2000年の春、桜が満開だった丁度わたしの誕生日に、わたし達はアメリカに移住した。
旦那は生まれて初めての会社員になり、マンハッタンへの通勤が始まった。
前々から彼自身が認めていたことだけど、よほど会社員という職種が嫌いだったらしく、
彼は日に日に荒れていき、わたしはまるで腫れ物にでも触るように、ビクビクしながら毎日を過ごした。
わたしはわたしで、ちょっとそこまで行くのに車に乗ると迷ってしまい、またかーと呆れる息子達を後ろに乗せて泣きそうな気分で運転したり、
日本だと簡単に済む手続きの電話(例えば電気会社や病院や学校)が、どんなに頑張っても最後まで進まず、途中で切らなければならなかったり、
スーパーのレジ係に、とてもつまらない小さなことでバカにされたり、
そんなことが続いていくうちに、43年生きて自然に持てていた自信が、まるでそんなものは最初っから無かったかのように消えていった。
かなり落ち込んだまま、翌年2001年の夏に息子達と一緒に日本に行き、忙しくもそれなりに楽しい旅行を終えて帰ったら、
空港まで迎えに来てくれた旦那が、家までの車中で、9月初めに会社をクビになると思う、とボソリと言った。
日本での厳しい生活から一転して、高給取りの会社員になった旦那。
だから、それに見合った家賃の家に引っ越した。
ピアノを教えるのも、1にも2にも生活のため!ではなくて、少し気楽になった。
そして失業……。
くよくよしてもしゃあないやん。もうここで暮らすって決めたんやし、きっぱり決めて生きてたらなんとでもなるわ。
なんでもいいからお金が必要だった。どんな小さな用でも、頼まれて、しかもお金をいただけるならありがたい。
マンハッタンに住む友人夫婦の赤ちゃんが急に熱を出してしまい、けれどもその日はどうしても欠席できない会議があるので、
悪いけれど、家まで来て、ベビーシッターをしてもらえないだろうか、と頼まれた。
もちろんわたしは二つ返事で引き受けた。旦那の失業保険は週に400ドル。家賃さえも払えない。
その日の朝、家の近くのバス停で8時10分のバスを待っていた時、空があんまりきれいに晴れていたので、そこに居た人達と空に乾杯をした。
その青は、キリリと澄んで、体に流れ込む空気までうっすらと青い感じがした。
ハドソン河を横切るリンカーントンネルに向かうスロープが近づくにつれ、おなじみの渋滞が始まった。
マンハッタンの街が一望にできる、その見晴らしの良い位置は、天気の良さも手伝って、乗客は皆、渋滞なんか全く気にせず、その景色を楽しんでいた。
「Oh my God!」
その悲鳴が聞こえた時、わたしの視覚の中に、大きな鳥のような飛行機が入っていた。
スローモーションのようにゆっくりと、けれどもしっかりと決めたように、それは高いビルに向かって行って、
ものすごい煙と、キラキラ光る銀色の金属片と、オレンジ色の美しい炎になった。
あの瞬間、わたしはなぜ、きれいだなあ、などと思ったのか。
バスは完全にストップし、車内は悲鳴と、怒鳴り声と、携帯をかけようとして叶わず暴言を吐く人だらけになった。
そしてまた一機……。
急に車内はシーンとして、皆は呆然としたまま、数人の女性が泣き始めた。
聞こえてくるのは、バスの運転手とバス会社が交信する無線の声と雑音だけ。
「事故ではなく、テロの怖れがあるので、トンネルの手前で乗り換えてニュージャージーに戻って欲しい。どうしても行かなければならない人だけこのバスに残るように」
満席の乗客のうち、3人だけがバスに残った。そのうちの1人がわたしだった。
街はものすごく混乱していて、閑散と混雑と興奮と憤りが入り交じっていた。
トンネルと橋は閉鎖されてしまい、夕方になって唯一動き出したフェリーに乗って、ニュージャージーに戻ることにした。
何重にも折れ曲がった行列に並び、軍用車と救急車と消防車だけが南に向かって行くのを見ていた。
献血をする大勢の人達、
自分の庭からありったけのバラをバケツに入れて、これが少しでもあなたの慰めになりますように、と手渡してくれた男性、
いつもは商売しているワゴンの水を、配り歩く男性、
人間ってなんなんだろう。
フェリーは、いつものコースを変更して現場の近くを横切り、慰霊の汽笛を何度も鳴らした。
大人も子供も、男性も女性も、皆、声をあげずに涙を流していた。
すっかり日が暮れたニュージャージー側の港には、異様に大きなテントが三基張られていて、
乗客は全員、有無を言わさず、服も鞄もそのままに、頭のてっぺんからつま先まで、念入りな放水を受けた。
全身からポトポトと水滴を垂らしながら乗った電車にはクーラーがかかっていて、わたし達はガタガタと震えながら揺られた。
世界には、いろんな人が生きている。
生きていくうちに、どんなふうに折れ曲がって、どんなふうにおかしくなっていったら、こんなことになるのか、
大きくなり過ぎた国と、いつだって忘れられている国。
ただそれだけでは説明にならない。
あの日、呆然と通りに立ち、言葉も表情も失った人達が、何度も繰り返しつぶやいていた「なぜ?」。
それをわたしははっきりしないまま、できないまま、他人事にして暮らしている。
できれば、その手の人災に、自分も家族も巻き込まれないことを祈りながら。
911 あの日、いったい何人の人が、救いを求めてこの番号を押したのだろう。
旦那は生まれて初めての会社員になり、マンハッタンへの通勤が始まった。
前々から彼自身が認めていたことだけど、よほど会社員という職種が嫌いだったらしく、
彼は日に日に荒れていき、わたしはまるで腫れ物にでも触るように、ビクビクしながら毎日を過ごした。
わたしはわたしで、ちょっとそこまで行くのに車に乗ると迷ってしまい、またかーと呆れる息子達を後ろに乗せて泣きそうな気分で運転したり、
日本だと簡単に済む手続きの電話(例えば電気会社や病院や学校)が、どんなに頑張っても最後まで進まず、途中で切らなければならなかったり、
スーパーのレジ係に、とてもつまらない小さなことでバカにされたり、
そんなことが続いていくうちに、43年生きて自然に持てていた自信が、まるでそんなものは最初っから無かったかのように消えていった。
かなり落ち込んだまま、翌年2001年の夏に息子達と一緒に日本に行き、忙しくもそれなりに楽しい旅行を終えて帰ったら、
空港まで迎えに来てくれた旦那が、家までの車中で、9月初めに会社をクビになると思う、とボソリと言った。
日本での厳しい生活から一転して、高給取りの会社員になった旦那。
だから、それに見合った家賃の家に引っ越した。
ピアノを教えるのも、1にも2にも生活のため!ではなくて、少し気楽になった。
そして失業……。
くよくよしてもしゃあないやん。もうここで暮らすって決めたんやし、きっぱり決めて生きてたらなんとでもなるわ。
なんでもいいからお金が必要だった。どんな小さな用でも、頼まれて、しかもお金をいただけるならありがたい。
マンハッタンに住む友人夫婦の赤ちゃんが急に熱を出してしまい、けれどもその日はどうしても欠席できない会議があるので、
悪いけれど、家まで来て、ベビーシッターをしてもらえないだろうか、と頼まれた。
もちろんわたしは二つ返事で引き受けた。旦那の失業保険は週に400ドル。家賃さえも払えない。
その日の朝、家の近くのバス停で8時10分のバスを待っていた時、空があんまりきれいに晴れていたので、そこに居た人達と空に乾杯をした。
その青は、キリリと澄んで、体に流れ込む空気までうっすらと青い感じがした。
ハドソン河を横切るリンカーントンネルに向かうスロープが近づくにつれ、おなじみの渋滞が始まった。
マンハッタンの街が一望にできる、その見晴らしの良い位置は、天気の良さも手伝って、乗客は皆、渋滞なんか全く気にせず、その景色を楽しんでいた。
「Oh my God!」
その悲鳴が聞こえた時、わたしの視覚の中に、大きな鳥のような飛行機が入っていた。
スローモーションのようにゆっくりと、けれどもしっかりと決めたように、それは高いビルに向かって行って、
ものすごい煙と、キラキラ光る銀色の金属片と、オレンジ色の美しい炎になった。
あの瞬間、わたしはなぜ、きれいだなあ、などと思ったのか。
バスは完全にストップし、車内は悲鳴と、怒鳴り声と、携帯をかけようとして叶わず暴言を吐く人だらけになった。
そしてまた一機……。
急に車内はシーンとして、皆は呆然としたまま、数人の女性が泣き始めた。
聞こえてくるのは、バスの運転手とバス会社が交信する無線の声と雑音だけ。
「事故ではなく、テロの怖れがあるので、トンネルの手前で乗り換えてニュージャージーに戻って欲しい。どうしても行かなければならない人だけこのバスに残るように」
満席の乗客のうち、3人だけがバスに残った。そのうちの1人がわたしだった。
街はものすごく混乱していて、閑散と混雑と興奮と憤りが入り交じっていた。
トンネルと橋は閉鎖されてしまい、夕方になって唯一動き出したフェリーに乗って、ニュージャージーに戻ることにした。
何重にも折れ曲がった行列に並び、軍用車と救急車と消防車だけが南に向かって行くのを見ていた。
献血をする大勢の人達、
自分の庭からありったけのバラをバケツに入れて、これが少しでもあなたの慰めになりますように、と手渡してくれた男性、
いつもは商売しているワゴンの水を、配り歩く男性、
人間ってなんなんだろう。
フェリーは、いつものコースを変更して現場の近くを横切り、慰霊の汽笛を何度も鳴らした。
大人も子供も、男性も女性も、皆、声をあげずに涙を流していた。
すっかり日が暮れたニュージャージー側の港には、異様に大きなテントが三基張られていて、
乗客は全員、有無を言わさず、服も鞄もそのままに、頭のてっぺんからつま先まで、念入りな放水を受けた。
全身からポトポトと水滴を垂らしながら乗った電車にはクーラーがかかっていて、わたし達はガタガタと震えながら揺られた。
世界には、いろんな人が生きている。
生きていくうちに、どんなふうに折れ曲がって、どんなふうにおかしくなっていったら、こんなことになるのか、
大きくなり過ぎた国と、いつだって忘れられている国。
ただそれだけでは説明にならない。
あの日、呆然と通りに立ち、言葉も表情も失った人達が、何度も繰り返しつぶやいていた「なぜ?」。
それをわたしははっきりしないまま、できないまま、他人事にして暮らしている。
できれば、その手の人災に、自分も家族も巻き込まれないことを祈りながら。
911 あの日、いったい何人の人が、救いを求めてこの番号を押したのだろう。