気功の瞑想クラスがあった。
買い物嫌いの話題からどんどん話が進んでいった。
そこで上がった、興味深い話題をふたつみっつ。
・血液型がOの人は、基本的に、ベジタリアンに転向しない方が良い。
『O型というのは、最古の型で、人がまだ狩りをして肉をたくさん食らっていた頃からの名残が一番多く存在している。
なので、動物の肉から得られる栄養素が、必然的に、他の型の人よりも必要になる。
さらに、血液が薄いなど、血液に問題のある人も、菜食を徹底するべきではない』
・肉を食らう、ということは悪か否か?
『家畜という定義をどう考えるか。
世界には、我々が家族のようにして可愛がっている犬や猫を、食肉にしている地域がある。
世界には、我々が食肉にしていた鯨を、知能を持つほ乳類として尊び、食らうなどもってのほかだと抗議する地域がある。
人間の凶器によっていとも容易く殺される動物や植物に、知能や意識や感情や会話があるかどうかで、勝手に種分けすることが、
どれほど身勝手で、的外れで、現実や自然を無視しているか……』
『最近、フォアグラがどんなふうにして製品化されているかを知り、もう二度と口にしないと決めた』
『「肉はどこからくるの?」と聞くと「スーパーマーケット」と答える子供がいる。
この牛肉は、牧場でゆっくりと草を食む牛だったと、想像できない大人もいる。
牛が、どんなふうにして殺されていくかを見て、いっぺんに食べられなくなったけど、ハンバーガーはまだ恋しい』
『魚に頭や目があるなんて知らなかった。かなり大きくなるまで』
人間の存在は、もともとからして身勝手なもの。自然界からすると邪魔者の他の何ものでもない。
地球という惑星に宿った自然との共存などそっちのけで、自分達の快適さ、便利さに執着し、好き放題を続けてきた。
けれども、そのことを反省するからといって、すっかり慣れ切ってしまった快適で便利な暮らしを捨てて、自然に寄り添えるか、
それはもう無理な話なのである。
では、快適便利な暮らしの象徴である電化製品は、どこまでなら手放せるか。
テレビ、ラジオはいいけど、パソコンと携帯は困る。
乾燥機や食器洗い器と掃除機はいいけど、洗濯機と給湯器は困る。
トイレや風呂の電化は、こちらでは全く進んでいないので、話題には上らなかった。
するとミリアムが、
「わたしは肉食を止めることはできない。どうしても体が要求するから。
同時にわたしは、動物がどういうふうに食肉になるのか、その現実を知っている。
吐き気がするほどに惨たらしい、とてもじゃないが受け入れ難い世界が存在する。
それもこれも、わたしのような人間が、肉を欲するからだ。
人間は身勝手。
生きている限り、無数の問題を作る。
そのことで、苦痛を受ける人や動物や、もしかしたら草木が存在する。
その苦痛の上に、自分達の身勝手で小さな幸せが存在していることに、心の底から感謝すること。
そしてできるだけ、その苦痛が増えないよう、肉食の回数を減らすよう心がける」と言った。
「ミリアム、また日本につなげて申し訳ないけれど、肉食をどうしても止められない人間を、原発に例えられるかな?」
「まうみ、そんな例えをしたいのは、核に狂った人間に惑わされてる人だけよ。
核は、この地球上に、兵器としては存在してはいけない物質だったの。
医療や工業などの、とても特殊な場のみで、その量も、必要以上ではない、微量に厳しく制限されながら、
人や公共の場から極力離れた、限られた場所だけで存在するべきだったの。
狂った人間が、快適に、便利に、ボタンひとつで町を丸ごと破壊するための、原料作りに利用されてる原発は、
非核三原則という、見事な精神を持つ日本が、先頭に立って、ひとつ残らず息の根を止めて欲しい。
イスラエル出身で、アメリカで生きてる人間のわたしが、こんなことをお願いするのは、とんでもなく身勝手なことなんだけど……」
気功と瞑想と道教とおしゃべり。
金曜の朝の幸せ。