ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

汚染心

2008年09月17日 | ひとりごと
儲かったらそれでいいのね。

そのお米がどこに流れていって、どんなふうに加工されるかなんて、全然関係無いのね。

その粉ミルクを飲んだ、まだ生まれて間もない、内蔵もしっかりしていない、そしてそのミルクだけが命綱の赤ん坊に、
もしかしたら悪い影響が出るかもしれないなんて、思いもしなかったのね。

なんだかもう、あまりに想像力が欠落し過ぎているのが恐ろしいです。
金儲けのことだけしか頭に無かったとか、
それとも自己保身とか……、
まあ、あんなことを考えたりしたりする連中の頭の中を想像しても仕方がないけれど……。

長くなりますが、1955年に発覚した森永ヒ素ミルク事件の概略をここに載せておきます。

『森永乳業は1953年頃(昭和28年)から全国の工場で乳製品の溶解度を高める為、
安価であるという理由から工業用のヒ素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していたが、
1955年に徳島工場が製造した缶入り粉ミルク(代用乳)「森永ドライミルク」の製造過程で用いられた添加物・工業用の第二燐酸ソーダ中に不純物としてヒ素が含まれていたため、
これを飲んだ1万3千名もの乳児がヒ素中毒になり、130名以上の中毒による死亡者も出た。

1955年当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。
1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ事件として発覚することとなる。

1956年当時の厚生省の発表によると、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は12,344人で、
うち死亡者130名と言われているが、当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。
また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。

患者は、現在も脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神疾患等の重複障害に苦しみ、
手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。
また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に封じ込められたりした被害者や、
ミルクを飲ませた自責の念で、今なお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多い』


わたしは1957年生まれです。母乳ではなく、森永の粉ミルクで育ちました。危機一髪だったんですね。
で、森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことでした。
今の時代だったら考えられないことです。

そんなこともあって、粉ミルクのことはなんとなく胸につっかえる事柄だったのですが、
息子達が生まれた時、母体としてのわたしはほとんど生き残れるかどうかの瀬戸際状態だったので、
母乳どころではなく、粉ミルクを与えなければなりませんでした。無念でした。
なにも根拠は無かったけれど、粉ミルクの成分内容を異常な熱心さで調べた記憶があります。
母乳で育てられない哀しさと、粉の本当の内容を知り得ることができない焦り、
そこに、自分のかけがえのない小さな赤ちゃんが、みるみるうちに容態が悪くなり重篤に陥ったりしたら……、
わたしなら、特に赤ん坊を産んで間もない、心も体も本調子ではなかったわたしなら、きっと気が狂っていたかもしれません。

悪いことをしてはいけません。
せめて、これらのことから学んで欲しいと思います。
っていうか、わたしは単純で少々過激なことを考える癖があるので、こう思ったりします。
悪いことをした人は、自分がしたことをそっくりそのまま自分にするっていう刑があったらいいと思うのです。
ミルクを汚染した人は、自分の主食を汚染して、それを毎日毎食食べ続ける。
汚染された米を流した人は、そのお米を毎食必ず1膳以上食べ続ける。
自分がしたことがいったいどんなことなのか、1番分かり易くていいなと思うのですが……いかがでしょうか?
コメント (4)
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