ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

S子さんのパワフル園芸ふたたび

2010年06月11日 | 友達とわたし
「せんせぇ~、もうチューリップは終わりましたでしょうかぁ~?」
レッスンのお願い電話の一番最後に、S子さんが突然聞いてきた。
「あ、はい、えっと、実はつい先日、ぼうぼうに放っといた枯れた葉っぱを片付けたところでして……」と焦りまくるわたし。
「ああ良かったです!じゃあ、明日、お稽古の後でまた、お花を植えさせてもらいま~す!」
「え?そ、そんな、申し訳なさ過ぎます!」
「いえいえ~、うちにある花とハーブばっかなんで、お気になさらないでくださ~い。いっぱい増え過ぎて困ってるんですから~」

レッスンに20分遅れてやって来たS子さん。次の生徒までの間に20分あるから、わたしも手伝おうと思っていたけれどできなくなった。
外はあいにくの雨模様。
「ねえS子さん、今日はもうこんな天気だし、せっかく持ってきてくださったお花なので、置いておいてください。後でわたしがなんとか」
「えぇ~?!多分せんせぇ~よりわたしの方がさっさとできると思いますし、こんな小雨なんか別に全然かまわないし、やっちゃいます!」
慌てて合羽とタオルを渡し、申し訳ないけれど、お任せすることにした。

時間にして15分ぐらいだった。いつもながらにお見事!

前のチューリップ花壇。


そして後ろの庭の、ツタでこんもりと盛り上がっていた、確かミントをちょこっと植えてもらってそのままになっていた所。


ミントが無事、姿を現してくれた。バジルやパセリも!うれしぃ~!

そしてその横に、ワイルドなトマト(?多分)の王国。


実は、前にミントを植えてくれた花壇一帯に、蔓の雑草がこんもりと茂っていた。
部屋から眺めている分には、ツヤツヤとした緑でとってもきれいだったのだけど、旦那が前々から、ブドウが寄生されて困っていると言っていたところで、今回S子さんがそれの3分の1ぐらいを抜き取ってくれていたので、今度はわたしが、エイッとばかりに引っこ抜くことにした。
そこは蚊の攻撃をイヤというほど受ける所なので、昨日S子さんが着た合羽をまとい、目マン(*参照)に変身して作業することにした。

いやあ~、汗だくになったけど、ひとっつも蚊に刺されることなく、無事作業は終了。


ブドウの木もさっぱりして気持ち良さげ……と勝手にいいように解釈する。ブドウはきっと、「オセェ~んだよ、ったく!」と怒ってただろう。

まだ抜き切れていないツタと、ブチブチに引っこ抜かれたツタの山。庭の隅っこに放っぽっといて、後で肥料になっていただく予定。



さて、ちょっとこういうこともできる元気も出てきた。
昨日の晩も、今だに続いている奇妙な時差ボケのせいで、夕飯の後でコトンと眠くなってしまった。
お皿洗いやら片付けやらで、かなり頑張って抵抗したけれど、やっぱりどうしても恐ろしく眠い。
睡眠薬で無理矢理眠らされるのって、こんな感じかしらん?などと想像したくなるほどの眠気なのであ~る。
なので昨日は、新しい手段として、抵抗せずに寝ることにした。それのせいで翌日の朝、めちゃくちゃ早く目覚めてもそれは仕方がない。
いったいこの新種の時差ボケ、いつまで続くのかなあ~。まあ、ある意味、とっても健康的な生活と言えなくもないけど……。

*目マンです。chi-koちゃんブログの、清水ミチコさんライブを観に行った時の記事から勝手にいただきました。夏の園芸の蚊対策にばっちぐ~!!



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おとうさん、ありがとう

2010年06月10日 | 家族とわたし
わたしはこの日を決して忘れることはないでしょう。




あなたは、見知らぬ異国で暮らすわたしを、しかも結婚に失敗して幼い息子ふたりを抱えたわたしを、それはそれは温かく迎え入れてくれました。




あなたの視線の先に座る、あなたの若い息子とわたしの幼い息子達。あなたが父であること、祖父であることが、どれほどに心の支えになったことでしょう。




おとうさん、こうしてあなたの娘でいられることが、どんなに幸せなことか。
ほんとうにありがとう。



父の70回目の誕生日がもうじきやってきます。
父は『父の日』の間近に誕生しているので、毎年贈り物をするのがややっこしいのですが、今年は70回記念だというので特別のお祝いをすることになりました。

去年の師走に、先に70才になった母は、父から盛大なサプライズのお祝いパーティをしてもらいました。
Tの大学の卒業式の日の、あの、大雪の嵐に見舞われた次の日のパーティです。
わたし達が12時間、高速道路上に拘束(シャレか?)された日の夕方、父が役員をしていたハーシーズが経営するホテルで行われ、わたしはそこで、母への感謝の気持ちを込めて、母が一番好きなブラームスの曲を弾くはずでした。

今度は母がお祝いをする番。
父とはまるで正反対のタイプの母は、お金ではなく、人を動かすことで、父へのお祝いをしようと計画しました。
父の家族、親戚全員に、それぞれ自由に、父にまつわる思い出を綴ったページを作って欲しい、というお願いメールが送られてきました。

わたしにとってあの日はやっぱり、特別中の特別な日。だから、古い写真を探し出して、それをスキャンしました。

一銭も持たずに婚家から夜逃げしたわたしと、英語をちまちまと教えていただけの旦那。
だからとてもとても貧しかった。
けれども、わたし達の結婚を祝うために、両親がアメリカからやってきてくれるということになりました。
その頃のわたし達は、自分達がしたことによってたくさんの人々を傷つけたことでとても傷ついており、そんなことをした自分自身を祝うなどということが、とてもじゃないけれどできない気持ちでいました。
息子達を寝かせた後、決まって心が押しつぶされそうになり、しまいには吐いてしまうほど泣いていた頃でした。
けれど、父も母も、そんなあなた達だからこそ、だからこそ自分達を祝いなさい。そうして幸せになることが、悲しい思いをしている人達への償いになるのだからと言って、祝う日を儲けることを勧めてくれました。
一大決心をして、その時期に合わせて披露宴の真似事をしようと決め、新しく生き始めた大津での、できたてホヤホヤの友達、伊賀上野からの友達、そして旦那の京都時代の友達、それから、数少ない、わたしの理解者であったピアノの師匠と母夫婦にお願いして、会費制のお祝い会をしてもらったのでした。

これは、大津の円満院というお寺です。
わたし達の事情を知って、なぜか共感してくれた円満院に働く人達が、いろいろと心配りをしてくださった宴になりました。
座敷を解放し、膳を並べ、その上に素晴らしく美味しい山菜料理を所狭しと並べてくださいました。
わたし達に支払えた金額は、あの日来てくだすった方々からいただいた、確か3500円だった参加費の人数分だけ。絶対にそれ以上の費用がかかっていると思うのに、それだけしか受け取ってくださいませんでした。
本当に、温かなもてなしを受けて、ありがたくてありがたくて、今も胸が熱くなります。

どんなに感謝しても足りないけれど、わたしが心を込めて探した写真と、今だ拙い英語で書いたメッセージなのでした。
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夕方の庭

2010年06月09日 | ひとりごと
玄関先に出ていた旦那が、「ちょっとちょっと外に出て来て」とわたしを呼んだ。
ドアを開けると、「こんな花咲いてるの知ってた?」と、横の庭先に咲く白い花を指差した。
偶然わたしも、仕事に出かける時に気がついて、わあ~きれい!写真に撮りたいけど仕事に遅れるわけにはいかん。戻ってまだ明るかったら撮ろう、と思っていた花。
けれどもそんなことはすっかり忘れて、夕飯の支度をしようとバタバタしていた。
旦那はそれを思い出させてくれたってわけ。さんきゅ!



もっと近くに寄って。


チューリップがうなだれてるみたい。


さあ~、撮影モードに入ってしまった。ちょっと裏の庭にも行ってみよう。

これはもう、全く知らない木にいっぱい咲いている、全く知らない小さな白い花。


ぶどうの赤ちゃん。今年も鳥たちと競争なのかな?


フェンスに蔓延っているツタの奥に、ひとりぼっちで咲いている夕顔。見つかりたくなかったのに……と言われたような気がした。


ハニーサックルの蜜を吸う、元気な蜂を撮りたかったけど、動きが速くて大失敗。真ん中へんでブンブンしているのがソレ。


家の前に戻ると、ギターを弾く旦那とショーティがくつろいでいた。


うるわしの後ろ姿。



さて、夕飯夕飯!
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桜鯛

2010年06月08日 | 米国○○事情
落語のお話です。

殿様がひと箸つけて、
「これ、鯛の代わりを持てい」と言って、鯛の表を一口だけ食べて、お代わりを持ってこさせようとするのですが、なにしろ高価なものなので家来が一工夫。
「殿様、外の桜がきれいですね」と言って、殿様が外の桜を見る隙にさっと鯛を裏返します。
で、「代わりをお持ちしました」ととぼけるわけ。
これならば表の殿様が鯛を食べた跡はわからず、お代わりを差し出されたのかなと思うでしょうから。
ところがお殿様一枚も二枚も上手。家来の細工なぞ何のその。また一口を食べ、
「代わりを持てい」
で、家来がほとほと困ってまごまごしていると、
「どうじゃ? また庭の桜を見ようか?」

という、粋で可笑しい、殿様と鯛のお話。

昨日はうちの三人の殿様のひとり、Tの、正社員第一日目であった。
どうしても尾頭付きの鯛でお祝いをしたかった。
鯛といっても、こちらで買えるのは、鯛の一種の『レッド・スナッパー』という魚。まあ、味は限りなく鯛だし、我が家ではとても評判がいい。



買い物に行く途中で、Tの携帯にメッセージを残した。
「正社員第一日目おめでとう。今夜はあんたの好きなものと鯛でお祝いしたいと思てます。楽しみに帰っておいで」

家に戻り、急いでお米を研ぎ、魚の皮に粗塩を擦り付け、オーブンの最下段にあるブロイル(直火焼きのためのオーブン)をきれいに掃除した。
胡麻和えやらなにやら、あれこれ用意しながら、さて、あと十分ほどで出来上がりだという頃に、Tから電話がかかってきた。
「おかあさん、今どうなってる?」
「どうなってるって?」
「魚」
「焼いてるけど……あんた、今どこにいんの?」
「え、あ、えっと、まだ会社」
「え?まだ会社なん?」
「うん。ついさっきメッセージ聞いたとこ」
「そっか……」
「魚焼いてしもたんやったら帰ろかな。けど、今から帰っても9時頃になってしまうし……」
「残業?」
「うん。今日は朝からオリエンテーションあったから」
「しゃあないやん、それやったら」
「うん」
「まあ、今のあんたには仕事が最優先やから」
「うん」
「悪いけど、あんた抜きで、みなで先にお祝いしとくわ」
「うん」
「頑張らなあかんやろけど、最初っから頑張り過ぎたらあかんで。続かへんから」
「うん。鯛、明日食べるわ」
「わかった。あんたの分残しといたるし」

ということで、残念ながら、当の本人抜きのお祝いになってしまった。

「いや、これ、うまいやん!」
と、焼きたて熱々の身を、ふうふうしながらパクつく殿様その1とその3。
「なんでお頭付きがめでたいん?」と、またまた疑問がムクムクと沸き上がる旦那。
「知らん。昔っからそういうことになってた」と、完全無視して食べ続けるK。

「あ、あかんで!裏っかわの身に箸つけたら!そんなんしたら、ひっくり返した時にばばちい!」と、必死で諌める旦那。
ふふん、ようわかってるやん。さすが、10年日本で居ただけあるやん。

昨日の魚はとても大きかったので、半身を3人で充分だった。
あ~うまかったと、きれいに平らげた後、3人のお箸を駆使して、エイやっとばかりに身を裏返した。
おぉ~!!まるで焼きたてそのもの。新しい鯛のお目見えだ。

今夜は殿様その2、Tのお祝い。


P.S.
どうして尾頭付きの鯛がめでたいとされているか。
旦那の疑問に答えるべく、ちょいと調べてまいりました。

『鯛のピンと張った頭から尾をつけている状態は、何事も最初から最後まで完全な状態。つまり、全て揃っている、という縁起を担いでいる』
と書かれてありました。

ふ~ん……と、納得したような納得してないような……。


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米国『A Mad Woman』事情

2010年06月08日 | 米国○○事情
昨日、息子Tの、正社員第一日目を祝おうと、尾頭付きの鯛を買い求めにあちこち回った時のこと。
いつも、たいていは新鮮な魚を保証してくれる店に行ってみた。
WHOLE FOODS というその店は、野菜も果物も新鮮で、いわゆる安全なルートを辿って店に並べられている。
有機を前面に出して売り出した草分けの店とも言える。
最初の頃の買い物客は金持ちがほとんど。それぐらい品数が少なく高価な物ばかり売っていた。
今はそれほど顕著な差は無くなったけれど、それでもやはり値段は高め。
普通のスーパーで買い物をするような気分で調子に乗っていると、あっという間に1万円をこえてしまう。
わたし達はだから、ある一定の、どうしてもそこでしか手に入らない、けれども値段からするとそれほどバカ高くはない物や、少々割高だけど、そこでしか手に入らない嗜好品を買ったり、たまに新鮮な野菜が切れて、いつも行っているとても安くて新鮮なイタリアンかコリアンの店(どちらもここから20分はかかる)に行く時間が無い時に、ちょい買いをしに行く。

さて、仕事帰りの道にあるWHOLE FOODSに行った。
その店はもともと少し小さくて、需要と供給の関係からいうと、少しバランスが悪い。
特に駐車場を確保できなかったのか、店の真ん前と裏手に分けて造られた駐車場は、いささか使い勝手が悪い。
ごく稀に、裏の駐車場の隅に、大量の品を店に搬入するためのものすごく大きなトレーラーが停まっていて、その二カ所の駐車場をつなぐ狭い通路をさらに狭くしてしまうことがある。
昨日はその、ごく稀な日だった。
店の前の駐車場に行くのは無理と判断して、裏手側の駐車場に車を停め、店まで歩き始めた。
丁度、その狭まった所に車が一台止まっていて、その車の前にひとり、店のロゴが入ったエプロンをつけた若い女の子が立っていた。

わたしがもし、いつでもビデオカメラを持ち歩いているような人間だったら、もう絶対、どんなことをしてでもその光景を録っていただろうと思う。
カメラの録画機能でもいい、いや、最悪、録音だけでもいい。
それはもう、異常な世界だった。どうしようもなく滑稽で、腹立たしいほどに可笑しくて、あまりの異様さに哀しみさえ覚えた。
運転席に座った女性は、どう見てもわたしと同年代。ショートカットのピアスをぶら下げた頭が、怒りの叫び声とともにガクンガクンと振れている。
声はもう、常道を逸していて、興奮のあまり人間であることを忘れたような、とても奇妙な響きがした。
両手はぶんぶん振り回され、時には横に立っている女の子をぶつかのように、窓から飛び出してきた。女の子は謝りながらも、そのたびに一応後ずさる。
丁度同じ時に、その狂った女性と気の毒な女の子の側を通り過ぎることになった、背の高い男性とわたしは、顔を見合わせながら同時にこう言った。
「ジーザス……」

「わたしは正しい!このトレーラーの運転手は間違っている!責任者はどこ?!わたしは正しい!わたしは正しい!わたしは正しい!」

今も目を閉じるとはっきり思い出せるあの光景。

この世で生きていると、時折、どう考えても自分が正しいのだけれど、それがどうかしたか?とばかりに、完全に筋が通らないことがある。
カチンとくる。腹が立つ。けれども、まあ、こんなこともあるさと、とりあえず自分をなだめ、別の手段を考えて、その場を切り抜ける。
彼女はあの時、5メートルほど車をバックさせて、元いた駐車場に戻り、その店前の駐車場の出口から出て、本来行きたかった道に行けばよかった。
それが全くできないまま、体中の血が真っ黒に濁るほど怒りを爆発させて、少なくとも10分は女の子に罵声を浴びせた。
あの女の子はきっと、あれから一日中、とてもイヤな記憶を心の中に突き刺したまま過ごさなければならなかっただろう。
自分の思い通りにならないからって、たとえそれが、本当は彼女が正しかったとしても、あそこまで人を詰ったらいけない。

さて、肝心の鯛の尾頭付きのこと。
結局はその店で、お頭付きの鯛は買えなかった。そもそもその店の魚売り場で、お頭が付いた魚なんて見たことが無かったのを、売り場の前に行って思い出した。
う~ん、どうしよう……。
仕方が無いので、新しくない魚を売っているので有名な、近くのチャイニーズマーケットに行った。
昨日に限って、めちゃくちゃでかいのしか売ってなくて、その中で一番小さめのを買った。
それでも値段を聞くと17ドルもして、買おうかどうしようか、かなり迷ったけれど、ええ~い息子の一生に一度の祝いじゃ!と観念して買うことにした。
処理をお願いすると、もう少しのところで頭をブツンと切り落とされそうになった。
「だめだめ、頭をちゃんと残しておいて!」
そう何度頼んでも、大きな包丁を頭と胴体の間目がけて振り落とそうとする。
「頭を切り取らないで!頭が大事なんだから!」と、こちらも大声で怒鳴る。
その処理係のお兄ちゃん、しまいにゃわたしの顔をしげしげと見て、あんた、狂ってるんじゃないか?みたいな表情を返した。
きっとわたしは、彼から見ると、ちょっと頭のおかしいおばちゃんに見えたんだろう……。

人はいつだって簡単に、クレイジーになれるのね。
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2010年06月07日 | 家族とわたし
「なあ、いっぺんおとうの墓参りに行く?」
日本に行く、とメールをすると、こんな返事が返ってきた。
「うんうん!行く行く!」
すぐさま返信した。

幼い頃の弟はよく、酒の入った父から理不尽な怒られ方をした。今だと多分、隣近所の人に通報されているだろう、と思われるようなことも数回あった。
十才の甘え盛りの時に、大好きだった母が突然家を出て行った。
それからは、残った姉のわたしと一緒に、父が次々に見せるとんでもない人生の展開を、ただただ受け入れるしかない毎日が続いた。

わたしはまだいい。親の羽振りが良かった時代に、投資してもらうだけ投資してもらい、小学校から中学校までの間、音楽の英才教育を受けさせてもらった。
結婚などでお金が必要な時に限って、その当時付き合っていた女性がお金持ちだったり、たまたまかたまった身銭が入っていて、いろいろ支払ってもらった。

ところが弟は、彼の進学時の家はとことん悲惨な状態でそれどころではなく、とりあえず手に職をつけようと調理師学校に行くも、そこで板前の男同士の陰惨ないじめに遭い、最後には全く身に覚えのない濡れ衣まで着せられて、そこをやめざるを得なくなった。

その頃の父は、少し危ない、娘のわたしから見てもそれは詐欺ではないのかと疑いたくなるような事を始めていて、妙な輩が頻繁に家を訪れていた。
父はいろんなことに手を出しては失敗し、弟名義でカードを作り、それさえも破綻して、本人の弟が知らない間に、彼をブラックリストに入れてしまった。
それからの弟は、どこに就職したくてもできず、クレジットカードはもちろん作られず、成人する前からすでに、社会の闇に葬られてしまっていた。

同じ親の子として生まれて、こんなふうに不公平なまま大人になって、とわたしは時々弟のことを想う。
そうしていつも、ごめんな、おねえちゃんだけ……と心の中で話しかける。

そんな弟も今年50才。
鶴橋にあるワンルームマンションで、仲良しのFちゃんと一緒に細々と暮らしている。
麻雀屋に勤め、働きぶりを認められてその店の店長にまでになったのに、阪神大震災でビルが倒れ、当時働き手が何人いても足りなかった建築屋で働き始めた。
やはり仕事を真面目にやるので、何年か経つうちに親方のような立場になり、それなりに収入も増えた時期があったが、この不況で今はかなり厳しい。
年をとっても続けられる仕事ではないので、最近、重機を操れるよう免許を取った。

10年前に、突然父が末期ガンで倒れ、亡くなるまでの三ヶ月半、彼は一日も欠かさず父を見舞い、父はそのことをとても喜んでいた。
亡くなる数日前、モルヒネでかなり意識が朦朧としていた父が、広告の裏に墓石の絵を描いた。
その墓石の上の方に、父、母と書いてあり、その墓石のてっぺんを指し示す(→)印が、一段と濃く太い線で描かれていた。
わたしと弟、そして親戚の誰もが、父は自分の両親が眠る墓に骨を納めて欲しいのだな、と解釈した。
けれども、倒れる半年前に突然、妻が経営する会社のためだ、とか言って養子縁組をした父は、戸籍上、旧姓の墓に戻ることはできなくなっていた。
そんなこともあって、父方の親戚連中と父の妻の関係は、もとから良く無かったが、父の死が間近になるにつれ、決定的に悪くなった。
そんな中も、弟は淡々と、ただ毎晩、仕事の帰りに父を訪ね、話をしたりしなかったり、とにかく父を見舞った。
亡くなる前日に、わたしと弟と3人だけだった病室で、父は突然、「許してくれよ。すまんかった。ろくなことしてやれんかった」と涙ぐんで言った。
弟は黙っていた。顔を見たけれど、そこにはなんの表情も現れていなかった。

父が亡くなり、それから二ヶ月ほど経った春に、今度はたったひとりの姉のわたしがアメリカに移住してしまった。
「俺、とうとう天涯孤独になってしもた……」

「姉ちゃんを見送った後、Yさん、お酒飲みながらポツリとそう言うてました」と、今回日本に行った時、Fちゃんから教えてもらった。
旦那のアイディアで、35年間音信不通のままの母と弟を逢わせようと、わたしを訪ねるためのアメリカ旅行ふたり旅(9年前)を企てた。
その旅行から後、弟と母との交流が始まった。
わたしは3年に一度ぐらいしか日本に行かなかったので、弟と逢うチャンスはとても少なく、逢えても数時間から多くて1日ぐらい、というのが続いていた。
今回こそはもう少し時間を作ろうと思い、彼のマンションで二泊させてもらうことにした。
弟のマンションはとても狭く、Fちゃんとふたりしてタバコをスパスパ吸うので、部屋の中に居る間は正直言ってかなり息苦しい。
けれども、そんなことはどうでもいい。わたしは弟と少しでも長く時間を過ごしたい。そう思っていた。

出発する前にメールで何度も予定を伝え合い、金曜日の午後6時以降に、弟のマンションに行くことに決めた。
わたしはその前日の晩に大阪に入り、ブログで知り合った人達と初顔合わせをするように予定を組んだ。
ところが、大阪に入る直前に寄った、三重県に住む伯母の家に、連絡先を細々と書いた紙を置いてきてしまった。
わたしはブログ仲間との初顔合わせのことを、弟にも伯母にも内緒にしていた。
親戚の中でもわたしは『変わり者』で『突拍子も無いことを平気でする』とずっと言われ続けていたので、
インターネットで知り合っただけの見知らぬ人達と逢うばかりか、泊まるやなんて……と、またいらぬ心配をかけるのがイヤだった。
父が亡くなってから以降、実に十年もの間、音信不通だった伯母からの電話を受けた弟は、何事が起こったのかと驚いた。
「今日あんたのお姉ちゃんがうちに来てくれてんけど、その時大事な紙を忘れていってん。これ、行く先の連絡帳やと思うねん。こんなん無くして、今頃困ってたらあかん思て。確か、これから大阪に行く言うてたで。あんたのとこやろ?」と言って、弟にファックスで送ってくれた。
えらいこっちゃ!おねえのこっちゃ、大阪に来る予定を早めて出て来たんかもしれん。ほんで、俺の電話番号わからんと、今頃大阪のどっかで迷てしもて困り果ててるんかもしれん!
血相を変えて、その用紙に書かれた番号に手当たり次第に電話をかける弟を横で見ていたFちゃんは、その時の彼がどんなに必死だったかを後で教えてくれた。
その頃わたしは、仁ちゃんとchi-koちゃん、そしてrobaちゃんと4人で、北新地から喫茶店に移動し、『エキサイティング大阪』の締めを楽しんでいた。
知らない番号から何度も電話がかかっているのを見つけたchi-koちゃんが、もしかしたらわたしの関係の人かもしれないからと、携帯を貸してくれた。

「おまえ、今どこでおんねん?」
「え?大阪」
「大阪でなにしてんねん?」
「こっちの友達と逢うてるねん」
「おまえ、おばちゃんのとこに紙忘れて行ったやろ」
「え?」
「連絡先をいっぱい書いた紙」
「あ……」
「おばちゃんが、まうみが大阪に行く言うてたのに、これ無くして迷てたらあかんから言うて、俺とこに連絡してくれたんや」
「そりゃ悪かった、ごめん」
「もうええんやな。ちゃんと逢えてるんやな」
「うん、もうええねん。すごく楽しんでる。ありがとう」

かなり怒ってる様子。
恐ろしくて、次の日の夕方まで電話をかけられなかった。
なにわの湯から、またまたchi-koちゃんの携帯を借りて電話をかけると、Fちゃんが出た。
「姉ちゃん、Yさん、今日ちょっとまだ態度悪いかもしれんけど、許したってね。昨日はほんま、姉ちゃんのことめちゃくちゃ心配して、必死で探してはってん。Yさん、今回姉ちゃんが来てくれるの、ほんまのほんまに楽しみにしてはってん。ほんまに嬉しそうやってん。そやし、余計に腹立たはったんやろと思うねん。Yさんのことやから、機嫌はすぐに直ると思うから、あんまり気にせんとってね」
「あ、それと、Yさん、ファックスで送ってもろたあの紙、ビリビリに破いてほかしてしまいはったみたい。それもかんにんしたってね」
Fちゃん、ごめん!愚かな姉をかんにんしておくれ!
今回こそはミスの無い、完璧な旅をするぞ~!と意気込んでいたのに、やっぱりボケが出てこの有様。そりゃまあ信用してって言う方が無理か。

翌日、今回の旅のメインイベントのひとつ、父の墓参りに出かけた。
父の墓については、またいろいろと紆余曲折があって、結局お骨が納められたのは亡くなってからかなり時間が経ってからだった。
そしてその場所も、葬式の後、父の最後の妻である女性とわたし達がプツンと関係を絶ってしまったので、長い間知らされることはなかった。
突然、一度墓参りを一緒にしないか、という連絡がその女性から入り、その時一度だけ、弟とFちゃんがお墓を参りに行った。
その時の記憶だけを頼りに、今回のお墓参りを敢行しようというのだ。果たしてうまくいくのだろうか。
阪急電車の、三宮の少し手前の駅名が、その霊園の名前と一緒だったと、それだけはふたりの記憶がきっちり合っているので、まずはその駅で降りることにした。
てくてく歩いて行くと、弟の記憶通り、ほんの数分でその霊園に着いた。
ところが、「あれ?道沿いにこんなふうに線路なんかなかった」「こんな立派な門は無かった」「学校が横には無かった」と、無かった尽くめ。
けれども、霊園の名前は同じ。そして、園内は急な傾斜があって、山を背に拝んだという記憶にぴったりの墓石も見つかった。
問題は、どの墓石も名前が違う、ということだった。
二手に別れ、霊園の隅から隅まで探し歩いた。けれども一向に見つからない。
日が暮れてきたので、仕方なく、墓守さんが居る待合所のような建物に入って行った。
「どないしはりましたん?」
「お参りに来たのですけど、お墓がどうしても見つけられないんです」
「見つけられへんって……前にも来はったんでっしゃろ?」
「弟が一度。けど、その時の記憶を辿って行ってみても、違うお名前のお墓しか無くて」
「どなたが管理をしてはるんやろ?」
「それが……いろいろと事情がありまして……はっきりとしたことがわからないんです」
「そんな……わからへんて……よほどのいろいろなんやろねえ、いや、お尋ねはしませんけどね」
「はあ……」
「ほな、何々家のっていうのはわかりますやろ?」
「はい、Y家です」
「ああ、その名字は多いかもしれんなあ……。ちょっと台帳で見てみはります?」
Y家と墓の敷地番号をメモして、また探しに出かけることにした。
「おとうさん、きっと、呼んではるんやと思いまっせ。喜びはるやろさかい、見つけたっておくれなぁ」
「はい、きっと見つけます。ありがとうございました」

心の中で父を呼んだ。心の声が枯れるほど呼び続けながらあちこちをくまなく回ったけれど、とうとう父は見つからなかった。
管理費の支払いを三年怠ると、墓石は撤去され、お骨は無縁仏の供養場に納められるそうだ。
父が入ったお墓を購入した当の本人は、ずいぶん前に会社が破綻し、その後、海外に姿を消してしまっている。
だから、こんなお墓の管理費など、もうとっくに忘れた事なのかもしれない。
弟とふたりして、無縁仏の大きな仏様の像の前に立ち、お線香を手向け、手を合わせて拝んだ。

弟は50才。
「ボクはいっつもお姉ちゃんといっしょやもん」
ポツンと、けれどもどこか必死な声色でそう言った、10才だった弟の可愛らしいボーイソプラノの声が、耳の奥で生き続けている。
その晩、行きつけの、美味しい広島焼きを食べさせてくれる店と、カラオケバーに連れてってくれた。
とてもすてきなママさんの小さな店で、客はわたし達3人だけだった。
そこでしこたま飲んで、かなり酔っぱらったFちゃんが、何度も何度もくり返して言った。
「あんな~ママ、Yさんとお姉ちゃん、ごっつぅ仲ええねん。仲良っしゃねん。仲良過ぎてよう喧嘩するねん。けど、ほんま、仲ええねんな~Yさん!」
弟はにこりともしないで黙っていた。ビールの量も少なかった。歌も歌わなかった。やっぱりまだ、ほんとは怒ってたのかもしれない。

弟が別れ際に手渡してくれた、すごい量の日本のテレビからの録画が入ったDVDと三輪素麺を見ていると、今も少し胸の奥の方が切なくなる。









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何事もほどほどに

2010年06月06日 | ひとりごと
それは突然やってきた。
昨日はACMAの、今期最後(ここアメリカは夏休みまでが1年で、夏休み後が次の1年の始まりになる)の演奏ミーティングがあった。
それに行く前ぐらいから、身体の調子がやや落ちているような気がした。
残念ながら、昨日のコンサートの出演者の中には、どうしようもなく聞き苦しい演奏をする人が数人居た。
ただ単純に間違える、というのではなくて、多分、練習の段階から、いろんなことを疎かにしていて、音楽をちっとも尊敬していないだろうな、と思える演奏。
上手下手以前の問題。もし、作曲者が、自分の作った曲をあんなふうに弾かれちゃってるのを聞いたら、きっとすごく悲しむだろうなあ、なんて思いながら聞いた。
やれやれ、とっくに死んじゃってる人達の曲でよかったよ、ほんとに……。

演奏会の後、遅れてやってきたAちゃんも交えて、ACMAの残ったメンバーと一緒にベルギーレストランに行った。
旦那はあまり高くなくて、けれども美味しくて、雰囲気の良いレストラン、というのを見つけるのが得意。
なので、ACMAのメンバー、特にプレジデントのアルベルトから、ミーティング後のレストラン指名の係を仰せつかることが多い。
昨日のレストランも然り。美味しいビールと一品物に、みんなもかなり満足げな様子。

少し早めに席を立ち、Aちゃんを送りがてら、彼女のアパートに少し寄ることにした。
その頃になると、かなり頭がぼんやりとしてきて、部屋のソファに横になった途端に、どうにも目が開いてられないほど眠くなった。
彼らの話し声と、アメリカンエアコンのやかましい音を子守唄のように聞きながら目を閉じていた。
ひとんちのソファでうたた寝するなんて初めてだよな……と思うのだけど、どうしてもこうしても目が開かない。
けれども旦那がいつもの時差ボケパターンに襲われたら大変だ、ということで、彼女のアパートを10時半頃に出た。
運転中、眠気に襲われ始めた旦那を叱咤激励しながら、なんとか起きて無事に家に辿り着き、旦那は二階の寝室で、わたしは一階のゲスト部屋で寝た。
そして……、
わたしはなんと、旦那がいつもの時間に起きて、朝の運動や食事をして、後ろの庭の芝刈りをして、もうそろそろお昼ご飯を食べようかという時間まで寝た!?
そして、起きてからも、眠くて、怠くて、重くて、どうしようもなくしんどくて仕方が無かった。

少し用事をしては横になり、食べては横になりして、なんとか回復しないもんだろうかと様子を伺っていた。
今日は夕方から再びマンハッタンに行き、Aちゃんに昨日渡し忘れた日本からのお土産を届け、アンドリューとモーリーの引っ越し祝いに行く予定になっている。

嗚呼、でも、なんてこった?!どないもこないも、怠過ぎて身体が言うことを聞かない。
こんなのはすごく久しぶり。重たい漬物石を腹に抱えるナスビと化した自分。
祝いに来るわたし達のために、今朝から料理の準備をしてくれているであろうアンドリューとモーリーのことを思う旦那は、知識の限りを使い、あの手この手でわたしの回復のために頑張ってくれるのだけれど、
当のわたしはというと……まことに不甲斐無いことに……どうしてもナスビから人間に進化できずに居た。

「仕方ない……ボクひとりで行ってくる」と言う、旦那の苦渋の判断を聞き、ウォ~ッとばかりに奮起してヨロヨロと立ち上がり、四つん這いで階段を上がり、下着を鷲掴みにして、熱めのシャワーを浴びた。
吐き気が少々、頭の鈍痛も少々、倦怠感も少々、胡椒も少々、なかなかの味付けになった半ナスビ人。
「行ける、かも……」
「ほんと?ほんとに?ほんとに大丈夫?」
嬉し気な旦那の声に頷くと、いきなり出発準備が完了。髪の毛も濡れたまま、顔も洗ったままで出発。

アンドリュー&モーリーの新しい新居となった、マンハッタンの最北端、ワシントンハイツにあるアパートメントは、大理石と板張りの床で統一された、それはそれは広々としたすてきな部屋だった。
主寝室のシャワールーム、独立したバスルーム、それから新しいシステムキッチンもすべて新品。大理石の自然なヒンヤリ感がとても気持ちいい。
アンドリューが手作りしたという棚も圧巻。どこかのショールームで見て気に入った、アンティーク調の棚を真似て作ったという代物。
ガスの配管を軸に、特別のペンキを塗った木材を使って、それはそれは渋い棚を作り上げていた。
ショールームでは50万もしたその棚とほとんどそっくりに作られた手作りの棚。かかった費用は3万円?!
もちろん、作るにあたっては、手間と苦労がしっかりかかってはいるけれど……。
それをしげしげと見ながら褒めまくるわたしを、チラチラと心配気に盗み見する旦那。
こういう作業にはてんで興味が無い旦那は、日曜大工に励む男を夫に持つ妻を、ちょいと羨ましがるわたしの心の中がすっかり見えている。

できちゃった結婚のふたりにとって、9月に生まれてくる赤ちゃんのため、というのが、新しい住居探しの最も大切な理由。
ほんの目と鼻の先に、まるでリゾート地のような広大な公園があり、マンハッタン島の中でも一番海抜が高いこともあって見晴らしも満点。
悠々と流れるハドソン川が一望できる散歩道や、絶妙な距離間をもって置かれたベンチなどを見ながら散策した。
小さな子供連れの家族がとても多くて、これもきっと彼らがここを選んだ理由のひとつになっているんだろうな、と思った。
マンハッタン中央まで地下鉄で約半時間。その地下鉄の駅も、家を出てすぐの所にある。

引っ越しにあたり、処分できる物を徹底的に処分してきたモーリーと、持ち物すべてをそのまま持ち込んできたアンドリュー。
モーリーとふたりっきりになった短い時間に、彼女のちっちゃいけれどけっこう数はある不満話を一気に聞いた。
ある夫婦の始まり始まり~。幕が開いて、物語が始まった。でもきっと、彼女なら大丈夫。
アンドリューの数多いガールフレンドを逐一見てきたわたしが、あなたには太鼓判を押させてもらいます!と思いながら聞いていた。

夕方まで蒸し暑くて、どこの家の窓でもクーラーがガンガンついていたのに、夜になって外に出たら、そこは巨大な冷蔵室と化していた。なんてこった……。
そんな異様な寒さの中、アンドリューの持ち物の巨大で真っ黒なファイルキャビネットを、うちに婿入りさせようということになり、無理矢理車に詰め込もうとするも失敗。すっかり身体が冷えてしまった。やばい……。

もうナスビには戻りたくない。ボケナス、おたんこナス、まうみナス。
旅行前の突貫仕事(伴奏バイトに多過ぎた演奏会)、強行スケジュールの旅行、それと更年期のホルモンの大暴れ、そして多分、事故の後遺症。
今日もまた、今度は真っ昼間から、隣のプールでカモ夫婦が優雅に泳いでいた。
ちょっとあんたも、わてらみたいにゆっくりしなはれや~。
そう言われているような気がした。



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米国早朝のプールサイド事情

2010年06月05日 | 米国○○事情
いやあ、早起きしてみるもんですねえ。って……ただ時差ボケてるだけなんですが……。
今朝は明け方から少~しずつ空気が湿ってきて、ちょいとムシ暑くなったので、余計に早く目が覚めてしまいました。

リビングに行き、さて窓でも開けて空気を入れ替えるべかと、P&P宅のプールが目と鼻の先に見える窓に手をかけると……、
あれ?あれは?


いったいあんなとこでなにしてんのやろと、彼女の視線を辿っていくと……、


優雅に水面を漂う夫の後ろ姿が。水面下での懸命な水かきで、おしりがひょこひょこ可愛らしく揺れてます。

いやあ、それにしても美しい。けど……平気なんでしょか?曲がりなりにもスイミングプールですよ。薬とか入ってないのかなあ……。


と、近くの芝の上で、なにやら動く物体発見!うまく写せませんでしたが、実はこの仔、カモ夫婦にかなり近いところで居ます。


へへ、隠してた実、見っけ!


相変わらずのマイペースな性格でいらっしゃる……。

ジャボン!と音がしたので慌ててプールの方にカメラを向けると、我慢できなくなったのか、彼女も一緒に泳ぎ始めました。



ある初夏の、空がとっても低い、天使が降りてきそうな朝の風景でした。





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十年保障再び

2010年06月04日 | ひとりごと
グリーンカードの更新に行ってきた。
十年一昔……。
初めてこのカードを手にしたのは、渡米わずか4日前の大使館が閉まる5分前。本当にギリギリのギリギリまでどうなるかわからない緊張に満ち満ちた手続きだった。
そのトラウマからか、グリーンカードという言葉が頭の中に響くたび、なにかまた面倒なことが起こるのではないかという猜疑心がムクムクとわいてくる。

今回の手続きは、日本に旅行に行く前から始まっていた。
途中一回、書面に書いてある言葉を読み間違えて、払い足りなかった費用を再請求されたりしたが、とりあえずそれは手間と時間がかかっただけで無事に済み、最終の指紋取りと人物チェックのために、最寄りの移民局に出向いていく日程を知らせる手紙が届き、まずは一安心、という状態で旅行に出かけた。

アメリカに再入国する際に、期限切れ寸前のグリーンカードが問題になりはしないかと、旦那がブツブツ言い出した。
心配するのはわたしの専売特許だけど、こういう部類のことに関しては、わたしは全く心配しない。
だって、期限切れ寸前は寸前だけど、帰国する時に切れているわけではないのだ。
ちゃ~んとまだあと数日残っていて、わたしは堂々と「法に則って認められている永住者です!」と言い切ることができる権利を持っている。
それを、切れかけてるのを見つけて、意地悪いことをあ~だこ~だと言ってくる係員がいるかもしれない、などと妄想するのは時間の無駄ではないか。
実際、帰国時の検問はスルスルと済み、日本から持ち込んだ鋭利な二丁の鎌も没収されることなく、家の地下室の庭仕事セットの中で眠っている。


手続きは、会社を欠勤した息子Tとふたりで一緒に行った。
本当は息子Kも同じ期限だったのだけど、彼は2年前、ゲームトーナメントでラスベガスに行った時、眠っている間に財布を抜き取られ、カードの盗難による再更新を済ませたので除外。

移民局に入るに際しては、カメラと携帯電話の持ち込みは禁止される。
入り口にはごつい警官と受付の女性が居て、そのカウンターに至り着くまでに、ぐねぐねと蛇行するようにロープが張られた通路を歩く。
誰が並んでいるわけでもないので面倒になって、ヒョイとそのロープをくぐり抜けてズルをしようものなら「ア、ア、アァ~」と人差し指を立てた警官に注意される。
なかなかに面倒な場所なのである。
ともあれ、とにかくここに、指示された通りの時間に無事やって来られたことに感謝しながら、大勢の移民の人達と一緒に椅子に座って待っていた。
本当に様々なお国言葉が飛び交う中、わたし達が日本語で話すと決まって、スッと静かになる。
え?っという響きが色濃く溶けた空気のカタマリがあちこちに浮かぶ。
日本語ってそんなにおもしろいのかな?
調子に乗って、ちょっといたずらしてみる。
しばらく黙って、いきなり短い言葉を放つ。一瞬の静けさを楽しみ、またしばらく様子を見てまた放つ……。
ああ楽しい。

大勢居たのに、ただの更新でやって来た人が少なかったのか、スルスルと手続きは進んだ。
前は真っ黒なインクをベタベタ塗られ、何度もやり直しをさせられた指紋の採取も、今回はコンピューターで楽々、インクフリーで快適だった。
でも……Tがポツリと言った。
「もうボクら、絶対に悪いことはできんな……」
確かに。我々の指紋は思いっきり某当局に記録されているのだから。静かなる抑止力。

パソコンの画面に出ている登録内容の正誤を確かめ、「はい、これでいいです」と答えると、「じゃあ終わり。良い一日を!」と明るく言われる。
へ?
なんじゃこりゃ?と思うほどに、なんということもなく終わってしまった。
これであともう10年、とりあえずこの国の法に守ってもらいながら暮らせるわけだ。もちろん、実際のところは自分で稼がにゃ~暮らせんのだけど。

帰りの車の中でふと思った。
いつか市民権を取ろうと思っていたけれど、こんなふうに簡単に更新できるなら、日本が複数国の国籍を認めるまで、グリーンカードのままでもいいかしらん。
けど、いったいあと何回更新するのかなあ……。
指を折って数えてみた。わたしの希望的計算では、少なくともあと4回はある。
「なあT、今市民権取るのと、グリーンカードを更新していくのと、どっちが賢いと思う?」
「ああ、かあさん、市民権取るの考えてたもんな」
「うん。けど、試験受けるのめんどくさいし、カードの更新がこんな簡単やったら、そっちでもええかと思て」
「そやな」
「けどさ、市民権取ったらもう更新せんでもええけど、グリーンカードはなんべんも更新せなあかんし」
「なんべんもって……もうあと2回ぐらいちゃうん?」
「は?あと2回ぐらいって……そんな早よ殺すなっちゅうねんっ!」

ポカポカと母のゲンコツを食らう息子T。
「イテテテ!ほな、いったい後何回更新するつもりなん」

ゲンコツを食らいながらも聞いてくるT。
「よう聞いときや!あと少なくとも4回。わかったか!」
「そ、そ、そんな……無理せんでも……」

さらにゲンコツは続きました、とさ。
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しつこい時差ボケ

2010年06月03日 | ひとりごと
今回はけったいな時差ボケにしつっこくつきまとわれています。
旦那もわたしも、もう戻ってから5日も経つというのに、すごく唐突に、ものすごい眠気に襲われて、ゼンマイの切れた人形みたいにコテッと眠ってしまいます。
仕事はしてるし、家事もしてます。身体を動かさなければならない時はそれなりに起きて動かしているのだけれど、やる事を終えて一息ついた時が危ないのです。
Kは、戻ってから丸2日、朝と夜がまったく逆でした。その後、3日目にグッと寝て、もう起きてこないんじゃないかと思うぐらい長く寝て、今はほとんど正常に戻りました。

晩ご飯を食べた後、旦那とわたしはお互いの顔を見て笑います。
どんだけボケとんねん!
そこでフラフラ~ッとソファに横になったらもうおしまい。スゥ~ッと深い眠りに落ち、数時間後に目が覚めて、それからしばらくは目がランラン。
肝心の夜中に目が冴えて、眠ろうとしても眠れず、おまけに今年に限って、暑いからと簡易クーラーをつけて寝たい旦那にイライラむかむかするわたし。
こっちのクーラーの悲惨さは、こっちでひと夏を過ごしたらすぐわかります。
もちろん、とても高価な優れものを買えば、日本と同じうんともすんとも言わずに、気持ち良く部屋を冷やしてくれるクーラーがあるのだろうけれど、
皆が使っているような標準タイプのクーラーは、わざとそうしてるとしか思えないほどに、めちゃくちゃうるさくて、風が下品に吹き付けてくるのです。
うちにあるのはもちろんその標準タイプ。というか、標準よりちょっと下、かもしれません。
明るさは気にならないけれど、音と風にはとってもセンシティブなこのわたし。そんなクーラーがゴオゴオ鳴ってる部屋で眠れるわけがありません。

ただでさえちゃんと眠れないので困り果てているのに、それで身体が日に日に怠くなっているというのに、そのクーラーの話を朝食の時に持ち出してきた旦那に、つい噛み付いてしまいました。
丁度洗面所で出勤の準備をしていたTが、なんとかなだめようとして口出ししたら、それを邪険に黙らせた旦那にまたまた腹が立ち、事態はどんどん悪い方向に。

やっぱり13時間の違いって大きいよなあ……。
コメント (2)
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