時事ドットコム・東日本大震災~あれから1年~
除染作業に早期着手を=環境相に要望-福島県飯舘村長 (2012/04/04-16:13)
『福島県飯舘村の、菅野典雄村長は4日、環境省内で細野豪志環境相と会談し、
避難住民の帰還に向けた、本格的な除染の、早期実施を要請した。
東京電力福島第1原発事故で、計画的避難区域に指定されている同村は、国が直接除染を行う。
細野氏は、「スピードアップをして、結果を出せるようにしたい」と応じた』
一方で、こんな記事を見つけた。
飯舘村村民が抱く不信感「国や役場が『除染が完了して安全になりました』と言っても、絶対に信じられない」
(2012/3/23 18:11)
『計画的避難区域に指定された、福島県飯舘村から、昨年7月に、福島市飯野町の仮設住宅に避難してきた、高山さん(仮名・30代主婦)は、
この1年間、情報に翻弄(ほんろう)され続けてきた。
「原発事故があってすぐの3月15日、16日は、双葉郡から飯舘村に、避難してきた住民の方々を、婦人会のみんなで、炊き出しで振る舞ってあげてました。
もちろん屋外で。
子供たちも、そばで、雪合戦をして遊んでいましたね。
今から考えれば、その2日間は、飯舘村の放射線量が、最も高かったんです。
確か、そのひと月後に、15日の線量が実は、村役場のモニタリングポストで、毎時44.7マイクロシーベルトだった、と公表されたんです。
それを知らされたときは、怒りとかじゃなくて、ただただ生きた心地がしなかった。
子供たちは、マスクもしないで、雪合戦をしていたんだから」
それでも行政からは、「安全」、のふた文字しか出てこなかった。
「計画的避難地区に、指定される前日まで、私たちは、『飯舘村にいても安全だ』と言われ続けていました。
村長や村役場の人たちが、県外から、放射能の専門家の先生方を連れてきては、説明会で、私たちに、そう言い続けていたんです。
計画的避難区域に指定された日から、村は静かになった。
普段なら、外でみんな遊んで、子供の声が聞こえてくるけどね、それが、ぱったり消えてしまったんです」
結局、高山さん一家が避難したのは、5月末のことだった。
2ヵ月半もの間、放射能を浴び続けていたのだ。
子供の内部被曝を心配した高山さんは、茨城県まで行き、内部被曝の検査を、子供に受けさせた。
ところが……。
「検査の結果、『ただちに健康被害はないから、大丈夫』と先生に言われたけど、半信半疑だった。
なぜって、避難先で、役場の人たちが、原発事故のすぐ後に、家族を村の外へ逃がしていた、と聞いてしまったものだから、
もう、お偉いさんたちの言うことは、何も信じられなくなっていたんです」
7月には、現在も住む、飯野町の仮設住宅に移った。
4畳半ふた間と、6畳の部屋で、子供ふたりと両親の、5人で生活している。
「夫は、『狭いから』と、飯舘に残りながら、南相馬で、除染の仕事をしています。
ここまで騙されて、これだけ迷惑を被(こうむ)って、なんで私の夫が、国や東電のために働かなきゃいけないの!って思うけど、
これが現実なんです。
東電からの賠償金だけでは、家族を食べさせてはいけないんです」
東電からは、100万円が、賠償金の仮払金として支払われたというのだが、このお金には、あまり手を付けられないという。
「東電からもらったお金には、
『使った分は領収書を提出すること』とか、
『東電が認めた物以外には使えない』
『使わなかった仮払金は、返還すること』なんて条件がついてるんです。
だから、実際に買ったものといえば、子供の衣料品と、布団と、雪かき用のスコップくらい。
日常生活にかかる、ガス代、水道代、電気代、食費は、東電が認めてくれません。
飯舘にいる頃は、山の湧き水や地下水を、流しっぱなしで使っていたし、水道代なんて、払ったことなかった。
畑に行けば、野菜がとれるし、田んぼには米もある。
こたつは、炭で暖めていたし、お風呂も、薪(まき)で燃やしていたし……。
仮設のお風呂は、追いだきができないから、冷たくてね、家族の誰かが入るたびに、お湯を注ぎ足すから、水道代だけで1万円以上かかります。
はっきり言って、こんな状況が1年も続いているから、ストレスばかりがたまって、体は大丈夫だけど、頭がおかしくなりそうです」
高山さんは最後に、自分が生まれ育った、飯舘村に対する今の思いを、率直に語ってくれた。
「菅野(典雄、飯舘村)村長は、帰村だ、除染だって張り切っているけど、正直、あの村には、帰りたくない。
帰りたいけど、帰れないだろうって思っています。
村全部を除染するなんて、無理だろうし、国や役場が、『除染が完了して安全になりました』と言っても、絶対に信じられないと思うから。
でも、母は、最近よく言います。
『ここで死ぬのは嫌だ。村さ帰って死にでぇ』と……」 (取材/頓所直人、興山英雄)』
そしてこれは東京新聞。
どうなる飯舘村の再建 帰村か移転か揺れる住民たち (東京新聞・こちら特報部 3月23日)
……前略
村は12月、「いいたて までいな復興計画」を策定。
除染を前提とした、帰村に向けての、総合的な計画を立てた。
復興計画は、短期(今後2年)、中期(2~5年後)、長期(5~10年後)の三段階で展開。
2年後の目標を「村民の一部・一時的な帰村の開始」、5年後は「希望する全村民の帰村の実現」、10年後は「復興の達成」としている。
今年3月1日現在で、約6500人の村民のうち500人が、県外で生活。
残る6千人が、福島市を中心に、近隣の伊達市や川俣町など、県内の仮設や借り上げ住宅で暮らす。
高齢者施設以外で、13人が、村にとどまった。
村は、小中学校を、川俣町に仮移転。
小学生250人、中学生135人が、川俣町の学校施設を間借りした、仮校舎に通学。
ほかに、約150人が、避難先の学校に移った。
新年度から、小学校は、川俣町で購入した土地の、プレハブ校舎で、再スタートする。
ただ、そこにいつまでいるのかは、復興計画に記されていない。
空間放射線量の高い、村南部の、長泥地区の住民らに会った。
村の調査(3月9日)でも、地区の宅地の線量は、地上1メートルで、8.25マイクロシーベルトもあった。
ある農業男性(48)は、「3月11日を、なかったことにしてほしい」と話し始めた。
「村は、除染除染と言うが、無理でしょ。
表面削ってみても、また戻ってる。
田んぼを削っても、山からの水が汚れている。
かといって、山の木を全部切ったら、水害になる。
嫁さんをもらったばかりの息子も、『もう村には帰んね』と言っている」と吐き捨てた。
別の農業男性(62)は、
「仮に、(相対的に線量の低い)北部に住めと言われても、それだと避難と同じ。
戻ることにはならない。
無意味な除染を繰り返すくらいなら、国と東電で、土地を買い上げてほしい。
『取り返しがつかなくなった。立ち退け』と、なぜ言ってくれない」と顔をゆがめた。
復興計画は、新年度予算にも、反映された。
この3月、議会で可決された、一般会計約45億円の予算の中には、
「復興計画の『命をまもる』の項目として、(帰村の判断材料を提供する)リスクコミュニケーション事業に、約900万円が計上された」(村職員)という。
ただ、昨年9月の、村の除染計画では、費用を、約3200億円と見積もった。
財源は、確保されていない。
ちなみに、復興計画のたたき台を検討した、村民会議には、東京大付属病院放射線科の中川恵一准教授や、除染の専門家として、元日本原子力学会長の田中俊一氏が加わった。
ともに、脱原発派からは批判されており、住民には、違和感もあった。
「こちら特報部」は、菅野村長にも、取材を申し入れたが、「多忙」を理由に、実現しなかった。
国と二人三脚で、「除染と帰村」を掲げる村に対して、「新飯舘村の建設(村の移転)を目指す」として、署名活動を展開する、住民たちもいる。
その一人で、飯舘村の農業研修所で、管理人をする伊藤延由さん(68)は、
「除染して帰村するしかない、というのが、村長の姿勢。
しかし、その選択肢しか与えないのはおかしい。
必ずしも、全村移転を求めてはいない。
10人でも、まとまって移住を希望するなら、その声も認めるべきだ」と憤る。
「国や村は、帰村を急がせるが、時期が来れば、その後の賠償は、打ち切りとなりかねない」
こうした、相反する主張に、住民たちの気持ちは揺れている。
村長に同情する、川俣町に避難中の男性(48)は
「村長だってたぶん、除染が厳しいことは分かっている。
でも、『村に戻る』と言わない限り、国も県も何もしない。
飯舘村が、ゴーストタウンになるのは、目に見えている。
ここまで村をつくってきた村長が、一番つらいと思う」と語る。
大工の男性(59)は、
「役場の場所を中心に、病院や老人ホームを整備し、最初は三百人ぐらいが、低線量の場所を、『飛び地』のようにして暮らす方法もある」と、早期の帰村方針に、理解を示した。
しかし、酪農を営んでいた長谷川健一さん(58)は、
「帰村したいのは、村の誰も同じだが、除染まっしぐらに進む村長のかじ取りには、疑問がある。
村民の声は、入っていない」と不満を口にした。
「思いと現実は違う。
巨額の予算を投入して、4,5年後に、『やっぱり除染は無理だった』、では取り返しがつかない。
村を出る、という方向性も、残しておいてほしい」
長谷川さんは、独自に、同じ行政区の村民たちに、今後の意向をアンケートして、来月にも、結果を、村の住民に通知するという。
福島市の、仮設住宅で暮らす男性(85)は、
「年寄りはなんとかなるけど、若い者は、戻っても仕事がない。生活できねべ」と言った。
別の男性(64)も、
「仮に、ある程度除染ができても、飯舘の農産物を、買ってくれる消費者がいるだろうか」と案じた。
除染して、帰村、農業再開という村のプランは、「子どもだまし。誰が納得するか」。
かといって、新天地への移転には、「若ければいいけど…」。
ある男性の、そうした反応が、多数派住民の心を、代弁しているようだった。
帰村にせよ、集団移転にせよ、それは、住民たちの絆を、大切にすることに変わりはない。
だが、若い世代の中には、すでに、移転先で職を見つけ、新たな生活を、営み始めた人たちもいる。
住民の一人は、こうつぶやいた。
「俺らが望んだ原発じゃない。こうなってみっと、なくていい。いや、なくしてほしい」
<デスクメモ>
福島原発事故後、放射性物質よりも、不安の方が健康に悪い、と説く学者たちがいた。
でも、不安の原因は、ほかならぬ、原発事故だ。
この無神経さは、救いようがない。思い出、家族や隣人との暮らし、将来、風景…。
事故は、カネで買えない宝を奪った。
その価値が分からぬ一群が、再稼働に血道をあげている』
飯館村の村長、菅野さん。
マンハッタンの教会で、基調演説をしはった菅野村長。
穏やかで、人当たりのええ、知的な感じの人やった。
『までいの力』の本が、わたしの机の上にある。
あの日からずっと、机の上に置いてある。
『地に足をつけてきた人々が、地を追われる無念』
物質文明とはひと味もふた味も違った、自然に添い、人の心に添い、
手間ひま惜しまず、丁寧に、心をこめて、村造りに勤しんでいた人達の暮らしを、原発事故がまるごと葬ってしもた。
その悔しさ、哀しさ、怒りを思う。
過疎の村に十数年暮らしたから、村で暮らすことという実際も、少しはわかる。
けどね村長さん。
わたし、演説聞いてるうちに、村長さんが正常な精神ではないことに気がついて、それがショックで、胸の中がざわざわした。
あの村のことを、写真やビデオでしか見れへんわたしでさえ、あの膨大な面積の山が、どないして、たった数年で除染できるんやと思うのに、
その村を、一番よう知ってはる村長さんが、その不可能さが理解できんわけがない。
放射能物質の恐ろしさも。
「除染したいのは山々やが、どう考えても実現は不可能。
断腸の思いではあるが、『までいの村』をもういっぺん、どこか他の地で作ろうと思う。
わたしの思いとつながりたい人は、一緒にしませんか?」
そういう言葉が出てくると思てた。
そやから、舞台の上で、『までい』の説明を得々と、ちょっとしたジョークも交えてする村長さんが、
急に原発マフィアの一味に思えてきて、心臓がドキドキした。
こんなふうに、今までにもいろんな人が、知らんうちに、原発病に感染してしもたんやろか。
目ぇ覚まして村長さん。
『までい』はきっと、どこにでも生まれる。
『までい』は、核なんかと一緒に生きとうない。
それを一番知ってるのは、村長さん、あんたやと思う。
除染作業に早期着手を=環境相に要望-福島県飯舘村長 (2012/04/04-16:13)
『福島県飯舘村の、菅野典雄村長は4日、環境省内で細野豪志環境相と会談し、
避難住民の帰還に向けた、本格的な除染の、早期実施を要請した。
東京電力福島第1原発事故で、計画的避難区域に指定されている同村は、国が直接除染を行う。
細野氏は、「スピードアップをして、結果を出せるようにしたい」と応じた』
一方で、こんな記事を見つけた。
飯舘村村民が抱く不信感「国や役場が『除染が完了して安全になりました』と言っても、絶対に信じられない」
(2012/3/23 18:11)
『計画的避難区域に指定された、福島県飯舘村から、昨年7月に、福島市飯野町の仮設住宅に避難してきた、高山さん(仮名・30代主婦)は、
この1年間、情報に翻弄(ほんろう)され続けてきた。
「原発事故があってすぐの3月15日、16日は、双葉郡から飯舘村に、避難してきた住民の方々を、婦人会のみんなで、炊き出しで振る舞ってあげてました。
もちろん屋外で。
子供たちも、そばで、雪合戦をして遊んでいましたね。
今から考えれば、その2日間は、飯舘村の放射線量が、最も高かったんです。
確か、そのひと月後に、15日の線量が実は、村役場のモニタリングポストで、毎時44.7マイクロシーベルトだった、と公表されたんです。
それを知らされたときは、怒りとかじゃなくて、ただただ生きた心地がしなかった。
子供たちは、マスクもしないで、雪合戦をしていたんだから」
それでも行政からは、「安全」、のふた文字しか出てこなかった。
「計画的避難地区に、指定される前日まで、私たちは、『飯舘村にいても安全だ』と言われ続けていました。
村長や村役場の人たちが、県外から、放射能の専門家の先生方を連れてきては、説明会で、私たちに、そう言い続けていたんです。
計画的避難区域に指定された日から、村は静かになった。
普段なら、外でみんな遊んで、子供の声が聞こえてくるけどね、それが、ぱったり消えてしまったんです」
結局、高山さん一家が避難したのは、5月末のことだった。
2ヵ月半もの間、放射能を浴び続けていたのだ。
子供の内部被曝を心配した高山さんは、茨城県まで行き、内部被曝の検査を、子供に受けさせた。
ところが……。
「検査の結果、『ただちに健康被害はないから、大丈夫』と先生に言われたけど、半信半疑だった。
なぜって、避難先で、役場の人たちが、原発事故のすぐ後に、家族を村の外へ逃がしていた、と聞いてしまったものだから、
もう、お偉いさんたちの言うことは、何も信じられなくなっていたんです」
7月には、現在も住む、飯野町の仮設住宅に移った。
4畳半ふた間と、6畳の部屋で、子供ふたりと両親の、5人で生活している。
「夫は、『狭いから』と、飯舘に残りながら、南相馬で、除染の仕事をしています。
ここまで騙されて、これだけ迷惑を被(こうむ)って、なんで私の夫が、国や東電のために働かなきゃいけないの!って思うけど、
これが現実なんです。
東電からの賠償金だけでは、家族を食べさせてはいけないんです」
東電からは、100万円が、賠償金の仮払金として支払われたというのだが、このお金には、あまり手を付けられないという。
「東電からもらったお金には、
『使った分は領収書を提出すること』とか、
『東電が認めた物以外には使えない』
『使わなかった仮払金は、返還すること』なんて条件がついてるんです。
だから、実際に買ったものといえば、子供の衣料品と、布団と、雪かき用のスコップくらい。
日常生活にかかる、ガス代、水道代、電気代、食費は、東電が認めてくれません。
飯舘にいる頃は、山の湧き水や地下水を、流しっぱなしで使っていたし、水道代なんて、払ったことなかった。
畑に行けば、野菜がとれるし、田んぼには米もある。
こたつは、炭で暖めていたし、お風呂も、薪(まき)で燃やしていたし……。
仮設のお風呂は、追いだきができないから、冷たくてね、家族の誰かが入るたびに、お湯を注ぎ足すから、水道代だけで1万円以上かかります。
はっきり言って、こんな状況が1年も続いているから、ストレスばかりがたまって、体は大丈夫だけど、頭がおかしくなりそうです」
高山さんは最後に、自分が生まれ育った、飯舘村に対する今の思いを、率直に語ってくれた。
「菅野(典雄、飯舘村)村長は、帰村だ、除染だって張り切っているけど、正直、あの村には、帰りたくない。
帰りたいけど、帰れないだろうって思っています。
村全部を除染するなんて、無理だろうし、国や役場が、『除染が完了して安全になりました』と言っても、絶対に信じられないと思うから。
でも、母は、最近よく言います。
『ここで死ぬのは嫌だ。村さ帰って死にでぇ』と……」 (取材/頓所直人、興山英雄)』
そしてこれは東京新聞。
どうなる飯舘村の再建 帰村か移転か揺れる住民たち (東京新聞・こちら特報部 3月23日)
……前略
村は12月、「いいたて までいな復興計画」を策定。
除染を前提とした、帰村に向けての、総合的な計画を立てた。
復興計画は、短期(今後2年)、中期(2~5年後)、長期(5~10年後)の三段階で展開。
2年後の目標を「村民の一部・一時的な帰村の開始」、5年後は「希望する全村民の帰村の実現」、10年後は「復興の達成」としている。
今年3月1日現在で、約6500人の村民のうち500人が、県外で生活。
残る6千人が、福島市を中心に、近隣の伊達市や川俣町など、県内の仮設や借り上げ住宅で暮らす。
高齢者施設以外で、13人が、村にとどまった。
村は、小中学校を、川俣町に仮移転。
小学生250人、中学生135人が、川俣町の学校施設を間借りした、仮校舎に通学。
ほかに、約150人が、避難先の学校に移った。
新年度から、小学校は、川俣町で購入した土地の、プレハブ校舎で、再スタートする。
ただ、そこにいつまでいるのかは、復興計画に記されていない。
空間放射線量の高い、村南部の、長泥地区の住民らに会った。
村の調査(3月9日)でも、地区の宅地の線量は、地上1メートルで、8.25マイクロシーベルトもあった。
ある農業男性(48)は、「3月11日を、なかったことにしてほしい」と話し始めた。
「村は、除染除染と言うが、無理でしょ。
表面削ってみても、また戻ってる。
田んぼを削っても、山からの水が汚れている。
かといって、山の木を全部切ったら、水害になる。
嫁さんをもらったばかりの息子も、『もう村には帰んね』と言っている」と吐き捨てた。
別の農業男性(62)は、
「仮に、(相対的に線量の低い)北部に住めと言われても、それだと避難と同じ。
戻ることにはならない。
無意味な除染を繰り返すくらいなら、国と東電で、土地を買い上げてほしい。
『取り返しがつかなくなった。立ち退け』と、なぜ言ってくれない」と顔をゆがめた。
復興計画は、新年度予算にも、反映された。
この3月、議会で可決された、一般会計約45億円の予算の中には、
「復興計画の『命をまもる』の項目として、(帰村の判断材料を提供する)リスクコミュニケーション事業に、約900万円が計上された」(村職員)という。
ただ、昨年9月の、村の除染計画では、費用を、約3200億円と見積もった。
財源は、確保されていない。
ちなみに、復興計画のたたき台を検討した、村民会議には、東京大付属病院放射線科の中川恵一准教授や、除染の専門家として、元日本原子力学会長の田中俊一氏が加わった。
ともに、脱原発派からは批判されており、住民には、違和感もあった。
「こちら特報部」は、菅野村長にも、取材を申し入れたが、「多忙」を理由に、実現しなかった。
国と二人三脚で、「除染と帰村」を掲げる村に対して、「新飯舘村の建設(村の移転)を目指す」として、署名活動を展開する、住民たちもいる。
その一人で、飯舘村の農業研修所で、管理人をする伊藤延由さん(68)は、
「除染して帰村するしかない、というのが、村長の姿勢。
しかし、その選択肢しか与えないのはおかしい。
必ずしも、全村移転を求めてはいない。
10人でも、まとまって移住を希望するなら、その声も認めるべきだ」と憤る。
「国や村は、帰村を急がせるが、時期が来れば、その後の賠償は、打ち切りとなりかねない」
こうした、相反する主張に、住民たちの気持ちは揺れている。
村長に同情する、川俣町に避難中の男性(48)は
「村長だってたぶん、除染が厳しいことは分かっている。
でも、『村に戻る』と言わない限り、国も県も何もしない。
飯舘村が、ゴーストタウンになるのは、目に見えている。
ここまで村をつくってきた村長が、一番つらいと思う」と語る。
大工の男性(59)は、
「役場の場所を中心に、病院や老人ホームを整備し、最初は三百人ぐらいが、低線量の場所を、『飛び地』のようにして暮らす方法もある」と、早期の帰村方針に、理解を示した。
しかし、酪農を営んでいた長谷川健一さん(58)は、
「帰村したいのは、村の誰も同じだが、除染まっしぐらに進む村長のかじ取りには、疑問がある。
村民の声は、入っていない」と不満を口にした。
「思いと現実は違う。
巨額の予算を投入して、4,5年後に、『やっぱり除染は無理だった』、では取り返しがつかない。
村を出る、という方向性も、残しておいてほしい」
長谷川さんは、独自に、同じ行政区の村民たちに、今後の意向をアンケートして、来月にも、結果を、村の住民に通知するという。
福島市の、仮設住宅で暮らす男性(85)は、
「年寄りはなんとかなるけど、若い者は、戻っても仕事がない。生活できねべ」と言った。
別の男性(64)も、
「仮に、ある程度除染ができても、飯舘の農産物を、買ってくれる消費者がいるだろうか」と案じた。
除染して、帰村、農業再開という村のプランは、「子どもだまし。誰が納得するか」。
かといって、新天地への移転には、「若ければいいけど…」。
ある男性の、そうした反応が、多数派住民の心を、代弁しているようだった。
帰村にせよ、集団移転にせよ、それは、住民たちの絆を、大切にすることに変わりはない。
だが、若い世代の中には、すでに、移転先で職を見つけ、新たな生活を、営み始めた人たちもいる。
住民の一人は、こうつぶやいた。
「俺らが望んだ原発じゃない。こうなってみっと、なくていい。いや、なくしてほしい」
<デスクメモ>
福島原発事故後、放射性物質よりも、不安の方が健康に悪い、と説く学者たちがいた。
でも、不安の原因は、ほかならぬ、原発事故だ。
この無神経さは、救いようがない。思い出、家族や隣人との暮らし、将来、風景…。
事故は、カネで買えない宝を奪った。
その価値が分からぬ一群が、再稼働に血道をあげている』
飯館村の村長、菅野さん。
マンハッタンの教会で、基調演説をしはった菅野村長。
穏やかで、人当たりのええ、知的な感じの人やった。
『までいの力』の本が、わたしの机の上にある。
あの日からずっと、机の上に置いてある。
『地に足をつけてきた人々が、地を追われる無念』
物質文明とはひと味もふた味も違った、自然に添い、人の心に添い、
手間ひま惜しまず、丁寧に、心をこめて、村造りに勤しんでいた人達の暮らしを、原発事故がまるごと葬ってしもた。
その悔しさ、哀しさ、怒りを思う。
過疎の村に十数年暮らしたから、村で暮らすことという実際も、少しはわかる。
けどね村長さん。
わたし、演説聞いてるうちに、村長さんが正常な精神ではないことに気がついて、それがショックで、胸の中がざわざわした。
あの村のことを、写真やビデオでしか見れへんわたしでさえ、あの膨大な面積の山が、どないして、たった数年で除染できるんやと思うのに、
その村を、一番よう知ってはる村長さんが、その不可能さが理解できんわけがない。
放射能物質の恐ろしさも。
「除染したいのは山々やが、どう考えても実現は不可能。
断腸の思いではあるが、『までいの村』をもういっぺん、どこか他の地で作ろうと思う。
わたしの思いとつながりたい人は、一緒にしませんか?」
そういう言葉が出てくると思てた。
そやから、舞台の上で、『までい』の説明を得々と、ちょっとしたジョークも交えてする村長さんが、
急に原発マフィアの一味に思えてきて、心臓がドキドキした。
こんなふうに、今までにもいろんな人が、知らんうちに、原発病に感染してしもたんやろか。
目ぇ覚まして村長さん。
『までい』はきっと、どこにでも生まれる。
『までい』は、核なんかと一緒に生きとうない。
それを一番知ってるのは、村長さん、あんたやと思う。