて祈祷の行列がすごく、祈祷1回分は待つことになる。そして次の回の祈祷でも満員となり、立ったままお祓いを受けることもあった。

西洋からの観光客は以前から目についていたが、2010年代半ばからは中国をはじめとしたアジアからのインバウンド客が年々増えて来た時である。特に千本鳥居では記念撮影などで渋滞が起こり、参詣のため一行より先に一ノ峯まで行く必要があった私、先を急ぐためそうした人たちに対して邪魔やと怒鳴ったこともあったなあ・・。

その時のいで立ちは上下スーツながら、リュックにスニーカー(一応、色はスーツに合うものを選んで)。少しでも早く一ノ峯に到達して、末廣大神へのお参りの準備をしなければというのがあった。

さて話を今の大晦日に戻すと、千本鳥居も大渋滞である。やはり外国人が再び訪ねるようになったのが大きいのではないかと思う。

先を急ぐのには早く一ノ峯の末廣大神に着くためだが、その後もタイトなスケジュールであるという理由があった。伏見稲荷大社の参拝後に、直会と称しての昼食がセットになっていた。10数名が行くので店は当然予約するのだが、数年で入れ替わる代々のトップによって傾向が変わっていった。あるトップの時は「せっかく伏見に来たのなら、伏見の酒を楽しまないと」ということで、伏見地区の酒蔵の直営レストランで一献というのが定番だった。また一方で、別のトップの時は「飲むのなら帰りのことも考えて大阪だろ」ということで、そのまま京阪、もしくはJRで大阪に戻ることもあった。その大阪でもキタもあれば心斎橋・ミナミもあり、京阪で便利な京橋もあった。ある時は蕎麦しゃぶ、ある時は会席、またある時は串カツ、果ては焼肉・・・といろいろあったなあ・・。いずれにせよ、これらの店の予約の時間があるから、なるべく早く伏見稲荷大社の一ノ峯をクリアする必要があった。

今思えば、「公式参拝」は建前でその後の食事が目的という向きもあったように思う。年3回の参拝はいずれも土曜日の朝にセッティングされており、昼ながら一献の席を設けることによって管理職への慰労、グチの場、さらに年始の時は新年会も兼ねていた。そして一次会の後、二次会、三次会に向かう有志もあった。

ただそうした場の武勇伝もいろいろあり、私がいた当時でひどいのになると、結局夜まで○次会として飲んだ挙句、帰宅途中の駅のホームで寝込んでしまい、気づいたら財布が入ったカバンが行方不明(盗難?)になった人もいた。安全と商売繁盛の祈願に来て、自分の財布がなくなってしまうのも何とも気の毒なことで・・・。

・・ただ、私が広島に異動する直前の2020年になると、コロナ禍もあったのだが、上記の要素に対して、祈願は業務の一環であり、管理職といえども土曜日の実質丸1日をそのように拘束するのはいかがなものかという声も出ていた。そのため、土曜日の参拝は取り止め、平日に、そして人数も絞って行くようになった。もちろん、アルコールが入った直会もなし。まあ、それが本来のあるべき姿だったのだろう。今もそのような形で続いているのかな。

・・・神仏霊場めぐりでは、なるべく寺社の歴史にも触れるようにしているのだが、こと伏見稲荷大社については、私の「公式参拝」の思い出が先行しているな・・・。

千本鳥居を抜けた奥社奉拝所まで来ると、参拝者が少し減る。この先、3年ぶりに一ノ峯まで上るのだが、今回は業務ではないし、時間は気にせずに進むことにしよう。

ただ、全くのプライベートでの参詣とはいえ、つい、先に行こうとしてしまう。参道にはさまざまな祠があり、それぞれにも由緒があるところだ。

先ほどから全体の数は減ったと刃いえ、すれ違うのは中国人、中国人、西洋人、中国人、日本人、西洋人、中国人、西洋人、東南アジア人、西洋人、日本人(順不同)・・・といった印象である。千本鳥居を抜けて混雑も多少緩和されたとはいえ、すれ違うのは相変わらず外国人が多いように思う。その中に日本人が交じっている・・というのがこの時の印象だった。

インバウンド客歓迎!、観光立国!と大いにPRするのも悪くはないが、その実、外国人が日本を訪ねる理由は別に日本文化に魅力があるわけではなく、円安の影響で安価に旅行ができるからだという指摘もある。情けない話だが、それが現実なのだろう。そう思うと、すれ違う人々の会話も日本を見下したもののように聞こえてくる(もちろん、そんな意図の人ばかりではないのだろうが)。

四ツ辻の休憩スポットも当然のことながら外国人に「占拠」されている。静かにしていればいいものの、国民性ゆえガヤガヤと母国語で会話するもので・・。もちろん、ガヤガヤとした会話もマナーの範囲内だし、彼らは何も悪いことをしていないのだが、私の中では、日本各地にある稲荷神社の総元締めがそんなんでええんか?という思いがこみ上げてくる。

気を取り直して三ノ峯から一ノ峯へと向かう。

その途中、石段でリヤカーを引っ張る人に出会う。見ればヤマト運輸のユニフォーム姿で、この上の店に物品の配達に向かうようだ。この上にはお供え物や飲料など扱う店があるのだが、こうしたところにも誰かが届けなければならない。これまでで初めて見た光景である。道を譲ってもらい、恐縮しながら先に進む。

一ノ峯に到着。ここまで40分ほど。途中の混雑もあり、時間を気にせずゆっくり上ろう・・と思っていたが、「公式参拝」の時とさほど変わらなかったと思う。

そして末廣大神に手を合わせる。例年なら、ここでミニ鳥居を奉納するところで、ひょっとしたら勤務先企業の名前が書かれた鳥居がないかと思ったが、大晦日ということでこれまでのものは撤去されており、奉納は「令和五年(2023年)元旦」「一月吉日」としたものばかりだった。初詣は大混雑するので、年内のうちに初詣ということで訪ねた人も結構いるようだ。

ここで手を合わせ、昔の思い出を振り返る。標高233メートルの山頂で、この数字をどう見るかは人それぞれだと思うが、「公式参拝」の時も、(決してサボタージュではなく)膝や足が悪いなどの諸事情で一ノ峯の参詣を見送った人も何人かいた。これまでの札所めぐりの中で、そもそも巡拝できることじたいが素晴らしいことで(時間、体力、経済力その他の要素を含めると)、一ノ峯まで来ることじたい改めてありがたいことだと思い返す。

その先の参道を下る。この帰り道の途中に私の勤務先企業が奉納した鳥居があり、しっかりその存在を確認した。ただ、奉納から10年以上経過しており、朱色もかなり色あせているように見える。また、他の企業、個人に比べても鳥居が小さいこともあり、それらと比べると思い入れが薄いように思う(そもそも、何で鳥居を奉納したのかな・・)。かといって、新しい鳥居を伏見稲荷に奉納しようという話も聞こえてこない・・・。まあ、このところの会社施策を見るに、そうしたことに目を向けることなどないだろうが・・・。

下りは35分と若干短く本殿まで戻って来た。何だか、この記事は自分の思いが前面に出たしまい、いつも以上に駄文になったと思う。「で、だから何?」という声が聞こえてきそうで申し訳ないのだが、そこはご容赦いただければ。

稲荷駅に戻り、JR奈良線にて京都に戻る。この先は、大晦日から元日にかけての宿泊先へ・・・。

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京都41番「泉涌寺」~神仏霊場巡拝の道・38(御寺泉涌寺も大晦日は静かに・・)

2023年01月05日 | 神仏霊場巡拝の道

2022年大晦日の神仏霊場めぐり。今熊野観音寺に続いて、この一帯の中心寺院である泉涌寺に着く。境内に人の姿はまばらである。

泉涌寺の実質的な開山は鎌倉時代、月輪大師俊仍(しゅんじょう)である。仁和寺や大覚寺と同様に皇室とのつながりが強く、一帯の月輪山には鎌倉時代、江戸時代の天皇陵がある。もっとも近い年代だと明治天皇の前の孝明天皇だから、遠い昔の話ではない。

拝観料を納め、まずは山門を入ってすぐ左手にある楊貴妃観音堂に向かう。唐の楊貴妃をモデルにした観音像で、鎌倉時代に南宋から勧請したという。秘仏ではなくこの観音堂で拝むことができる。堂内は暗いので遠くに観音像が祀られているなという感想だが、近くから撮影した写真が飾られていて、そこで表情をうかがうことができる。当時の美の基準としてはふっくら、ふくよかさというのがあったこともあり、楊貴妃というのは観音様のような、人を包み込むような魅力があったのかなとうかがえる。

なお、楊貴妃観音の口の上下には口ひげが描かれているという声も結構ある。それに対する泉涌寺の見解では、ひげではなく慈悲を表す口の動きを表現したものだという。

楊貴妃といえば、中国四十九薬師めぐりで訪ねた長門市にある(札所ではないが)二尊院を思い出す。楊貴妃は安史の乱にて捕えられて刑死したが、実は落ち延びて海を渡り、長門にやって来たの言い伝えがある。そして余生をのんびり過ごしたかどうかはわからないが、長門で亡くなったとされ、墓が残っている。

宝物館にあたる心照殿に入る。先ほどの楊貴妃観音も含めた泉涌寺の歴史について触れられている。開山の月輪大師俊の紹介もある。そして、皇室と泉涌寺のつながりの紹介として、泉涌寺に祀られている位牌の文字の写しなどが展示されている。

皇室といえば神道だろうと思う。ただ、それは明治以降の神仏分離、廃仏毀釈の影響によるもので、長い歴史を見れば寺院とのつながりも強いものである。古くは仏教による鎮護国家があり、平安時代以降も天皇が出家して法皇を称したり、皇族から寺院の住職を出した歴史がある門跡寺院も京都を中心に数多く存在する。さすがに現在は政教分離の建前があるので国費から支出はできないが、有志により「御寺泉涌寺を守る会」が設立され、現在は秋篠宮殿下が総裁となっている。

山門から少し坂を下るこの景色もいいものだ。

仏殿に入る。寺じたいは真言宗だが、建物は禅宗様式で、江戸時代の再建である。こちらは過去・現在・未来を表す釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来の三体が本尊として祀られていて、神仏霊場めぐりとしてはどれというより三位一体だろうということで、ここでお勤めとする。

その奥は霊明殿や海会堂など、歴代天皇の位牌が安置される一角に向かう。

本坊の玄関が納経所となっており、こちらで神仏霊場の朱印をいただく。文字は霊明殿で、菊の御紋も入る。

そしてせっかくなのでここから御座所を拝観することに。侍従の間、勅使の間、女官の間など、それぞれの部屋に御所から移した障壁画が使われている。

最後は玉座の間。現在の天皇陛下が即位の報告に京都を訪れた際、皇室の位牌がある泉涌寺にも立ち寄り、ここで休息したとある。ここからの庭園の眺め。

さて、これで今回の目的地である泉涌寺まで来たことで、次の行き先を決めるあみだくじに移ってよいのだが、現在の時刻は12時前。午後からもう1~2ヶ所行けるだろう。そして、記事ではまだ明らかにしていないが今夜の宿泊先に向かい、そして元日に行くところも先に決めている。あみだくじはその時だ。

その午後からの行き先だが、地図を見ると少し北に行くと智積院、妙法院といった寺院がある。先ほど乗って来た系統のバスに乗ればそのまま七条まで行くことができるし、京都駅にもほど近い。

一方、南に目を転じると伏見稲荷大社がある。ここも神仏霊場に含まれているのか。ちょっと考えた末、大阪時代にはよく参拝に訪れていた伏見稲荷に久しぶりに行くことにする。泉涌寺道のバス停を過ぎ、東福寺の駅まで歩く。伏見稲荷へもJR、京阪それぞれの駅があるが、正面に近い稲荷駅からお参りしようとJRに乗る。

そして隣の稲荷駅に到着。決して広くないホームには多くの人たちが降り立った・・・。

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京都42番「今熊野観音寺」~神仏霊場巡拝の道・37(頭痛封じ、ぼけ封じ)

2023年01月04日 | 神仏霊場巡拝の道

東寺を参詣後、京都市バスの202系統に乗る。この系統は市内循環ルートで、九条車庫前を起点として東福寺、清水五条、丸太町、西大路などを経由する。事前に意図していたわけではないが、泉涌寺の一帯を訪ねるのにちょうどよいということで移動する。

泉涌寺道で下車。今熊野観音寺への案内板に見覚えがある。ちょうどJR・京阪の東福寺駅からの徒歩道の中間点にあたるところで、寺へのアクセスも短縮できた。

総門をくぐり、七福神の幟が並ぶ参道を歩く。京都では「都七福神めぐり」が有名だが、他にもさまざまな七福神めぐりがあり、こちらでは泉涌寺の塔頭寺院をめぐるそうだ。ちなみに、これから向かう今熊野観音寺は恵比寿神の担当だとか。

今熊野観音寺に到着。子どもと戯れる弘法大師像が出迎える。さまざまな表情を見せるのが弘法大師である。今熊野観音寺を開いたのは弘法大師とされ、この地で熊野権現に出会い、十一面観音菩薩像を授かったことからこの地にお堂を立てたのがはじめとされている。後に本家の熊野三山に対して今熊野と呼ばれ、熱心な熊野三山の信者であった後白河法皇も、さすがにそうしょっちゅうは熊野まで行くことができないため、近場の今熊野を保護したという。この観音寺に参詣して持病の頭痛が治ったことから、頭痛封じの寺としても信仰を集めている。

ちょうど寺では初詣の準備ということで寺の方がいろいろバタバタした様子。他の参詣者の姿もまばらである。その中で本堂に上がり、外陣でのお勤めとする。

朱印をいただく。こちらは西国三十三所の第15番札所でもあり、こちらの4巡目の重ね印もいただく。同じ寺でも、書き手によって字体も結構変わるものだ。

また今熊野観音寺はぼけ封じのご利益もあるという。実は私の母親、80歳手前なのだが昨年(2022年)検査にて軽度の認知障害が出た。今のところ日常生活に支障が出ているわけではないが、一応外来に通院しているし、症状が進まないようこちらも祈願する。

これで今熊野観音寺を終え、次はもう少し坂道を上り、本山である泉涌寺へ・・・。

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京都4番「教王護国寺(東寺)~神仏霊場巡拝の道・36(ゆく年くる年を祈る)

2023年01月02日 | 神仏霊場巡拝の道

年末年始の神仏霊場巡拝の道めぐり。今回の目的地は京都41番の泉涌寺であるが、これにプラスして他の寺社もめぐることにしている。

30日夜は大阪ミナミでの忘年会の後、阪神尼崎にて宿泊。バイキング式の朝食を済ませた後、まずは阪神で梅田に向かう(乗ったのは山陽電車からの直通特急)。

泉涌寺の最寄り駅はJR、京阪の東福寺で、まずはJRの大阪から京都まで移動する。そうすると、京都市内に数多くある札所の中で、京都4番の教王護国寺(この後は一般的な「東寺」の名称で書くことにする)がポツンと存在するので、先に東寺に参詣し、その後泉涌寺、そしてその塔頭寺院であり西国三十三所第15番である今熊野観音寺に行くことにした。おそらく泉涌寺まで行っても時間があるので、そこから近いところをもう少し回ることにする。そして、宿泊地にて年越しだ。

大阪8時ちょうど発の新快速に乗り、京都に到着。コインロッカーに荷物を預ける。年末年始、京都にもだいぶ観光客は戻っているようだが、さすがにこの時間ならコインロッカーの空きも十分で、スムーズに預けることができた。

東寺といえば近鉄京都線にその名前の駅があるが、京都駅から徒歩で15分ほどで行ける。油小路通(国道1号線の一部)から東寺通に進む。イオンモールの立派な建物の向かいに朱塗りの鳥居が建つ一角があり、「伏見稲荷大社御旅所」とある。伏見稲荷大社の例大祭で神輿が出て、一時ここにとどまるための場所だという。

東寺の東門に着く。境内では初詣に備え、絵馬記入や祈祷の申し込みのためのテントの設営が進んでいる。

東寺は無料で参詣できるところと有料拝観エリアが分かれている。国宝の五重塔や金堂、重要文化財の講堂のあるエリアはフェンスで区切られていて、有料拝観エリアである。神仏霊場めぐりの本尊はどれになるのかなと思いつつ、せっかくなので拝観エリアに入る。

改めて東寺の歴史を紹介すると、元々は平安京を建設するにあたり、国家鎮護の寺として建立が進められた。後に弘法大師が嵯峨天皇から東寺を下賜され、国家鎮護とともに真言密教の根本道場となった。その後は一時衰退したが、弘法大師信仰の広まりとともに皇族、貴族から一般庶民まで多くの人が参詣するようになった。

それにしても、神仏霊場めぐりは前回高野山金剛峯寺に行っており、奇しくも続けて弘法大師、真言宗の根本道場を訪ねることになった。

まずは五重塔へ。特別拝観の時だけ扉が開かれるということでこの日は閉まっていたが、下から見上げて改めてその高さを実感する。高さ54.8メートルは木造の五重塔として日本一で、新幹線や近鉄京都線の高架から見ると京都に来たことを実感させるスポットである。五重塔は弘法大師の入定後に完成したそうだが、その後数度の火災に遭い、現在の建物は江戸時代、徳川家光の寄進による。

続いて金堂へ。こちらも現在の建物は江戸時代、豊臣秀頼の寄進によるという。建物は豊臣秀吉が建立した方広寺の大仏殿を模したものとされる。内部の拝観ができ、横の扉から中に入る。中央には金堂の本尊・薬師如来が祀られ、脇には日光・月光菩薩、そして十二神将の「チーム薬師」が祀られている。東寺の本堂に当たる建物ということで、まずはここでお勤めとする。

そして講堂へ。こちらは室町時代に再建された建物が現在まで受け継がれている。金堂と同じように横の扉から中に入る。こちらは大日如来をはじめとした諸仏がずらりと並び、うなるばかりである。この建物の中で、大日如来をはじめとした五智如来、金剛波羅蜜多菩薩をはじめとした五大菩薩、そして不動明王をはじめとした五大明王が並ぶ。両サイドには四天王、帝釈天、梵天という諸仏が控えている。この21体の並びは立体曼荼羅を表しているとされ、弘法大師の構想だとされている。元々絵図の形で示されていた曼荼羅の世界を3Dにしたようなものだろう。東寺としてはこちらが本尊なのかなと思いつつ、もう一度お勤めである。

さて、朱印は無料エリアにある食堂で各種引き受けるとあるが、その前に、同じ無料エリアにある御影堂に向かう。こちらも国宝の建物だ。あまり有料、無料と書くといやらしく感じるかもしれないが、国宝、重要文化財の仏像が並ぶエリアはやはり文化財保護の観点から有料とした一方で、弘法大師のお参り、お勤めは一般に広く、気軽に行ってもらおうという心遣いなのかもしれない。

そういえば私が東寺に来たのは、2016年~2019年にかけて行った四国八十八ヶ所めぐりの前段の時以来である。四国に向かうにあたり、京都での「三弘法めぐり」で訪ねた。江戸時代以降、四国八十八ヶ所めぐりの無事を祈願して、あるいはお礼参りとして、東寺、神光院、そして仁和寺の3ヶ所をめぐることが行われるようになった。

外陣に上がってのお勤め。コロナ対策ということで外陣に上がれるのは椅子の定員まで、満席の場合は御影堂の外からお勤めするようにとある。年が明けると多くの人たちが参詣することだろう。これまでの年を送り、新たな年を迎える気持ちでもう一度お勤めとする。

最後に食堂へ。こちらは昭和の再建で、先ほど触れたように各種朱印はここで一括して受け付けるとある。それぞれのお堂の本尊が異なるため、サンプルによると全部で9種類ある。朱印集めにこだわってコンプリートする人もいるだろうが、私は神仏霊場の納経帳を差し出す。神仏霊場めぐりの場合、もっとも代表的なものとして「弘法大師」と書いてくれる。

さてこれで東寺を回り終えた。次は今熊野観音寺、泉涌寺がある東福寺近辺に向かう(ちなみに東福寺は神仏霊場の札所には入っていない)。もう一度京都駅まで歩き、JR奈良線で1駅、東福寺まで移動して歩こうかと思ったが、地図で見ると東寺の南側を走る九条通(これも国道1号線の一部)をそのまま東にたどると、東福寺近辺にぶち当たることがわかる。ならば、この道を経由するバスがあるのではないか。

南大門から外に出る。本来なら東寺の正門はこちらのようだ。外に出ると九条大宮バス停があり、果たして九条通を経由して清水五条、祇園方面に向かう系統がある。近鉄の東寺、地下鉄の九条、そしてJR・京阪の東福寺も結ぶ。バスの系統の下調べをしていなかったのだが、現地でこうした発見をするのも京都のめぐり方の一つの楽しみ化と思ってしまう・・・。

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2023年元日

2023年01月01日 | ブログ
2023年元日

新たな年が皆様にとって良き一年になりますように。

拙ブログもよろしくお願いします。
(画像 琵琶湖上ミシガンより初日の出)
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