1992年の5月、わたしと息子達は大津に移り、旦那は京都のアパートから通い夫&義理のとうちゃんをしに時々やって来た。
旦那は当時27才、異国の地での家族ごっこを始めるにはやっぱりまだ恐かっただろうし、
元夫や彼の両親が、息子(孫)逢いたさにやって来るかもしれなかった。
わたしも息子達も、田舎の家を物理的には出てきたけれど、心はまだまだいろんな影を追っていて、
天井近くに居座ったなんとも重苦しい空気は、窓をどんなに開け放しても、そこから出ていこうとはしてくれなかった。
息子Tが通う幼稚園を探している間、気分晴らしに、3人で公園という公園をはしごした。
長等公園、なぎさ公園、皇子山公園、それから町のあちこちにある小さな公園。
初夏のある日、4人で長等公園に遊びに行った。チビ達のお目当てはブランコ。
旦那は張り切って、TとKを順番にブランコに乗せ、いろんな押し方をして喜ばせていた。
ブランコは4つあった。わたしはその時、Kのすぐ横のブランコで足を地面についたままユラユラさせていた。
Kの乗ったブランコの両端に、仁王立ちの格好で乗った旦那が、Kを乗せたままゆっくり立ちこぎを始めた。
Kは大喜び。まだ4才にもなっていない彼には、そんなに大きく揺れることなんてできないのだもの。
でも……少し勢いがあり過ぎる。横でどんどん大きく振れていくブランコ。危ないよ!
急にとても恐ろしい気持ちになったその時、「こわい」……小さなKの声が耳をよぎった。
ハッとして横を向いたわたしが見た光景は、今でもわたしを震え上がらせる。
ほぼ真横まで上がった、その最上の地点で、Kの両手はブランコから離れ、彼は空中ブランコのサーカス団員みたいに、
上半身を逆さまにしたまま地上に向かって降りてきて、そこで1度、首が折れたかと思うほど強く頭を打ち、そのまままた上に上がって行った。
そしてその高さから地面に仰向けのままドスンと落ちた。
息もせず、ピクリとも動かず、Kは薄目を開けたまま横たわっていた。
わたしは自分でも聞いたことのない声でKの名前を呼び、周りにいる人に助けを求め、天を仰いで助けを乞うた。
すぐ横で、気が狂ったように叫ぶ母親と動かなくなった弟の姿を見ていたTも、声をあげて泣いていた。
旦那は自分のしたことにショックを受け、何も言わずに、近くにある日赤病院の方向に走って行った。
何分経ったのだろう。ほんの数分だったに違いないけれど、あの数分のどうしようもない静けさは、今思い出しても恐ろしい。
Kの唇が微かに動いて、「ウー」という小さな、けれども生きている証が聞こえた。
わたしは「生きてる!ああ神様、生きてる!」と叫びながら、彼の頭をそっと抱えようとした。
彼の頭の後ろ側の地面には、大量の血が溜まっていた。
仰天したわたしは、自分のTシャツを脱ぎ、それを丸めて彼の頭に当てた。
シャツにどんどん血が染み込んできて、わたしにはそれが彼の命が流れ出しているように思えた。
その間も、わたしはずうっと周りの人に助けを求めていた。
遠巻きに、それでも立ち去らずに見ている人達は、とうとう1人として近づいて来てはくれなかった。
旦那は日赤の救急窓口に飛び込み、日本語で説明したのに、彼の形相に驚いたのか、誰も理解してくれなかった。
困った旦那は、病院から出てすぐの駐車場に停まっていた夜勤明けの看護士の車に乗り込み、半強制的に車を公園まで走らせた。
Kの後頭部に空いた穴は大きく深く、砂がたくさん入ってしまっていたので、治療はとても残酷なものになった。
怪我が怪我だけに、24時間、深刻な状態が続いた。何回も吐き、ぐったりし、そのたびに彼の脈を探し求めた。
わたしはこの半年前に、息子Tを失いかけた。
離婚をはっきりと決めたのに、それを隠し続けながら元夫や夫の両親と暮らしていたあの頃、
生徒の発表会やコンクールのためのレッスンに忙しく、体調を崩していたTをちゃんと看てあげなかったばかりか、
こんな忙しい時に限って旅行に出かけた両親への腹いせに、ぐったりしているTを仕事場に連れて行き、椅子を並べて寝かせた。
その翌日、彼は家の廊下を歩きながら気を失い、運び込んだ病院で、重篤な肺炎と肋膜炎を併発していると診断された。
TもKも、わたしの身勝手な生き方のせいで、こんな目に遭ったのだと思った。
わたしに与える罰を、わたしがこの世で最も大切だと思う息子達を痛めつけることで強めているのだと思った。
息子達と離ればなれにされた人達の、その哀しみがどんなに強く深いものなのか、それをわたしに知らしめようとしているのだと思った。
どちらの時も、小さな、けれども温かな手を握って、ごめんな、こんなおかあさんを許してなと、心の中で謝った。
わたしはろくな母親ではないけれど、子供を殺さずに、子供に死なれずに今までこられた。
その幸運は、他のどんな幸運にも代えられない。
だからわたしは、一日の終わりに必ずありがとうと言って眠る。
これからも、わたしに最後の日が訪れるまで、毎晩ありがとうと言って眠りたい。
旦那は当時27才、異国の地での家族ごっこを始めるにはやっぱりまだ恐かっただろうし、
元夫や彼の両親が、息子(孫)逢いたさにやって来るかもしれなかった。
わたしも息子達も、田舎の家を物理的には出てきたけれど、心はまだまだいろんな影を追っていて、
天井近くに居座ったなんとも重苦しい空気は、窓をどんなに開け放しても、そこから出ていこうとはしてくれなかった。
息子Tが通う幼稚園を探している間、気分晴らしに、3人で公園という公園をはしごした。
長等公園、なぎさ公園、皇子山公園、それから町のあちこちにある小さな公園。
初夏のある日、4人で長等公園に遊びに行った。チビ達のお目当てはブランコ。
旦那は張り切って、TとKを順番にブランコに乗せ、いろんな押し方をして喜ばせていた。
ブランコは4つあった。わたしはその時、Kのすぐ横のブランコで足を地面についたままユラユラさせていた。
Kの乗ったブランコの両端に、仁王立ちの格好で乗った旦那が、Kを乗せたままゆっくり立ちこぎを始めた。
Kは大喜び。まだ4才にもなっていない彼には、そんなに大きく揺れることなんてできないのだもの。
でも……少し勢いがあり過ぎる。横でどんどん大きく振れていくブランコ。危ないよ!
急にとても恐ろしい気持ちになったその時、「こわい」……小さなKの声が耳をよぎった。
ハッとして横を向いたわたしが見た光景は、今でもわたしを震え上がらせる。
ほぼ真横まで上がった、その最上の地点で、Kの両手はブランコから離れ、彼は空中ブランコのサーカス団員みたいに、
上半身を逆さまにしたまま地上に向かって降りてきて、そこで1度、首が折れたかと思うほど強く頭を打ち、そのまままた上に上がって行った。
そしてその高さから地面に仰向けのままドスンと落ちた。
息もせず、ピクリとも動かず、Kは薄目を開けたまま横たわっていた。
わたしは自分でも聞いたことのない声でKの名前を呼び、周りにいる人に助けを求め、天を仰いで助けを乞うた。
すぐ横で、気が狂ったように叫ぶ母親と動かなくなった弟の姿を見ていたTも、声をあげて泣いていた。
旦那は自分のしたことにショックを受け、何も言わずに、近くにある日赤病院の方向に走って行った。
何分経ったのだろう。ほんの数分だったに違いないけれど、あの数分のどうしようもない静けさは、今思い出しても恐ろしい。
Kの唇が微かに動いて、「ウー」という小さな、けれども生きている証が聞こえた。
わたしは「生きてる!ああ神様、生きてる!」と叫びながら、彼の頭をそっと抱えようとした。
彼の頭の後ろ側の地面には、大量の血が溜まっていた。
仰天したわたしは、自分のTシャツを脱ぎ、それを丸めて彼の頭に当てた。
シャツにどんどん血が染み込んできて、わたしにはそれが彼の命が流れ出しているように思えた。
その間も、わたしはずうっと周りの人に助けを求めていた。
遠巻きに、それでも立ち去らずに見ている人達は、とうとう1人として近づいて来てはくれなかった。
旦那は日赤の救急窓口に飛び込み、日本語で説明したのに、彼の形相に驚いたのか、誰も理解してくれなかった。
困った旦那は、病院から出てすぐの駐車場に停まっていた夜勤明けの看護士の車に乗り込み、半強制的に車を公園まで走らせた。
Kの後頭部に空いた穴は大きく深く、砂がたくさん入ってしまっていたので、治療はとても残酷なものになった。
怪我が怪我だけに、24時間、深刻な状態が続いた。何回も吐き、ぐったりし、そのたびに彼の脈を探し求めた。
わたしはこの半年前に、息子Tを失いかけた。
離婚をはっきりと決めたのに、それを隠し続けながら元夫や夫の両親と暮らしていたあの頃、
生徒の発表会やコンクールのためのレッスンに忙しく、体調を崩していたTをちゃんと看てあげなかったばかりか、
こんな忙しい時に限って旅行に出かけた両親への腹いせに、ぐったりしているTを仕事場に連れて行き、椅子を並べて寝かせた。
その翌日、彼は家の廊下を歩きながら気を失い、運び込んだ病院で、重篤な肺炎と肋膜炎を併発していると診断された。
TもKも、わたしの身勝手な生き方のせいで、こんな目に遭ったのだと思った。
わたしに与える罰を、わたしがこの世で最も大切だと思う息子達を痛めつけることで強めているのだと思った。
息子達と離ればなれにされた人達の、その哀しみがどんなに強く深いものなのか、それをわたしに知らしめようとしているのだと思った。
どちらの時も、小さな、けれども温かな手を握って、ごめんな、こんなおかあさんを許してなと、心の中で謝った。
わたしはろくな母親ではないけれど、子供を殺さずに、子供に死なれずに今までこられた。
その幸運は、他のどんな幸運にも代えられない。
だからわたしは、一日の終わりに必ずありがとうと言って眠る。
これからも、わたしに最後の日が訪れるまで、毎晩ありがとうと言って眠りたい。