つい最近、愛ちゃんのブログで『カウンター文化』という記事が載っていて、それを読んでいるうちに鮮明に蘇ってきた思い出があって、これはそのお話。
わたし達家族四人の暮らしは、1992年の若葉の緑もまぶしい五月、大津で始まった。
今から思い出しても、いつ振り返っても、その時の貧乏ったら……掛け値なし、正真正銘の本物だった。
こんなんが永遠に続いたらどないしよ~と思いつつ、そのトンネルの穴は能天気なわたしの予想を遥かに凌ぐ長さで、
けれども抜け道を探すのも面倒だったし、賢明なことではないと思ったので、薄暗がりの中、壁を手でつたいながらひたすら前に進んだ。
今だから、そういや最後の二年ぐらいから、月末に胸がしくしく痛むような困り方をしなくなったなあ、と思い出されるけど、真っただ中にいたわたし達には、先に何が待っているのか本当に見当もつかなかった。
だからただ、諦めないで、凹まないで、ヤケにならないで、そう自分に言い聞かせながら、てくてくと前に向かって歩いていた。
最後の二年……外食がぼちぼちできるようになった。
ひとりいくらまでの制限が、四百円から六百円ぐらいにまで緩められた。
旦那は、学生だった独身の頃から、どこの国のどこの町のどこの通りに暮らしていても、そこにある、ちょっと普通入りにくいけれど、実はとても面白い、味の良い食べ物屋を探し出すのが得意だった。
いわゆる常連さんが通う店、通の人しか分からない店などなど。
散歩オタクの彼は、自分の足であちこち歩き回り、面白そうな店を見つけては、のれんからひょっこり顔を覗かせる。
その顔を見た途端、「ああ、行った行った!うちは外人お断り!」などと素気なく断られたりしても、平気でまた違う店を覗いていた。
『喜楽』は、旦那が見つけた店のひとつで、浜大津の京阪電鉄の石山坂本線の線路沿いにあった。
電車の乗客の顔がまともに見えるぐらいの近さで、路面電車が通ると店の入り口のガラス戸がビリビリと震えた。
初めてその店を旦那から教えてもらった時、いくらなんでもこんな所に小さな子供連れでなんか入れやしないと、少し腹が立ったぐらい驚いた。
店はウナギ床のように細長くて、カウンター席だけ。背の高い丸い椅子が八つ、座る客の背中とガラス戸の隙間は、人がひとり通ることさえ難しかった。
近くにある競艇場からの帰り客、工事現場の仕事を終えた人、近くの商店街の親父さん……女性など一人もおらず、みんな背中を丸め、ちびちびと自分で酌をして飲んでいる、どこか寂れたおっちゃん達ばかり。
旦那は尻込みするわたしと小学生の息子達の背中をぐいぐい押して、まあいいから入って入ってとそれはそれはしつこい。
一回入ったらもう言うまいと覚悟して、古い木製のガラス戸をガタガタと開けた。
一斉にこちらを振り向くおっちゃん達の顔には、「あんたら、なんでこんなとこ来たん?」と書かれていた。
四人が一緒に座れるようにと、順送りに奥の席に移動し始めるおっちゃん達。
自分のお猪口やおかずも一緒に動かさなければならなくて、その食器の当たる音がカウンターのあちこちで鳴り出した。
一番奥の席のすぐ上には小さな白黒テレビが据え置かれていて、そのテレビ台の角に頭のてっぺんをしこたまぶつけたおっちゃんの「痛たた!」という大声に、他のおっちゃん達が可笑しそうに笑った。
「すんませんすんません」と謝りながら、皆が空けてくれた席に座り、カウンターの上に並べられたおかずを眺める。
きんぴらごぼうにほうれん草のおひたし、鯖の塩焼き、根野菜の煮物に豚の角煮などなど、美味しそうな惣菜が並んでいた。
Kはざる蕎麦、Tはカレーうどん、わたしはきつねうどん、旦那はきんぴらとご飯、それぞれのを少しずつつつくうちに、どれもこれもすごく美味しくて、はじめの戸惑いなんかすっかり忘れて皆で舌鼓を打った。
カウンターの中のおばちゃんは、お店歴ウン十年。人生の酸いも甘いも苦いも辛いも、すべて知り尽くしているような優しい目をしていた。
わたし達の会話や、注文する時の様子などを見て、すぐにどんな家庭状況なのか見破ったのだろう、
それから月に一回ぐらいの割で顔を見せるようになったわたし達家族に、なにがしかのおまけや、盛りつけを多めにしてくれる気遣いがありがたかった。
ボクちゃんは○○やったねと、息子達の味の好みまで覚えてくれていて、なんだか親戚のおばちゃんの家で居るような、ほっこりした気持ちになれた。
しばらく経って、少し足が遠のいたことがあった。
店の前を通りかかると、閉店のお知らせの紙が貼られていた。
いったいどうしたんやろ。おばちゃん、自分にはここしかないから、足腰立たんようになるまでここで頑張るって、いつも言うてはったのに。
そんな心配をしていた時、ジャスコの食品売り場でばったりとおばちゃんに会った。
おばちゃんは、少し足を引きずるように歩いていて、その横顔には元気がなく寂しそうに見えた。
「おばちゃん、お久しぶりです。わたしです、覚えてくれてはりますか?」
「もちろん!ボクちゃん達、お元気?」
「はい、お陰さまで。あの、お店、こないだ貼り紙見たんですけど、どないしはったんですか?」
「ああ……あれね、もうわたし、やめることにしたん。足悪うしてしもたし、大家といろいろあってね、立ち退かなあかんようになってしもたから」
「そやったんですか。あのお店、子供達の一番のお気に入りで、わたしもおばちゃんの作ってくれはったお料理、全部好きでした」
「おおきに。そう言うてもらえるだけで本望やわ。でももうおしまい。もう忘れることに決めたん。しがみついてた時はやめることになったらどないしょう思てたけど、やめたらまあすっきりしたこと!ほなそろそろこれで、さよなら、お元気で」
わたしが見送るおばちゃんの背中には、カウンターの中でネギを刻んだり、ご飯をついだりしてくれていた時の、ピンと張った店主の誇りが失われていて、ただただ寂しい、やるせない怒りのようなものが張り付いていた。
やめてすっきりした。おばちゃんの強がりを言う声が耳の中でこだました。
その後、おばちゃんとは一度も会えないまま、わたし達一家はこちらに越した。
カウンターと聞くとすぐに思い出す『喜楽』のお店と、割烹着を着たおばちゃんの優しい顔。
お店はもうラーメンのチェーン店に改装されてしまったけれど、いつかまた、どこかで、おばちゃんと会いたいなあ。
わたし達家族四人の暮らしは、1992年の若葉の緑もまぶしい五月、大津で始まった。
今から思い出しても、いつ振り返っても、その時の貧乏ったら……掛け値なし、正真正銘の本物だった。
こんなんが永遠に続いたらどないしよ~と思いつつ、そのトンネルの穴は能天気なわたしの予想を遥かに凌ぐ長さで、
けれども抜け道を探すのも面倒だったし、賢明なことではないと思ったので、薄暗がりの中、壁を手でつたいながらひたすら前に進んだ。
今だから、そういや最後の二年ぐらいから、月末に胸がしくしく痛むような困り方をしなくなったなあ、と思い出されるけど、真っただ中にいたわたし達には、先に何が待っているのか本当に見当もつかなかった。
だからただ、諦めないで、凹まないで、ヤケにならないで、そう自分に言い聞かせながら、てくてくと前に向かって歩いていた。
最後の二年……外食がぼちぼちできるようになった。
ひとりいくらまでの制限が、四百円から六百円ぐらいにまで緩められた。
旦那は、学生だった独身の頃から、どこの国のどこの町のどこの通りに暮らしていても、そこにある、ちょっと普通入りにくいけれど、実はとても面白い、味の良い食べ物屋を探し出すのが得意だった。
いわゆる常連さんが通う店、通の人しか分からない店などなど。
散歩オタクの彼は、自分の足であちこち歩き回り、面白そうな店を見つけては、のれんからひょっこり顔を覗かせる。
その顔を見た途端、「ああ、行った行った!うちは外人お断り!」などと素気なく断られたりしても、平気でまた違う店を覗いていた。
『喜楽』は、旦那が見つけた店のひとつで、浜大津の京阪電鉄の石山坂本線の線路沿いにあった。
電車の乗客の顔がまともに見えるぐらいの近さで、路面電車が通ると店の入り口のガラス戸がビリビリと震えた。
初めてその店を旦那から教えてもらった時、いくらなんでもこんな所に小さな子供連れでなんか入れやしないと、少し腹が立ったぐらい驚いた。
店はウナギ床のように細長くて、カウンター席だけ。背の高い丸い椅子が八つ、座る客の背中とガラス戸の隙間は、人がひとり通ることさえ難しかった。
近くにある競艇場からの帰り客、工事現場の仕事を終えた人、近くの商店街の親父さん……女性など一人もおらず、みんな背中を丸め、ちびちびと自分で酌をして飲んでいる、どこか寂れたおっちゃん達ばかり。
旦那は尻込みするわたしと小学生の息子達の背中をぐいぐい押して、まあいいから入って入ってとそれはそれはしつこい。
一回入ったらもう言うまいと覚悟して、古い木製のガラス戸をガタガタと開けた。
一斉にこちらを振り向くおっちゃん達の顔には、「あんたら、なんでこんなとこ来たん?」と書かれていた。
四人が一緒に座れるようにと、順送りに奥の席に移動し始めるおっちゃん達。
自分のお猪口やおかずも一緒に動かさなければならなくて、その食器の当たる音がカウンターのあちこちで鳴り出した。
一番奥の席のすぐ上には小さな白黒テレビが据え置かれていて、そのテレビ台の角に頭のてっぺんをしこたまぶつけたおっちゃんの「痛たた!」という大声に、他のおっちゃん達が可笑しそうに笑った。
「すんませんすんません」と謝りながら、皆が空けてくれた席に座り、カウンターの上に並べられたおかずを眺める。
きんぴらごぼうにほうれん草のおひたし、鯖の塩焼き、根野菜の煮物に豚の角煮などなど、美味しそうな惣菜が並んでいた。
Kはざる蕎麦、Tはカレーうどん、わたしはきつねうどん、旦那はきんぴらとご飯、それぞれのを少しずつつつくうちに、どれもこれもすごく美味しくて、はじめの戸惑いなんかすっかり忘れて皆で舌鼓を打った。
カウンターの中のおばちゃんは、お店歴ウン十年。人生の酸いも甘いも苦いも辛いも、すべて知り尽くしているような優しい目をしていた。
わたし達の会話や、注文する時の様子などを見て、すぐにどんな家庭状況なのか見破ったのだろう、
それから月に一回ぐらいの割で顔を見せるようになったわたし達家族に、なにがしかのおまけや、盛りつけを多めにしてくれる気遣いがありがたかった。
ボクちゃんは○○やったねと、息子達の味の好みまで覚えてくれていて、なんだか親戚のおばちゃんの家で居るような、ほっこりした気持ちになれた。
しばらく経って、少し足が遠のいたことがあった。
店の前を通りかかると、閉店のお知らせの紙が貼られていた。
いったいどうしたんやろ。おばちゃん、自分にはここしかないから、足腰立たんようになるまでここで頑張るって、いつも言うてはったのに。
そんな心配をしていた時、ジャスコの食品売り場でばったりとおばちゃんに会った。
おばちゃんは、少し足を引きずるように歩いていて、その横顔には元気がなく寂しそうに見えた。
「おばちゃん、お久しぶりです。わたしです、覚えてくれてはりますか?」
「もちろん!ボクちゃん達、お元気?」
「はい、お陰さまで。あの、お店、こないだ貼り紙見たんですけど、どないしはったんですか?」
「ああ……あれね、もうわたし、やめることにしたん。足悪うしてしもたし、大家といろいろあってね、立ち退かなあかんようになってしもたから」
「そやったんですか。あのお店、子供達の一番のお気に入りで、わたしもおばちゃんの作ってくれはったお料理、全部好きでした」
「おおきに。そう言うてもらえるだけで本望やわ。でももうおしまい。もう忘れることに決めたん。しがみついてた時はやめることになったらどないしょう思てたけど、やめたらまあすっきりしたこと!ほなそろそろこれで、さよなら、お元気で」
わたしが見送るおばちゃんの背中には、カウンターの中でネギを刻んだり、ご飯をついだりしてくれていた時の、ピンと張った店主の誇りが失われていて、ただただ寂しい、やるせない怒りのようなものが張り付いていた。
やめてすっきりした。おばちゃんの強がりを言う声が耳の中でこだました。
その後、おばちゃんとは一度も会えないまま、わたし達一家はこちらに越した。
カウンターと聞くとすぐに思い出す『喜楽』のお店と、割烹着を着たおばちゃんの優しい顔。
お店はもうラーメンのチェーン店に改装されてしまったけれど、いつかまた、どこかで、おばちゃんと会いたいなあ。